「イザヤ書」55章6節から11節までを朗読。
6節「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。
教会の年間の暦の中でいまの時期は「レント」といわれる期間にあたります。このレントとは「悔い改めの時である」といわれています。棕櫚(しゅろ)の聖日と言われる日曜日、イエス様が十字架の御苦しみを受けるために、エルサレムに来られた時を記念する日にあたります。それからが受難週となり、金曜日が受難日となっています。その日は過越の祭のときであった、といわれています。そもそも過越の祭ははるか何百年も昔に始まる出来事です。イスラエルの民がエジプトから救い出されたことを記念することでありまして、それがいつであったか、その期日は暦の中できちっと正確にこの日この時と決められていたわけではありません。あまりそういうことにこだわると、サタンが働きますから、「俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい」とパウロは語っています(Ⅰテモテ 4:7)。
いずれにしてもイースターはイエス様がよみがえってくださった記念の時、これを世界の皆さんと一緒に記念しようではないか、と定められた時であります。これは春分の日を過ぎて最初の満月を越えた聖日、そういう決め方ではなかったかと思います。ですから、この日が年ごとに変わるのは、やむを得ないことであります。
ところで、イースター・復活に先立って、受難があります。イエス様がよみがえるには死ななければよみがえることはない、と聖書にもあります。(あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。Ⅰコリント 15:36 )。イエス様が死んでよみがえる。「よみがえられるのであれば、初めから死ななければいいじゃないか」と、つい人はへ理屈をこねたがりますから、そのように思いますが、しかし、実はイエス様の十字架の死がなければ、実はよみがえりも意味もないのです。
イエス様が十字架に死んでくださったこと、これは私たちにとって信仰の原点であります。なぜイエス様が十字架に死なれたことが、しかも「2千年も昔のことで今の私と何の関係があるのか」と思われるかもしれませんが、これが大変に大有りなのです。というのは、私たちは神様によって造られた者であり、神様の命によって生きていた者です。それが人の本来の生き方だったのであります。神と人とが共にある、これが「創世記」のエデンの園の生活の姿であります。エデンの園の生活で何が幸いかというと、「働かなくてよかった」と言うことではありません。エデンの園ではちゃんと働いていたのです。神様がお造りになった全てのものを治(おさ)めること、また耕すこともしておりました(創世 2:15)。だから、労働もあったのです。ところが、その労働は苦役といいますか、苦しみの業としてではなくて、神様の喜びとして、御用として、神様に託せられたものとして、喜び楽しみであったのです。
私たちもそうですが、小学校などで先生が「誰か、この黒板の文字を消してくれる者はいないか」と言えば、「はい」「はい」「はい」と、喜んでしようとします。「そんなの俺は嫌や」という人はいない。少しでも先生に喜んでもらいたいからするのです。先生が職員室に帰ろうとすると、すぐにかばんやテキストを持ってついて行こうとする。最近の子は「知らんよ」という子供が多いのかもしれませんが、私どもの頃はそうでした。小学校の頃、先生の役に立つということがうれしくて、言われなくても飛び出したものであります。そのように喜びですることは苦にならないのです。何の重荷にもならない、そういうものではないでしょうか。神様が人をお造りになって、エデンの園に置かれたとき、そこでは今と同じように働くこともあったし、労働して生活を営むリズムもあった。しかし、それが主目的ではない、それが生きる目的ではなかったのです。神様と共に生きていることを楽しむ、これがエデンの園での生活でありました。ところが、人が神と共におられなくなってしまったのです。その結果どうなったか。
「創世記」3章8節から10節までを朗読。
アダムとエバ、いわゆる人が神様に罪を犯して、もはや神様と共におられなくなる。神様の顔をまともに見られなくなる。これが人の根本的な不幸の始まりといいますか、原罪、罪の性質といわれるものがここから始まるのです。それ以来人は神様の顔を避けて生きるようになってしまいます。では、神様を否定して、まことの神様を拒んで、誰が神様になるか。自分が神になるのです。己が神となる。その結果、神様の前に立てなくなる。9節に「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』」。神様の前におられない者となって隠れてしまう。「木の間に身を隠した」とあります。10節に「わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。ここに「恐れて」とあります。恐れが人の心の中に入ってくる。神様を恐れる。神様が怖いものになったのです。
だから、日本でも神様は、大抵怖い神様であって、何かひどいことをしてご機嫌を損ねたら罰が当たる。あるいは何かたたられるとか、悪いことに神様は厳しくその罪を糾弾(きゅうだん)する御方であるから、神様は怖いものである。だから、できるだけ神様は自分の近くに置いておきたくない。といって、粗末にはできない。どうするかというと、神棚に祀って、上のほうに祭るのです。普段の生活で目に留まらないように。時々ポッと顔を上げると見えるよう、都合のいいように神棚は造られている。そのようにして神様を敬いつつも遠ざける。それは怖いからです。罰が当たるといけないから、何を神様が怒られるか分からない。気まぐれですから、何がたたられるか分からない。そういう怖いものに変わってしまった。ところが、本来神様はそういう御方ではありません。神様は愛なる御方であって、私たちを愛のゆえに造ってくださったのです。神様が人をお造りになられたのは何のためかというと、私たちを愛するがゆえに、ご自分の愛の対象として人を造ってくださったのであります。ところが、その神様に対して心が離れてしまった。神様から離れてしまったとき、人は神様に対して恐れる者となってしまったのです。だから、「完全な愛は恐れをとり除く」(Ⅰヨハネ 4:18)とありますが、逆に言うと、恐れがあるときは愛がないときです。だから、人を恐れたり誰かを怖がったりしているとき、その人に対して恐れを覚える。そのとき、愛がそこにはないのです。
アダムとエバは罪を犯して神様の顔を避けて逃げ出し、しかも恐れて身を隠す。その恐れのゆえに彼らは身を隠したのです。神様は「どうしてそんなことをした」と、いろいろなことを問われましたが、へびがどうしてこうしてと、蛇に責任が全部転嫁されました。
「創世記」3章16節から19節までを朗読。
ここで神様は人に一つの判決を下されたのです。それは女にしろ、男にしろ労苦が伴う。苦しみの中に生きる者となる。17節後半に「地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」。私たちの生活の苦しみ、生きる苦しみ、生きること自体が苦しみになってしまう。これは造り主でいらっしゃる、まことの神様を離れた罪の結果です。だから、いま私たちの住んでいる世の中は、罪の結果としての世ですから、何をしても不安と恐れが絶えず伴う。どこにも喜びがない、安心がない。
今の世の中を見ていてもそうです。毎日テレビでいろいろなニュースを聞いている。そこにバラ色に輝いて生きる喜びを与えてくれるものがありますか? 震災の後の復興状態とかいろいろなことが出てきますが、何を聞いても次にまた不安が湧いてきます。「それで大丈夫だろうか」「それで本当にいいのだろうか」「そんなことをして大丈夫だろうか」と。だから、確かに大きな災害によっていろいろな被害を受けました。愛する肉親を亡くした人たちもたくさんいて、悲しみの中にいらっしゃいます。しかし、いつまでも悲しんでいるわけにはいかない。1年経って、残された者たちが更に生きて行こうとするときに、そこから夢を描いて、望みに輝いて、先々に対して希望に満ちているかと思いきや、そうではない。「これからどうなりますかね」、「こんなんで大丈夫でしょうかね」と。でも政府がこうやって次から次へと補正予算を組んで、赤字垂れ流しくらいに各地にお金をたくさんばらまいています。経済的には何の不自由もないぐらいに、いろいろな所に……、昔の戦後は物のない、物資も何にもなかった。ところが、今はそんなことはない。いくらでもやろうと思えばできることがたくさんありながら、そこには希望が見えない。生きる喜びがない。そして「このままでいいのだろうか」「いつまでこうなのか」「この先はどうなるだろうか」と。それは家がなくなって、再び家を建てる喜びよりも、生活、生きて行くこと自体に対する疲れ、不安、恐れがあるのです。これは人の根本的な問題です。
ここにありますように、「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」。私たちは生活上の物質的な意味で恵まれてきますけれども、しかし、だからといって、人は幸せにはなり得ない。それどころか、常に心にむなしさを抱え込んで行く。「こんなにしていてどうなるだろうか」「その先はどうなるだろうか」、いつも不安や恐れ、思い煩いが人をむしばんで行くのです。これは私たちが神様から離れて呪われた者となっている姿であります。
ところが、神様はそういう私たちをそのままに捨て置くといいますか、放っておくことがおできにならないのであります。なぜならば、私たちをご自分のかたちにかたどってご自分の霊を私たちの内に宿して人を生きる者としてくださった神様は、私たちの内に宿している霊を、神様のかたちに尊く造られた私たちをこのまま失われてしまうこと、滅びてしまうことを喜ばない。むしろ惜しんでくださいました。何としてもそこから私たちを救いだしたい、これが神様の御思いであります。その私たちを愛する切なる思いをどう伝えようか、どのようにあらわそうかと、これがひとり子でいらっしゃるイエス様を世に遣わしてくださった父なる神様の動機です。私たちの罪をあがなって、罪を清めるためにひとり子をこの世に遣わしてくださった。はるか2千年前の遠い話のように思いますが、実はそんな遠い話ではなくて、私たちの命をあがない、神様のものとして、もう一度かつてのエデンの生活へと立ち返らせてくださるために、ひとり子イエス様を世に遣わしてくださいました。私たちの過去、現在、未来の全てにわたる罪、いちばんの根本、神様に敵対していたその敵意を私たちから取り除いてくださる。むしろ神様のほうが和(やわ)らぎを求めてくださった。これが十字架の意味です。イエス様が私たちのために死んでくださった。私たちがその罪を認めるのです。それによって、イエス・キリストの十字架が今も私たちにとって大きな力であり、恵みとなるのです。神様から呪われた者となって、私たちは罪の中に生きていた者であります。また今もなお罪の中に多くの者が生きています。しかし、そういう私たちをもう一度神様のものとして取り返してくださる。
「エペソ人への手紙」2章11節から16節までを朗読。
12節に「またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」とあります。確かに私たちは今こうしてイエス様の救いにあずかって信仰によってイスラエル、神の民とせられています。しかし、以前キリストを知らなかったとき、私たちは罪の中に生きていた者であります。しかも、イスラエルの国籍がなく、神の民としての身分はありません。しかも約束されたいろいろな契約、聖書に約束された神の民、神の子としての祝福と恵みを受けられなくなった。だから「ローマ人への手紙」に「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」と記されています(3:23)。まさにこの「約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」。望みを持てなく、不安と恐れと失望の中に生きていた者であります。ところが、13節に「以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって」、言い換えると「キリストの血によって近いものとなった」。なんと、神様に近いものとせられたと。かつては神様から離れて、神様に背を向けて生きていた私たち。そのために闇の中を歩んでいた私たちに、もう一度そこから神様のものに取り返そうとしてイエス・キリストをこの世におくってくださった。そのイエス様は十字架に命を捨て、血を流してくださいました。そのキリストのあがないによって神に近いものへと私たちを取り戻し、もう一度神様のものとしてくださった。罪を赦された者です。そのことが14節以下に「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。ここに「二つのものを一つにし」「二つのものを一つの」と繰り返されています。これは私たちと神様とが相対立する、向かい合って決闘するがごとき関係にあったのです。
カインとアベルの記事に現れているとおりであります。神様に自分がささげた物が顧みられなかったカインはとうとう弟アベルを殺してしまいます。といって、アベルはカインに何か悪をしたわけでも何でもない。罪のない者を殺してしまう。カインの心の中に神様に対する憤り、敵意があるからです。それが人に向かって行動に出てきたのです。とうとうアベルを殺してしまうことになります。そういう私たちの内にある神様に対する憤り、これに私たちは普段気がつきませんが、常にあるのです。「どうして、こうなった!」「何でこうなった!」と。普段の生活のいろいろなことで自分の思いどおりに行かない、願いどおりに行かない。自分が計画したように事が行かないと「どうしてだろうか」と不満に思って、ふと見ると横に人がいる。「あいつがいけない!」と、何の関係もない人に怒ってみたり、苛立ってみたりする。なぜ苛立っているか。神様がなさっておられることを受け入れられない自分がいるのです。神様が一つ一つ事をしておられる。ところがどうしても「それは嫌です」、「なんであなたが私にそんなことをするんですか!」と、憤るといいますか、敵対する心が人の中にある。そのためにイエス様は十字架におかかりになられた。私たちの心にある敵意、神様に対する憤りを取り去るために、神様のほうが和らぎを求めてくださる。赦しを与えてくださる。
ですからこの14節にありますように、「キリストはわたしたちの平和であって」と、「平和」とは、神様と私たちとの間が和らいだものとなること、和解することです。神様のほうから「お前を赦したよ」と宣言してくださる。これが十字架のあがないであります。そして、その「敵意という隔ての中垣」、神様と私たちの間を隔てていた罪を取り除いて、そし「二つのものをひとりの新しい人に造りかえる」。私たちをして神と共に生きる、全く新しい人に変えてくださった。16節に「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。神様は私たちに「罪を赦した」と宣言してくださっておられます。これが十字架です。十字架は「お前はこんな風にして滅ぼされるぞ」と宣言するのではなくて、「もうあなたの罪は赦されたのだから、わたしの所へ帰って来なさい。なぜあなたはまだ隠れているのですか。あなたの顔を見せなさい、あなたの声を聞かせなさい」と神様が求めておられるのです(雅歌 2:14)。だから「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」と「ヨハネの第一の手紙」に語られています(4:10)。まさに十字架は愛の証詞です。神様が「あなたの罪は今日もこうして赦されているのですよ。わたしはあなたを赦していますよ」と神様のほうが切にうめきをもって分かってほしい、知ってほしいと求めておられるのです。
「イザヤ書」55章6節に、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに」、それはいつかと? “今”なのです。いま私たちのために十字架が建てられて、神様が「あなたの罪を赦したよ。さぁ、わたしの所へ帰って来なさい」と呼び掛けてくださる。7節に「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ」と。神様は私たちの罪を根底からことごとく赦して、「わたしの所へ帰って来なさい」、主にお会いすることができるこの時に早く主を尋ねなさい、わたしを呼び求めなさいと、神様はどんな思いで私たちを招いておられることか。それに対して私どもはあまりにも鈍感すぎるのです。神様は「さぁ、私の所へ帰って来なさい」と。7節のその先にありますように、「われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」と。神様は豊かに私たちを許してくださるから安心して、さぁ、主にお会いすることができる今、この恵みの時、救いの日、主に帰りなさい。神様がどんな大きなご愛をもって私たちを愛して、十字架の上にひとり子でいらっしゃるイエス様が御苦しみをもって私たちをあがなってくださったか、私たちの罪を取り除いてくださったかをはっきりと知っておきたいと思います。自分の罪を知らなければ赦しを味わうことはできません。罪というのは、必ずしもあれをした、これをした、こんな自分であった、という具体的なことがないと罪にならないというのではなくて、心です。私たちの内なるもの、そこに神様を畏(おそ)れる自分があるかとどうかです。神様から離れていないかどうか。思いが神様から離れて人の思い、自分の考えの中に落ち込んでいないかどうか。このことを絶えず自らが点検しておかなければならない。「主にお会いすることのできるうちに」「近くおられる」今の時、私たちはこの主の赦しにあずかることができる、恵みの時であります。
「サムエル記下」12章7節から15節までを朗読。
これはイスラエルの王となったダビデの一つの大きな失敗でありました。彼は成功して、一つの国を治めるようになりました。信頼する部下もできて悠々自適という状態であります。そのときアンモン人との戦争があったのです。戦いがあったのですが、信頼する部下がいますから王様は王宮に残って高みの見物であります。そのときに心が神様から離れてしまった。その結果一つの罪を犯してしまう。忠実なウリヤという部下の奥さんを横取りしてしまう事態を起こした。でも彼はそれを、自分が罪だとは思わなかったのです。専制君主でありますから何をしたって許される王様です。王様が「駄目だ」と言ったら、これが法律になるわけです。どんなことでもできたのです。
そのとき預言者ナタンが神様から遣わされて、ダビデの所へ来ました。ここで言っていることは「自分の手でどうしてこのことをしたのか」と。7節に「ナタンはダビデに言った、『あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし』」、言い換えると、「ダビデ、あなたは王になったのは誰のゆえであったか」と「これはわたし(神)が王としたのではないか」。「そしてサウル王様の手からも救いだした」。8節に「あなたに主人(サウル)の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与えた」。その後に「もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう」。「足らないのだったら、どうしてわたし(神)に求めなかったのか」と。「これまでわたしがおまえをここまで導いた主であるよ。それなのにお前はその主をないがしろにして、軽んじて、どうして自分の手でそれをしたのか」と。9節に「どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか」。これが問題なのです。
ダビデが何をしたか、具体的なウリヤを殺したとか、奥さんを取ってしまったとか、そういう具体的な事柄が問題になっているのではない。それをするときの彼の動機であります。その心の状態。それがこれまで得て来たもの、どんなものも神様によらないものはなかった。そうでありながらこの事については自分の力で自分の立場を利用して手に入れようとした。それに対して神様は「あなたは罪を犯した」とおっしゃっているのです。そのときダビデが答えたのが13節、「ダビデはナタンに言った、『わたしは主に罪をおかしました』」。「わたしは主に罪をおかしました」。ダビデは「ウリヤに悪いことをしてしまった」とか、あるいは「その奥さんに申し訳ないことをしてしまった。ごめんなさい」と言ったのではない。言ったかどうかは分かりませんが、何よりも罪はどこにあったか。「主に対して私は不誠実であった。主をないがしろにしてしまった。軽んじてしまった」、これが罪です。
私たちもどこかでそういうことがあるのです。普段の生活の中でも「これはわたしができる」「私はこれをしたい」「私がチャチャッとやればすぐ済んでしまう。お祈りはせんでも……」と、神様を前に置くことを忘れてしまう。これが罪です。その結果、私たちの心に喜びが消えます。感謝が失われます。望みが持てなくなるのです。自分の力でやってしまうと、そのときはしてやったり、「頑張ってやった」と思うと、今度は次なることも自分でしなければならなくなります。そうするとできない自分にぶつかってうろたえる、不安になる、恐れが……、といって、今更神様に帰られない。だから、お祈りしても力がない、信じられない。これは私たちが神様を離れた結果です。
もう一度初めに戻りまして、「イザヤ書」55章6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ」。「お会いすることのできるうち」、今この時、悔い改めていつでも主の前に帰って来る。「近くおられるうちに呼び求めよ」。いま私たちのそばにいてくださる神様に私たちの心を整えて、「しまった。あんなことをしなければ良かった」と思うことがあるならば、そこですぐに悔い改めて主に立ち返る。そうして心をいつも神様の光に照らされて行く。神様の前に常に自分を置く者となる。これがさいわいな生活であります。そのとき私たちは事情や境遇、生活のいろいろな問題、事柄の中にあっても常に変わらない光を見て行くことができる。主を仰ぎ見つつ進んで行くことができるのです。そうすると私たちは揺るがない、動かされない、いつもはっきりと神様に信頼して行くことができます。「大丈夫です」と言えるのです。そのために私たちは常に神様の前に自分の思いを整え清めて、7節に「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて」と、悔い改めて「主に帰ること」。私たちの気がつかないうちに心の窓が曇って来ます。いろいろな物、染(し)みが付いてきて神様の光が薄暗くなってしまいます。そのとき私たちは力を失います。また望みが持てなくなる、感謝ができない、つぶやく思い、苛立つ思い、そして常に自己弁護をします。「己を義とする」とは、そういうことです。自分を守ろうとするのです。そのとき私たちは生きる喜びが消えるのです。そうならないためにどんな小さなことをも、そこで悔い改めては神様の前に主の十字架の赦しを受けて行く。「あなたはもう赦されていますよ」と主がおっしゃってくださるその御声を感謝して受ける。「そうだ。今日も主よ、あなたはこんなに汚れたる者を、失敗だらけ、過(あやま)るところの多い者を、あなたの御心を痛めるような者であっても、あなたはこの者を許してくださる。許されていることを感謝します」と、感謝しようではありませんか。
ある方は「罪を言われると次から次へと出てきて、もうこれはとめどもないのですけれども、どうしますか? 」と言われる。「いいじゃないですか。出て来る度に感謝するのです」「いや、罪を感謝できるのですか」「それはできるでしょう。罪を赦されているのですから、あなたが気が付いたことは、その罪を主が『赦したよ』とあなたに言いたくてその罪を思い起こさせてくださる。だから感謝するのですよ」。その方は「いや、罪を思い出すと心が重く、暗くなって……」と。「どうして暗くなるのですか」「いや、あんなことをしなければ良かった」「しなければ良かったという己があるからでしょう。決心して、しないでおれるのだったら、もうとっくにあなたも立派な聖人君子ですよ」。できない私たち、失敗だらけで「あのときあんなことをしてしまった。でも神様はそのことも十字架に処分してくださっておられる。感謝、有難うというしかないじゃないですか」。ここに十字架の建てられている意味があるのです。
6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。いま主が私たちのそばにいてくださる。御傷ある手を広げて、「さぁ、わたしはあなたを赦しているのだから、私の所に帰って来なさい。顔を私に向けなさい」とおっしゃっています。どんな時にも悔い改めて主に心を向けて、神様の光をしっかりと受け止めて、喜び輝いて行こうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
6節「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。
教会の年間の暦の中でいまの時期は「レント」といわれる期間にあたります。このレントとは「悔い改めの時である」といわれています。棕櫚(しゅろ)の聖日と言われる日曜日、イエス様が十字架の御苦しみを受けるために、エルサレムに来られた時を記念する日にあたります。それからが受難週となり、金曜日が受難日となっています。その日は過越の祭のときであった、といわれています。そもそも過越の祭ははるか何百年も昔に始まる出来事です。イスラエルの民がエジプトから救い出されたことを記念することでありまして、それがいつであったか、その期日は暦の中できちっと正確にこの日この時と決められていたわけではありません。あまりそういうことにこだわると、サタンが働きますから、「俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい」とパウロは語っています(Ⅰテモテ 4:7)。
いずれにしてもイースターはイエス様がよみがえってくださった記念の時、これを世界の皆さんと一緒に記念しようではないか、と定められた時であります。これは春分の日を過ぎて最初の満月を越えた聖日、そういう決め方ではなかったかと思います。ですから、この日が年ごとに変わるのは、やむを得ないことであります。
ところで、イースター・復活に先立って、受難があります。イエス様がよみがえるには死ななければよみがえることはない、と聖書にもあります。(あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。Ⅰコリント 15:36 )。イエス様が死んでよみがえる。「よみがえられるのであれば、初めから死ななければいいじゃないか」と、つい人はへ理屈をこねたがりますから、そのように思いますが、しかし、実はイエス様の十字架の死がなければ、実はよみがえりも意味もないのです。
イエス様が十字架に死んでくださったこと、これは私たちにとって信仰の原点であります。なぜイエス様が十字架に死なれたことが、しかも「2千年も昔のことで今の私と何の関係があるのか」と思われるかもしれませんが、これが大変に大有りなのです。というのは、私たちは神様によって造られた者であり、神様の命によって生きていた者です。それが人の本来の生き方だったのであります。神と人とが共にある、これが「創世記」のエデンの園の生活の姿であります。エデンの園の生活で何が幸いかというと、「働かなくてよかった」と言うことではありません。エデンの園ではちゃんと働いていたのです。神様がお造りになった全てのものを治(おさ)めること、また耕すこともしておりました(創世 2:15)。だから、労働もあったのです。ところが、その労働は苦役といいますか、苦しみの業としてではなくて、神様の喜びとして、御用として、神様に託せられたものとして、喜び楽しみであったのです。
私たちもそうですが、小学校などで先生が「誰か、この黒板の文字を消してくれる者はいないか」と言えば、「はい」「はい」「はい」と、喜んでしようとします。「そんなの俺は嫌や」という人はいない。少しでも先生に喜んでもらいたいからするのです。先生が職員室に帰ろうとすると、すぐにかばんやテキストを持ってついて行こうとする。最近の子は「知らんよ」という子供が多いのかもしれませんが、私どもの頃はそうでした。小学校の頃、先生の役に立つということがうれしくて、言われなくても飛び出したものであります。そのように喜びですることは苦にならないのです。何の重荷にもならない、そういうものではないでしょうか。神様が人をお造りになって、エデンの園に置かれたとき、そこでは今と同じように働くこともあったし、労働して生活を営むリズムもあった。しかし、それが主目的ではない、それが生きる目的ではなかったのです。神様と共に生きていることを楽しむ、これがエデンの園での生活でありました。ところが、人が神と共におられなくなってしまったのです。その結果どうなったか。
「創世記」3章8節から10節までを朗読。
アダムとエバ、いわゆる人が神様に罪を犯して、もはや神様と共におられなくなる。神様の顔をまともに見られなくなる。これが人の根本的な不幸の始まりといいますか、原罪、罪の性質といわれるものがここから始まるのです。それ以来人は神様の顔を避けて生きるようになってしまいます。では、神様を否定して、まことの神様を拒んで、誰が神様になるか。自分が神になるのです。己が神となる。その結果、神様の前に立てなくなる。9節に「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』」。神様の前におられない者となって隠れてしまう。「木の間に身を隠した」とあります。10節に「わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。ここに「恐れて」とあります。恐れが人の心の中に入ってくる。神様を恐れる。神様が怖いものになったのです。
だから、日本でも神様は、大抵怖い神様であって、何かひどいことをしてご機嫌を損ねたら罰が当たる。あるいは何かたたられるとか、悪いことに神様は厳しくその罪を糾弾(きゅうだん)する御方であるから、神様は怖いものである。だから、できるだけ神様は自分の近くに置いておきたくない。といって、粗末にはできない。どうするかというと、神棚に祀って、上のほうに祭るのです。普段の生活で目に留まらないように。時々ポッと顔を上げると見えるよう、都合のいいように神棚は造られている。そのようにして神様を敬いつつも遠ざける。それは怖いからです。罰が当たるといけないから、何を神様が怒られるか分からない。気まぐれですから、何がたたられるか分からない。そういう怖いものに変わってしまった。ところが、本来神様はそういう御方ではありません。神様は愛なる御方であって、私たちを愛のゆえに造ってくださったのです。神様が人をお造りになられたのは何のためかというと、私たちを愛するがゆえに、ご自分の愛の対象として人を造ってくださったのであります。ところが、その神様に対して心が離れてしまった。神様から離れてしまったとき、人は神様に対して恐れる者となってしまったのです。だから、「完全な愛は恐れをとり除く」(Ⅰヨハネ 4:18)とありますが、逆に言うと、恐れがあるときは愛がないときです。だから、人を恐れたり誰かを怖がったりしているとき、その人に対して恐れを覚える。そのとき、愛がそこにはないのです。
アダムとエバは罪を犯して神様の顔を避けて逃げ出し、しかも恐れて身を隠す。その恐れのゆえに彼らは身を隠したのです。神様は「どうしてそんなことをした」と、いろいろなことを問われましたが、へびがどうしてこうしてと、蛇に責任が全部転嫁されました。
「創世記」3章16節から19節までを朗読。
ここで神様は人に一つの判決を下されたのです。それは女にしろ、男にしろ労苦が伴う。苦しみの中に生きる者となる。17節後半に「地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」。私たちの生活の苦しみ、生きる苦しみ、生きること自体が苦しみになってしまう。これは造り主でいらっしゃる、まことの神様を離れた罪の結果です。だから、いま私たちの住んでいる世の中は、罪の結果としての世ですから、何をしても不安と恐れが絶えず伴う。どこにも喜びがない、安心がない。
今の世の中を見ていてもそうです。毎日テレビでいろいろなニュースを聞いている。そこにバラ色に輝いて生きる喜びを与えてくれるものがありますか? 震災の後の復興状態とかいろいろなことが出てきますが、何を聞いても次にまた不安が湧いてきます。「それで大丈夫だろうか」「それで本当にいいのだろうか」「そんなことをして大丈夫だろうか」と。だから、確かに大きな災害によっていろいろな被害を受けました。愛する肉親を亡くした人たちもたくさんいて、悲しみの中にいらっしゃいます。しかし、いつまでも悲しんでいるわけにはいかない。1年経って、残された者たちが更に生きて行こうとするときに、そこから夢を描いて、望みに輝いて、先々に対して希望に満ちているかと思いきや、そうではない。「これからどうなりますかね」、「こんなんで大丈夫でしょうかね」と。でも政府がこうやって次から次へと補正予算を組んで、赤字垂れ流しくらいに各地にお金をたくさんばらまいています。経済的には何の不自由もないぐらいに、いろいろな所に……、昔の戦後は物のない、物資も何にもなかった。ところが、今はそんなことはない。いくらでもやろうと思えばできることがたくさんありながら、そこには希望が見えない。生きる喜びがない。そして「このままでいいのだろうか」「いつまでこうなのか」「この先はどうなるだろうか」と。それは家がなくなって、再び家を建てる喜びよりも、生活、生きて行くこと自体に対する疲れ、不安、恐れがあるのです。これは人の根本的な問題です。
ここにありますように、「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」。私たちは生活上の物質的な意味で恵まれてきますけれども、しかし、だからといって、人は幸せにはなり得ない。それどころか、常に心にむなしさを抱え込んで行く。「こんなにしていてどうなるだろうか」「その先はどうなるだろうか」、いつも不安や恐れ、思い煩いが人をむしばんで行くのです。これは私たちが神様から離れて呪われた者となっている姿であります。
ところが、神様はそういう私たちをそのままに捨て置くといいますか、放っておくことがおできにならないのであります。なぜならば、私たちをご自分のかたちにかたどってご自分の霊を私たちの内に宿して人を生きる者としてくださった神様は、私たちの内に宿している霊を、神様のかたちに尊く造られた私たちをこのまま失われてしまうこと、滅びてしまうことを喜ばない。むしろ惜しんでくださいました。何としてもそこから私たちを救いだしたい、これが神様の御思いであります。その私たちを愛する切なる思いをどう伝えようか、どのようにあらわそうかと、これがひとり子でいらっしゃるイエス様を世に遣わしてくださった父なる神様の動機です。私たちの罪をあがなって、罪を清めるためにひとり子をこの世に遣わしてくださった。はるか2千年前の遠い話のように思いますが、実はそんな遠い話ではなくて、私たちの命をあがない、神様のものとして、もう一度かつてのエデンの生活へと立ち返らせてくださるために、ひとり子イエス様を世に遣わしてくださいました。私たちの過去、現在、未来の全てにわたる罪、いちばんの根本、神様に敵対していたその敵意を私たちから取り除いてくださる。むしろ神様のほうが和(やわ)らぎを求めてくださった。これが十字架の意味です。イエス様が私たちのために死んでくださった。私たちがその罪を認めるのです。それによって、イエス・キリストの十字架が今も私たちにとって大きな力であり、恵みとなるのです。神様から呪われた者となって、私たちは罪の中に生きていた者であります。また今もなお罪の中に多くの者が生きています。しかし、そういう私たちをもう一度神様のものとして取り返してくださる。
「エペソ人への手紙」2章11節から16節までを朗読。
12節に「またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」とあります。確かに私たちは今こうしてイエス様の救いにあずかって信仰によってイスラエル、神の民とせられています。しかし、以前キリストを知らなかったとき、私たちは罪の中に生きていた者であります。しかも、イスラエルの国籍がなく、神の民としての身分はありません。しかも約束されたいろいろな契約、聖書に約束された神の民、神の子としての祝福と恵みを受けられなくなった。だから「ローマ人への手紙」に「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」と記されています(3:23)。まさにこの「約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」。望みを持てなく、不安と恐れと失望の中に生きていた者であります。ところが、13節に「以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって」、言い換えると「キリストの血によって近いものとなった」。なんと、神様に近いものとせられたと。かつては神様から離れて、神様に背を向けて生きていた私たち。そのために闇の中を歩んでいた私たちに、もう一度そこから神様のものに取り返そうとしてイエス・キリストをこの世におくってくださった。そのイエス様は十字架に命を捨て、血を流してくださいました。そのキリストのあがないによって神に近いものへと私たちを取り戻し、もう一度神様のものとしてくださった。罪を赦された者です。そのことが14節以下に「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。ここに「二つのものを一つにし」「二つのものを一つの」と繰り返されています。これは私たちと神様とが相対立する、向かい合って決闘するがごとき関係にあったのです。
カインとアベルの記事に現れているとおりであります。神様に自分がささげた物が顧みられなかったカインはとうとう弟アベルを殺してしまいます。といって、アベルはカインに何か悪をしたわけでも何でもない。罪のない者を殺してしまう。カインの心の中に神様に対する憤り、敵意があるからです。それが人に向かって行動に出てきたのです。とうとうアベルを殺してしまうことになります。そういう私たちの内にある神様に対する憤り、これに私たちは普段気がつきませんが、常にあるのです。「どうして、こうなった!」「何でこうなった!」と。普段の生活のいろいろなことで自分の思いどおりに行かない、願いどおりに行かない。自分が計画したように事が行かないと「どうしてだろうか」と不満に思って、ふと見ると横に人がいる。「あいつがいけない!」と、何の関係もない人に怒ってみたり、苛立ってみたりする。なぜ苛立っているか。神様がなさっておられることを受け入れられない自分がいるのです。神様が一つ一つ事をしておられる。ところがどうしても「それは嫌です」、「なんであなたが私にそんなことをするんですか!」と、憤るといいますか、敵対する心が人の中にある。そのためにイエス様は十字架におかかりになられた。私たちの心にある敵意、神様に対する憤りを取り去るために、神様のほうが和らぎを求めてくださる。赦しを与えてくださる。
ですからこの14節にありますように、「キリストはわたしたちの平和であって」と、「平和」とは、神様と私たちとの間が和らいだものとなること、和解することです。神様のほうから「お前を赦したよ」と宣言してくださる。これが十字架のあがないであります。そして、その「敵意という隔ての中垣」、神様と私たちの間を隔てていた罪を取り除いて、そし「二つのものをひとりの新しい人に造りかえる」。私たちをして神と共に生きる、全く新しい人に変えてくださった。16節に「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。神様は私たちに「罪を赦した」と宣言してくださっておられます。これが十字架です。十字架は「お前はこんな風にして滅ぼされるぞ」と宣言するのではなくて、「もうあなたの罪は赦されたのだから、わたしの所へ帰って来なさい。なぜあなたはまだ隠れているのですか。あなたの顔を見せなさい、あなたの声を聞かせなさい」と神様が求めておられるのです(雅歌 2:14)。だから「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」と「ヨハネの第一の手紙」に語られています(4:10)。まさに十字架は愛の証詞です。神様が「あなたの罪は今日もこうして赦されているのですよ。わたしはあなたを赦していますよ」と神様のほうが切にうめきをもって分かってほしい、知ってほしいと求めておられるのです。
「イザヤ書」55章6節に、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに」、それはいつかと? “今”なのです。いま私たちのために十字架が建てられて、神様が「あなたの罪を赦したよ。さぁ、わたしの所へ帰って来なさい」と呼び掛けてくださる。7節に「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ」と。神様は私たちの罪を根底からことごとく赦して、「わたしの所へ帰って来なさい」、主にお会いすることができるこの時に早く主を尋ねなさい、わたしを呼び求めなさいと、神様はどんな思いで私たちを招いておられることか。それに対して私どもはあまりにも鈍感すぎるのです。神様は「さぁ、私の所へ帰って来なさい」と。7節のその先にありますように、「われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」と。神様は豊かに私たちを許してくださるから安心して、さぁ、主にお会いすることができる今、この恵みの時、救いの日、主に帰りなさい。神様がどんな大きなご愛をもって私たちを愛して、十字架の上にひとり子でいらっしゃるイエス様が御苦しみをもって私たちをあがなってくださったか、私たちの罪を取り除いてくださったかをはっきりと知っておきたいと思います。自分の罪を知らなければ赦しを味わうことはできません。罪というのは、必ずしもあれをした、これをした、こんな自分であった、という具体的なことがないと罪にならないというのではなくて、心です。私たちの内なるもの、そこに神様を畏(おそ)れる自分があるかとどうかです。神様から離れていないかどうか。思いが神様から離れて人の思い、自分の考えの中に落ち込んでいないかどうか。このことを絶えず自らが点検しておかなければならない。「主にお会いすることのできるうちに」「近くおられる」今の時、私たちはこの主の赦しにあずかることができる、恵みの時であります。
「サムエル記下」12章7節から15節までを朗読。
これはイスラエルの王となったダビデの一つの大きな失敗でありました。彼は成功して、一つの国を治めるようになりました。信頼する部下もできて悠々自適という状態であります。そのときアンモン人との戦争があったのです。戦いがあったのですが、信頼する部下がいますから王様は王宮に残って高みの見物であります。そのときに心が神様から離れてしまった。その結果一つの罪を犯してしまう。忠実なウリヤという部下の奥さんを横取りしてしまう事態を起こした。でも彼はそれを、自分が罪だとは思わなかったのです。専制君主でありますから何をしたって許される王様です。王様が「駄目だ」と言ったら、これが法律になるわけです。どんなことでもできたのです。
そのとき預言者ナタンが神様から遣わされて、ダビデの所へ来ました。ここで言っていることは「自分の手でどうしてこのことをしたのか」と。7節に「ナタンはダビデに言った、『あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし』」、言い換えると、「ダビデ、あなたは王になったのは誰のゆえであったか」と「これはわたし(神)が王としたのではないか」。「そしてサウル王様の手からも救いだした」。8節に「あなたに主人(サウル)の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与えた」。その後に「もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう」。「足らないのだったら、どうしてわたし(神)に求めなかったのか」と。「これまでわたしがおまえをここまで導いた主であるよ。それなのにお前はその主をないがしろにして、軽んじて、どうして自分の手でそれをしたのか」と。9節に「どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか」。これが問題なのです。
ダビデが何をしたか、具体的なウリヤを殺したとか、奥さんを取ってしまったとか、そういう具体的な事柄が問題になっているのではない。それをするときの彼の動機であります。その心の状態。それがこれまで得て来たもの、どんなものも神様によらないものはなかった。そうでありながらこの事については自分の力で自分の立場を利用して手に入れようとした。それに対して神様は「あなたは罪を犯した」とおっしゃっているのです。そのときダビデが答えたのが13節、「ダビデはナタンに言った、『わたしは主に罪をおかしました』」。「わたしは主に罪をおかしました」。ダビデは「ウリヤに悪いことをしてしまった」とか、あるいは「その奥さんに申し訳ないことをしてしまった。ごめんなさい」と言ったのではない。言ったかどうかは分かりませんが、何よりも罪はどこにあったか。「主に対して私は不誠実であった。主をないがしろにしてしまった。軽んじてしまった」、これが罪です。
私たちもどこかでそういうことがあるのです。普段の生活の中でも「これはわたしができる」「私はこれをしたい」「私がチャチャッとやればすぐ済んでしまう。お祈りはせんでも……」と、神様を前に置くことを忘れてしまう。これが罪です。その結果、私たちの心に喜びが消えます。感謝が失われます。望みが持てなくなるのです。自分の力でやってしまうと、そのときはしてやったり、「頑張ってやった」と思うと、今度は次なることも自分でしなければならなくなります。そうするとできない自分にぶつかってうろたえる、不安になる、恐れが……、といって、今更神様に帰られない。だから、お祈りしても力がない、信じられない。これは私たちが神様を離れた結果です。
もう一度初めに戻りまして、「イザヤ書」55章6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ」。「お会いすることのできるうち」、今この時、悔い改めていつでも主の前に帰って来る。「近くおられるうちに呼び求めよ」。いま私たちのそばにいてくださる神様に私たちの心を整えて、「しまった。あんなことをしなければ良かった」と思うことがあるならば、そこですぐに悔い改めて主に立ち返る。そうして心をいつも神様の光に照らされて行く。神様の前に常に自分を置く者となる。これがさいわいな生活であります。そのとき私たちは事情や境遇、生活のいろいろな問題、事柄の中にあっても常に変わらない光を見て行くことができる。主を仰ぎ見つつ進んで行くことができるのです。そうすると私たちは揺るがない、動かされない、いつもはっきりと神様に信頼して行くことができます。「大丈夫です」と言えるのです。そのために私たちは常に神様の前に自分の思いを整え清めて、7節に「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて」と、悔い改めて「主に帰ること」。私たちの気がつかないうちに心の窓が曇って来ます。いろいろな物、染(し)みが付いてきて神様の光が薄暗くなってしまいます。そのとき私たちは力を失います。また望みが持てなくなる、感謝ができない、つぶやく思い、苛立つ思い、そして常に自己弁護をします。「己を義とする」とは、そういうことです。自分を守ろうとするのです。そのとき私たちは生きる喜びが消えるのです。そうならないためにどんな小さなことをも、そこで悔い改めては神様の前に主の十字架の赦しを受けて行く。「あなたはもう赦されていますよ」と主がおっしゃってくださるその御声を感謝して受ける。「そうだ。今日も主よ、あなたはこんなに汚れたる者を、失敗だらけ、過(あやま)るところの多い者を、あなたの御心を痛めるような者であっても、あなたはこの者を許してくださる。許されていることを感謝します」と、感謝しようではありませんか。
ある方は「罪を言われると次から次へと出てきて、もうこれはとめどもないのですけれども、どうしますか? 」と言われる。「いいじゃないですか。出て来る度に感謝するのです」「いや、罪を感謝できるのですか」「それはできるでしょう。罪を赦されているのですから、あなたが気が付いたことは、その罪を主が『赦したよ』とあなたに言いたくてその罪を思い起こさせてくださる。だから感謝するのですよ」。その方は「いや、罪を思い出すと心が重く、暗くなって……」と。「どうして暗くなるのですか」「いや、あんなことをしなければ良かった」「しなければ良かったという己があるからでしょう。決心して、しないでおれるのだったら、もうとっくにあなたも立派な聖人君子ですよ」。できない私たち、失敗だらけで「あのときあんなことをしてしまった。でも神様はそのことも十字架に処分してくださっておられる。感謝、有難うというしかないじゃないですか」。ここに十字架の建てられている意味があるのです。
6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。いま主が私たちのそばにいてくださる。御傷ある手を広げて、「さぁ、わたしはあなたを赦しているのだから、私の所に帰って来なさい。顔を私に向けなさい」とおっしゃっています。どんな時にも悔い改めて主に心を向けて、神様の光をしっかりと受け止めて、喜び輝いて行こうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。