いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(286)「神様の手の中」

2014年08月10日 | 聖書からのメッセージ
 詩篇127篇1節から5節までを朗読。

 1節に「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい」とあります。
 ここに「家を建てられる」「町を守られる」と語られていますが、では誰が建て、誰が守るのかと言うと、「主が家を建てられるのでなければ」と言われます。「神様が家を建てるのだろうか。なるほど、イエス様は大工の子だったから、そういうことかな」と言うと、それは大間違いです。確かに日常生活で体験する事柄は、人のわざ、人の力、人の計画です。だから、家を建てるとき、自分で計画を立てます。まずは、どんな家を建てるか、誰に建築を頼むか、どこの工務店にするか、あるいは建設会社にするか、どういう大工さんにお願いするかを考えます。そして、資金もどうするかを考えます。

 4月に若い二人の方が家を手に入れました。お二人とも中古の家を買ったのですが、一人はマンションで、一人は戸建てを買いました。それを造り替えてと言いますか、内装をやり替えまして、立派な家になりました。家を買うにしろ、内装をやりかえるにしろ不動産屋さんを通して、いろいろな情報を得たり、実際に人が働いたりします。

ところが、1節に「主が家を建てられるのでなければ」と言われます。私たちがする一つ一つの手の業、考える事柄、それらのすべての事の背後に、神様がこの事を導いてくださったと認めるのかどうか。自分がやったのだ、自分の努力があって、自分の考え方が具体化して、夢が出来上がってきたと思う。それには確かに喜びがあります。「してやったり!」といいますか、「自分の思いどおりに事が進んだ、ほら、見てみろ、こんなに自分はできるじゃないか」と、そういう喜びはあるかもしれませんが、しかし、それだけで終わってしまいます。1節に「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい」と。「建てる者の勤労」、言い換えると、そうやって知恵を尽くし、財を費やし、労力を使い、大工さんや、内装屋さんやいろいろな人々が集まって仕立て上げてくれた。だから、あの工務店でよかったとか、この大工さんがなかなか腕が良かったとか、そういう話にはなっても、そこに神様がこれを備えて、この事をしてくださったという喜びがなければ、ただに自己満足、自分の業を誇りとし、自分の知識や自分の考えがいかに素晴らしかったかを喜んで、一瞬の花火のようにパーッと喜んで、シュッと消えて、後には何も残らない。ここで言われていることはまさにそういうことです。「でも、うちはもう家を建ててしまったし、この話とは関係がない」と思いますが、そういうことではない。「家を建てる」というのは一つのたとえであります。私たちの人生、日々の生活、私たちがしている一つ一つの業のどんなことも、そこに誰が中心になっているか。「主が家を建てる」。主がこのわざをしてくださったと、ここに私たちが思いを整えるのです。「神様がこうやって恵んでくださったのです」。「神様がこのように一つ一つ備えてくださった」と言い切っていくところに、私たちの喜びがある。その喜びはただ自分の思いがかない、願いが実現して喜ぶ自己満足とは違う喜びです。それは魂の喜び、霊的な喜びなのです。神様を喜ぶことができる。「主がこのようにしてくださった」「神様がこんな私のために思いもよらない、考えもしないような素晴らしい結果を与えてくださった」と感謝し、主を喜ぶことができたら、その人の魂が喜ぶのであります。そのときの喜びはズーッと消えません。そして、日々の生活や自分自身の行動や言葉など、あらゆるものの中に、その喜びが長く染み渡っていくのです。生活の隅々にまでその喜びがあらわれていきます。ところが、自分の業を誇りとし、自分のしたことが「うまくいった」という自己満足の喜びは、肉を喜ばせる、感覚的な喜びです。完成式なり、完成パーティーでもして、「おい、おれの家を見てくれよ」という話になって喜ぶでしょうが、それだけのことで終わってしまう。そこからは更に次なる喜びにつながってくる、私たちのいのちを輝かせてくれるような喜びにはならないのです。

ここで言われているのはそのことです。「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい」。どんなに人が頑張ってみても、あくまで人の力にとどまっている間は、誠にむなしいことで、そこからは感謝がわいてきません。ところが、箴言にありますように「すべての道で主を認めよ」(3:6)と、そこに主を認める。それはこのことです。「これは主がしてくださった、神様がしてくださったことです」と、はっきりと神様の力に一切を帰する。これがいのちにつながる道であります。だから、その後にも「主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい」と。町を守ると言いますか、国を守ると言っても良いですが、言うならば、いろいろな災いから自分を守ろうとすることです。各家庭では夜になると戸締りをしたり、防犯ベルをつけたりして、外敵から、いろいろな災いから自分たちを守ろうとします。火災から守るために火災報知器のようなものを付けます。ここに「主が町を守られるのでなければ」とありますのは、イエス様の時代やそれから後もそうですけれども、またヨーロッパなどもそうですが、町は城壁で囲まれた場所です。エルサレムもかつてはそうでした。城壁で囲まれて、何箇所かの門が開かれるのです。イエス様がベタニヤ村からエルサレムに通(かよ)っていたときも、朝エルサレムに入って、夕方になるとベタニヤに戻ってくる。夕方、日没と共に門の扉が閉められて、夜間は一切のものが出入りできなくなります。そうやって町を守らないと、とんでもない外敵がやって来て、町の安全をおびやかされるから、そうやって町々村々では自分たちを守ったのです。今はそのようなことはあまり必要なくなりました。もっともっと集団的に安全を確保することになってきました。しかし、私たちのそれぞれの家庭で一生懸命に泥棒が入らないようにとか、火事にならないようにとか、鍵を掛けたり、消火器を用意したりします。最近はとんでもない事件が多いから、鍵も一つでは足らなくて、二つも三つも掛けて、どれがどれだか分からなくなって開けるのに時間が掛かりますが、いくら鍵をたくさん掛けても、「主が町を守られる」、神様が守ってくださらなければ、「守る者のさめているのはむなしい」。どんなに寝ずの番をしてみても、神様がそれを守ってくださるのでなければ、私たちは安心することが出来ないのです。だから、どんなことも神様が備えてくださった、神様がこの道を歩ませてくださっているのだと信じていくこと。家を守るにしてもそうですね。夜休むときに、年を取ってくると、「鍵を掛けたかしら」と、玄関に行ってみる。「あ、掛かっている」と、それでまた布団に入りかけたら、また思い出して、「あ、どうやったかしら」と。大体一晩に二回か三回かは行くでしょう。そうやって、安心しようとしますが、どんなに鍵を掛けてみても、主が守ってくださると主に信頼するとき、初めて安心できるのです。神様が災いから守ってくださると信じていくことです。それは人の力で、新しい鍵に換えたから、幾つ鍵をかけたから安心だ、と思いやすいのですが、それは「むなしい」とあります。「今日は心配だから起きておきます」と言って寝ずの番をして、目を皿のようにして見守っていても、主が守ってくださらなければ役に立たないし、主の許しがなければどんな事も起こらない。このことがここで語られていることです。家を建てるにしても、町を守るにしてもそうです。

普段から、一生懸命に鍵を忘れないようにしていても、うっかりしたときかけ忘れます。私の両親もそうでしたが、牧師館に住んでいるとき、夕方大慌てで出先から帰ってきて、鍵を開けて中に入った。食事をして夜休んだのです。翌朝、新聞を取りに外に出てみたら、何と鍵が外側の鍵穴に差したままでした。「取って行け」と言わんばかりに鍵が差してありました。それでも神様が守ってくださるから無事だったのです。「だったら、これから鍵を掛けないでおこう」ということではありません。鍵を掛けるにしても、自分のこの鍵が家を守るのではなくて、神様が今このことをしてくださったと信じる。それによって安心を得ることが大切です。あるとき、両親が福岡に御用で来ていました。そのときどういうわけか妹の家族もいなくて、八幡の牧師館が戸締りをされたままで誰もいなかったのです。夕方、私どもが一緒に車で帰って来ました。5時過ぎくらいでしたか、家に入ったのです。裏の窓に少し隙(すき)がある。「あら、出かけるとき開けたかしら」と、ちょっと見ると床に泥が付いているのです。窓をよく見ると、なんとガラスが切り破られて半月式の鍵が開けられていたのです。父の部屋まで行ったようですが、父の部屋はそもそも整理が悪くて、泥棒に入られた後のような状態だったから、何も取られはしなかったのですが、どうもその部屋にも入ったようです。早速警察に連絡しました。すると鑑識の人が来て、いろいろと見ている。母がそばから「これはプロのしわざですね」と言ったのです。すると警察の人が「よう分かりますな」なんて言われていました。しっかり戸締りをして行ったのです。「それじゃ、神様が守ってくれなかったのか」と言われますが、神様は別に忘れていたわけではなくて、神様が許してそのことが起こったのです。確かにガラスは破られましたが、物が取られたかどうか覚えていませんが、ほとんど記憶にないくらいなものだったと思います。神様が守るべきものはちゃんと守ってくださったのです。だから、どんなことにも神様が主でいらっしゃると信じることです。

ここに語られているように、「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ」と、人ではなくて「主が」、神様が家を建て、町を守ってくださり、私たちを生かし、導き、今日もあらしめてくださる御方です。2節に「あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである」。世の中の人は皆、そうですね。朝早くから起きて夜遅くまで徹夜して、過労死をいとわないぐらいに一生懸命に働きます。そうやって身を粉にして働いて、働いて、今日一日の糧(かて)を家族のためにと稼いでくる。そうやって一生懸命働け、働けと、多くの人々がやっています。ところが、ここにそれは「むなしいことだ」と。その後に「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである」。神様はその愛する者に眠っているときにだって必要なものを与えてくださる。「愛する者に」と言われたら、「ヘエ、誰のことかしら、私じゃないわ」と思ったら、大間違いです。その人はせっかくの神様の恵みを取りそこないます。「愛する者」とは、私たちのことです。なぜなら「ひとり子を賜うほどに私たち一人一人を愛してくださった」とおっしゃる。その神様が「私たちが眠っている時にも、なくてならぬものを与えてくださる」。汗水たらして体を壊すほどに頑張って、辛苦を重ねて苦しみを耐え忍んで働いて、この生活が成り立っているのだという生き方。これは主を認めない、神様のわざを忘れてしまっているのです。「主はその愛する者に、眠っている時にも」、どんなときにでも神様は必要なときに、必要な物を、必要なだけちゃんと備えることがおできになる御方です。「マタイによる福音書」6章に語られているように、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(33節)と。「これらのもの」とは「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと」いう生活全般のことです。私たちはいつもそのことばかり思い煩っています。そうではなくて、いつも主が備えてくださいますと信じていくこと。今、この仕事を与えているのは神様であって、私にこのことをさせている。「自分の努力でこの仕事をして稼いでいるのだ」と思うから、「失ったらどうしようか」とか、「この仕事がなくなったら私はお手上げだ」とか思いやすいのですが、そうではありません。どんなことも、「主が」と、ここをしっかりつかんでください。私にとって都合が良いとか悪いとかにかかわらず、どんなことも神様がそれを備えてくださる。

「イザヤ書」45章5節から7節までを朗読。

ここに繰り返して「わたしは主である」と語っています。5節に「わたしは主である。わたしのほかに神はない」。「主」とはすべてのものの中心、あるいは、その事柄を導く御方です。だから、私たちの生活の一切もこの神様が「主」なのです。私が主人公ではない。その神様が家を建ててくださる、あるいは町を守ってくださる。私たちは神様の求めるところに従い、神様の備えられたところに従って日々を生きているだけのことです。「あれをしなさい」、「これをしなさい」、神様が思いを与え、願いを起こさせ、それを実現に導いてくださる。これが「主が家を建てる」ということです。私たちの生活の隅から隅までどんなことも、この主が中心にある。だから、6節に「これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるためである。わたしは主である、わたしのほかに神はない」。ここにも繰り返して「わたしは主である」とあります。また7節にも「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である」。ここにも「わたしは主である」と。日々の生活のどんな小さなことも、大きなことも、すべて私がしているのではなくて、主がこのことをしていらっしゃる。神様が今、ここに私を導き、このことを体験させ、この中に置いてくださっていると認めていくのです。

私は病気をしまして、もう一度そのことを痛切に教えられました。まさか自分がそういう病気になろうとは思いもしません。そのような経験をなさった方々がおられて、話は聞きました。「そういうものか」と、「気の毒なことだな」と同情はしましたが、まさかそれが我が身にくるとは思わない。ところが、神様はよくしたものです。ちゃんとそのことを教えてくださいました。「わたしが主であるよ」。私たちは健康を自分で守っている、あれをしてこれをして、病気にならないように栄養のあるものを食べ、健康のために運動したり、散歩したりしてと、いろいろな手立てを考えますが、どんなことをしてみても、主が守ってくださらなければあり得ない。また主がなさるならば、どんなに私たちが健康を維持しようとも、「病気になれ」と神様がおっしゃったら、これは仕方がないのであります。これは誰のせいでもない、主がそのことをしてくださったのです。しみじみとそのことをもう一度体験させていただきました。「この病気も神様が与えてくださった」。「アルパでありオメガである。初めであり終りである」(黙示録 21:6)方、昔いまし今いまし永遠(とこしえ)にいます主が「この事をわたしがする」とおっしゃいます。だから、神様のいちばん良いときに、いちばん良いようにしてくださっている。昨日も病院に行き、お医者さんとお話をしました。そのお医者さんが「榎本さんのこのことはちょっと意外でしたね」と、普段掛かりつけのお医者さんまでそのように言うのですから「もう少し、前もってちゃんと診ておいてくれよ」と言いたいのですが、医者が健康をくれるわけではないので、お医者さんも知らなかったのです。心電図を見るとか、あるいはレントゲンを撮るとか、あるいは血液検査をするとか、いろいろなデータを取って外側から見ると、そんなにひどいものとは思えなかった。ところが「今度の榎本さんのときはひどかったのですね」とお医者さんのほうがびっくりしたのです。だから私としては、二泊三日の検査だけで退院する予定だったのです。神様の予定は違っていました。「すぐに引き続いて治療をしましょう」と言われましたが、水曜日に入院しまして木曜日に検査を受けたので、三日置いて「月曜日にも早速すぐに手術をしましょう」となりました。月曜日にはほかの手術のスケジュールが全部入っていたのです。そこへ私の分をどこかへ入れ込まなければならない。担当の主治医としてはそれくらい緊急性を感じたのです。こちらは暢気に「そうですか。詰まっているそうですね」というぐらいでした。動けば少しは痛いけれども、じっとしていれば何ともない。「これで何の治療をする必要があるかしら」と思っていましたが、お医者さんのほうは大慌てで、初めは午前中と、いや午後ですと、そのうちまた午前中ですと、時間が決まりません。ほかの手術の合間に入れるというのですから。そこまでしなければならないぐらいの状況であったのですが、神様が必要な手立てをちゃんと整えて、逃るべき道を備えてくださいました。決して神様はへまなことをしないのです。7節に「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」。どんなこともわたしが主である。この主がいま私を握ってくださっている。私たちは主の手の中に置かれているのだと、しっかりと信じていきたいと思う。どんなことが起こっても、決してあの人がしたとかこの人がしたとか、これが問題だったではなくて、「主が今、こうしているのです」と、はっきり信じていきたい。そうしないと、すべて労苦が「むなしい」。

 先ほどのところに戻りますが、詩篇127篇1節に「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい」。本当にそう思います。神様が今この病の中に私を置いてくださって、持ち運んで、このような結果を与えてくださった。これは医者でも誰でもない神様がそうしてくださった。主がこのことをしてくださったのですと、主を喜ぶ者となる。その喜びは消えません。もし、主を認めない、知らないままでは、「危ないところだった、ラッキー!うまい具合にあの先生が見つけてくれて治った。あの先生は私の命の恩人だ、足を向けて寝るわけにはいかない」とか、そんな話にはなるけれども、それでおしまいです。ところが、「主がこのことをしてくださった」と信じていくとき、そこに喜びがあり、また次なることが起こってきても、しかも、それがどんなことであろうと「これもまた主の恵みです」と、「主がこのことをしてくださいました」と感謝することができるのです。

 サムエル記上7章12,13節を朗読。

 これはイスラエルの国がペリシテ人と戦いをしました。何十年か前にもエリ先生の時代にも戦いがありました。そのときに「神の箱」、契約の箱がペリシテ人に取られてしまった。それで20年近くイスラエルの国には神様の臨在の証の箱がなくなってしまった。そのために彼らは力を失っておったのです。しかし、その盗んで行ったペリシテ人は神の箱がある間、次から次へと災いに悩まされるのです。ペリシテ人にとっては厄病(やくびょう)神だったのです。とうとうペリシテ人は困り果てて、それをイスラエルに送り返してしまった。やっと神の箱がイスラエルに戻ってきました。そのことが7章の1節以下に書かれています。

 サムエル記上7章1節から4節までを朗読。

 イスラエルの民もその神の箱が取られてしまった後、ここにあるようにバアルだとかアシタロテという偶像の神々を慕っていた時代があります。だから、イスラエル・神の民といわれる民であっても実にいい加減なところがある。私達に似ているといえば似ているかもしれません。ところが、このときサムエルはイスラエルに「心を主に向けてすべてのそのような偶像を捨て去るように」と求めました。それで彼らは心を一つにして、ペリシテ人との戦いに臨む。そのときに彼らは勝利を得ました。その後です。12節に「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた」。彼はペリシテ人との戦いに勝利して、一つの石を記念に据えました。それは自分たちの力を誇るためではありません。いわゆる、戦勝記念碑とか、凱旋門を造ったわけではない。サウル王様はアマレク人に勝ったとき、立派な戦勝記念碑を建てたりしましたが、このときサムエルはそのような意味ではなくて、神様に感謝をささげる石塚を立てた。その意味は「これまですべては神様、あなたがしてくださったことです」と告白するものです。ここにありますように「主は今に至るまでわれわれを助けられた」。神様が今に至るまですべての事をこうやって恵んでくださった、助けてくださった、守ってくださったと、「栄光を主に帰する」。ここがサムエルの真骨頂ですね。それに対して神様は13節に「こうしてペリシテびとは征服され、ふたたびイスラエルの領地に、はいらなかった」。今度は神様が彼らの信頼に応えて、ペリシテ人を防いでくださった。しかも「サムエルの一生の間」とあります。サムエルが生きているかぎり、神様はイスラエルをペリシテ人から守ってくださる。ところが、その後ダビデの時代になってから、またペリシテ人が攻めてきます。サウル王様の時代もそうでありました。サムエルが神様を前に置いて揺るがない信仰に立って、感謝の石塚を立てたときに、すべての敵を防いでくださった。

詩篇127篇1節に「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ」と。イスラエルの民を守るのは神様です。主は今に至るまで私達を守ってこられましたと、神様に感謝の石塚を立てて、更に前進していく。これは私たちの日々のなすべき業であります。ですから、私たちも一日一日自分の努力によるのではない、自分の考えによるのではない、人の力によって今があるのではなくて、「今如くなるはの恩恵(めぐみ)に由るなり」(Ⅰコリント15:10文語訳)と、絶えず謙そんに主の前に「主よ、あなたが主であり、私のあのこともこのことも、良いことも悪いこともひっくるめてすべてが神様、あなたの御わざです」と、主に立ち返り、主に仕える者として、今日の一日を生きていることを覚えておきたいと思います。そして主の恵みを感謝しつつ、主に生かされていきましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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