いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(257)「闇を照らす言」

2014年07月12日 | 聖書からのメッセージ

 ヨハネによる福音書1章1節から5節までを朗読。

 

 4節と5節、「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」。

 今年(2008年)も、残るところ一ヶ月となり、今日からアドベントに入ります。アドベントは、待降節とも言いますが、イエス様が生まれたのを12月25日と定めて、その日に至るまでの一月ばかりを主の御降誕を待ち望む期間として、日常生活の中で心を神様に向け、主のご降誕を祝う心の準備をしようという時に当たります。会堂も普段と違っていろいろなきれいな飾りがしてあって、ウキウキした気分になります。そして世間でもクリスマスセールなどが始まり、これまたにぎやかになって、世間で言うところのクリスマスも始まります。

 

この時期にきわめて特徴的なものは何かと言いますと、教会の玄関のクリスマスツリーにも電飾が飾られていますが、光というものが一つの特徴です。オルガンの上にろうそくがともされています。不思議に思われると思いますが、これは一週間ずつ4回にわたって主の御降誕を心待ちにする私たちの思いを、ろうそくに託しているのです。今日は一本点けましたから、来週はさらに一本というように増やしていきます。主のご降誕が「もう間近だな」と、そういう意味でろうそくをともします。なぜろうそくなのか?電気ではいけないのか? 別にろうそくでなければいけないという理由はないのでしょうけれども、ろうそくの火は、電気と違って人の心に何となく暖かさを伝えてくれます。人工的な明かりとは違って心を慰めてくれるし、「癒し」と言いますか、そういうものをもたらしてくれます。ろうそくの火をジーッと見ていると心が静かになります。蛍光灯を見ていてもあまり変化がありません。このような自然の燃えている明かりは、私たちに大きな慰めを与えます。

 

このクリスマスの時期にいろいろな電飾をチカチカと輝かせます。最近は日本でも、自宅の庭だとか玄関先に電気でいろいろな飾りをつけて輝かせます。どうしてクリスマスと明かりが結びついたのだろうか?これはやはり聖書の言葉と深いかかわりがあることだと思います。今読みました記事の4節以下に「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。5光はやみの中に輝いている」と語られています。ここに「光であった」と言われています。何が光であったか。それは「言(ことば)」だと言われています。この「言(ことば)」とは何のことでしょうか。これはイエス・キリストなのです。1節に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。「言(ことば)は神と共にある」、この時の「言(ことば)」は実に巧みな表現で、イエス様となぜ言わなかったのかと思います。イエス様は、神の御子すが、人となって地上に来てくださった、その事自体を表す言葉であります。しかし、ここで「初めに言(ことば)があった」というときの「言」は、イエス様がまだ人とならない時、言うならば、神と共に居給うた時のことです。ただ、イエス様という場合、人となって地上に30数年のご生涯をおくって、十字架に命を捨てて、罪のあがないとなってくださったイエス・キリスト、歴史的にも存在した者としてのイエス・キリストを指す言葉です。それは同時に、神が人となってくださったという意味で、人であり、神でもある方としてイエス・キリストという言葉が使われるのです。

 

イエス様が天にお帰りになった後、イエス様は私たちと今は遠くへだたって関係がないかと言うと、そうではなくて、聖霊なる神が私たちの内に宿ってくださる。ペンテコステの出来事(使徒行伝2章)で弟子たちに霊が注がれたとあります。これはキリストの霊、神の霊、聖なる霊、いわゆる御霊です。イエス様が「父にお願いしてあなたがたのために助け主なる御霊を送る」(ヨハネ14:16)と約束してくださったように、御霊なる神が今わたしたちと共にてくださるのです。

 

今読みました1節に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。だから、その「言(ことば)」とは、神と共にあったイエス・キリストを指すのです。だから、12月25日、二千数年前に人となって地上に来てくださったイエス・キリストは、実は、はるか以前から天地の造られる前から、父なる神・創造の神と共におられた方ですと、ここに語られているのです。イエス・キリストは同時に神の言(ことば)でもあるというのです。これはどういうことかと言いますと、イエス・キリストがこの地上に来てくださったのは、神様の約束の言葉が成就した結果、神様が人となって、この世に来てくださった。これは旧約聖書を通して神様が預言してくださったことです。神様の約束の言葉は時が来て成就していく。だから、イエス・キリストがこの地上にお生まれになったのは、神の言葉そのものが人となってくださった。具体的な形をとって、この世に来てくださったのだと。だから、ここにあえて聖書では「言(ことば)」という言い方をしているのです。「イエス・キリスト」と言わなかったのです。

 

ですから、1節「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」。これがまた素晴らしいことなのですが、「言(ことば)は神である」、言い換えると「イエス・キリストが神である」と言っていると同時に、神様は言葉によって私たちに臨んでくださるのだということ、「神が言葉なのだ」ということです。「言葉」というときの「言葉」は、「聖書の言葉」です。時代を越えて、それぞれの人に神様が霊を送って、感じる心を与えて語られた神の言葉、聖書の言葉が実は神であり、神様の言葉が具体的な人と言う形をとったのがイエス・キリストである。そして言葉が実は神なのだ。だから、私どもは「神様ってどこにいらっしゃるかな、神様はどのように私に話しかけてくれるのか」と思いますが、実はこの聖書の言葉を通して、神様はご自分を証しし、明らかにして、私たちに語りかけてくださるのです。その言葉がまず具体化したのがクリスマスなのです。

 

ルカによる福音書1章19、20節を朗読。

 

イエス様の誕生を語る前に、ザカリヤとエリサベツという夫婦の記事があります。ザカリヤさんは祭司でした。神殿で神様に仕える仕事をしていた。このとき、ザカリヤさんは随分高齢だったのです。ところが、この二人には子供がいなかった。長年、何とか子供が与えられれば、と願っていました。しかし、だんだん年を取ってしまったし、その見込み、望みを失っていたのです。祭司は神殿でいつも香をたいたり、民のために祈りをしたり、取り次いだりするなどの務めをするのですが、24時間365日、休みなく続けます。一人の人ではできませんから、幾人かが組になって交代でやっていた。ザカリヤさんが担当した組が、その日神殿で香をたく、神様の前に祈りをささげる役割に当たっていました。その時、ザカリヤさんは神殿の中でお祈りをして、その務めをしていました。そこへ御使ガブリエルがやってきたのです。そして、「あなたの妻エリサベツは男の子を産むでしょう」と言われた。ザカリヤさんはびっくりしました。確かに、その願いはあったし、そのように祈ってはきたが、「もう無理だろう」とあきらめておった。望みがなくなっていた。そこへ御使がとんでもないことを言ったのです。「あなたの妻エリサベツに男の子が与えられる」。それで彼は18節に「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と答えた。自分たちは二人とも年を取ってそんなことがどうして分かりますか。「そんな馬鹿な」という意味です。「そんなのは有り得ないよ」と。ところが、その時に御使が20節に「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから」と言ったのです。神様の約束の言葉、今、あなたの妻エリサベツに男の子が与えられるという、この約束の言葉は空手形と言いますか、何の保証もない言葉ではなくて、実はこれは神様の言葉であって、必ず「時が来れば成就する」、うそ偽りのない事であるということです。

 

私どもは大体言葉をあまり信用しません。人が何か言っても「そんなこと言って」と腹の中で思う。「成りもせんことを!」と、どちらかというと、そういう気持ちでいます。「近くにきたら寄ってくださいね」なんて言われて、寄ろうものなら、「とんだ迷惑」と言われます。だから、それは「ごあいさつだな」と、お互い分かっていますから、間の抜けたようなことはしません。私が住んでいた名古屋の習慣では、人が「これを差し上げましょう」とか、あるいは「これをお上がりなさい」と言われたら、まずは断らなければいけない。「いいえ、そんな滅相な、いりません」と。するとまた次に勧める。三回目にオーケーを出すというのが暗黙のルールです。だから「もう一度言ってくれるだろう」と思って、言わなかったら、そのときはもうどうにもならない。ところが、福岡とか北九州もそうだと思いますが、こちらは案外とストレートです。「いるね?」と言われて、「ハイ、いります」と言えばすぐくれる。「これ食べなさい」と言われて、「いや、いりません」と言うと、すぐ引かれてしまいます。これは習慣ですが、言葉はそのようにルールがあるわけで、それにのっとっていく。時には意味のない言葉もお互いに掛け合うから、あまり信用しない。人の言葉は当てにしないから「そう成ればいいけど、成らないかもしれない」と、どこかであいまいでいい加減なところがある。

 

ところが、神様の言葉は20節「時が来れば成就するわたしの言葉」です。神様の言葉は決して無駄に終わらない、あるいは、私どもの言葉のように、ご愛想とか、ただ言うだけの言葉ではない。ちゃんとその言葉の一つ一つが成就していく。これは神様の言葉の大切な性質と言いますか、特徴です。だから、この時ザカリヤさんは「そんな馬鹿な」と言ったために、「あなたは口がきけなくなる」と言われ、とうとう彼は物が言われなくなってしまった。やがて時が満ちて男の子が与えられました。後のバブテスマのヨハネですが、その子が生まれた時に、物が言えるようになりました。

 

またその先の、44、45節を朗読

 

これは、マリヤさんがガブリエルから「恵まれた女よ、おめでとう。あなたは男の子を産むでしょう」と受胎告知を受けました。初めは「そんな滅相もない」と思ったのですけれども、「これは神様がなさること、神にはなんでもできないことはありません」と言われて、「わたしは主のはしためです」と、神様の前にひれ伏した時に喜びに満たされたのです。「わたしのような者を神様は顧みてくださった」と、大喜びで遠縁にあたるエリサベツさんのところへ行ったのです。すると、エリサベツさんはちゃんと分かっていました。「主の母となるお方、主の母上がわたしの所へ来るなんて、なんとわたしは光栄でしょう」と喜びました。エリサベツさんは身重で、おなかに赤ちゃんがいました。そのおなかの子までが喜んで踊ったと、そのように大変喜んだ。その時にエリサベツさんは、45節に「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」と語っています。神様がおっしゃったことは必ずそのとおりになるのだと信じた。これはエリサベツさん自身の体験の証しです。彼女自身が、自分には子供が与えられないと思い、あきらめていたところへ、神様から「お前に与える」と言われ、その時が満ちて具体的に体にも変調が起こってくる。そういうことを見たときに、彼女は「神様は決して無駄なことを言わない。神様の約束は必ず成就するのだ」と体験したのです。そこへ、マリヤさんが来たのですから、二人とも大喜びです。マリヤさんは神様からのメッセージを信じて受け入れたのです。そのことを祝福して、エリザベツさんは45節に「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」と。そうです。「神様の言葉だから、これはそのとおりになる」と信じることです。イエス様がお生まれになった出来事のバックグランド、背景に実はこのことがあるのです。イエス様の御降誕にかかわる一人一人が「神の言葉を信じる」、しかも「成就すると信じていく」のです。信じた人たちそれぞれが、イエス様の御降誕に加わったのです。これは見事だと言うほかはありません。マタイによる福音書に、博士たちの記事があります。もちろんヨセフさんもそうでしたが、博士たちもそうでありました。彼らは直接ガブリエルからの言葉を聞いたわけではありません。しかし、博士たちは旧約聖書をひもといて、その預言の言葉を信じたのです。そして、何ヶ月もかけて夜空に光る星を目当てに旅をして来た。エルサレムに着き、更に導かれてベツレヘムの馬小屋にやって来る。クリスマス、神様の御子イエス・キリスト、救い主の御降誕の根底にあったのは、「神様が語ったことは必ず成る」と、神の言葉を信じることです。それは「神ご自身を信じる」ということでもあるのです。神の言葉を信じた人々の共同作業という言い方は誤解があるかもしれませんが、ある意味ではそうなのです。そして、その事は今も変わらない。

 

初めのヨハネによる福音書1章1節に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」。2節に「この言(ことば)は初めに神と共にあった」。神の言(ことば)、イエス様は実は初めから神様と共におられたお方。だから、箴言にそのことが語られています。イエス様は、父なる神様の一つ一つの創造のわざをそばで見ておられたと記されています。そして、神の霊がすべてのものを支配しておられた。神様が天地を創造されたのは何によってであったか。言葉によったのです。神様が「光あれ」と仰せになったら、その言葉のとおりに光があった。その後、すべてのものを神様は言葉によってお造りになった。天地万物、ありとあらゆる森羅万象をお造りになった。神様がどこかから材料を買ってきた。ホームセンターに行ってあれこれを買って来て、材料を集めて造ったという話ではない。一言、一言、言葉を発することによって、すべてのものがそこに出来た。ただ、最後に人をお造りになったときだけ、人を土のちりを集めてご自分のかたちにかたどった。そして、その人に命の息を吹きいれ、神の霊を注いで、人を生きる者としてくださった。言うならば、神様と私たちは命の息でつながれているのです。お母さんの胎内に宿った子がへその緒で母親とつながるでしょう。それと同じように、私たちは神様と神様の言葉によってつながっていくのです。その言葉は神と共にあるイエス・キリストであり、その言葉は聖書の言葉です。だから、イエス・キリストを知りたければ、聖書を読む以外にない。なぜならば、この聖書の言葉はキリストご自身であり、神ご自身であり、また御霊なる神様が働いてくださる一つのチャンネル、私たちに注がれてくる命の道です。だから、聖書の言葉は私たちにとって不可欠なもの、欠くべからざる大切なものです。

 

それに続いて、4節に「この言(ことば)に命があった」と。しかも、神様の言葉の中には命がある。その命がまるで植物の種のようです。種の中に命があるからこそ土に埋められ、日がたつに連れて芽生えて成長していく。聖書の言葉の一つ一つの中に実は命があるのです。神様と私たちをつなぐ大切な命の流れるパイプが神様の言葉であり、キリストであり、神の霊です。この命の言葉に私たちは絶えず潤されていくこと。4節に「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった」。この命は私たちに御言葉、神の言葉を通して、キリストを通して注がれてくる命は、私たちの光である。それは私たちが神様から引き離された闇の中にいるからです。日々生活している場は決して暗いわけではありません。今日などは明るい日差しが差し込んできますし、夜になるとあちらこちらに電飾が輝いて明るいと言いますか、きれいな世間です。世の中です。そのようなただ物理的な意味で明るいとか、暗いとかいう意味ではなくて、私たちの心です。私たちの思いの中に望みがない、喜べない。憤りや失望落胆の中にいる時の心は闇です。皆さんもご経験のとおりであります。心が晴れやかに軽やかになる時は、私たちに望みがある時でしょう。希望がある時、こうなるに違いないと望みを持つ時。確かにそうですね。だんだん夜が近づいてきて薄暗くなってくると、心寂しくなります。これは文字どおり外側の状況です。もちろん外灯がついていたりしますが、日が落ちて夜の闇が深くなってくると不安感を覚えます。ところが、夜明け頃、朝方5時とか6時とかだんだんと東の空が明るくなり始めるとホッとします。

 

この4節に「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった」。「この言(ことば)」、言い換えると、聖書の言葉であり、聖書のお言葉を通して具体化したイエス・キリスト、イエス・キリストが私たちの命なのです。イエス様が私と共にいてくださる。よみがえってくださったイエス様。今、聖霊が私たちの内に宿って、キリストの霊が私たちを包んでくださる時、御言葉を通して注がれる神様からの命に輝くことができる。それを光として心の闇を取り除いていく。これが今私たちに与えられている福音、喜びです。

ですから、4節「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった」と。しかも5節に「光はやみの中に輝いている」。確かにそうですね。どんな漆黒(しっこく)の闇、一寸先も分からないような真っ暗闇であろうと、そこに小さなマッチ一つの明かりですらも、その闇を押しのけていきます。決して闇が明かりを覆い隠して、暗くすることはできません。私たちの心に、いつも主イエス・キリストが私と共にいてくださる。イエス・キリストの言葉が私たちの内にとどまっていく時、それが実は私の命であり、私の光です。その時、どんなに事情、境遇、問題が山積していようと、そのために心が闇に閉ざされていようと、そこに望みを持つことができる。明かりがポッと輝くのです。それは御言葉による以外にないのです。

 

私たちはいつもこの御言葉の光を輝かせていきたい。事情、境遇、事柄によって心を明るくしようとしても不可能です。いや、それどころか、それは一時的にはあるかもしれませんが、すぐに闇に押し消されてしまいます。「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった。5 光はやみの中に輝いている」。闇が深ければどんな小さな明かりも明るく輝きます。今そこについているろうそくの明かりも(アドベントのろうそく)、意識して見ないと、昼間はついているかついてないか分かりません。これを真っ暗闇に擱いてご覧なさい。大きな光に輝きます。

 

だから、私どもがもし心に闇を感じるならば、深い悲しみや不安や恐れの中に置かれるならば、どうぞ、キリストに立ち返ること、御言葉に心を向けていきたい。御言葉を「時が来れば成就する」と信じて、必ず私たちに答えてくださる神様の約束の言葉を握って、望みを持とうではありませんか。

 

イエス様がベツレヘムの馬小屋に生まれてくださった背後に、神様の約束の言葉があったからです。そして、それを信じた人々がいたから、イエス・キリストの素晴らしい恵みがそこに具体化したのです。私たちが神様の御言葉の命をくみ取って、それを輝かしていく時、そこにまた新しい命を神様が生み出して次なるものへと明かりを広げてくださいます。

 

そのためにまず私ども自身が「この言(ことば)に命があった」と、イエス・キリストの命をくみ取って、御言葉をしっかりと握って、光を体験して行こうではありませんか。そして心を輝かせ、私たちの地上の生活の一つ一つの中に、神様の光に照らされた歩みを証ししていきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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