詩篇46篇1節から11節までを朗読。
1節「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」。
神様の御愛と恵みによって救いにあずかり、日々神様を信頼して生きることができるのは、何と感謝していいか分かりません。しかも、神様がこの1節にあるように、避け所、また力となってくださる。世間でも、“苦しい時の神頼み”と言いまして、悩みがあると神様の所へきて、お祈りをしようか、或いは藁にも縋る思いで、神社仏閣に出かけて祈願祈祷をしてもらう。しかし、私たちは、イエス様の尊い命によって、神様のものとして買い取られ、苦しい時は勿論のこと、苦しみがない時にも、年がら年中、神と共に生きる生活が、最善にして最高の生涯ではないでしょうか。私達がどんなに弱く、小さくて、知恵がなくても、それを補うことの出来る、豊かに満たすことが出来る方がいるのです。大きな力ですね。自分に力があれば安心だと考えます。健康があれば安心、或いは経済的に豊かになって、余裕があれば安心だと考えます。しかし、お金をどんなに積み蓄えても、それで安心になるかと言うと、これはなりません。常に不安が伴います。私たちは、どんなに強くても、どんなに力があるように見えても、やはり弱いのです。何か事があると、ハラハラどきどきしたり、或いは一生懸命にやってみるけれど、3日もすれば、疲れが出てきて、意気消沈し、ため息が出るようになります。
だから、私たちが、どんなに強くても、何十年も変わらず、その力を持ち続けることは不可能です。必ず衰えていき、失われていきます。これは当然です。あれもこれも備えていたら、決して動揺しない者となるかと言うと、そうはならない。どこかに不足が出てくる。肉体をもってこの世にある限り、どうしても避けがたいことであり、必然的な事柄です。だからといって諦めるわけにもいかない。何とかしたいけれど力がない、知恵がない。いつもジレンマの中に置かれています。今日は一日元気で、事もなくとりあえず過ごすことが出来た。でも次の日何があるか分からない。手にあまるような事柄が起こったら、どうしたらいいだろうか。そんなとき、神様が避け所となってくださるのですから、これはどんなに感謝しても感謝しきれない、大きな恵みではないかと思います。
世の中には沢山の人がいますが、「神様を知らないで、日々生きておれるなぁ」と思います。「神様に頼らないで、神様のことを抜きにして、この地上の生涯を歩むのはどんなにか心細かろう」と思います。でも案外とけろっとしているのを見ると、不思議な感じがします。苦しい時、悲しい時、辛い時は、どうやって慰めを見出し、力を得ているのだろうかと不思議に思います。幸いなことに、私は、どんな時にでも逃げ込んでいく場所がある。呼び求めることが出来る。これは大きな恵みです。ただ、その事が日常茶飯のように、当たり前のように思いますから、あまり感謝がない、喜びがありません。
1節に、「神はわれらの避け所」とあります。「避け所」とは、守られている場所、保護されている場所です。避難所であります。そこに逃げ込んでおれば守られる場所です。阿蘇山へ行きますと、火口の近くに大きなコンクリート作りのドームのようなものがあります。扉もありません。入り口が4箇所くらいあって、中はがらんどうです、シェルターと書いてあります。シェルターは、避難所と言います。噴火口を眺めていて、突然目の前で噴火でもしたら、緊急に避難する場所です。山頂から逃げると言ったって、麓まで随分時間が掛かります。その間に火山の噴火物で押し潰されるかも知れない。急いでとりあえずそこへ逃げ込むのです。これが避け所、シェルターです。
神様が「避け所」となってくださるから、悩みに会うとき、問題が起こった時、そこへ逃げ込む。そうすると、安心が得られます。そればかりか、力となって下さる。「悩める時のいと近き助けである」。この世に生活していると、いろいろな悩みがあります。次から次へと思い煩うこと、心配なこと、不安なことが湧いてきます。そういう時に助けてくれるもの、慰めてくれるものは何処にあるだろうか。神様こそが「悩める時のいと近き助けである」、一番身近にいらっしゃる助けなのです。私たちは、神様よりも目に見えるものを頼りたい、助けを得たいと思います。あの人に相談してみようか、この人に頼んでみようか、この事はこうしたらどうだろか、ああしたらどうだろうかと、知恵や助言を人に求めようとします。ところが、一番身近な助けというのは、神様なのです。神様はどんな時にでも助けることのできる方です。
神様を私の避け所として、そこに逃げ込み、私の力として信じていく。そうしますならば、自分は何も持たなくても、避け所となってくださる方、力となってくださる方、命を与えてくださる、全てのものに満ち満ちている方がいるのですから、どんな事でも出来るのです。悩みの時、苦しい時、主を求める、神様を求めていく。私たちは足らなくても、神様はどんなことでもしてくださる。一番幸いな身近な方なのです。
ピリピ人への手紙4章11節から13節までを朗読。
13節に「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」とあります。これは神様に信頼する姿です。神様に信頼する時、どんな事でも出来る。ここにありますように、「わたしを強くして下さるかた」、私が強いのではない。力、知恵、健康があるのでもない。財産が、名誉が、地位、学歴があるのでもない。しかし、何になくゼロであっても、私を強くしてくださる神様が共にいてくださる。この方が私どもの避け所となり、力となってくださる。だったら今、何にも無くても、何が足らなくても嘆くことはいらない。悲しむことはいらない。何故ならば、強くして下さる方によって、どんなことでも出来るのですから。ところが、聞いた時は、「うん、そうだ。良かった、いい話しを聞いた」と思いますが、直ぐその後に、「だって、幾ら言っても神様は、聞いてもくれないし、私はあれもしたい、これもしたいと思っているのに、ちっとも知恵も力も与えてくれない。ましてや、お金は湧いてくるわけでなし、私が節約して、爪に火を灯すように節約したから、ここまでやってこれた。何処に神様のお世話になっているかしら」と思います。そこが実は間違いなのです。
今、私たちは、神様の力によって、知恵によって、生かされて、健康を与えられている者です。だから感謝したらいい。ところが、それは当然のことと思って、更にもっと健康でありたい。もっと自分の願いが実現して欲しい、思う通りになって欲しい。何事でも出来るのだから、神様はさせてくれたら良さそうなものだと思います。ところが、神様はそれをしなくてよろしいと、止めているのです。ここが大切です。どんなことでも私たちにさせることが出来る、知恵も力も持っている、天と地に満ちるものは、全て私のものだと言われる神様が、それは必要がないからと止めているのです。もし、神様が限りのある方だったら、「やっぱりこれはお祈りしても、難しかったに違いない。これは、過分な要求をしてしまったから、神様は応えきれないに違いない」と考えます。しかし、どんなことでも出来る方、力を与えることの出来る方に祈っても許されないのは、「この事はお前に必要がない、これだけでよろしい」と言うことです。そこに神様の意志がはっきりと現れています。
コリント人への手紙にありますように、パウロは自分の肉体に一つの棘が与えられ、それを何とか取り除いてくださいと祈りました。その時、神様は「わが恩恵(めぐみ)汝に足れり」、「私の恵みは、あなたに対して十分だ」。もう、それでいいのだから、それ以上のことは必要がないと神様は言われました。もっと力があったら、徹夜でもしてやり遂げるのだが、力がないから、弱いから、お祈りして「神様、力を与えてください」と求めます。けれども神様は、一向に力を与えなさらない。「仕方がない。もう、今日は寝るわ」と、神様に不満を持ちますが、それは間違いです。今、お話したように、私たちに必要な力を与えてくださっている。必要でない、要らないものまでは神様は与えてくださらない。私が必要であっても、神様がそれは必要が無いと言われるなら、神様の方が正しいのです。私どもは、「私が必要なのに、神様、あなたはそれに反対するのですか、あなたは間違っていますよ」と言う。これは大きな間違いです。だから、神様が、お前はそれでよろしい、お前にはこれが必要だからこれを与える。お前にはこれをさせたいと思うから、これだけの力を与えよう。ことごとく一つ一つに、一人一人に必要なことをちゃんとご存知で、全ての必要を満たして下さっている。避け所であり、力であり、助けになる方です。その方は私たちの全ての必要をご存知で、日々に、知恵を与え、力を与え、健康を与えてくださる。この事を確信して、感謝して生きたい。
一日の終る時に、「今日も主が全ての力を与えてここまで導いてくださいました」と、主に心から感謝して、一日を終りたいと思うのです。自分の思い通りに行かない、願い通りでなかった、或いは祈ったけれどもこれが足らなかった、あれが足らなかったという事があると、一日が終ってもまだ呟いているのです。「神様、どうして私を顧みてくださらないんですか。聖書には『主はあなたがたを顧みてくださる』、『思い煩いをいっさい神に委ねよ』とありますから、私はあなたに委ねたのだけれど、神様はちっとも私に応えてくださらない」と、夜寝る時のお祈りは、呟きと恨み節みたいに、ブツブツ、そのうちに眠くなって寝ちゃったりして…。
そうではなく、与えられた一日は私にとって最高にして十分な有り余るほどの一日であったと認めるのです。これが神様の前に謙遜になる、或いは、神様を認めることです。これが出来なければ、神様を避け所、拠り所とすることは出来ません。「私のこんな情けない、弱い状態でもいいのでしょうか」と思いますが、人が良い悪いは言わない、神様がそれでよろしいと言われるなら、「はい」と感謝していると、神様は、また、私たちに何か新しい使命を与えたら、それに必要な知恵も力も与えてくださいます。だから、神様を避け所として、拠り所として、そこに絶えず自分を置いていく、これが私たちの為すべき全てです。神様の所に自分をおくというのが、今申し上げたようにこの地上での日々の生活の全てが、神様の手に握られていると信じることです。そして私の必要を全部ご存知の神様が、このように力を与え、健康を与えておられると感謝することです。そこで初めて主の中に留まっていると言えます。
今日から、心新しくして、「そうだ、今日も一日、主よ、あなたが私を生かしてくださったお陰です」と感謝して、「あれが足りない、これが足りないとか、これがこうあったら良かった、あああったら良かった。もうちょっと私が頑張れれば良かった、私がもうちょっとあの時に努力しとけば良かった」と悔やむと、神様から心が離れてしまいます。私が努力して出来る筈がないのですから、出来たこと全てが神様の恵みであって、一日の生活が終わった時、これが全てなのです。「何だ、神様はしょぼくれた方だ、私はもっと格好よい派手な華々しい人生を送りたいと思うのに、こんなしょぼくれた、名もない一生で終るのかしら、これでもう花は咲かないのかしら」と嘆く。それは自分で思い描いているだけの事で、神様は私たち一人一人を素晴しい作品として置いてくださっています。
どうぞ、先ず第一に、その事を覚えておいていただきたい。パウロは、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得て、13節に「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」と告白しました。今は出来ないことがある、或いは今は分からないことがある、今はこういう状態である。しかし、これで死ぬまで変わらないというのではありません。明日はどうなるか、神様が何をさせてくださるか、どういう人生に導かれるか分からない。年々歳を重ねるごとに、老年になり、枯れて行くばかりと思う。ところが明日から、突然若返って、花が咲くかもしれない。神様が必要ならば、どんな事でもさせてくださる。だから失望しないのです。どんな時にでも今日はここまで、今日はここまで、神様が豊かに恵んでくださった。次はどのように導いてくださるか、持ち運んでくださるか、神様に期待する。だから決して失望しない。
父の信仰を通して教えられている事の一つは、いつも決して失望しないことです。母はどちらかと言うと現実派ですから、あれを見、これを見て、「これはもう駄目だ」とか、「これはこうだから、もうお終いだ。諦めよう」とか、そういう風になり易い。願うように思うようにいかないために、失望します。或いは、もう望みが持てなくなる。私も大学に行こうと思って勉強しましたが、失敗して不合格になりました。そして次の年、頑張ろうと思うのですが、どうなるか分からない。「これは難しそうだ」と思われる現実が沢山あります。希望が持てない現実が目の前にあります。私が「お父さん、これは駄目だと思うから諦めようか」と言うと、「駄目か駄目でないか、それは神様が知っているのだから、お前が決めることではない」と言う。お前が決めることはないと言っても、こっちは自分が良く分かっていますから、これは難しい。試験の結果が悪くて不合格になってしょげていると、「お前は、そんなにしょげるほど勉強したのか」といわれる。来年はどうなるかと心配していると、「大丈夫!」と言われる。親父があんなに大丈夫と言うから大丈夫なのだと思った。でも考えたら何の根拠もない。ところが、父は、神様が必要なら道を備えられる、だから大丈夫。もしその道が駄目だったら、別の道を備えられるに違いない。神様には、何千何百という選択肢が幾らでもある。だから希望があるじゃないかと。でも私たちは、自分の頭で考えられる幾つかの、ほんの僅か、三つか四つくらいの選択肢しかないと思う。これが神様の力を限ってしまうことですね。13節に「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」。どんな事でもさせることの出来る神様がいる。
避け所となってくださる方、助けとなる方、力となってくださる神様は、天地万物の創造者です。「わたしは主である」と宣言している神様が、ひとり子を賜うほどに大きな愛を、私たち一人一人に注いで、顧みてくださっている。だから、どんな時にでも、その方の中に逃げ込み、助けをいただくのです。その神様が何事でもする力を与えてくださる、力の源となってくださる。
2節に「このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない」。神様が避け所となり、力となり、また助けてくださるのですから、恐れない!私たちは恐れる必要がない。どんなことがあっても、2節に「たとい地は変り、山は海の真中に移るとも」、山が海の中に移るとはどんなことかなぁと思いますけれども…。近頃の地震や大津波などの、ああいう現象を見ていると、確かにあると思います。海底の地殻が隆起して、それが山になってしまうこともあり得るでしょう。津波は、地震で地殻のプレートがポーンと跳ね上がって、上へ押し上げられた時に、その上にある海水が押し上げられて、一気に周囲へ押し寄せるのが津波です。ところが、事によっては、その地殻が下にへこんでしまってお終いという、その時は津波が起こらない。これが福岡の地震のケースです。断層がずれたり、前後に動いたりするのだったら、海水はあまり影響がない。ところが、地震によって平板であった地面のある部分だけが、グッと押し上がる。これが津波となるのです。新潟の地震の時には、山が崩れて今まで集落があった所が水没して池に変わった。湖になった。我々が見るところのいろんな風光明媚な観光地の湖なんかは、昔は恐らく集落だった所が、やはり、神様がなさる業によって塞がれて、湖が出来て、今ではそれが観光地に変わっているというだけのことでしょう。
だから、ここにあるように「地は変り、山は海の真中に移る」という、人の想像を超えたことが起こっても、「われらは恐れない」。この恐れない安心は何処から来るか。「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」。神様が、私の味方となって下さっているから、私たちの命も、主が握ってくださっているから、たとえ、山が海の中に落っこちたような大事態が起こっても、或いは、地が変わり、村がなくなり山であったところが平地となっても恐れない。あのスマトラ沖の地震と津波の様子を見たら、津波の起こる前と後では、全く風景が変わっています。これが同じ所かと疑うほどに、地形が何から何まで全部変わっています。これは驚くべきことです。そんな事が私たちの生活の中に起こっても恐れない。
先日も福岡で余震がありました。余震なのか本震なのかこっちは見当が付かないくらいに、昨日の朝、6時11分に揺れました。わが家にある振り子時計が、見事に6時11分でストップしている。夜の集会がありますから、時間を見ようと思ったら、止まっているのです。その時間に大きく揺れたのです。私は眠っていましたが、さすがに目が覚めました。ハッと、そして、ドーンときて、グッグッグッと揺れる。ぎしぎしいい出したから、潰れるかなと思ってたら、ズーッと引いて鎮まりました。その時、一瞬恐れました。そしてこの御言葉を思い出しました。3節に「たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない」と。今朝も家内に話したのですが、何が恐いといって、地震ほど恐いものはない。地震の何が恐いかと考えてみますと、下敷きになるかもしれない、或いは、飲み水や何かが止まってしまって生活に困るかもしれない。或いは、火災が発生してそれで煙に巻かれて死ぬかもしれないと、いろいろ考えますが、本当の恐れはそういうのではない。何を恐れるか。自分が安定して立つ場所が無くなる。地面が揺れると、如何に自分が頼りないものであるかと痛切に感じます。火災だったら逃げりゃいい、足がしっかり地に付いていますから。逃げたりなどの動作をすることが出来るかぎり怖くはない。ところが、地面が動きますと逃げようと思っても、逃げられないのです。逃げるには足が不動のもの、動かないものの上に立っていなければ動けません。だから、逃げられないのです。
阪神大震災の時、震度5、6くらい、そのくらいなら、パーッと逃げればいいと思っていたのです。ところが、さすがに昨日の朝は、私は動けませんでした。逃げようにも逃げられない。ただ、じっとしているだけです。そういう時の恐さは、自分が何にも出来ないという恐さなのです。火事と言うのは、「今、下で火災が起きました」と言ってきたら、大急ぎでサッーと逃げるでしょう。大洪水が起こる場合でも、何処か山で崖崩れが起こり、水が流れ出した。それじゃと言って逃げることが出来ます。台風が来ると言ったら予報が入りますから、いろいろと準備が出来ます。ところが、地震ばかりは予測が出来ない。しかも突然地面が揺れる。普段動かないものの上に生活をしている。それが動き始めた時には、頼るものがないのです。掴もうと思っても、それが動いているわけですから…。地震の怖さというのは、自分の無力さに直面する怖さです。
もう一つ感じたのは、まるで真っ裸にされて人ごみの中に放り出されたような、身の置き所のなさ、覆い被せるものがない、そういう人間の根源的な恐怖がそこにある。普段、洋服を着たり、コンクリートの家の中に住んだり、いろんな事をして十重二十重に自分を囲っている。ところが地震が来たら、全部剥ぎ取られてむき出しになる。自分が普段頼りにしていたものが、全部なくなってしまう恐怖です。その時に、「例えそうであっても、私たちは恐れない、神はわれらの避け所、また力である。悩める時のいと近き助けである。神様!」と、そこで主を呼びました。ダダッと揺られた時に、「イエス様、今地震です」と。そこへ逃げ込む以外にない。他に何にもしようがない。
鎮まったら、偉そうな事が言えます。「ああ、大した事なかったね」と。10秒かそこらですけれど、本当に無能無力、何にも出来ない自分を目の当たりにしている時、「私たちには、避け所とすべき方がいらっしゃる」。祈ります。「主よ、天のお父様」と呼び求めて心をそこに向ける。その時に、心に平安が与えられるのです。これは、本当に大きな私たちの力になります。間髪を入れないで、神様は、私たちを助けてくださいます。「たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない」。何があっても、例え地震が起こっても、私たちを支えてくださる主がいらっしゃる、神様がいらっしゃる。そればかりではなく、私たちの生活の中で、地震のような思いも掛けない出来事に揺さぶられるに違いない。しかし、その時にも、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」と、この方にしっかりとより頼んで、主の救いを味わって生きようではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
1節「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」。
神様の御愛と恵みによって救いにあずかり、日々神様を信頼して生きることができるのは、何と感謝していいか分かりません。しかも、神様がこの1節にあるように、避け所、また力となってくださる。世間でも、“苦しい時の神頼み”と言いまして、悩みがあると神様の所へきて、お祈りをしようか、或いは藁にも縋る思いで、神社仏閣に出かけて祈願祈祷をしてもらう。しかし、私たちは、イエス様の尊い命によって、神様のものとして買い取られ、苦しい時は勿論のこと、苦しみがない時にも、年がら年中、神と共に生きる生活が、最善にして最高の生涯ではないでしょうか。私達がどんなに弱く、小さくて、知恵がなくても、それを補うことの出来る、豊かに満たすことが出来る方がいるのです。大きな力ですね。自分に力があれば安心だと考えます。健康があれば安心、或いは経済的に豊かになって、余裕があれば安心だと考えます。しかし、お金をどんなに積み蓄えても、それで安心になるかと言うと、これはなりません。常に不安が伴います。私たちは、どんなに強くても、どんなに力があるように見えても、やはり弱いのです。何か事があると、ハラハラどきどきしたり、或いは一生懸命にやってみるけれど、3日もすれば、疲れが出てきて、意気消沈し、ため息が出るようになります。
だから、私たちが、どんなに強くても、何十年も変わらず、その力を持ち続けることは不可能です。必ず衰えていき、失われていきます。これは当然です。あれもこれも備えていたら、決して動揺しない者となるかと言うと、そうはならない。どこかに不足が出てくる。肉体をもってこの世にある限り、どうしても避けがたいことであり、必然的な事柄です。だからといって諦めるわけにもいかない。何とかしたいけれど力がない、知恵がない。いつもジレンマの中に置かれています。今日は一日元気で、事もなくとりあえず過ごすことが出来た。でも次の日何があるか分からない。手にあまるような事柄が起こったら、どうしたらいいだろうか。そんなとき、神様が避け所となってくださるのですから、これはどんなに感謝しても感謝しきれない、大きな恵みではないかと思います。
世の中には沢山の人がいますが、「神様を知らないで、日々生きておれるなぁ」と思います。「神様に頼らないで、神様のことを抜きにして、この地上の生涯を歩むのはどんなにか心細かろう」と思います。でも案外とけろっとしているのを見ると、不思議な感じがします。苦しい時、悲しい時、辛い時は、どうやって慰めを見出し、力を得ているのだろうかと不思議に思います。幸いなことに、私は、どんな時にでも逃げ込んでいく場所がある。呼び求めることが出来る。これは大きな恵みです。ただ、その事が日常茶飯のように、当たり前のように思いますから、あまり感謝がない、喜びがありません。
1節に、「神はわれらの避け所」とあります。「避け所」とは、守られている場所、保護されている場所です。避難所であります。そこに逃げ込んでおれば守られる場所です。阿蘇山へ行きますと、火口の近くに大きなコンクリート作りのドームのようなものがあります。扉もありません。入り口が4箇所くらいあって、中はがらんどうです、シェルターと書いてあります。シェルターは、避難所と言います。噴火口を眺めていて、突然目の前で噴火でもしたら、緊急に避難する場所です。山頂から逃げると言ったって、麓まで随分時間が掛かります。その間に火山の噴火物で押し潰されるかも知れない。急いでとりあえずそこへ逃げ込むのです。これが避け所、シェルターです。
神様が「避け所」となってくださるから、悩みに会うとき、問題が起こった時、そこへ逃げ込む。そうすると、安心が得られます。そればかりか、力となって下さる。「悩める時のいと近き助けである」。この世に生活していると、いろいろな悩みがあります。次から次へと思い煩うこと、心配なこと、不安なことが湧いてきます。そういう時に助けてくれるもの、慰めてくれるものは何処にあるだろうか。神様こそが「悩める時のいと近き助けである」、一番身近にいらっしゃる助けなのです。私たちは、神様よりも目に見えるものを頼りたい、助けを得たいと思います。あの人に相談してみようか、この人に頼んでみようか、この事はこうしたらどうだろか、ああしたらどうだろうかと、知恵や助言を人に求めようとします。ところが、一番身近な助けというのは、神様なのです。神様はどんな時にでも助けることのできる方です。
神様を私の避け所として、そこに逃げ込み、私の力として信じていく。そうしますならば、自分は何も持たなくても、避け所となってくださる方、力となってくださる方、命を与えてくださる、全てのものに満ち満ちている方がいるのですから、どんな事でも出来るのです。悩みの時、苦しい時、主を求める、神様を求めていく。私たちは足らなくても、神様はどんなことでもしてくださる。一番幸いな身近な方なのです。
ピリピ人への手紙4章11節から13節までを朗読。
13節に「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」とあります。これは神様に信頼する姿です。神様に信頼する時、どんな事でも出来る。ここにありますように、「わたしを強くして下さるかた」、私が強いのではない。力、知恵、健康があるのでもない。財産が、名誉が、地位、学歴があるのでもない。しかし、何になくゼロであっても、私を強くしてくださる神様が共にいてくださる。この方が私どもの避け所となり、力となってくださる。だったら今、何にも無くても、何が足らなくても嘆くことはいらない。悲しむことはいらない。何故ならば、強くして下さる方によって、どんなことでも出来るのですから。ところが、聞いた時は、「うん、そうだ。良かった、いい話しを聞いた」と思いますが、直ぐその後に、「だって、幾ら言っても神様は、聞いてもくれないし、私はあれもしたい、これもしたいと思っているのに、ちっとも知恵も力も与えてくれない。ましてや、お金は湧いてくるわけでなし、私が節約して、爪に火を灯すように節約したから、ここまでやってこれた。何処に神様のお世話になっているかしら」と思います。そこが実は間違いなのです。
今、私たちは、神様の力によって、知恵によって、生かされて、健康を与えられている者です。だから感謝したらいい。ところが、それは当然のことと思って、更にもっと健康でありたい。もっと自分の願いが実現して欲しい、思う通りになって欲しい。何事でも出来るのだから、神様はさせてくれたら良さそうなものだと思います。ところが、神様はそれをしなくてよろしいと、止めているのです。ここが大切です。どんなことでも私たちにさせることが出来る、知恵も力も持っている、天と地に満ちるものは、全て私のものだと言われる神様が、それは必要がないからと止めているのです。もし、神様が限りのある方だったら、「やっぱりこれはお祈りしても、難しかったに違いない。これは、過分な要求をしてしまったから、神様は応えきれないに違いない」と考えます。しかし、どんなことでも出来る方、力を与えることの出来る方に祈っても許されないのは、「この事はお前に必要がない、これだけでよろしい」と言うことです。そこに神様の意志がはっきりと現れています。
コリント人への手紙にありますように、パウロは自分の肉体に一つの棘が与えられ、それを何とか取り除いてくださいと祈りました。その時、神様は「わが恩恵(めぐみ)汝に足れり」、「私の恵みは、あなたに対して十分だ」。もう、それでいいのだから、それ以上のことは必要がないと神様は言われました。もっと力があったら、徹夜でもしてやり遂げるのだが、力がないから、弱いから、お祈りして「神様、力を与えてください」と求めます。けれども神様は、一向に力を与えなさらない。「仕方がない。もう、今日は寝るわ」と、神様に不満を持ちますが、それは間違いです。今、お話したように、私たちに必要な力を与えてくださっている。必要でない、要らないものまでは神様は与えてくださらない。私が必要であっても、神様がそれは必要が無いと言われるなら、神様の方が正しいのです。私どもは、「私が必要なのに、神様、あなたはそれに反対するのですか、あなたは間違っていますよ」と言う。これは大きな間違いです。だから、神様が、お前はそれでよろしい、お前にはこれが必要だからこれを与える。お前にはこれをさせたいと思うから、これだけの力を与えよう。ことごとく一つ一つに、一人一人に必要なことをちゃんとご存知で、全ての必要を満たして下さっている。避け所であり、力であり、助けになる方です。その方は私たちの全ての必要をご存知で、日々に、知恵を与え、力を与え、健康を与えてくださる。この事を確信して、感謝して生きたい。
一日の終る時に、「今日も主が全ての力を与えてここまで導いてくださいました」と、主に心から感謝して、一日を終りたいと思うのです。自分の思い通りに行かない、願い通りでなかった、或いは祈ったけれどもこれが足らなかった、あれが足らなかったという事があると、一日が終ってもまだ呟いているのです。「神様、どうして私を顧みてくださらないんですか。聖書には『主はあなたがたを顧みてくださる』、『思い煩いをいっさい神に委ねよ』とありますから、私はあなたに委ねたのだけれど、神様はちっとも私に応えてくださらない」と、夜寝る時のお祈りは、呟きと恨み節みたいに、ブツブツ、そのうちに眠くなって寝ちゃったりして…。
そうではなく、与えられた一日は私にとって最高にして十分な有り余るほどの一日であったと認めるのです。これが神様の前に謙遜になる、或いは、神様を認めることです。これが出来なければ、神様を避け所、拠り所とすることは出来ません。「私のこんな情けない、弱い状態でもいいのでしょうか」と思いますが、人が良い悪いは言わない、神様がそれでよろしいと言われるなら、「はい」と感謝していると、神様は、また、私たちに何か新しい使命を与えたら、それに必要な知恵も力も与えてくださいます。だから、神様を避け所として、拠り所として、そこに絶えず自分を置いていく、これが私たちの為すべき全てです。神様の所に自分をおくというのが、今申し上げたようにこの地上での日々の生活の全てが、神様の手に握られていると信じることです。そして私の必要を全部ご存知の神様が、このように力を与え、健康を与えておられると感謝することです。そこで初めて主の中に留まっていると言えます。
今日から、心新しくして、「そうだ、今日も一日、主よ、あなたが私を生かしてくださったお陰です」と感謝して、「あれが足りない、これが足りないとか、これがこうあったら良かった、あああったら良かった。もうちょっと私が頑張れれば良かった、私がもうちょっとあの時に努力しとけば良かった」と悔やむと、神様から心が離れてしまいます。私が努力して出来る筈がないのですから、出来たこと全てが神様の恵みであって、一日の生活が終わった時、これが全てなのです。「何だ、神様はしょぼくれた方だ、私はもっと格好よい派手な華々しい人生を送りたいと思うのに、こんなしょぼくれた、名もない一生で終るのかしら、これでもう花は咲かないのかしら」と嘆く。それは自分で思い描いているだけの事で、神様は私たち一人一人を素晴しい作品として置いてくださっています。
どうぞ、先ず第一に、その事を覚えておいていただきたい。パウロは、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得て、13節に「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」と告白しました。今は出来ないことがある、或いは今は分からないことがある、今はこういう状態である。しかし、これで死ぬまで変わらないというのではありません。明日はどうなるか、神様が何をさせてくださるか、どういう人生に導かれるか分からない。年々歳を重ねるごとに、老年になり、枯れて行くばかりと思う。ところが明日から、突然若返って、花が咲くかもしれない。神様が必要ならば、どんな事でもさせてくださる。だから失望しないのです。どんな時にでも今日はここまで、今日はここまで、神様が豊かに恵んでくださった。次はどのように導いてくださるか、持ち運んでくださるか、神様に期待する。だから決して失望しない。
父の信仰を通して教えられている事の一つは、いつも決して失望しないことです。母はどちらかと言うと現実派ですから、あれを見、これを見て、「これはもう駄目だ」とか、「これはこうだから、もうお終いだ。諦めよう」とか、そういう風になり易い。願うように思うようにいかないために、失望します。或いは、もう望みが持てなくなる。私も大学に行こうと思って勉強しましたが、失敗して不合格になりました。そして次の年、頑張ろうと思うのですが、どうなるか分からない。「これは難しそうだ」と思われる現実が沢山あります。希望が持てない現実が目の前にあります。私が「お父さん、これは駄目だと思うから諦めようか」と言うと、「駄目か駄目でないか、それは神様が知っているのだから、お前が決めることではない」と言う。お前が決めることはないと言っても、こっちは自分が良く分かっていますから、これは難しい。試験の結果が悪くて不合格になってしょげていると、「お前は、そんなにしょげるほど勉強したのか」といわれる。来年はどうなるかと心配していると、「大丈夫!」と言われる。親父があんなに大丈夫と言うから大丈夫なのだと思った。でも考えたら何の根拠もない。ところが、父は、神様が必要なら道を備えられる、だから大丈夫。もしその道が駄目だったら、別の道を備えられるに違いない。神様には、何千何百という選択肢が幾らでもある。だから希望があるじゃないかと。でも私たちは、自分の頭で考えられる幾つかの、ほんの僅か、三つか四つくらいの選択肢しかないと思う。これが神様の力を限ってしまうことですね。13節に「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」。どんな事でもさせることの出来る神様がいる。
避け所となってくださる方、助けとなる方、力となってくださる神様は、天地万物の創造者です。「わたしは主である」と宣言している神様が、ひとり子を賜うほどに大きな愛を、私たち一人一人に注いで、顧みてくださっている。だから、どんな時にでも、その方の中に逃げ込み、助けをいただくのです。その神様が何事でもする力を与えてくださる、力の源となってくださる。
2節に「このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない」。神様が避け所となり、力となり、また助けてくださるのですから、恐れない!私たちは恐れる必要がない。どんなことがあっても、2節に「たとい地は変り、山は海の真中に移るとも」、山が海の中に移るとはどんなことかなぁと思いますけれども…。近頃の地震や大津波などの、ああいう現象を見ていると、確かにあると思います。海底の地殻が隆起して、それが山になってしまうこともあり得るでしょう。津波は、地震で地殻のプレートがポーンと跳ね上がって、上へ押し上げられた時に、その上にある海水が押し上げられて、一気に周囲へ押し寄せるのが津波です。ところが、事によっては、その地殻が下にへこんでしまってお終いという、その時は津波が起こらない。これが福岡の地震のケースです。断層がずれたり、前後に動いたりするのだったら、海水はあまり影響がない。ところが、地震によって平板であった地面のある部分だけが、グッと押し上がる。これが津波となるのです。新潟の地震の時には、山が崩れて今まで集落があった所が水没して池に変わった。湖になった。我々が見るところのいろんな風光明媚な観光地の湖なんかは、昔は恐らく集落だった所が、やはり、神様がなさる業によって塞がれて、湖が出来て、今ではそれが観光地に変わっているというだけのことでしょう。
だから、ここにあるように「地は変り、山は海の真中に移る」という、人の想像を超えたことが起こっても、「われらは恐れない」。この恐れない安心は何処から来るか。「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」。神様が、私の味方となって下さっているから、私たちの命も、主が握ってくださっているから、たとえ、山が海の中に落っこちたような大事態が起こっても、或いは、地が変わり、村がなくなり山であったところが平地となっても恐れない。あのスマトラ沖の地震と津波の様子を見たら、津波の起こる前と後では、全く風景が変わっています。これが同じ所かと疑うほどに、地形が何から何まで全部変わっています。これは驚くべきことです。そんな事が私たちの生活の中に起こっても恐れない。
先日も福岡で余震がありました。余震なのか本震なのかこっちは見当が付かないくらいに、昨日の朝、6時11分に揺れました。わが家にある振り子時計が、見事に6時11分でストップしている。夜の集会がありますから、時間を見ようと思ったら、止まっているのです。その時間に大きく揺れたのです。私は眠っていましたが、さすがに目が覚めました。ハッと、そして、ドーンときて、グッグッグッと揺れる。ぎしぎしいい出したから、潰れるかなと思ってたら、ズーッと引いて鎮まりました。その時、一瞬恐れました。そしてこの御言葉を思い出しました。3節に「たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない」と。今朝も家内に話したのですが、何が恐いといって、地震ほど恐いものはない。地震の何が恐いかと考えてみますと、下敷きになるかもしれない、或いは、飲み水や何かが止まってしまって生活に困るかもしれない。或いは、火災が発生してそれで煙に巻かれて死ぬかもしれないと、いろいろ考えますが、本当の恐れはそういうのではない。何を恐れるか。自分が安定して立つ場所が無くなる。地面が揺れると、如何に自分が頼りないものであるかと痛切に感じます。火災だったら逃げりゃいい、足がしっかり地に付いていますから。逃げたりなどの動作をすることが出来るかぎり怖くはない。ところが、地面が動きますと逃げようと思っても、逃げられないのです。逃げるには足が不動のもの、動かないものの上に立っていなければ動けません。だから、逃げられないのです。
阪神大震災の時、震度5、6くらい、そのくらいなら、パーッと逃げればいいと思っていたのです。ところが、さすがに昨日の朝は、私は動けませんでした。逃げようにも逃げられない。ただ、じっとしているだけです。そういう時の恐さは、自分が何にも出来ないという恐さなのです。火事と言うのは、「今、下で火災が起きました」と言ってきたら、大急ぎでサッーと逃げるでしょう。大洪水が起こる場合でも、何処か山で崖崩れが起こり、水が流れ出した。それじゃと言って逃げることが出来ます。台風が来ると言ったら予報が入りますから、いろいろと準備が出来ます。ところが、地震ばかりは予測が出来ない。しかも突然地面が揺れる。普段動かないものの上に生活をしている。それが動き始めた時には、頼るものがないのです。掴もうと思っても、それが動いているわけですから…。地震の怖さというのは、自分の無力さに直面する怖さです。
もう一つ感じたのは、まるで真っ裸にされて人ごみの中に放り出されたような、身の置き所のなさ、覆い被せるものがない、そういう人間の根源的な恐怖がそこにある。普段、洋服を着たり、コンクリートの家の中に住んだり、いろんな事をして十重二十重に自分を囲っている。ところが地震が来たら、全部剥ぎ取られてむき出しになる。自分が普段頼りにしていたものが、全部なくなってしまう恐怖です。その時に、「例えそうであっても、私たちは恐れない、神はわれらの避け所、また力である。悩める時のいと近き助けである。神様!」と、そこで主を呼びました。ダダッと揺られた時に、「イエス様、今地震です」と。そこへ逃げ込む以外にない。他に何にもしようがない。
鎮まったら、偉そうな事が言えます。「ああ、大した事なかったね」と。10秒かそこらですけれど、本当に無能無力、何にも出来ない自分を目の当たりにしている時、「私たちには、避け所とすべき方がいらっしゃる」。祈ります。「主よ、天のお父様」と呼び求めて心をそこに向ける。その時に、心に平安が与えられるのです。これは、本当に大きな私たちの力になります。間髪を入れないで、神様は、私たちを助けてくださいます。「たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない」。何があっても、例え地震が起こっても、私たちを支えてくださる主がいらっしゃる、神様がいらっしゃる。そればかりではなく、私たちの生活の中で、地震のような思いも掛けない出来事に揺さぶられるに違いない。しかし、その時にも、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」と、この方にしっかりとより頼んで、主の救いを味わって生きようではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。