いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(460)「愛による信仰」

2015年02月04日 | 聖書からのメッセージ
 「ガラテヤ人への手紙」5章1節から6節までを朗読。

 6節「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」。

 ガラテヤの教会にパウロが書き送った書簡の1節であります。ガラテヤの教会はイエス様の十字架のあがないにあずかって、喜び感謝してキリストに連なる新しい生活が始まったのであります。しかし、それはつかの間で、それまでなじんで生きてきたユダヤ人として、ユダヤ教徒として、戒律・律法の中で生きる生き方に戻って行こうとしたのです。
4節に「律法によって義とされようとするあなたがた」とあります。言い換えるとユダヤ教の戒め、戒律、習慣、そういうものをきちんと守り行うことによって、自分が神様の前に正しい者となる、義なる者となろうとすることです。それまで長い年月、一生懸命にそれを務めて来たのです。しかし、私たちにそんなことはできようがありません。中途半端どころか、むしろ正反対なことしかできない私たちであります。それゆえに、イエス・キリストが律法の完成者、終りとなってくださるため、この世に遣わされたのです。そして、私たちの罪もとがもことごとく一切を清めて、イエス・キリストを信じる、キリストによる神の義を頂くことができる。否、くださったのだと。神様はイエス様を遣わすことによってそのことを完成してくださった。もうこれ以上何もする必要がない。ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とせられるという、この素晴らしい福音の中に私たちは入れられているのです。
このときのガラテヤの人々もそれを信じたはずでありました。ところが、いま申し上げたように自分の古巣へ戻るといいますか、もとへ戻ってしまう事態になりました。そのためにパウロは「あなたがたはどこから救われたのか。何によって救われたのか」と、もう一度問いただしているわけであります。「もう一度原点に立ち返りなさい」ということの他なりません。「あなた方が救いにあずかった、あの十字架が描き出されて喜び感謝した喜びはいったいどこから来たのか」と。「それはイエス・キリストを信じたからか、それとも律法を行ったからなのか? 律法じゃなくて、ただイエス・キリストを信じたからではなかったか」と、「ガラテヤの手紙」に語っています。

 いま読みました記事にもそのことが指摘されています。3節に「割礼を受けようとする人々」とありますが、律法の一つの象徴として律法に規定された守るべきこと、神様の前に義とされる道筋として割礼を受けるという習慣といいますか、そういうものがユダヤ教の中にあったのです。これは「生まれて八日目に割礼を受けなければならない」(創世 17:12)と定められ、幼い時にそういう儀式を受けて、体に傷をつけることによって、義なる者、神の民としての印(しるし)だと信じたわけであります。イエス様の救いにあずかったら、もはやその必要はありません。イエス様はご自分の肉体を十字架に裂いて、胸をやりで突かれ、両手両足を釘づけられて、私たちの受けるべき割礼をご自分の体を通して完成してくださった。割礼によって人が義とされる以上にイエス・キリストの十字架によって義とされる。これが私たちの福音であります。

だから、4節に「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている」と。そういう生き方はイエス・キリストから離れてしまったのだ。律法によるのか、イエス・キリストによるのか、どちらを取るのだと、パウロは厳しく語ったのです。しかもその後に「恵みから落ちている」と。5節に「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている」。ここで「信仰による義」と「律法による義」というのがあります。大きく違うのはこの「信仰」という点です。「律法によって義とされる」、言い換えますと、そういう儀式的な、儀礼を守る、あるいは仕来たりや実際の行動でそれを実行する。これが律法であります。「行う」ことが律法であります。それに対して「イエス・キリストによって義とされる」とは、具体的な生活で何かをすることはありません。イエス・キリストの救いにあずかった以上これとこれは守るべきで、これとこれはすべきである、というものは一切ありません。
よく言われますが、「実は洗礼を受けたい。ところが、その後どういう生活が待ち受けているのか」と。「洗礼を受けたら何をしなければいけないのでしょうか? 」と尋ねられるのです。「教会員になった以上、何か義務があるに違いない」と。それで「いや、特別なことはありません。聖書を読み、祈り、そして各集会に励んで神様の臨在に近づき、内に宿ってくださるキリストと共に歩むことが全てです」「いや、そうするには何か毎日しなければいけないことが……」と。つい私どもは仏壇の前で朝ごとに何かをするとか、神棚に水を上げるとか、かしわ手を打つとか、そういう具体的に自分の体をもって行動することが安心につながる。ところが、イエス様の救いにあずかる、イエス・キリストを信じて生きる生活は、何かをしなければならないという義務、これを欠いたら資格がなくなるというものはありません。ただ単に信仰でありますから信じることだけです。5節に「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている」と、ここに「信仰によって義とされる望み」ですから、何かお印を頂いて、ヒンズー教のように額に赤い印でも付けてもらうとか、ライトを照らしたら額に十字架が浮かんでくるとか、そういう具体的な印があったらすごく分かりやすい。ところが、「御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている」だけです。「望みを強くいだいている」って、これ程心もとないというか、頼りない話はない。ところが、これが全てなのです。「たったこれだけ? 」という感じです。恐らくユダヤ教で長年生きてきた人たちにとって、イエス様の救いにあずかってみたら、空っぽというか、蓋(ふた)を開けてみたら「え!何も入っていない」というような感じになってしまったのです。だから「何もせんわけにもいかんだろうから、あれをしたらどうだろうか、これもすべきじゃないだろうか」。日本人にもやはりそういう所があります。何か願を掛けてお百度を踏むとか、あるいは物断ち忌み断ちをして自分で決めたことを守ることで「よしよし、これできっと神様はこの願いを聞き届けてくれるに違いない」と、そういう安心感を得たいと思う。そのためには何か具体的にすること、なすことを決めてくれたら安心という。これはある意味で分かりやすい。だから、キリスト教でも何か守るべき日課のようなものを作っています。「これを守らなかったら、あなたは地獄に行きますよ」なんて言われたら、怖くてそれを守るかもしれないけれども、それは信仰ではありません。ここが私たちにいちばん大切なことなのです。5節に「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている」とあるように、「信仰による義」なのです。

信仰は、外側から客観的に測るわけにはいきません。たとえば、私たちの健康は客観的に分かります。血液検査をしてもらい、結果が出てきます。それを見ると肝臓の数値だとか腎臓など体の器官の状況が数値で表されてきます。矢印が上がったり下がったりしています。ある方は必ず私に見せてくださるのです。「先生、見てください。こんなに立派ですよ」と。その数値を見ることで分かります。
教会の玄関にゲートがあって、その中を通ると、「あなたの信仰は70%」とか「今日は50%」と、見えるようになっていたら、皆さん励みますよ、恐らく。ところが残念ながら見えないのです。分かりません。では誰が分かる?神様がご存じです。神様と私しか分からないのです。ご本人だけです。信仰は他人様が見ても分からないのです。だからよく言われます。「あの方は信仰熱心で、信仰の篤(あつ)い方ですね」「どうしてですか」「いや、お祈りを聞いているとそう思います」「お祈りはどんなにでもできますよ。作文でもできますよ」、「え!そうですか。あの方は作文を読んでいるのですか」と、「いや、それは知りませんが、お祈りがどうのこうのでその人の信仰を測るわけにはいかないですよ」と。だから、問題はあなたが信じるかどうか。「あなたはどうなんですか」「いや、それが私にも分からない。私は信仰があるでしょうか、先生」と。「いや、あるかないかあなたは分かるはずです」。尋ねられても困ります。信仰が有ると言えば有るし、無いと言えば無いし、これはまたあやふやになって来ますが、実はその信仰が大切なのです。「私は信じています」と、自分が信じること、これが全てです。人に尋ねても駄目です。「自分勝手に信じて」と思われますが、これは仕方がないといいますか、信仰は自分勝手なのです。私が、あなたが信じなければ、誰が信じますか。他の人が「代わりに信じてあげる」と言っても、信じた人は天国に行けるし、代わってもらった人は救われません。
聖書の世界といいますか、キリスト教のいちばんの根本は、一人一人が神様に造られたもので、その人だけの値打を徹底して大切にしているのです。だから、一人一人が本当に御言葉を通して自分に与えられた神様のご愛と恵みと賜物を感謝して、「私はこんなみじめな者ですが、主イエス・キリストが私のために命を捨ててくださったことを信じます」と、信じることが大切です。信じた人が救われるのです。信じない人はもちろん救われません。信じるならばそのとおりに神様の具体的な応答、答えを体験します。いくら親しい人、同じ屋根の下、同じ生活をし、同じ釜(かま)の飯を食った仲間であっても、信仰は一人一人です。しかもその人が信じる以外にないのです。だから、イエス様は「ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう」と語っていらっしゃいます(マタイ 24:41)。非常にシビアといいますか厳しいのです。家族がどうとか、誰がどうとか、そんなことを言っている暇はない。「自分の信仰は本当にこれで良かったのだろうか」「私は本当にイエス様を信じて喜んでいるだろうか」、自分の信仰をしっかりと握って立つ。そのためには信じて歩んでみる。イエス様はよみがえって「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」とおっしゃる(マタイ 28:20)。イエス様を身近にいらっしゃると信じて、そのイエス様に信頼し祈って御言葉を握って、いろいろな問題、具体的な生活の問題や事柄、悩みの中でしっかりと歩んで行く。その信仰に立って「イエス様がこうおっしゃるから、これはわたしがこのことをさせていただきましょう」と信仰に立って歩んでみると、私たちの心に具体的に神様が喜びを与え、平安を与え、望みを与え、「なるほど、主がここにおられます」と、直接応えてくださるのです。それを体験するのが私たちの信仰の土台です。またそれが私たちの次なる信仰の歩みへ導いて行く力でもあります。そうなりますと、私たちに確信が湧(わ)いてきます。5節にありますように「望みを強くいだいている」となります。あるかないか分からないような望みではなく、はっきりと「私は知りかつ信ず。神は愛なり」と「私は手触るように体験してイエス様のことを知っています。イエス様と私は一つです」と、言い得る確信を神様のほうが与えてくださる。これを是非いよいよ深めて行きたいと思います。これまでもそうであったと思いますが、もっともっと深くしっかりとイエス様に根差すものとなる。その手応えを絶えず感じる生き方をして行きたい。このときのガラテヤの人たちはそれがなかったのです。まだ頭で知っている段階だったと思います。ですから、手応えのあるもの、もっと手っ取り早くよく分かる昔なじみのやり方に流されて行ったのです。私たちも気が付かないうちに、信仰があやふやだと世間の仕来たりや習慣や、自分の生まれ育って来たいろいろな宗教的な行事や事柄に引っ張られてしまうのです。そして「これを守ったほうがいい」「こうしておいた方がいい」、そんなことでイエス様を信じる信仰がめちゃくちゃになって、自分の信仰の形がなくなってしまいます。いつも「私の信仰……」「私は何を信じているのか」、このことをしっかりとしておきましょう。

 それに続いて6節に「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」と。ここで「キリスト・イエスにあっては」とありますが、イエス・キリストを救い主と信じて生きる私たちにとっては、割礼があるとかないとか、そんなことは問題じゃない。じゃ大切なのは何か? 「尊いのは、愛によって働く信仰だけである」。「信仰が愛によって働くのは、当り前じゃないか」と思われますが、信仰という言葉自体はもっと広い意味合いを持っています。世間一般でも信仰といいます。その動機が時にはお金もうけです。大体1月10日前後は『十日戎』という『えべっさん』という神社があります。私が学生時代におりました西宮には『西宮戎神社』という有名な神社がありました。大阪では『今宮戎』というのがあります。“えびすさん“というのは商売繁盛の神様でしょう。だから、そこへお参りに行く人は大抵竹で出来た熊手を買って帰ります。なぜかというと「お金をかき集める」という因縁です。えびすさんを信じる動機は何かと? 愛ではありません。えびすさんが何か、私もよくは知りませんが、その人を愛したゆえにお参りするのではない。それだったら、おもちゃの小判が付いた笹を買わなくてもいいわけです。その信仰は欲によって働くといいますか、金もうけで働く信仰です。信仰にもいろんな動機がある。ある人は「病気治癒」という信仰に励む人もおるでしょうし、「家内安全」「無病息災」いわゆる御利益を求める。これをも信仰という言葉で言い表しますから、一概に信仰が全て愛によって働くとは限らない。

「ヨハネの第一の手紙」3章16節を朗読。

ここに「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」とあります。こうやって生きている私たちは目には見えないけれども大きな力を持った神様がおられて、神様によって造られたのだから、その神様を信じる。そういう広い意味での神を信じる信仰が、まず私たちの心に芽生えてきます。しかし、それだけでは私たちの信仰が本物の信仰になり得ない。神様がいますことを信じて、その神様と私とがどういう結びつきであるか? 天地万物の創造の神を信じるだけだったら、これは先ほど申し上げましたように、えびすさんを信じる信仰、あるいは家内安全、無病息災、御利益を信じる信仰とあまり違いがないのです。広い意味で神様を信じるというのは、汎神(はんしん)論的といいますか、いろいろな神々を信じる信仰と同じであります。「聖書にいわれている万物の創造者、唯一の神様を信じる」と言えますが、「では、その神様とあなたとはどういう関係ですか? 」と。「いや、私は知らんけれども、何か聖書にそう書いてあるから、私を造ったのは神様らしいから信じておこうか」と、それでは本当に神様との信頼といいますか、神様を信じる信仰にならないのです。神様と私たちがどういう形で結び付くのか。ここにイエス様の存在があるのです。イエス・キリストを信じることによって私たちは神様と愛にあって生きる関係。もしイエス様がいらっしゃらなければ、私たちは神様の前に立てないし、神様に近づくこともできません。被造物、造られたものでありますから、神様の怒りや裁きに遭うに違いない。そういうことを恐れざるを得ない。私たちが神様を心から信頼し、神様の前にくつろいでおられる、安心して信頼できる関係は、造り主であるというだけでは不十分です。不十分どころか、神様とのかかわりは生まれてきません。なぜならば、造り主であるから神様を信じる。これは当然でありますが、創造者なる御方は全能の力をもってご自分の御心のままにどんなものでも振り回される。私たちはいつどんな風に蹴飛ばされるか、滅ぼされるか、消されてしまうか分からない。だからエレミヤに神様が語ったように「陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある」と(エレミヤ 18:6)。これは怖いですよ。神様の手にしっかり握られ、ちょっとでも気に食わなかったら「ピシャ」と打ちたたかれるのですから、気が気ではない。だから、ただ単に神様を信じるだけでは、私たちにとって何の力も喜びも湧いてきません。神様がもう一つ私たちに近づいてくださる。それは何か? 私たちを愛してくださったことです。

 ここに「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」とあります。しかも神様があえて人となってこの世に下ってくださって、造られた者に成り代わって、私たち全ての罪を、滅ぼされて当然、神様の怒りを受けるべき者の罰を全部一身に受けてくださった。神様から断罪されて命を絶たれたのです。それは何のためか? 神様が私たち一人一人を大切にしてくだるゆえです。掛け替えのない者として愛してくださった、このひと言です。ですから「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」と言われます。神様は私たちを愛してやまない御方。愛を私たちにあらわしてくださった。これが私たちの喜びであります。だから、私たちははばかることなく神様に近づいて、アバ父よ、天のお父様と祈ることができるのは、神様が「わたしはお前を愛しているよ」と、愛を明らかにしてくださったからに他ならない。私たちを愛してくださったゆえに、私たちは神様の前に遠慮なくくつろいでおることができる。だから、イエス様が「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」というのは、ここです(ヨハネ15:9)。主のご愛のうちにとどまっていること。言い換えると、絶えず神様のご愛、イエス様を通して、十字架を通して証詞された神様のご愛を絶えず感謝し、喜び、そのご愛にあふれるといいますか、私たちが感じる心を持ち続けて行くこと。これが愛のうちにとどまることです。

 「エペソ人への手紙」5章1,2節を朗読。

 2節に「愛のうちを歩きなさい」と言われますが、これはどうすることか? それはキリストの愛を絶えず感謝し、そのご愛に応えて行く、応答することです。ただに、愛のうちを歩くと「神様は私を愛してくださった」、それを黙想して行くと、いつも心にそのことを思い浮かべて、思いめぐらして日々を過ごすということを……、そのような頭で考えるではなくて、私たちの生活の全てをご愛に応えて行く生活に変えて行く。私たちが生きることも、この地上に生かされていることも仕方なしに生きるのではなくて、あるいは自分の欲得のために生きるのではなくて、キリストのご愛に生かされて行く。「イエス様はこんな者を愛して、命まで捨ててくださった」と、主のご愛に応えて「こういう者に命を与えられて、今日も、あなたのご愛に応えて歩ませてください」。主のご愛に促(うなが)され、励まされ、力づけられ、望みを与えられて生きる。これが「愛のうちを歩く」。2節の後半に「キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである」。イエス様も神の位に居給う御方があえて人となり、ご自分を罪のあがないの供え物として、神へのかんばしいいけにえとしてご自分をささげてくださった。その主の憐れみ、そのご愛のゆえに今日も許され生きる者とされている。その主のご愛に応える。これが私たちのいまを生きる力です。朝、目が覚めると「今日も主が愛してくださったその愛に励まされて行こう。力づけられて、そこに望みを置いて生きよう」と、これが愛のうちを歩くことです。

 「ガラテヤ人への手紙」5章6節に「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」。私たちの信仰、神様を信じ、神様を信頼し、神様に一切をささげて従う生涯、その動機は常に私たちがキリストのご愛が生き生きとあふれていること。これが条件です。キリストのご愛に応えて信仰に立っていく。私たちは創造者であられる神様を信じていきます。一方、愛のゆえに神様は私を握ってくださっておられる。私たちを呼び求めてくださる。いま私たちを神のものとしてくださっている。アバ父よ、天のお父様と呼ぶ、父と子の関係に私たちを入れてくださっている。これはただ一重に愛ゆえにです。しかもイエス様が命を懸けて、命を捨てて愛してくださったそのご愛のゆえであることを感謝して、それに応答して私たちもまた主を愛する、神様を愛する者となる。これが私たちの生きる力であり、動機であり、原動力です。だから、私たちは欲得や損得や誰彼の人のため、世のためでもない。キリストのご愛に応答していく。だから「いま私はイエス様のご愛に感謝してこのことをしているだろうか」「私はいまイエス様のご愛に感謝して生きているだろうか」、このことを絶えず問うていかなければならない。

 「コリント人への第一の手紙」13章1節から3節までを朗読。

 ここに繰り返して「愛がなければ」といわれています。この「愛」とは何のことを言っているのか? 私たちのうちにはそもそも愛がありません。じゃ、この「愛」ってなんだ? これは主イエス・キリストご自身であります。またイエス様の十字架を通して証詞された神様のご愛が私たちのうちに注がれていることであります。聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれてきますと、私たちは愛を知ることができるのです。私たち罪人のために罪無き御方、イエス・キリストが十字架によって父なる神様から滅ぼされ、その証詞をもって「あなたがたをこんなに愛しているではないか」と、神様は語っていてくださる。その神様のご愛を感じる心、その愛がなければ私たちは何をしてもむなしい。2節に「預言をする」、あるいは「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても」と、それが愛によって働く信仰でなければこれはむなしい。そこにありますように「無に等しい」。無いのと同じであると。また3節に「わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても」と、そのような行為が愛に裏付けられた、キリストのご愛に促されたものでないのだったら、これは何の役にも立たない。無益である。そのとおりであります。私たちが信仰に立って生きるのは、キリストのご愛を信じて、ご愛に応答して、感謝し喜び、主のご愛に促されて、励まされて生きる日々であります。

 どうぞ、この愛によって働く信仰に絶えず立つ者となりたいと思います。ともするとそこからずれて、義務であったり、あるいは欲得であったり、人の目を気にしたり、自分の名誉や自分の都合であったり、そういう勝手な信仰にずれてしまいやすいのです。絶えず「愛によって働く信仰」「私のうちに愛があるだろうか」、愛があるというのは、そもそも自分の愛ではないのです。私たちのうちには自己愛しかありませんから「神様のご愛が私のうちに今あるだろうか」。絶えずこのことを振り返って、主のご愛に満たされること、これがなによりも大切な私たちの力です。

 「ガラテヤ人への手紙」5章6節に「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」。「愛によって働く信仰」、キリストのご愛、神様のご愛に常に心穏やかに安らぎ本当に主のご愛の中にくつろいで、主を信じる。そのご愛のゆえに神様を信頼する信仰に立って歩みたいと思います。



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