いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(225)「神を信ぜよ」

2014年06月10日 | 聖書からのメッセージ

マルコによる福音書11章20節から26節までを朗読。

 

 22節「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」。

 この記事は、イエス様が弟子たちとベタニヤからエルサレムの町へ出かけていたときのことです。20節に「先のいちじく」とありますから、その前日に同じ場所を通ったのです。しかし、そのときはいちじくの木は茂っていました。イエス様はたまたま空腹をおぼえて何か実はないかと近寄ったところが、葉ばかりで何もなかった。イエス様は「呪われよ」と、「お前の実を食べる者がないように」とおっしゃった。弟子たちはイエス様のその言葉を聞いてはいたのですが、そんな馬鹿な、イエス様も子供染みたことを言うものだ、ただ自分が食べたいと思ったときに実がなかったからって、かんしゃくを起こして「枯れてしまえ」と言うなんてと思った。恐らく、みんな信じてなかったのだと思います。ところが、翌日、20節に「朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た」と。木が枯れるとき、根元からは枯れません。葉からだんだんと枯れていきます。枝でもそうですが、細い枝とか、先っぽがだんだんと枯れていって、いよいよ最後が根っこのところです。これだってなかなか枯れません。根元から切っても、ちゃんと新しい芽が出てきますから、根元から枯れることは、奇異なことです。ところが、根元からすっかり枯れているのです。それで、ペテロがふと思い出しまして、その様子を見てびっくりしました。21節「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」と。「あなたが呪われたいちじくは枯れているではありませんか」と言ったのです。そのときイエス様が「神を信じなさい」とおっしゃった。

 

「神を信じなさい」。これは絶えず私たちに求められることであると同時に、これを抜きにしては信仰は有り得ません。私たちの信仰は神様を信じることに尽きます。だから、ここでイエス様は「神を信じなさい」と言われるのです。言うならば、神様はどんなことでもお出来になる、全能の神であるということです。神様を信じるといって、何を信じるのか。神様がどういう御方であるかをよく知ること、そしてそれを信じることです。知っていても、それは信じるとは違います。私たちはいろいろなことを知ってはいるが、果たしてそれを信じているかというと、それは別問題です。逆に信じているから、ちゃんと説明できるかと言われると、これもまた難しい。自分は信じてはいるけれども、どうして私は信じているのだろうかと、いちいち自分の心を分析して、こういう理由でこれを信じているのだと、そんな信じ方はしません。信じるとは、まるままに、ストレートにそれをつかむことですから、いちいち細かく切り分けて、こうこうこうだから信じます、というような信じ方は一般的ではないと思います。殊に聖書を通して神様を信じるとはそうだと思います。私たちは神様を全部知りません。神様を初めから終わりまで全体を知ったうえで、いろいろなことを分析して信じることはできません。まるで人間を解剖して、心臓だとか胃だとか腸だとか、いろいろな器官を区分けして、「ああ、なるほど、こういう仕組みで、こうやってつながっているから人は生きているのか」と、そういって切り分けてしまったものは動いてない、死んでいるのです。信仰は、神様を信じることですが、同時に神様をそのように細かく切り分けて、だから信じるということにはならない。もしそういう信じ方をしても、それでは命がない。なぜならば、神様を頭から足の先まで全部知ったうえでないと信じられないということになります。ところが、これはそもそも無理な話です。人間は神様によって造られた被造物ですから、神様を知るといっても、人を知るとか、あるいは動物園に行ってそこで飼われている珍しい動物を眺めて、その習性だとかその食性といいますか、食べ物の性質だとかいろいろなものを、解説書を見て知って、なるほど、この動物はこういうものかと納得する。そういうことは神様に対してはできません。神様は私たちよりはるかに大きなものです。どんなに私どもが知恵を働かせたとしても神様を超えることはできない。神様を飲み込むと言いますか、包み込むことは私たちにはできません。となると、結局は、まさに信じることです。分かる、分からないにかかわらず、そういう御方ですと信じてしまうことが大切です。

 

 だから、イエス様が「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」と言われます。神を信じることは何がどうなっているか分からないけれども、神様がいらっしゃること、そして神様がすべてのものを造り、生かしてくださっていらっしゃる。どういうご目的であるか、あるいは、それはどういう仕組みであるか、私たちは細かいことが何にも分からない。分からなくていいのです。ただ、それを信じることです。ただ信じなさいと、これがすべてです。だから、毎日生きている家庭での生活、その一つ一つのどんなことも、そこに神様が私を置いてくださっていらっしゃる。私に生きるいのちと力を与えてくださっていることを信じる。これが神を信じていくこと。自分の力ではない。あるいはいろいろな社会の仕組み、制度によって私の生活が支えられているというのではなくて、確かに見えるところはそうかもしれないけれども、その背後に目には見えないけれども神様がいらっしゃって、すべてのものが備えられて私がここにある。私という者がここに存在していること自体、これは神様がなさったことですと、神を信じるのはそこです。だから「すべての道で主を認めよ」(3:9)と箴言に語られていますが、どんなことも、その具体的な事柄の背後に神様がいらっしゃって、今この事が起こっていることを認めていくこと、信じていくこと、これが信仰であり、また神を信じることです。これがなければ私たちの信仰は役に立たない、絵に描いた餅でしかありません。私たちは神を信じることを努めていくこと。これは、黙っていて信じるわけにはいかない。私どもは本当に心をそこに向けて、一つ一つ自覚して生きることが大切です。私たちの生活は、大体決まりきったこと、ルーティンワークとよく言いますけれども、決まった手順で決まった事を決まった時間に決まったようにするという、そういう慣性と言いますか、慣れというものの中で生きています。だから、一つ一つ何かするときにそれを自覚して、「よし、今から朝食を作ろう」なんて、「さぁ、次はこれをして」と、毎日の家庭生活をいちいちきちきちっとスケジュールを立て、何時から何時まで、もう時間がきたから今度はこれだ、というように切り替えての生活はしません。言うならば惰性といえば惰性、ダラダラといえばダラダラです。ズルズルと日を送ります。確かに私たちはそういうことを自覚しないままに過ごしています。ところが、何か事があると自覚するのです。

 

 例えば、思いがけない健康上の問題があるとか、あるいは家族の中に何か心配なことが起こってくると、毎日の生活の一つ一つがはっきりと目に見えてくるのです。自分自身が「こんな事をしてはいけない」と思う。私でも病気をしてみて、それまでダラダラと何をどうしてきたか分からなくても、病気だと感じて、これは大変なこと、いつ死ぬか分からんと、死が目前にきますと、毎日していることの一つ一つが、何と言いますか、輪郭がはっきりと見え始める。恐らく皆さんも経験がおありだと思います。今まで自分がしてきて当たり前のことが、気をつけてするように変わるのです。よく言いますよね。自分の死が間近に迫ったりすると、毎日、一日一日が生きている実感がすると言いますね。日常とは違う事態や事柄が起こると、私たちの生活がビッと引き締まると言いますか、そして自分のしていることが今まで惰性でしてきてどこが切れ目であったか、どこが節目であったか何も分からない、ズルズルッときていたものが、一つ一つ自覚されて生きるように変わる。そのうちそれにも慣れてきて状況が変わると「はぁ、まぁいいか」と、元の木阿弥(もくあみ)になります。しかし、たとえそうであっても、そういう自覚をすることは大切なことです。だから、私は自分自身そういうことを経験して振り返って思うのですが、日常生活に時折神様がパーンと波紋を投げてくれる。静かな池に石をバーンと投げ込んで波紋がパーッと広がっていくように、自分の生活が今までダラダラダラーッと事もなく平安で……、問題がないわけではないけれども、取りあえず落ち着いて「私は幸せだ」と思っている生活に、神様はボンといろいろなことを起こしなさいます。それは、私どもがハッとして背筋を伸ばすと言いますか、しゃきっと目を覚ますためです。「だから目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」(マタイ 25:13)とイエス様はおっしゃいます。世の終わりの時がいつか分からない。目を覚ますとは、まさにそういう生き方です。私たちはだんだんと眠りこけていく。事もなく物事が、昨日の今日、今日の明日と、何日か分からない、毎日が日曜日のような休日ばかりのような生活をしていますと、気がつかないうちに眠りこけている状態になります。だから、神様がいろいろな事を起こされます。だから「ああ、どうしよう。え!こんなことになって」とハラハラドキドキとする。心臓に悪いですが、逆に言うとそれは本当に恵みです。神様がドーンともう一度自覚を与えてくださる。

 

今、私も三ヶ月に一度ずつ定期健診といいますか、がんの検査を受けます。検査を受けるって、何のことはない、採血するだけですから、三ヶ月に一度は病院に行きまして、ちゃんと先生に会います。会うといっても何も診察をしてもらうわけではないのです。「榎本さん」と呼ばれて診察室に入る。「いかがですか?」「変わりはありません」「じゃ、次は三ヵ月後、いつにしますか? 」と予約をする。それで「帰りに採血をしといてください」と、1分半か2分ですよ、先生と話すのは。そのために1時間ぐらい待ちますけれども、それが終わって帰る。検査結果は一週間後にハガキでお知らせしますから、ハガキにあて先を書いてくださいと、ハガキをもらって、それを受付に出しておく。そうすると一週間後に検査結果がきます。手続きはそれだけのことですが、検査結果を待つのは嫌ですね。皆さんもご経験があると思いますが、何も変化はなかろうとは思うのだけれども、ひょっとしたら何かありはしないかと、だんだんとそれが高じてくると「きっと何かある」に変わる。「これはいかんな、きっとこれは何か悪いものがあるに違いない。また悪くなっているのではないか」と、そのような不安がある。だから、何とか逃れられないかなと思うのですが、今思うと神様の素晴らしい恵みだと思う。というのは、三ヶ月ごとに真剣勝負ですから、目が覚めるのです。三ヶ月に一度、目を覚まさせられるのです。「お前は病気だよ。これは誰が守っているのか」。誰の手の中にあるかをその度に新しく自分自身に体験するのです。これは幸いなことであります。先週も3ヶ月目でしたから検査に行きまして、月曜日に先生がハガキを出してくれることになっていました。火曜、水曜日というのが鬼門です。いつ来るかと、待ちに待った当選証書なら良いのですが、どんな検査結果がくるのか、それが心配です。今回も結果は良かったので感謝をしました。皆さんにいつも祈っていただいていますからありがたいと思います。しかし、良くても悪くても、とにかく結果を待つのは、ドキドキします。そして、その度に自己反省をするのです。やはり自分の生活ぶりのあそこが良くなかったのではないだろうか、これが悪かったのではないだろうか、もうちょっとこういう風に生活を改めるべきではなかったかと、実に殊勝な心になる。そして、自分の身を謹んでこれからも神様を信じていこうと、信仰を新しくされるのです。だから、これは私の経験ですが、幸いなことだと思います。

 

だから、ここでイエス様が22節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」と。私たちにとって「神を信じる」以外にありません。私たちに安心を与えてくれるものは何でしょうか。どんな事でも、それで大安心とはなりません。取りあえず今回三ヶ月目の検診で「異状ありません。また次回お待ちしております」ということですが、待たれなくてもいいのですが、ちょっとやれやれと思います。それで喜べば良いのですが、「ひょっとしたら今度は悪いに違いない」と、悪くなるのを期待しているようなところがある。「大丈夫ですよ」と言われながらも、それだってこれは医者が言うことですから必ずしも100%大丈夫とはならない。取りあえず、今の状態でこの検査をした範囲では大丈夫、ひょっとしたらそれ以外にあるかも知れないという、不安がある。だから、必ずしも検査結果がよかったから安心とはならない。では何が安心になるのか。最終的には「神を信じなさい」、これですよ。神様が私を生かしてくださっている。神様の力の中に置かれる。たとえそれがどんな状態であっても、神様にはできないことのない御方。今は情報がたくさんありますから、自分の病気についていろいろなことを調べると、良い情報もあるが、悪い情報もある。自分はどちらへいくのだろうかと、そこであれこれと思い煩います。そこからは決して平安はない。私はその度ごとにもう一度信仰をリフレッシュするといいますか、自分の歩み方の揺れている所、ゆがんでいる所、ぶれている自分の心の在りようをピチッと整えていただく。私は、今はそのような神様の恵みが与えられているなと、しみじみ感謝せざるを得ないのであります。ですから、皆さんの中にも、一ヵ月ごと、半年ごと検査があってわずらわしいと思われる方は感謝したら良い。その度に、誰によって今生きているのか、私にとっての安心はどこにあるのかを再確認する、検証する幸いな時です。だから、ここにイエス様が22節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」と。具体的ないろいろな事柄を見ると心は波が立ちます。良いと思っても必ずしも良くなるとはかぎらないという不安があります。悪くなるともちろん不安があります。どちらに転んでも人は誠に頼りないものです。

 

マタイによる福音書14章22節から33節までを朗読。

 

この記事はイエス様が弟子たちを船に乗せてガリラヤ湖の向こう岸へ渡らせなさったものです。夕方のことでした。彼らは出かけましたが、途中から逆風が吹いて船が前に進まない。難儀をしておりました明け方、4時ごろイエス様が波の上を歩いて彼らの所へ近づいてこられた。彼らはびっくりしまして、幽霊だと叫び声をあげた。そのときイエス様は「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と声を掛けた。彼らは安心しました。イエス様に出会うことは大きな安心ですね。私たちもそうだと思います。いろいろな問題や事柄の中に置かれて、不安や心配や恐れを抱いてどうしようかと思うときに、イエス様に心を向けて、イエス様が私を今日も支えてくださると、主に心が向くとき安心を得られます。しかし、それだって本当の安心は、イエス様を信じること以外にないのです。だから、このあと、取りあえず安心するのですが、ペテロが「水の上を渡ってみもとに行かせてください」と願ったとき、イエス様は「おいでなさい」と言われました。ペテロは船から降りて波の上を歩き始めた。ところが、30節に「しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、『主よ、お助けください』と言った」。ここで「風を見て恐ろしくなり」とあります。ペテロは「おいでなさい」と言われたイエス様の言葉を信じて歩き始めたのです。イエス様を見ていたのです。イエス様の立っている所へ向かって歩き始めたのですが、彼はイエス様でなく、「風」を見るのです。風って見えませんが、風の結果である波を見るのです。「自分はいったいどこに立っている。え!大丈夫だろうか」と思った瞬間、恐れがわいてくる。怖くなってその瞬間おぼれ始める。

 

私どもがそうだと思います。神様を信じて「大丈夫、何があっても神様がいちばん良いことを備えてくださるんだ」と信じて感謝しているときはいいのですが、「待てよ、あれはどうなるだろうか。これはどうなるだろうか」「今は良いけれども次はどうなるだろうか。その次はどうなる……」と。風を見るとはそこです。私たちの事情、境遇、事柄を見るのです。そして自分の状態を見ます。「え!こんなことをしていていいのかしら」と。「こんな状態だったらこうなるに違いない。次はこうなる」と。それを見ると心がスーッと沈む。そして不安が黒い雲のように心を覆ってきます。なぜそのようになるのか。イエス様はここで「なぜ疑ったのか」と言われます。疑うのです。神様を信じなくなる、不信仰になるのです。ここがいちばんの問題。だから、私たちは事ある度に努めて「神を信じなさい」というこの原点に絶えず繰り返し戻っていくこと。これが私たちの恵みであり、また幸いな事柄です。このときおぼれかけたペテロは「主よ、お助けください」と言って主を呼びました。まさにここが私たちの幸いなこと。おぼれかけても私たちは主に心を向けること。これが何よりも大切です。「何度、私はこんなことを繰り返すでしょうか、私は信仰がありません」と言って嘆かれますが、みなそうなのです。私たちは絶えず信じ続けなければ、疑ったらどんな人でも沈むのです。だから、絶えず心を上に向け、主に心を向けては立ち返り、主に心を向けては助けを頂いて歩む以外にないのです。だから、どんな状態であっても、私たちのなすべき事はただ一つだけ、神を信じることを努めていくこと。そのために自分自身を励ましていくことです。毎日の生活でいろいろな事柄が起こってきます。思いがけないこと、心配なこと、不安なこと、見ればいろいろとあるでしょう。考え出したら夜も眠られなくなるのは当たり前であって、私たちが見えるところに心を向けている間は希望もなければ平安もない、喜びもありません。不安と心配と恐れしかわいてこない。けれども、そのときに何があるかというと、ただ一つだけ、私たちに希望を与えてくれるものは「神を信じなさい」。だから、イエス様が「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)と言われます。どうぞ、疑わないで神を信じましょう。

 

 マルコによる福音書11章22節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」。神を信じるといって、何を信じるのか?神様が全能の神でいらっしゃることを信じていく。分かる、分からないにかかわらず、すべてひっくるめて、神様は力あるみ手をもって私たちを生かし、持ち運んでくださっていることを信じていく以外にない。事がどうあろうとも、病気をして医者に行っていろいろな検査を受けて、その検査結果がどう出ようと、たとえそうであっても、たとえ今目の前にどんな状態が置かれていても、なお「神を信じなさい」。私たちの信ずべきことは目の前のデータであるとか、あるいは検査結果であるとか、それを信じるのではなくて、信ずべき御方は神様以外にない。神様がここからどのように導かれるか、これは分からない。絶えず私たちは神様に望みを置くこと、これが「神を信じなさい」です。

 

 ローマ人への手紙4章16節から21節までを朗読。

 

これはアブラハムの信仰について語ったものですが、17節の中ほどに「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」とあるように、アブラハムは神を信じた人です。どのような神様を信じたか。神様の何を信じたか。まさにここです。「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」。神様にできないことのない御方であること、神様がすべてのものを生かしておられること。私たちに命を与え、またこの地上での生活のすべてを満たしておられる御方。この神様が私の今日を造っていてくださることを信じていく。神様は約束してくださったことを必ず果し得ると彼は信じた。ですから、18節に「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」と、アブラハムは神様の約束の言葉が成就されると信じたのです。私たちもこの神様を信じなさいとイエス様はおっしゃる。今、目の前の事がこうにしかならないとか、これはこれでおしまい、あきらめなければいけないとか、あるいは、これで行き詰まりだと見えるところや聞くおとずれ、あるいは様々なデータ、そろえられた条件はそうであったとしても、しかし、私たちが信ずべきはたとえそうであっても、神様はそこからどんなことでもお出来になります。これが私たちの信仰です。

 

ネブカデネザル王様は、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴが金の像を拝まなかったことで彼らを捕らえました。王様は「お前たちは王の命令に背いたから燃える火の炉の中に投げ込まれる」と言ったのです。そのとき、彼らは「私たちは金の像を拝みません」と。「私たちがたとえ火の中に投げ入れられようともそこから私たちの神は助けてくださることができます」。そして更に続けて「たといそうでなくても」、たとえ火の中に投げ入れられて自分たちが死んでしまうことがあっても、私たちは金の像を拝みません」と言ったのです。神様の手に一切を委ねて、生かすも殺すも神様次第であって、人の力では何にもできないのだと、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴのヘブルの三青年は証詞したのです。だから、たとえ死ぬことがあっても神様がそのことを許しておられるなら、それを甘んじて受ける。また神様が「よし」とおっしゃるならばそこから救い出すことも、どのように不可能と思えるところからでも救い出すことがお出来になる。これが神様を信じる信仰です。

 

17節の中ほど以下に「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。18 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」。「彼は望み得ないのに」と、確かに私たちの現実の生活、これはもろに私たちの目の前にありますから、見まいとしても見えます。考えまいとしても考えざるを得ない。しかし、たとえそうであっても神様にはできないことはありません。神様、あなたはどのような道を備えられますか。そこで神様を信じて、神様に自分を委ねていきたいと思います。神様の力あるみ手が、私を持ち運んでくださっていらっしゃる。この事を絶えず信じることを努めていきたいと思います。そのために神様はいろいろな事を時々起こされます。そのとき、もう一度信仰を新たにして、リフレッシュして、力強く神に信頼する者へと造り変えてくださるのですから、絶えず私どもはその事を努めていきたい。意識して、自覚して神様を信じることを努めていきたいと思う。事があってもなくても、今も今日も何も事がない一日であるけれども、これもまた神様が「無から有を呼び出される神」が、私のためにあたえてくださったものであることを、備えられたことであることを信じて、神様を信じる者でありたいと思います。

 

最初のマルコによる福音書11章22節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」と、「神を信じなさい」。どうぞ、徹頭徹尾神様を信じる。「神様を信じます」と絶えずその一点に全力を注ぎたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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