いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(449)「永遠なる御方」

2015年01月22日 | 聖書からのメッセージ
 「イザヤ書」43章8節から13節までを朗読。

 13節「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。

 地上での生活、生まれてから死ぬまで、人によっては違いましょうが、70年、80年と聖書には語られています。この世の生活は、手で触ったり耳で聞いたり目で見たりする五感といいますか、そういう感覚を通して理解できる世界で営んでいます。そのために全てのことがそういう目に見える因果関係、あの人がしたからこうなったとか、あるいは、自分がもうちょっと努力しておいたらこうなったはずだとか、自分の家庭環境がそうだから、親がこうだから、生まれ育ちがこうだから、兄弟がこうだからと、普段考えることは自分との目に見えるかかわり、皮膚感覚といいますか、そういう中で生活しております。そうすると、神様のことはあまり意識をしない、また考えようとしない、考えようがないわけであります。目に見えません、手で触るわけにはいかないし、声も聞こえませんし、匂(にお)いも嗅(か)げませんから、有るやら無いやら分からんというのが多くの人が思う所だと思います。

私どももそういう思いで生きて来ました。しかし、聖書を通して教えられる大切なことは、神様がいらっしゃるということに尽きるのです。創世記の最初に「元始(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」(文語訳)とあるように、神様がいらっしゃったゆえに、天も地もありとあらゆる目に見える森羅万象が創り出されたというのです。創造の神、造り主と言いますが、それは万物を創造し、今も力ある御手をもってきちっと堅く立たせておられるといいますか、運行してくださる、持ち運んでくださるのは神様であるということです。だから、ありとあらゆるものに神様の息が掛っていないものはない。神様によらないで存在しているものは何一つありません。
そう言うと「先生、じゃ、サタンも神様が創ったのですか」と言われますが、確かにそのとおりです。創世記の記事にありますように、人が創られてエデンの園に置かれました。その時に神様は一つのことをお命じになった。「知恵の木の実を取って食べてはならない」という、この禁止条項を置かれた。ここがサタンを創ったと言うならば、そういうことであります。というのは、禁止条項がなかったら人は罪を犯さなかったでしょう。ところが、そのしてはならないということがあって、それを踏み越えるところに罪がある。その踏み越えさせる力が働いてくる。これを創世記では「へび」にたとえていますが、私たちが見る“へび”ではもちろんありません。私たちを誘惑してくる力、そういうものが私たちの内に組み込まれているといいますか、あるのです。じゃ、それも神様がなさることかと言えば、そのとおりです。というのは、神様は私たちに神様に従う道と神様を離れて自分の思いのままに生きる道、この二つの道を置いておられるのです。片方がいうならばサタンの道でしょう。だから、聖書に「主はこう仰せられる、見よ、わたしは命の道と死の道とをあなたがたの前に置く」(エレミヤ 21:8)とあります。両方を置いていらっしゃる。ですから、神様がそれを造られた。だから、全てのことが神様によらないものはない。神様がどんなことも私たちのために備えておられるのです。

だから私たちがこの地上に生まれて、こうやって生活していること自体が神様のわざなのです。献児式をさせていただきますが、生まれて何週間か、何ヶ月かのお子さんを見ていますと、何と不思議だろうかと言い様がないのです。「いったい誰がこんな者を造ることができるだろうか」。人の力ではない。いくら科学的な知見、知識が進歩したと言っても、人を造ることは到底不可能なことであります。
最近話題になっているiPS細胞から別の臓器を造り出すという話も、夢物語であって何の現実性もありません。話題性はありますが、本当にそうなるのか、そのときに私たちと同じ体が造り出されるのか、そのようなことは到底不可能です。似ても似つかないものになるに違いない。だから、私のホームドクターはいつもそう言うのです。「あんなの、意味がありませんよ」と「話題を取るだけでそんな細胞からこれほど複雑な物が出来る訳がない」と言うのです。確かにそうです。ですから、お母さんのおなかに命が与えられて、それがやがて成長し、一人の子供として生まれ出てくる。これは誠に不思議な神様のわざです。だから、詩篇139篇に歌われていますように、私たちを母の胎に形づくり、内臓を造り、そしてやがて生まれてくる私たちの地上での生活の全てを神様がちゃんと定めておられる。「定める」と言うと、「じゃ、自分たちはどうしたって仕方がない、何をしたって決められた道しかない、俺は滅びと決められたらそれでおしまいか」とへ理屈を言う人がいますが、そうではなくて、神様が責任を持って私たちをきちんと持ち運んでくださる、という意味であります。ただ単に「あら、しまった。出来ちゃった」という、そんないい加減なものではないという意味です。きちんと私たち一人一人の生涯を神様が備えてくださることです。だから、私たちはその神様を信じる、認めることです。これが私たちの最も大切なことなのです。

 13節に「わたしは神である、今より後もわたしは主である」とあります。神様がご自分のことをあえて「わたしが神だ」と言わなければならない状況は誠に悲惨であります。神なき世界。神様があえて「わたしが神であるよ」と言われるのです。なぜこんなにおっしゃるのか。私たちは神様を知らないわけではない。「伝道の書」には「人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道 3:11)と語られていますが、「永遠を思う」とは、すなわち神様を求める心が人々の心にあることを語っているのです。私たちの内に神様を求めるものがある。だから、人々が何をしても満足がない、何か物足りなさといいますか、乏しさを覚える。それは物質的な意味ではありません。心、魂のことです。生活が豊かになって、まさに今の日本はそういう状況かと思いますが、物も豊かになり、生活のいろいろなことが便利になり、科学的な力によって、幸せといいますか、幸いといわれる条件は整っているはずであります。だから余程人は幸せそうな顔をしているかと思いきや、そうじゃないでしょう。無気力になって望みのない顔になっている。それは年寄りばかりではありません。若い人もそうでしょう。生きる望みを失ってしまう。いのちが消えているのです。それは、満足させてくれる、魂の満ち足りた、その魂の渇きを癒してくれるものは神様による以外にありません。しかし、心と魂の満足を求めて、人はいろいろなものに惑わされているのが現実であります。何とか幸せになりたい。魂の豊かさ、満ち足りた平安、そういうものを多くの人は求め続けながら行き着かない。その結果、神様でない様々なものを神としてしまう。これが現実です。
世間でいう宗教、信仰はいくらでもあります。中には「俺は無神論者だ」と言う人もいます。無神論だから神はないのかと思いきや、ないわけじゃなくて、自分が神様になっているだけの話であります。やはりどこかで神なるもの、人の力を超えたもの、あるいは、どんな物質的な生活条件が整っても満たされないものが自分の内にあることを無意識のうちに人は感じている。そして、その神様に帰りたい。ちょうど乳飲み子が必ずお母さんを求めます。大人になったらそれほどでないかのように思いますが、養子縁組で生まれたときからすぐに里子に出される。養い親がどんなに優しくても、人格者であって、その子供を大変愛したとしても、どうしても満たされないものがある。自分の親、いったい自分はどこから来たかを求めるのです。

だいぶ前の話ですけれども『ルーツ』という小説がアメリカでベストセラーになりました。これはかつて奴隷としてつれてこられたアフリカ系アメリカ人の人々、今はいろんな面で生活が向上しました。しかし、いったい自分たちはアメリカに住んでいるけれども、そもそも自分たちはどういう人間なのか? それをたどって行くストーリーです。そして行き着いた先がアフリカのある国の小さな村、そこで何代目かの先祖が強制的にアメリカに連れ行かれたことがあった。その村に出掛けて行って、自分の先祖とはどんな人であったかを求める小説でした。それからしばらくルーツ探しというのが盛んになりました。やはり自分の根っこがどこにあるか、これを抜きにしては人の心の安定はないのです。
だから、小さな赤ちゃんが母親を求めるのもまさにそこです。それから切り離されますと精神的に一つのトラウマといいますか、心的傷を持つといいますか、長くそのことがその人の生涯に影を落とすことがあります。いうならば、私たちが神様から離れていることは、そういう自分のルーツ、命の源から切り離されてしまう。そして、ある種の闇を心に抱えてしまう。これが私たちの現実であります。だから、それを埋め合わせるために人はいろいろなことをします。そのために神というものが造られます。神や仏が無数にできる。日本には八百万(やおよろず)の神がいると言われます。八百万と書きますから、八百万ぐらい神様がいるならば人口10人に一人ぐらい神様がいるというぐらい計算になるのでしょうか。

 ところが、この13節に「わたしは神である」、わたしこそが神であるとおっしゃるのです。そう言うとよく世間の人は「キリスト教は狭い。この神様だけが神だなんて……」と非難しますが、別に狭いわけではない。「他の神は神でない」という。そのとおりだから仕方がないといいますか、私たちにとって神様はただお一人でいらっしゃる。神様が全てのものの造り主でいらっしゃる。だから、多くの人々が神だと思っているものも造られたものです。
だから、よく言われるのです。「先生、私はイエス様の話を聞いて大変感動して、何とかこの信仰を持って行きたいと思いますが、ところが一つ障害があります」「何ですか」「うちは仏教でして、先祖祭りをしなければいけないし、そんなことをするとなるとどうしてもイエス様には悪いし、取りあえずもうしばらく……」と言う。私は「あなたは勘違いしていますよ。イエス様と仏様を同列に置いては駄目ですよ」と。「どういうことですか? 」「先祖祭りをするなら、したらいいじゃないですか。ただあなたの信仰は変わらない」。日本人の中には家の宗教、あるいは先祖伝来の自分たちが信ずべきもの、いわゆる宗旨ということを言います。「うちは何々教です」と。「では、信じているのですか」と問うと、「いや別に信じているわけではないけれども、うちの宗教ですから」と。「だったらそんなものはやめたら」と勧めると、「やめるわけにはいきません」と言われる。信じてはいないけれども、習俗として守っている。名前だけでもいいからとしがみ付く。宗旨という。
聖書は、私たちに宗旨替えをせよと言っているのではない。そんなものを神様は相手になさらない。そんなものは放っておきなさいと。ただ、あなたは何を信じようとするのか。聖書はいつも私たち一人一人に問い掛けているのです。「私がキリスト教になったら家の宗教はどうなりますか」、「それはそれでいいじゃないですか。そのままにしておけば」、「え!両方ですか」、「信じてないのでしょう」「信じてはいませんけれども」、「信じていなければ、お遊びと同じで楽しんでおけば良いじゃないですか。あなたが本当に信じるべきことは何ですか?」。こちらの神様とあちらの神様、どちらを取ろうかと、そんな両天びんに掛けられるような御方ではないのです。
真の神様はそんなものをもっとはるかに超えていらっしゃる。語弊がありますけれども、そういうちゃちな神様とけんかするような御方ではない。私たちの心がまことの神様に向いてさえいれば、それで全てです。「旧約聖書に神様はねたむ神で他の神を神とするな、と言ったのはどうしてですか」と言う。それはまことの神様を信じようとしない人の心を“ねたむ”ほどに求めておられるのです。偶像の神様を相手にしているのではありません。人がまことの神様をしっかりと心に定めて行きますと、他の神々は吹けば飛ぶような無意味な物になってしまうのです。ところがイスラエルの民は旧約聖書に語られているように、まことの神様を捨てて、木で造った物、紙で造ったそういう物を「これこそが神だ」と言うから、神様は「駄目だ」とおっしゃるのでしょう。だから、まず私どもがまことの神様を神として尊ぶ。これが何よりも大切なことです。だから、13節に「わたしは神である」と言われる。「では、他の神はどうなるのか」と。「他の神はあっても良し、無くても良し、どっちでもいいですよ」と。だから、パウロもそう言っています。そんな偶像の神と喧嘩するようなそんなちっぽけな御方ではないと。

だから、私たちは聖書を通して証詞されている天地万物の創造のこの御方だけが神ですと信じる。誰が信じるかというと、“私”が信じることであって、隣の人や前の人、その周囲の人が何を信じていようと、それは神様がご存じのことであって、私たちはどうにも仕様がないのです。できることはただ一つ、祈ること以外にないのです。神様に働いていただくようとりなすことです。
だから、私たちは全て神様が造り、神様が生かしていらっしゃる神様のものなのです。ただその御方がまだそうであると知らない、気が付かない。ただそれだけなのです。だから、時に「私は救われております。あの人は未信者で、あの人は救われていません」と言われる。そういう次元の話ではないのです。私たちが救われたと同じように、彼のためにもキリストが命を捨ててくださった。十字架のあがないはそこで完成しているのです。「じゃ、救われているのか」というと、神様の側の救いは完成している。ところが本人がそれを認めない、それに気が付かないでいるのが今の世の中です。幸い私どもは早めに気が付いたからこうして神様の恵みにあずかっているのです。だから、多くの人が早くそれに気付いてほしい。全ての人が救いに至ることを望み、ながく忍耐しておられるのである(Ⅱペテロ 3:9)。全ての人がそのことに気が付くようにと待っていてくださる。だから、私どもは多くの人に「早く気が付いてください」と言うしかないのです。私たちはつい自分が救われた喜びのあまり、一方で相手を切り捨ててしまおうとします。「いや、可哀想に、あの人たちは滅びるよ」と、滅びるかどうかは神様のお決めになることです。人が決めるわけではありません。だから、私たちはそういう神様を神として敬い、まことの神様を第一にして行く。これがなによりも大切です。

 そして「今より後もわたしは主である」。今より後、これからもズーッと、これまでもそうであり、これから先も常に神様が全てのものをご自分の力で持ち運び給う御方です。その後に「わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。これは、神様のなさるわざを変えることはできない。神様の手からどんなにしてでもそれを奪い取ることはできない。神様が始められたことを変えることはできないと。「わが手から救い出しうる者はない」、いうならば、神様が全能者でいらっしゃるというのです。力ある御方、万物をご支配しておられる。そして「わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。わたしが始めるならば誰もそれをとどめることができない。神様のわざです。神様が一つ一つのこと、いろいろな生活の隅から隅に至るまで神様の息の掛っていないことはない。いうならば、神様のご存じでないことはない。神様はありとあらゆることをご存じです。知ったうえでそのことを起こしていらっしゃる。「事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)エホバ」とエレミヤ書には語られています(33:2文語訳)。全てのことを実行しておられるのは神様です。私たち人ではない。人がしているように思えます。確かに見えるところ、現象的に言うならば、人がやっているようですが、それは神様が許してくださって、力を与えてくださり、知恵も与え、健康も与え、何もかも必要な物を備えておられるから、私たちが出来るのです。神様が実はそれをしていらっしゃると認めること、これが神を信じることです。神様が一つ一つの事柄を備えて導き給う御方です。生活の中に思い掛けないこと、考えもしないこと、想像もしないような事態や事柄が起こるのは、当然であります。

今年は“想定外”という言葉がよくはやりましたが、そんなのは当り前でして、想定外でびっくりしたというのは、これは神様を信じないからであります。神様が「わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」、津波であろうと地震であろうとどんなことだって神様がなさるとき人はそれをとどめることはできない。どんな大きな堤防を造ろうと何をしようと、そんな物は一気にひっくり返されてしまう。私たちが心にとどめておくことはまさにそこです。どんなことも神様によらないものはない。と言うと「どうして神様はそんなひどいことをするのでしょうか? 何の罪もない者がいろいろな災害によって死んでしまうなんて、そんなことを許しているのでしょうか」と尋ねられるけれども、私は答えようがないのです。私は「さぁ、分かりません」、「牧師なのに分からんのですか」と言われます。そう言われるとこちらもすぐ何とか答えようかと頭をひねりますが、そうはいきません。それは分からない。ただ神様のご計画があり、神様の手の中に……と、私たちは「の大能の手の下に己を卑(ひくう)して」(Ⅰペテロ5:6元訳)、謙遜になること以外にないのです。確かに何の罪もない方が人生半ばにして召されることは、確かにつらい、苦しい、悲しいことであります。しかし、だからといって私たちはそれにほんの少しでも手を触れることはできない。これは神様のなさる領域、私どもはこのことをいつもしっかりと認めて行かなければなりません。それはまた、私たちの人生においても同じです。思い掛けないこと、考えもしないこと、望まないこと、そういう一つ一つのこと、それを神様がなさるわざ、神様のものとして受容する、受け入れる、これが私たちにいま求められる事です。聖書を読みますと、確かに、神様はいろいろな人々にそのことを求められます。

 「ルカによる福音書」1章34節から38節までを朗読。

 これは受胎告知といわれている、マリヤさんに御使いガブリエルが現れてイエス様のご降誕を預言なさった記事であります。マリヤさんは特別に選ばれるミス何とかという方でも何でもありません。ナザレというガリラヤの町、恐らく世界遺産に残るような有名な町でもないと思います。そういう町の「一処女の許(もと)」とありますから、名もない、マリヤという名前はありますけれども、いうならば、極々ありふれた普通の人であります。いいなづけであるヨセフさんは「ダビデ家の出である」というのですから、ちょっと家柄がいいのかなと思いますが、彼女の方は何のことも書いてない。ところが、マリヤさんにある日突然御使いが来て「恵まれた女よ、おめでとう」と言うのですから、これはびっくり仰天です。「え!何事ぞ」と胸騒ぎがしたとあります。心配になる。続けて聞いたことは大変なことです。「あなたはみごもって男の子を産むでしょう」。まだ結婚もしていないのにどうして私が……と。だからこの34節に「どうして、そんな事があり得ましょうか」。「嫌です」という意味です。「そんなのは、私はお断りします」。
私たちの人生にもそういうことがあります。生活の中で「どうしてこんなになったの!」、「何でこうなったの!」ということがあるじゃないですか。私どもは大抵すぐそう言うのです。心の中で「どうして!」、「どうして私が……」、そういう時は「私はいまマリヤさんだ」と思っていただきたい。私どもが「どうして!」と言うとき、神様が「その事はわたしがしている」とおっしゃる。
マリヤさんはここで拒みました。それに対して御使いは35節に「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう」と。言われても何の慰めにもならないのです。ますます不安をかき立てる。ところが37節に「神には、なんでもできないことはありません」と言われる。いうならば「これは神様がなさることです」と、「そういっても神様でも私の許し無くしてさせません」と、ついそう言ってしまうのです。ここです。マリヤさんと私たちの大違いは。ここでマリヤさんはどうしたか。「わたしは主のはしためです」と。「そうでした。私は、神様、あなたのしもべにすぎません」と。その後に「お言葉どおりこの身に成りますように」。「どうぞ、あなたのなさるとおりにしてください。神様、あなたの御心のままに……」と、自分を神様に徹底してささげきったのです。

私たちに求められるのはまさにここです。私たちの日常生活、いろいろなところでこれがあるのです。皆さん一人一人がいつもマリヤさんです。神様は皆さんの生活の中に「どうして!」「なんで!」と思う事態を起こされる。そのとき「神には、なんでもできないことはありません」。これを信じるかと問われる。「わたしは神である、今より後もわたしは主である」とおっしゃいます。「いや、いくらあんたが主であっても、私は嫌です」と、言い募(つの)るのか、それとも神様は愛であるとおっしゃる御方が今この事を起こしていらっしゃる。「わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。誰もそれを防ぐことはできない。「本当に神様、あなたのなさることですから」と、彼女が神様の手に委ねた。そのときマリヤさんの人生はひっくり返るのです。
その後のマリヤさんの姿は喜びです。「どうして!」と言って悩みの絶頂にあった彼女が一変して喜びに変わって行く。これはなぜ、何があった。裏取引があってマリヤさんは何か神様からもらっていたのかという、そんなのではない。ただ一つ「神には、なんでもできないことはありません。神様が今この事をわたしの身に起こしていらっしゃる」と信じた。私たちが思い掛けない病気になろうと、あるいは経済的な問題の中に置かれようと、人間関係の中に置かれようと、ともすれば「あいつがいけない」とか「こいつが何とか」と言いますが、実はそうではない。「わたしは神である、今より後もわたしは主である」と。では、私たちはそれに対してどうするか? 「わたしは主のはしためです」。これ以外にないのです。そこに徹底してしもべになりきってしまう。そのとき、従う者に賜る聖霊、聖霊による喜びが私たちの心に力を与える、いのちとなって。そういう話は聖書に沢山あります。

ダビデもそうです。彼だってエッサイというお父さんの羊を飼う子供でそのままそこにいたら何の苦労もない、普通にハッピーエンドの人生だったに違いない。ところが突然のごとく祭司がやって来て「お前を次なる王様にするぞ」といわれ、パッと油を注いで逃げ出して行く。彼は「何事だ」と思ったが、それから人生が変わって行く。彼は波乱な人生を送ることになります。そこで自分に起こった事態を神様からのこととして引き受けて行く。ダビデは「わたしは常に主をわたしの前に置く」(詩篇 16:8)と、いつも神様を前に置いて、神様のなさること、そこに自分をささげてしまう。それからどんな中にあってもこの神様から離れない。
モーセもそうでしょう。ミデヤンの地で羊を飼って、家族もできて80歳ぐらい、これから年金生活ぐらいですよ。後は老後を楽しんでという、その年になってホレブの山で変な物を見なければ良かった。しかし、見てしまったのです。燃えるしばです。何事かと思って近寄ると、途端に神様から「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(出エジプト 3:5)と、えらいことになってしまって、彼の人生は大転換してしまった。彼は逃げ出したかったでしょう。ところが彼はそれを引き受けたのです。皆さんも「いま私はこんなはずじゃなかった」、「こんなことをするはずじゃなかった」、「こうなるはずじゃなかった」と嘆くことがあるでしょう。神様に抵抗し続けるのではなく、そこで「神には、なんでもできないことはありません。わたしは主のはしためです」と神様に委ねる。「わたしは神である、今より後もわたしは主である」とおっしゃる御方に、まずへりくだって、謙遜になって、「主が負えとおっしゃる重荷を負わせ給うなら、それを負いましょう」と心を決める。マリヤさんはそのことを決めたのです。
これはただ単に一回きりじゃなかったと思います。マリヤさんのそれからの生活で度々この事は問われたことだと思います。「あの時断わっておけば良かった」と思うことがあったでしょう。自分の愛する子供が目の前で十字架に掛けられる、その死を見取らなければならない悲劇の女性になるのです。だから、カトリックの人がマリヤさんに同情するのは分からないではありません。けれどもマリヤさんはあくまでも人であります。しかし、その中で神様の前にしもべとして従い抜いて行きました。だから、どんなことがあっても神様の手の中に自分を委ねて行く。私たちも今、小マリヤであり、大マリヤであり、マリヤですから御使いが毎日来て、「お前はこうだ」と言われて「嫌です」、「嫌です」と言っていますが、私どもは「神よ、あなたにはできないことはありません」と神様に自分をささげて行きたい。

 「イザヤ書」43章13節に「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。神様が「する」とおっしゃったら、徹底してそれをなさる。だから、あまり抵抗すると痛い思いが続きますから、早く謙遜になって「感謝します」、「主よ、感謝です」と言って、それを受ける。私たちはそれを素直に受けとめて、神様の御手に自分を委ねて「どうぞ、ご自在に引き回してください。水の中、火の中、どこへでも置いてください」と、手放しで神様に自分を委ねてしまう。「いや、水はもう寒くなってきたからやめておいて、暖かいほうにするか」と、私どもは選ぼうとする。そうではない。「わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」と言われる。誰も阻むことができないのです。しかし、神様は決して私たちにへまなことをなさる御方ではありません。必ずご自身の栄光をお取りになるため、実を豊かに実らせるために、その実を収穫なそうとしていらっしゃる。私たちはこの御方の手に小さな事も大きな事もどんな事も絶えず委ねて、そこで主に従って行きたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


最新の画像もっと見る