いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(441)「信仰の基」

2015年01月14日 | 聖書からのメッセージ
 「イザヤ書」28章14節から22節までを朗読。

 16節「それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基(もとい)とした。これは試みを経(へ)た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』」。

 今日は台風一過といいますか、さわやかな秋晴れの日を迎えることができて誠に幸い、感謝せざるを得ないのであります。先日、大阪集会ということで出かけました。数日前から、テレビで盛んに台風が来ると言われ、なかなか進路が定まらなくてやきもきしておりました。皆さんも心配してくださって「先生、大丈夫でしょうか」と連絡を頂いたのですが、どうなるか分からないのです。「取りあえず、行ける所まで行きましょう」と心を決めました。翌日、火曜日に朝起きまして、一応交通機関は動いていましたので、早速出かけました。すると「帰りは大丈夫か」と、家内が大変心配して「帰られなくなったらどうする」と言います。「それは泊ればいいじゃないか」と「でも次の日はもっとひどくなるという予報だ」と言う。そうなると、どこまで心配したらいいのか、心配は尽きません。私はそのときしみじみと思いました。台風や地震にしろ、人の手でどうこうできない。地図の上で台風をもうちょっと右に寄せようとか、左に寄せようとか、人ができるのでしたら、心配したらいいと思うのです。しかし、どうにもできないのです。だから、来るなら来るでしょうし、それるかどうか、これは分かりません。まさに神様の手の中にあるのです。私どもはともすると自分の思いを遂げよう、自分の意志を貫こうとするものですから、どうも台風は邪魔者であって、私のしたいことを妨害するとんでもない悪いやつだと思っています。人が神様のなさるわざに従うこと以外にないのです。だから、私は「いま取りあえず動けるのだったら、そこで行けばいいじゃないか。後は神様がストップされたらそこでやめればいい」。そう思いまして出掛けて行きました。
というのは、7月に同じように台風が来ました。ちょうど大阪集会の直前だったのです。前日から次々とニュースを見ると、今にでも日本がひっくり返るぐらいの大嵐が来そうなことを言うものですから、ぎりぎり、前日の午後に全部キャンセルしたのです。すると翌日起きてみると何のこともなく、全ての交通機関も動いていました。大阪の人たちは「先生、どうしておやめになったのだろうか。こんな天気だったら来られたのに」と言われました。そういう二つのことを身近に振り返ってみると、誰がこのことの主でいらっしゃるか? 全てのものをつかさどっておられるのは神様であるのに、私たちは神様のなさるわざを先読みしようとする。「神様はどのようにこれを動かそうとするのか」と。神様のわざをすべて読めるのなら、その前にこちらが手を打てば神様を出し抜くことができそうに思う。しかし、これは大きな間違いです。そうでありながら、私どもはあれこれと思い煩う、心配して心を悩ますのです。そういうことを考えまして、私は「今回は行きましょう」と出掛けました。幸い事もなく行くことができましたが、「帰りの飛行機が飛ばないかもしれない」と覚悟していましたが、空港に行きますと幾つかの便はキャンセルになっていました。しかし、幸いに「福岡便は支障がなく時間どおりです」ということでした。それで予定されたとおりに、神様の許してくださった故であると思いますが、帰って来ることができました。そうしましたら次の日、昨日ですが、大変な大嵐になりまして「神様は一日ずらしてくださったのだな」と、しみじみと感謝しました。それにつけても、私たちがいつも教えられることは、神様のなさることは思いも掛けない突発的なことばかりで、人の力ではどうにもならない事態や事柄であるということです。

 日本の社会はまさにそういう事態の連続でありました。2011年3月11日に東日本大震災という未曽有の災害に見舞われました。これとても、どんなに地震予知といいますか、前もってそのことを予見する、あるいは予報しようといろいろな人が知恵を尽くしましたが、なかなかできません。長年言われながらもなかなか進みません。相変わらず、大地が揺れてみないと気がつかないというのが現実であります。それは当然であります。人が計画し、自分の個人的なスケジュールによって生活のあれこれをするのとは違う。大自然といいますか、大宇宙といいますか、全てのものを造り、それを動かしておられる神様がおられるのですが、人は神様の力を抑え込もうと、無駄な努力をしてしまうのです。だから、東日本大震災でもそうでありますが、「想定外」という言葉が繰り返し使われます。そもそも想定外というのは当り前のことであります。想定すること自体がおこがましい。人が神様のなさるわざを「このくらいだろう」とか「この辺で終わるだろう」と考えるのは、そもそも傲慢(ごうまん)です。だから、「想定外」は、いつでも起こると想定しなければいけないのです。想定外になることをいつも当然のことと理解する。それを前提にしておくのが当然であります。ところが、人は誠に浅はかですから、「何とか人の力で、その予想される災害から自分を守ろう」と、いろいろなことをやります。大きな防波堤を造ったり、いろいろなことを計画して「これがあるから……」「これだけやっているから大丈夫」と盛んに言います。しかし、神様の力の前には誠に無能無力であります。このたびの震災を通してそのことを痛切に教えられました。

 15節に「あなたがたは言った、『われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ。みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない』」。「死と契約をなし、陰府と協定を結ぶ」、「死よ、お前はここまで来ないでくれ、約束しようじゃないか。そのためにはこうしよう、ああしよう」と、そういう「死と契約をする」とは、自分が死なないように、あるいは災いがひどくならないように、そのことが起こらないようにいろいろな手立てを立てていく。防波堤を造りますか、堅固な城のような家を建てますか。あるいは、人の仕組みを作って「何か事が起こったときには、こうしよう、ああしよう」と決める。これが「死と契約をなし、陰府と協定を結ぶ」ことです。神様のなさるわざを、災いを自分たちの力で不幸な目に遭うことから避ける手段や方法を考える。これが「死と契約をなし、陰府と協定を結んだ」ということです。だから「みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない」と。どんな災いが起こってきても、それは決して私には及ばない、このようにちゃんと準備されているから、こういう物があるから、これがあるからと。だから、あの大震災でもそうですが、「こうしているから大丈夫」「こういう事が起こったときには、ここへ逃げればいい。避難所がここにあるから大丈夫」と。行ってみたらその避難所がやられてしまう。むしろ「行かなかったほうが良かった」という人もいるのです。15節の終わりに「われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくしたからである」とあります。誠にうそ、偽りです。「これで大丈夫です」と言いますが、本当に大丈夫か、分かりません。そういう張り子の虎のような、形だけのもので神様の力に耐え得るかというと、それはできません。しかし、人は、悲しいかな、そういうものを自分の安心のより所、自分が納得できると思うからそういうことをやるわけです。

ところが、それに対して16節に「それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基(もとい)とした。これは試みを経(へ)た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』」。それに対して、神様は「わたしはシオンに」、「神の都にシオンの石を据えた」と、これは何のことかと? それはイエス・キリスト、イエス様が私たちの土台石となって支えて下さる。それは「堅くすえた尊い隅の石である」。「隅の石」、建物の土台でいちばん大切な頭石(かしらいし)といいますか、力石といいますか、そういう土台となる御方を神様が備えてくださった。私たちはともするとそういううそ偽りを自分の避け所とし、逃れ場として、「これがあるから大丈夫」「私にはこういう力がある」「こういう準備をしている」「こういうことをしているから恐れないで大丈夫。心配するな」と言いますが、そんなものは何も役に立つものではありません。実は神様が私たちの安心となるべき土台を据えてくださった。これが16節です。「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基(もとい)とした」。土台としてくださった。それは「試みを経(へ)た石」。しかもその石は様々な試練を通り、大丈夫であることが証明されているものであります。そのようにきちんと確かめておいてもらわないと、いざというときに本当に役立つかどうか分かりません。ところが、神様は懇(ねんご)ろな御方で、その石をきちんと試練を通して信頼に足るべきものであると証明してくださいました。イエス様は神の位にいた御子でしたが、人となってこの世に来てくださった。私たちと同じこの世の人生を生きて、十字架の死をもいとわないほどに、父なる神様の御心に従い抜いてくださった。ついに十字架の死を通して、「黄泉にまで下り」とあるように、死の闇の中にまで下って、そこからよみがえり給うた主が、まさに「試み」を経た確かな石となってくださった。そのイエス様は私たちのより所となるべく神様が備えてくださったのです。だから「信ずる者はあわてることはない」。「このイエス様の上に私たちが立って行く限りどんなことがあっても慌てることはいらないよ」と神様は私たちに語っておられます。

17節に「わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」とあります。神様は公平と正義をもって全てのものを試みられるというのです。私どもがうそ偽りをもって「これがあるから大丈夫」「こんなことをしているから、もう災いには遭わない」「こうなっているから死ぬことはない」といろいろなことで安全だと思っているけれども、それに対して、神様は「では、本当に安全かどうか、わたしが試してあげましょう」と「公平と正義をもって」揺さぶられる。まさに、私たちのいま直面している現象はそのことです。人が営々と築きあげて「これが我々の力だ」と誇っていたそういうものを神様は果たしてそれが本当のものであるかどうか、真に頼りがいのあるものであるかどうかを「公平と正義をもって」揺さぶってくださいます。また17節の後半に「ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」とあります。「ひょう」というのは、動物ではなくて天から降ってくるものですが、大きな氷の塊のようなものです。日本ではあまり経験がありません。日本の「ひょう」は、案外小さいですね。豆粒かあるいはもうちょっと大きいぐらいの物です。しかし、所によってかなり大きなこぶし大のひょうが降るのです。旧約聖書にもそういうひょうが降ったということがモーセの記事に出ていますが、それによって作物が全滅してしまうのです。時にはいろいろな物を壊すほどの大きなひょうが降ります。

むかし、ケンタッキーの山の中だったのですけれども、ハイウェーを走っていましたら、突然前方の車が脇へ寄り始めた。遠くに黒い雲が見えたのです。それがどんどん近付いてくる。「雨が降り始めたかな」と思いきや、それが一瞬にしてひょうに変わったのです。しかもかなり大きな粒が……、私どもも車を路肩に寄せまして、しばらく待っておりました。バッサバッサ車に当たるのです。「これはガラスが割れるぞ」と思いまして、大慌てで車に載せていた毛布を窓ガラスに当てていました。しばらくそれが続きました。前後の車もそうやって横によけています。初めての経験でどうなることかと思いました。しばらくして、やみました。見ると、大きなひょうがごろごろと転がっているのです。「よくまぁ、これで助かったな」と思って、道路脇にモーテルがありましたので、「とにかく、今日はここへ泊ろう」とそこへ駆け込んで一晩泊ったことを今でも忘れられません。

まさにひょうが降ると、いろいろな物を打ち壊してしまいます。ここにありますように「ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」と。水が押し迫って来る。台風が関西、東海、関東、東北と縦断して行きまして、各地で大雨の洪水が頻発しました。名古屋のほうは100万人近い人に避難勧告が出たとかいうニュースが流れていましたが、川が氾濫(はんらん)する。まさに洪水は防ぎようがありません。しかも広範囲にわたると自分の家の周りだけで防ぐことはできません。しかもどのくらいの深さになるのか分かりません。人の身丈を超える2メートルとかそれ以上の深みに一気になります。そうすると、お手上げです。神様はそのように人が無能無力であること、これで大丈夫、あれで大丈夫と寄り頼んでいる物がいかにはかないものであり、何の助けにもならない役立たないものであるかを明らかになさるのです。

そういう大自然の災害ばかりでなく、日々の生活でもそうです。いちばん分かりやすい例は病気であります。私たちは何が悪くてこんな病気になるかと悩みます。よくお話しますが、私自身が病気を宣告されたとき「いったい何がいけなかったのだろう」と思いましたが、原因は分からないのです。自分が不節制をして、あるいは何かひどいことをして、こんな生活ぶりだったから当然受ける報いとして病気になったというのだったら、諦めが付きます。しかし、原因は不明です。私は担当のお医者さんに聞いたのです。「原因は何でしょうか。私の食べるものとか生活が悪かったからでしょうか」と言ったら「いいえ、別にそんなことは関係がありません」「じゃ、何が原因ですか」「分かりません」と言われました。正直な方です。「原因は分かりませんが、現実は今あなたはこういう状態ですよ」と、それは受け入れざるを得ないのであります。これはまさに神様の手にある。しかし、私たちは何かあれをしておけば防げたかもしれない、これをしていたらうまく避けることができたかもしれないと、いろいろなことを悔んだり、自分を責めたりしますが、それは意味がないのです。無駄なことです。神様がそのときそのときに、私たちに問題を与え、事柄を起こしておられる。あえてその原因は何かというと、それは神様です。私たちがそういう事態や事柄の中に置かれるとき何をより所にして立っているかが明らかにされます。突発的な思いも掛けない願わない不幸な事態や事柄が起こってくると、その人の真価といいますか、何をその人がいちばん大切にしているかが良く現れてくるのです。そのことがいま読みました17節の言葉です。「わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」と。確かに突然思いも掛けない事態や事柄が起こりますと、うろたえる。「今まで自分は大丈夫、そんなことを言われたって平気」と思っていた自分が、いかに弱いかということがあからさまになります。どうにも収拾のつかない自分であることが見えてきます。そうしますと、今まで私は何を力として来たのだろうか、どこに私のより所を置いていたのかが問われます。

今年はどういう訳か、ご家族にガンを宣告されて、「この夏以来手術だ、何だと飛び回っておりました」という方がおられます。また「これから手術を受けることになっているから祈ってください」と言われる方もおられます。聞いてみると、やはり皆さん異口同音といいますか、私自身が経験したようにうろたえるのです。これは当然です。中には「どうして主人がそうなったのでしょうか。私のほうが先になると思っていた」「どうしてですか」「いや、私の両親もガンで召されましたし、家系的にも私がいちばんなりやすいと思う。ところが主人にはそういうことは何もない人ですが、主人のほうが先にそうなってしまった。いったいどうしてでしょうか」と尋ねられる。私も「分かりません。きっと神様が愛していてくださるからです」、「いや、そうでしょうか」と。それは神様のなさることです。その方もご主人の病気を通して「今まで自分はいったい何を信じて来たのだろうか。私の本当に頼るべきものが何であったのだろうか。今までは主人が元気だから大丈夫、主人さえおれば」と思っていたら、主人がそんな状態になってしまう。いよいよ心もとないといいますか、不安になる。「それでもう一度信仰を確かなものにしなければならない」、そう言って久し振りに集会に出て来られて大変喜んで、「集会に出て来られて良かった」と喜んでおられました。神様は私たちに「あなたはどこに立っているか」と問われる。私たちの人生を何の上に建てているか、これが絶えず問われるのです。そのために、いろいろなことが起こってきます。

「マタイによる福音書」7章24節から27節までを朗読。

これはイエス様のたとえ話の一つでありますが、岩の上に家を建てた人、砂の上に家を建てた人、この二人のことです。一方の人を「賢い人に比べることができよう」と語っています。賢い人はどんな人か。「岩の上に自分の家を建てた人だ」と、確かにそうです。岩は頑丈で不変不動のものの一つのたとえでありますが、その上に家を建てるとは賢い。というのは、建物で大切なのは基礎であります。土台がいい加減ですと、どんなに外側の見栄えが良くても、しゃれた家であっても……、事のない時はいいですが、ところが、いったん地震であるとか、洪水や大風が吹いてくると、その弱い所がすぐに見えます。先の東北大地震で東京周辺、浦安ですか、液状化現象という被害に見舞われました。浦安という所は埋め立ててしかも高級住宅街です。高価な住宅が売れた所でしょう。ところが、何分間か地面がグラグラと揺れた。そのために地面に含まれた水が浮きあがって土がドロドロの沼状になるのです。そしてまっすぐ立っていたはずの家が傾いてしまう。下水溝がおかしくなる。あるいは水道管や地下に埋設されていた物がひん曲がって使い物にならなくなる。真っすぐ立っていた電柱が全部左右に倒れてしまうなど、とんでもない事態になってしまった。外側から見たら庭の付いたガレージがある立派な家です。ところが、一瞬にしてそれが傾いてしまう。傾いて全部つぶれてしまったら何とか諦めもつきますが、傾いているから壊すにも壊せない。「では、ここで我慢して住んでおくか」と言ったら、床が少しでも傾いている所に住んでご覧なさい。1、2時間は良いですが、毎日そういう生活をしたら人間が傾きます。心がおかしくなるのです。頭痛がしたり、耳鳴りがしたり、あるいは精神的に不安定になってきます。我々は普段は気がつきません。私たちはいつも水平の上で生活をしていますから、ちょっとでも傾いて、しかもそれが継続している状態は、人にとって非常に不安定になります。そのためにいろいろな人が心身症といいますか、身体的な問題まで抱え込んでしまう。さて、それをきちんと水平にするにはどうするかと。今は技術がありますからいろいろな工法で傾いた物を水平にすることができますが、いかんせん、埋立地です。たとえ高額な費用を懸けて水平にしても、次の日ガラッと揺れたら同じことになる、という心配です。これは土台を造り替えなければならない。地盤を固める、これはできないことはないけれども、大変な費用が掛る。そのくらい掛けるのでしたら新しい家が造られるというぐらいですから、皆躊躇(ちゅうちょ)してしまうのです。土台が大切です。

イエス様もはっきりここで言っておられます。このひと言を信じて従っておれば何のことはなかったのでしょうが、皆自分の考えに従って見栄えだけを求めたのかもしれません。ここにありますように「岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである」。これは確かなことです。といって、皆さん家に帰って床下に潜って「うちの土台はどうなっているか」と、その心配も必要でしょうが、何よりも必要なのは私たちの見えない人生の土台。私たちが生きていくこの世の中に何を自分の大切なより所、頼るべきものとしているかです。まさに今の世の中はお金が大切、人が大切、家族が大切、子供が、何とかがと、あるいは隣近所がどうであるとか、こうであるとか、健康が大切で、その上これがあるから、あれがあるからと皆さんいろいろな物をもって自分の安心を得ようとしていますが、それはまさに埋め立て地の地盤と同じです。事が起こったらすぐにひっくり返ります。健康なんてそうです。常日頃から健康食品を食べて、体操もし、いろいろな健康法をして一生懸命にやっている。ところが、思いがけない病気をすると「今までしてきたのは、何だったのだろうか」と憤慨なさる方がおられますが、そんなのは頼りにならないのです。何が私たちの心と思いを揺るがないものにしてくれるか。何か事があったとき「大丈夫」と言えるより所はいったい何なのか?これを私たちがはっきりとしておかなければ、すぐにでも壊れて、倒れてしまう。

ですから、26節に「また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう」と。砂は一見堅い動かない物の様に見えますが、風が吹けばスーッと形を変えてしまいます。だから、砂丘とか砂漠なんかもそうですが、砂嵐が吹いて一夜にして山に見えていた所が平地に変わる。瞬時にしていくらでも砂は動きます。そんな物の上に自分の家を建てても、すぐに動いてしまう。今日、私たちは「いま私は何を土台として立っているのか」、「私の人生、私の生活がこれで安心と言える場所はいったいどこなのか」をはっきりとしておきたいと思うのです。

「イザヤ書」28章16節に「それゆえ、主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基(もとい)とした』」。「基としたよ、土台としたよ」と。「これは試みを経(へ)た石、堅くすえた尊い隅の石である」。この堅い尊い隅の石、しかも死の試練、死といわれる人の最も究極の苦しみ、悩み、絶望である死をも乗り越えることができた、試みを経(へ)た石。このイエス様のお言葉を私たちが心に信じて、そこに私たちの一切を委ねて、懸けていく。これが「信ずる者はあわてることはない」。このイエス様を信じて行くとき事が起こってきても大丈夫です。大丈夫というのは、神様が付いていてくださって、神様の手の中に私たちが握られている。

一人の方は病気に犯されて治療を受けていますが、先日もファックスを頂いて「肉体的には苦しい、非常にきつい所があるけれども、私の魂は平安です。このイエス様の救いにあずかっている自分が、何とさいわいな身分であるか、いま痛切に味あわせて頂いています」と、喜びのファックスを頂きました。確かにこの方にとってイエス様を信じて行くことで、どんなに大きな平安を与えられていることか。私たちの安心、平安、望み、また力、その源はイエス様にあります。私たちが信頼する以外にありません。「信ずる者はあわてることはない」。イエス様がおっしゃるように「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」と。イエス様のお言葉を信じて、堅く握って主に信頼して揺るがない信仰に立って行きたいと思うのです。これからますます大雨、大風、大洪水が次々とやって来ます。これは確かです。この予報は必ず当たりますから、安心していただいたらいい。心配はいらない、必ず大変な事態に私どもは今から向かって行くわけですから、そのときに「信ずる者はあわてることはない」のです。この慌てることのない確かなより所、イエス様を私どもの生活の土台に据えて、日々その御方の手の中にしっかりと握られていく者でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


最新の画像もっと見る