いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(272)「わが主、わが神よ」

2014年07月27日 | 聖書からのメッセージ

 詩篇50篇1節から15節までを朗読。

 

 7節「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。

 

 イエス様の救いにあずかる私たちは、神の子であると聖書に約束されています。かつてイエス様のことも知らない、神様も知らなかったとき、神様とは縁のない関係でした。当時は自分を信じたり、世の様々な仕来りや習慣、この世のものを神に代わるものとして信頼していた。しかし、それは人の生き方として正しい生き方ではありません。そこには平安がない、望みがありません。また喜びや安心がなかった。当然と言えば当然です。と言うのは、私たちは神様によって造られたもので、神様が私たちにすべてのものを備え、恵み、命を与え、生きることを許してくださっている。ですから、神様との関係が整わないかぎり、人が人として正しく生きることはできません。これがいま私たちの抱えている根本的な問題です。  

 

これは昔から変わらない人間の問題点、これを「罪」と言いますが、神様を忘れて、人が自分の知恵や考え、自分の力で生きていこうとするところに、私たちの限界、どうしても越えられない壁があります。そのため、私たちは大変苦しみ、悩みます。「何でこうならないのだろうか」、「どうして思い通りいかないのだろうか」「なぜ私が願ったように事が進まないのだろうか」と、絶えず欲求不満と言いますか、苛立ち、憤り、そのようなものが心に常にあります。そうすると、喜んでいいはずなのに喜べない。楽しいはずなのに楽しめない。喜べないのはあの人がいけないとか、こういう問題があるからだとか、この悩みがあるからと言いますが、決してそうではありません。いちばん根本の問題を解決しないことにはどうにも仕方がない。世間は、そこは不問にする、そのことを問わないで、現れた現象、目に見える問題や事柄だけを「ああしよう」「こうしよう」と、何とかやり抜けようとします。それによって、一瞬の間、「あ、これで良かった」と思いますが、すぐあとに揺り返してきます。「良かっただろうか」「悪かっただろうか」、いろいろな思いが錯綜して、心を暗くしてしまう。望みを失う。だから、いちばん根本は何といっても造り主を認めること、信じること以外にない。この造り主に立ち返ることです。神様に帰っていかないことには、そして、神様との正しい関係が回復されなければ、何をしても喜べない。心は変わりません。だから、「ヨブ記」に「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」(22:21)と約束されているのです。「神と和らぎなさい」と言っても、神様とけんかしたつもりはない。しかし、私たちの心に神様に対して無意識のうちに憤る思いがあるのです。「どうしてだろうか」「何でだろうか」「私はこう願っているのに、どうしてそうならないのか」と怒っている。その怒りの矛先(ほこさき)は、実は神様に向かっている。神様が私たちに事を定め、一つ一つのわざを起こしているのですが、それを認められない。神様に対する不信感がある。神様に信頼しようとしない、これは私たちが生まれながらに持っている原罪、罪です。「己が腹を神とする」と聖書にありますが、自分の思っていること、考えていることが「絶対正しい」という、これが大きな罪です。「絶対」という言葉を使うとき、自分が神になっています。なぜなら「絶対者」は神様以外にあり得ないのです。だから、人がすることには絶対的なものはないのです。「絶対」に対して「相対」という言葉を使いますが、人の考えること、すること全てあくまでも相対的です。「相対」とはいい加減という意味です。分かりやすく言うならば。その日その時でころころ変わる。ところが心のどこかで、「私が絶対正しい」「人が何と言おうと私はこのことが!」、「絶対譲らない、絶対!」と叫んでいる。そのとき自分が神になっている。その結果、心の平安を失う、安心がなくなる、苛立ち、憤る。何かに対していつも不満が心にある。そのような状態が実は私たちの現実だったのです。

 

そのような中から、神様との正しい関係に導き入れるために、神様はひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった。己を神とする、どうしても抜きがたい私たちの罪をイエス様が担(にな)ってくださった。神様に楯突く私たちは、当然滅ぼされるべき者でした。しかし、ひとり子イエス様の十字架のご犠牲のゆえに、イエス様を信じる者を今は罪赦された者としてくださる。これは神様が私たちに与えてくださった救いの道筋です。だから、いま私たちはイエス様を信じることによって、神様との間に正しい関係を築く、罪を赦され、神様に最も近いもの、身近な者として受け入れてくださっている。だからといって、私たちの生活が変わるわけでも、現実の何か事が変わるわけではありませんが、私たちの心が変わるのです。いつも神様がいらっしゃることを信じ、「神様が私を、ひとり子を賜うほどの限りない大きな愛をもって愛してくださった」と信頼する関係に、私たちは置かれています。だから、いつでも「アバ父よ」「天のお父様」と呼ぶことができる関係に変えてくださった。

 

これは本当に大きな救いだと思います。というのは、もしこの神様を知らなかったら、今、自分はどんな心で過ごしているだろうか?生きてきた短い期間を考えても、もし私に神様の救いがなかったら、今はどんな気持ちでこの年を迎えているだろうかと思うと、背筋が寒くなるような怖さを覚えます。そう思いませんか?皆さん。多くの人々を見ていて、よく神様を信じないで生きておれるものだと思います。自分が弱い人間で、気も小さく、常に自分では何もできないものだから、神様にすがらざるを得ないのですが、これもまた幸いです。しかも、神様は罪を赦し、神の子供として自分のものとしてくださった。だから、いま私たちは神様を「天のお父様」と本当に親しく呼ぶことができます。「天にいますわたしたちの父」とイエス様は言われます。天地万物の創造者でいらっしゃる御方を、私たちが「お父さん」と言える身分にしていただいたのですから、これは大きなものです。私どもは、自分が今どういう恵みの中に置かれているのか知っておきたい。神様を信じる者となり、罪を赦され、遠慮なくいつでも神様の前に近づくことができ、呼び求めることができる。それどころか、神様のほうが「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28:20)、どんなときでも私たちと共にいてくださるのだと、約束してくださっている。そんな大きな恵みの中に、私どもは今日も生きている。まずそのことをしっかりと確認しておきたい。

 

 その上で、7節「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」と言われます。ここに「わが民よ、聞け」とあります。そのあとの「イスラエルよ」と呼びかけられていますが、この「イスラエル」は私たちのことです。私たちはイスラエル人であるとか、民族的な意味でユダヤ人であるというのではありません。れっきとした日本人です。しかし、今はイエス様を信じて、信仰によって神の民・イスラエルとなったのです。ですから、旧約聖書にあるアブラハムを始まりとしたイスラエルの歴史は、信仰にあって生きる私たち、神の民の歴史なのです。私たちがどのように神様に仕え、神様に従うべきかが証しされていると考えていただいたらいい。ですから、「イスラエルよ」と呼ばれたのは、私に語られていることであり、皆さんに神様が語ってくださるのです。

 

神様が「わたしはあなたにむかってあかしをなす」と言うのは、自分が何者であるかをあらわす、自己紹介をするということです。「わたしは神、あなたの神である」と。神様が私たちに向かって「わたしが神、あなたの神であるよ」と言われます。考えてみたらちょっと異様です。親が自分の子供に向かって、「あなた、私があなたのお母さんなんだからね!」と言うようなものです。「知ってる?分かっているの!?私はあなたのお父さんなんだからね」と言っているわけです。ここで神様が「わたしは神、あなたの神である」と言わなければならないのは不幸です。そうでしょう。親が子供に向かって「あなたはどこを向いているの、私があなたのお母さんじゃない!」と言わなければならない状況があるとしたら、これは悲劇です。何か大変な問題がある。だから、神様がこのようなことを語っているのは、そのように言わなければならない状況があったのです。

 

それはイスラエルが、神様の選びの民、神の民でありながら、その神様を忘れてしまったことなのです。神様を大切なものとしていない。神様があえて「わたしはお前の神だよ」と言わなければならないのは、彼らがよそを向いていたのです。

 

デパートで買い物していると、小さい子が私の手を引っ張る。「何かな?」と思ってみると、お父さんを間違えている。気がつかないで引っ張っているのですが、私の顔を見て大慌てで手を離して飛び出していく。ちょっと離れた所にお父さんがいる。お父さんが何かに夢中になって気がつかないうちに、その子がお父さんでない人をつかんでいる。その子は慌てて走って行き、今度はお父さんの顔を見てギュッと手をにぎる。お父さんはびっくりして「どうしたんだ?」という顔をしている。自分の親を間違えるとは大変不安だろうと思う。

 

神様は懇(ねんご)ろに顧(かえり)みて、イスラエルの民を導いてくださった。そうでありながら、神様に対してどのような態度をとっていたか。8節に「わたしがあなたを責めるのは、あなたのいけにえのゆえではない。あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」と。ここで神様がイスラエルを責めているのは、いけにえが足らない、ささげものが足らないと言うのではない。「お前はちょっと最近ささげ物が少ないぞ」という意味で責めているのではない。それどころか「あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」。確かにイスラエルの民はきちんと神様の言われたとおり、定めを守り、するべきことをしているのです。だからお前たちのささげ物が足らないわけではない、それは十分にしているのはよく知っていると言う。9節に「わたしはあなたの家から雄牛を取らない。またあなたのおりから雄やぎを取らない」。神様は、あなたがたから何かしてもらわなければならないような乏しいものではない。「雄牛も雄やぎもいらない。そんな物をお前たちからもらわなくてもわたしの物はいくらでもある」と言われる。そのとおりです。だから10節以下に「林のすべての獣はわたしのもの、丘の上の千々の家畜もわたしのものである。11 わたしは空の鳥をことごとく知っている。野に動くすべてのものはわたしのものである」。12節には「世界とその中に満ちるものとはわたしのものだからである」。神様に何か足らないから不足しているから、何かしてあげなければいけない。そんなことは何の必要もないと神様はおっしゃる。そのように何かが欠けているからあなたを責めているのではないと言う。

 

神様は何を求めておられるのか。14節に「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ」。感謝のいけにえを神にささげよ」、「ほーら、やっぱり神様は何かを求めているじゃないか」と思われますが、ここはそのような意味ではありません。「感謝のいけにえ」とは自分をささげることなのです。感謝の供え物として自分自身を神様にささげなさいということです。言うならば、私たちの心を、私たちの思いを100パーセント神様のものとしなさいと。神様に対しての純粋な思いを、清い思い、一途(いちず)な思いをわたしに向けてほしいということです。それから「あなたの誓いをいと高き者に果せ」と。これは、私たちが神の民、神の名をもって呼ばれる民であるという、その誓約、約束を私たちは受け入れたのです。

 

イエス様の十字架によって、神様と私たちの間の罪の壁が取り除かれ、私たちを神の民、神の家族、神の子としてくださった。これは契約です。親子関係は契約ではありません。自分の親を選んだわけではないし、いろいろな条件を見比べて、どの親にしようか、この親にしようか、こっちがよさそうだからこの人にしておこうと決めたのではない。ましてや、子供でもそうでしょう。いろんな子供の中から選んできたわけではない。生まれたのがこの子だった。あとになって、「どうも出来損なった」と文句を言いますが、といって捨てるに捨てられない。いわゆる血のつながり、肉親というややこしい関係がある。しかし、神様と私たちはそのような関係ではない。契約です。人生のいろいろな事で行き詰って、喜びを失い、平安をなくし、望みを失って、怒りと憤りとつぶやきの日々を送っていた私たちです。何とか救われる道はないかと願って、イエス様のところに来ました。イエス様の十字架を信じて、「あなたは私の神です。これからあなたに従います」と、神様との間に契約を結んだ。約束をしたのです。その証しとして、イエス様の十字架の血判、血をもって、私たちはその約束を受け入れたのです。洗礼を受けたとき、「私はあなたを信じ、これから生涯あなたに従っていきます」と告白して、イエス様の子供となった。神様の子供としていただいた。私たちははっきりと神様に約束したのです。もちろん、自分でどこか指を切って血判を押したわけではないけれども、神様のほうがひとり子の血を流して、契約の判、十字架をポンと押してくださった。私たちの体にはイエス様の血が注がれている。だから、ある意味で血縁関係なのです。といって肉にある親子関係とは違います。それは約束、契約ですから、お互いが約束を信じて履行(りこう)しなければいけない。私たちは「あなたを私の神とします。私はあなたの子供となります。私はイエス様と一緒に死んだ者です。もはや私が生きているのではありません。私のすべては神様のものです」と言ったではないですか。ちゃんと約束したから、ここで神様が「あなたの誓いをいと高き者に果せ」とおっしゃる。あなたは告白したように今も生きていますか?「そう言えば、私が洗礼を受けたのはもう半世紀ぐらい前かな、ああ、懐かしいな、そういうことがあった」と懐古するだけになっている。洗礼を受けたのは勲章ではありません。勲章をぶら下げて、「昔はこんなだった、良かった」と。そうではない。今、あなたはその誓いに生きているか?「私は神の子供です」と信じて、神を神としているか。

イスラエルの民があの奴隷の生活から神様の力によって導き出されてカナンの地にまでも導かれた。更にそれから後、あのイスラエルという国を神様が造って、民の願いに答えてくださった。そして、神様のわざをあらわしてくださった。旧約聖書を読みますと、そこにたくさんの神様の恵みがあふれている。でも、彼らはそんなことを忘れてほかの神々に、世の様々な仕来りや習慣に流されてしまっている。では、神様の前に何もしないかというと、そうではない。「いけにえも、燔祭も」きちんと神様にはささげられている。形として神様の前に正しいことをしているけれども、その心がない。心がないのです。

 

ヨハネの黙示録2章1節から5節までを朗読。

 

これはエペソにある教会に神様が書き送った手紙の一節です。2節に「わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている」とあります。エペソの教会が神様の御心にかなうようにと一生懸命に励んでいる。いろいろなことを耐え忍んで、正しい歩み方を守ろうとしてきた。「使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。3 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった」。なかなか品行方正、立派な教会だったのです。何一つ落ち度がなく、そつなく神様の前に励んでいる。ところが、神様は4節に「しかし、あなたに対して責むべきことがある」と言われる。神様が求めることがある。それは「初めの愛から離れてしまった」。心がない、愛がないじゃないか。どんなにそつなく、非の打ち所のない歩み方をしていようと、その心に信仰がない、真実な思いがない。ただ決まった一つの手順としてマニュアルに従って、それを後生大事に守っているけれども、そのすることに愛がない。初めの愛から離れてしまった。神様の救いにあずかって、喜び感激して、感謝して少しでも、何としてでも神様の御心に添いたいと心を傾けて、することは中途半端であっても一生懸命であったあのときのあなたの心はいったいどこにあるのか?今はなるほど、することは立派だし、きちっとそつなくできるし、何もかもパーフェクト、しかし、そこにはあなたのあの初めの喜びと感謝と愛がないではないか。神様が求めているのは、そのような外側のわざではなくて、あなたが私を神として尊び敬う心なのだ。

 

詩篇50篇7節「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。「わたしは神であるよ。あなたの神ではないか。それなのにあなたがしていることはなるほど『神様、神様』と言いつつ、言葉だけでその心がない」。神を敬い、尊び、神様を大事にする、神様だけという一途で純粋な思いが欠けてしまっている。これでは、神様を神様として生きることができないではないかという。

 

バレンタインデーになると愛する人にチョコレートを贈る。義理チョコというのがあるでしょう。まさに神様にも義理チョコをあげるようなものです。心がない。神様に義理○○では、これがいちばん良くない。神様は本命ですよ、皆さん。命を賭けて「あなたは神、私の神です」と答えきれるかどうか。だから、ここで神様はイスラエルの民に、7節「イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。と、切なる思いをもって言われる。では、その神様に対して私たちはどのように答えているのか。どのように神を神としているのか?私たちの生活の中をもう一度見直してみる。そこにどれほど神を神とした歩みがあるだろうか?心があるだろうか? 「日曜日、今日は礼拝に行こう」。礼拝には出るけれども、教会の玄関を出ると同時に神様を忘れて、あとは自分が自分が、私が私が、あの人がこの人がと、世の中のことばかりになって、神様を忘れている。なるほどお祈りも欠かさないかもしれない。礼拝も各集会にも励んでいるかもしれない。言うならば「あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」。しかし、神様が求めているのは「感謝のいけにえを神にささげよ」。自らを感謝のいけにえとして、神様のご愛と恵みを心から感謝して、自分の一切を神様のものとしきっているか?時間も財も健康も家族も仕事も、これはすべて主のものですとはっきり神様に一切をささげて、主のものになりきっていくこと。そのあとに「あなたの誓いをいと高き者に果せ」とあるように、あなたが「神の子供だ」、「神にあがなわれた民だ」と言うならば、その約束のごとくに、そのように歩んだらどうなのだ。これは、私たちに対する神様の切なる本当にやけるような思いです。私どもは事情や境遇が良くなると「もう神様はしばらくいいか」と。ちょっとどこかへ仕舞い込んで、何か事があったら……。時々そういう方がいます。近ごろ見えない、お電話をする。「近ごろお見えにならないが何かあったのですか?」「いいえ、先生、お蔭様で事が順調です」「教会にもいらっしゃい」「ええ、暇があったら行きます」と。そんなことでどうして神を神としていると言えるかと、神様は問われるのです。

 

15節に「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」とあります。神様を第一にして悩みのときに、苦しいことがあったら、いつでもどんなときでも神様を呼びなさいと。なぜならば「私はあなたの神だよ」と。しかし、私どもは神様を呼ぶより医者を呼ぶ。あるいは神様を呼ぶより、息子や孫や何かに頼る。だから、神様は「わたしはいったいどうしたらいいのか?お前の神だけど何をしたらいい?」「いいえ、神様、用事があるまでちょっと待って」と、ほかのほうへ行く。これでは神様がどんなに悲しんでおられるか分からない。親でもそうです。人の親はできないことが多いから、子供から「お父さん……」と頼られても困る。「悩みの日に私を呼ぶな」と言いますよ。ところが、神様は「悩みの日にわたしを呼べ」とおっしゃる。人の親はできないけれども子供に悩み事があったら、まず「お父さん!」と電話をかける。ところが、うちの親は言っても仕方がないと言って、ほかのところへ行く。しばらくたって、ほかの人から「お宅のお子さん、こんなですよ」と聞く。「え!それは知らんかった」と、親が知らないうちに息子がほかの人には相談している。そうしたときの親の気持ちはどうですか?「できんかもしれないが、どうしておれに言ってくれなかったんだ」と。「うちの親に言ったって仕方がないから、先生に言います」と言ってくる。私は一応聞きますが、困ります。お父さんに会うと、言うに言われないし、息子が言わないのに私が勝手に言うわけにはいかない。「早くお父さんに言いなさいよ」と勧めます。

 

神様は「わたしは神、あなたの神だよ」と言われるのに、何か事があると、あの人この人と、いつまでたっても神様に来ようとはしない。神様は知っている、見ていらっしゃる。「今にわたしの所に来るだろう。わたしを呼ぶだろう」と。でもちっとも呼びもしない。「あんたには関係がない」という顔をしている。そして、いよいよどん詰まりになって、お手上げになって初めて、「神様!」と。「どうしてもっと早く言わないの」。そうでしょう。神を神としている心がどこにあるかと問われます。どうぞ、「私の頼るべき御方はあなた以外にありません。あなたは私の神です」と、神様に信頼して、何があっても、人に言わなくても家族に言わなくても、主には求めていく。神様に信頼する。これが恵みを受ける秘けつです。14節「感謝のいけにえを神にささげよ」、神様、私はあなたのものですと一切を主にささげて、「誓いをいと高き者に果せ」、私は、神様、あなたの子供です。だから、親に信頼するように、「あなたは私の神です」と告白しましょう。

 

詩篇63篇1節から4節までを朗読

 

詩篇63篇1節に「神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる」とあります。これは表題に「ダビデの歌」とあるでしょう。ダビデは神様を何よりも身近な御方として信頼したのです。だから「神よ、あなたはわたしの神です」と言えたのです。皆さん、どうぞ、遠慮なくそのように告白しましょう。ところが、「教会の末席でいいですから、私も加えてください」「何をそんな遠慮深いことを……、そんなことを言わないでど真ん中に来なさい。あなたの神様でしょう」と言ったのです。「いいえ、皆さんの神様で、ちょっと私はお邪魔かもしれないけれども」「お邪魔だったら、もう来なさんな」と言ったのです。「あなたの神だ」と言われる。だから、遠慮なく「あなたはわたしの神」と答えましょう。ダビデは徹底してこの神様を「わたしの神」と言いました。欲張りです、人にわたさないぐらいの勢いです。そのくらいに神様を自分のものとして、身近なものとして、絶えずこの御方のそばに自分を置いていきたいと思います。これを神様は喜んでくださるのです。何ができなくても「お父さん」「お父さん」といつも慕ってくれることを神様は願っているのです。「何か物でも持って行かないと親に顔を合わせられん」と、そんな隔てがあり、距離があるから、いつまでも安心がない。だから、お祈りをするとき、信じて祈るのです。「神様。あなたは私の神です。私のことを知らないはずがない。この悩みがわからないはずがない」。どんなことでも祈ったらいい、求めたらいい。「あなたは私の神です」と、心を注いで、主を求め、信頼していくとき、神様は喜んでそれに答えてくださいます。私たちは足らないのです。遠慮深いと言いますか、「私の神ではあろうけれども、ちょっとそこまで言うのもですねー。何か厚かましくて」と、そんなに遠慮するぐらいだったらやめたらいい。私どもの頼るべき御方はこの御方以外にないのでありますから、「神様、あなたは私の神です」と答えていきたい。

 

詩篇50篇7節に「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。神様が「わたしは神、あなたの神である」と、それに対して私どもも「はい、そうです。あなたは神、わたしの神です」と答える者でありたい。そして、全身全霊すべてを感謝のいけにえとして主にささげきって、主のものとなりきって、主の民である証しをはっきりさせ、その旗印を掲げて、いと高き者の民として、神の子として、その歩みを全うしていきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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