ローマ人への手紙5章1節から11節までを朗読。
5節に「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。
3節は「それだけではなく、患難をも喜んでいる」という言葉で始まります。これはちょっとびっくりする言葉です。というのは、患難とは、病気であるとか苦しいこと、辛いこと、経済的な問題、或いは人間関係の問題、自分自身の性情性格の問題、いろいろな悩みを患難と言います。それは自分自身のことであったり、或いは周囲から私たちに負わせられる事です。しかも、様々な患難が私たちの日々の生活を取り巻いています。私たちは一時として、心を安んずる時がない。そのために喜ぶことが出来ない。患難があるために喜べない、患難があるから安心がない、平安でおれないのが現実です。もし私たちが患難を喜ぶことが出来れば、毎日が楽しくて仕方がないでしょう。何故ならば、毎日が患難の連続ですから、悩みと苦しみばかりですから、それを喜んで生活できれば、人生は万々歳です。
ところが、「患難を喜べ」と幾ら言われても、なかなか喜べません。しかし、聖書では「患難をも喜んでいる」と語っています。私たちもこの喜びを得たいと切に願います。聖書に語られているように、患難をも喜ぶ者となるなら、どんなに幸いでしょうか。では、その秘訣は何か、なにゆえに患難を喜ぶことが出来るのか。「なぜなら」とその理由が記されています。「患難は忍耐を生み出し」と。いろいろな悩み、苦しみ、困難の中を通して、耐え忍ぶ、我慢をする力が私たちに備わってくる。これは確かにそうだと思います。私たちは、生まれながらに、我侭な存在であります。自分の思い通りにしたい、自分の好きなようにやりたいという心情が、心の一番根っこにあります。
小さな子供たちを見ているとよく思います。一才半くらいの女の子が教会のお掃除に連れてこられて、掃除を一緒にしている。その子は女王様です。最近は子供が少ないから、何でも「はい」、「はい」と皆が従う。その子が右と言えばみんな右、左と言えば左、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、親も言う通にする。で、お茶にしようと座ったら、途端にお菓子を食べ始めた。周囲の人たちはみな笑って見ていました。私は、「駄目!お祈りしてから」と言いました。そしたら、プッとすねて、シュッと下を向いて、動かなくなった。しかし、その後、みんなのお祈りが終るまで、じっと待っていたから「さぁ、食べていいよ」と言うと、ニコッと笑って喜んで食べました。機嫌を損ねたことは確かです。自分のしたいことを止められた。しかし、それによって心が整えられたと言うか、一つの経験だったと思います。それは一晩寝れば忘れるような事でしょうが、無意識のうちに何かが残っていくに違いない。
自分がしたいことを止められると、床に這いつくばって「イヤー」と手足をバタバタさせる。一、二才くらいの子がそれをするのは可愛いですよ。でも、大人になって、「イヤー」とやっても、見ておれません。神様の目からご覧になったら、私どもは、まるでその子のような状態なのです。自分のしたいことが止められる、さえぎられる、或いは妨げられる、抑えられる。その度に、私たちは「何で!」「どうして!」と、心の中は沸々と怒り心頭に達して、「なにが神は愛なのか」と、口では言いませんよ、口では!みんな偉いからですね、ただ心の中で密かに納得出来ない、そういう思いがいつもあるから、楽しめない、喜べない、感謝が出来ない。
それは忍耐が出来ないからです。自分のしようと思う事を止められて、耐え忍ぶのは、自分を捨てなければ出来ません。自分の思いを離れなければ、耐えることが出来ません。また忍ぶことが出来ません。ここに言われているように「患難は忍耐を生み出し」というのは、真にその通りであります。思い掛けなく、しようとしたことが出来なくなる、或いは願っている通りに事がいかない、悩みや困難や苦しみが立ち塞がって、耐え忍ばなければならない。だから、英語では病人のことを「a patient(ペイシャント)」と言いますね。このpatientと言うのは、忍耐強いという意味がある。patience(ペイシャンス)「忍耐」という言葉からきている。病気になると、治るまで待たなければいけない。耐え忍ばなければ…。
イギリスに旅をした時に、家内が病気になったのです。夜になり、38,9度くらいの熱が出て、体温計を宿の方に借りて計ったら39度近くあった。これは困ったと思って、朝起きまして、すぐに医者に連れて行こうと思って、ホテルの方に聞いたら、裏に開業医がいましたから、そこへ連れて行った。そして医者に診て貰った。様子を聞いた上で、処方箋を上げますから、これで薬を買ってくださいと、処方箋を貰って、近くのドラッグストアに行って買いまして、飲ませたのです。朝の10時過ぎに飲ませて、旅先ですから氷もありません。アイスクリームを買ってきて、頭にのせていました。夕方4時くらいになっても熱が一向に下がらない。私は焦りまして、このままイギリスで葬式を出すのかなぁと思って、医者は5時には終るので、何とかそれまでにと思って4時半くらいになって、居たたまれなくなり、出かけて行って「まだ薬が効かないのだけど、間違っていやしないか」と尋ねました。医者は「薬は24時間経たないと効かないものだ。これはペニシリンだから、抗生剤はそのくらいの時間が掛かるからもう暫く待ちなさい」と言われました。
飲んだら直ぐ効くということはない、人間の体は、神様の手の中にあって、その時が定められている。病気が治るにも時があると、伝道の書に書いてある。でも、そういう事態になった時、忘れるのです。だから、病気になって、忍耐を教えられる。これは幸いなことだと思う。ただ、なんでも忍耐したらよくなるかというと、そうはいかない。忍耐して、忍耐して、段々人がひねくれて、固まって、煮ても焼いても喰えなくなるケースも多くあります。
4節に「忍耐は錬達を生み出し」と記されています。練達というのは、新改訳聖書を読みますと、「練られた品性」という言葉で訳されている。練り清められた性情性格へ変わっていくことです。そうなるのだったら、忍耐はいい結果を生むに違いない。心が清められ、広くなり、愛に満ち溢れて、譬えて言うならば、世間でいう仏様のようになる。ところが、忍耐したらそうなるという保証はない。今申し上げたように、あまりにも苦しみが長く続いて御覧なさい。容貌が様変わりして、同じ人だと思えないことがあります。恐らく若い時の写真と、鏡の自分を見比べてみると、鏡に映る自分は「苦労の跡が深く刻まれた」顔になっている。私どもは練られた品性に変わっていかなければいけない。聖書はそれを約束しているのです。4節に「忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである」。そして、清められた性情性格になって、絶えず希望を持ち続けていく人になる。
若かった20代、或いは10代の写真と、今の鏡に写っている自分の顔と見比べて、何が変わっているかと言うと、希望が欠けているのです。望みのない顔になっている。若い時の顔の美しさは、望みに溢れている。幼稚園くらいの子供から中高生、大学生にいたるまで、夢に溢れていたのです。希望に満ちていました。将来こうなりたい、ああなりたい、或いはこんな人と結婚したい、こんな家庭を、こんな子供で、やがて老後はこうなってと、そして社会にあっては、こんなことをして、あんなことをして、人生はばら色だと輝いていた時代があった。
ところが、年とともに、全てが失われていって、希望が失望の始まりであるとひしひし身にしみて感じている。だから、今更「希望を持ちましょう」なんて言われても、「ふ、ふん」と冷笑する。「そんなものはあるはずがない」と言う。希望は失望に終わるもの、望みなんか持てないのが今の現実、ましてや自分自身を考えたら、もう後がない、希望もない。ここが私たちの一番の問題点。だから、「そして、希望は失望に終ることはない」と言われると、びっくり仰天、「失望に終らない希望なんてあるのか」と不思議に思う。私たちの経験からすると、失望することがない希望なんて有り得ない。しかし、5節に「希望は失望に終ることはない」。こんな希望だったら持ちたいと思います。失望に終わらない理由は、「なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。これが肝心です。3節から5節までの中で、一番大切なのは「神の愛がわたしたちの心に注がれている」ことです。神様の愛があれば、患難をも喜ぶことが出来、そして、患難は忍耐を生み出し、その忍耐は、決して人をひねくれた、扱い難い頑なな者にするのでなく、「錬達を生み出し」ていく。そしてその練達は希望に繋がって行き、そしてその希望は失望することのない希望となっていく。
世の中の人でもこの聖書の言葉は良く知っています。時に、結婚式のスピーチでこの聖言を引用する方がいる。「この人、聖書を読んでいるのか」と思う時があります。患、忍、練、希と、これはいい話になります。ただし、そうなるために欠くことの出来ない事柄がある。それがこの5節の、「なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって」とあります。今、私たちは聖霊に満たされているはずであります。ペンテコステの日に、弟子たち一同が集まっていた時、大きな風の音と共に、一人一人に聖霊が与えられた。この聖霊は神様の御霊、神の霊です。それは嘗ての二千年前の弟子たちだけでなくて、今私たちにも注がれている。私たちのうちにも御霊が宿って下さっている。そして聖霊、御霊なる神様が、私たちにして下さる一番大切な御用は、神様の愛を教えて下さることです。神様が私たちを愛して下さっていると信じるには、御霊によらなければ信じる事が出来ないのです。物事を自分の頭でいろいろと考えて、理屈や理詰めで、こういうわけだから、なるほど、神様が私を愛して下さっているのだとは、なかなか理解できない。悩みがあり、困難があり、苦しみがある人生を顧みて、現実の生活を眺めてみて、何処に神様が愛している証拠があるだろうか。神様が、ひとり子を賜うほどに愛しているというのだったら、もうちょっとましな自分になれないのか、もうちょっと悩み事が少なくても良いのではないかと思う。だから、頭で考える限り、神様の愛を信じられない。では何によって、神様は愛であると知ることが出来るか。それは御霊が一人一人の魂の中に、神が愛であることを証詞して下さるのです。御霊の働きによって、神様の愛を私たちに悟らせて下さる。だから、今読みましたこの3節以下に、患難を喜び、忍耐をし、そして忍耐から練られた品性に変えられて、そして希望を持ち、そして希望が失望に終らない秘訣は、先ず私たちが御霊に満たされること、神様の霊に満たされて、御霊によって神様の愛を知ることです。
その愛とは6節以下に記されています。もう一度読みますと、「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。6節から8節までの間に、「弱かったころ」、「不信心な者たち」、或いは8節に「罪人であった時」とあります。八百万もの神様がいる日本にいると、どこかでいわゆる神様に出会います。犬も歩けば棒に当たるどころではない。歩けばどこかで神様とぶつかります。そういう神様は知っていたでしょう。しかし、聖書に語られている真の神様を知らなかった。そういう神様がいることを知らないで、自分が神様になって、自分の人生、俺が、俺がと自己中心の我侭な子供のように、自分のことしか考えられなかった。その結果、いろんな悩みに遭い、問題に遭い、事柄に遭い、生きる力を失っていた私たちを、神様が時を定めて、イエス様の救いに引き入れて下さいました。イエス様は、はるか二千年も遠い昔に、しかも日本ではなくエルサレムという地で、神様に背いた私達の罪のために、贖いの供え物となって、十字架に死んで下さった。両手両足を釘つけられ、茨の冠を頭に被せられ、胸を槍で突かれて、苦しみ悶えながら、「父よ、彼らを許し給え」ととりなして下さいました。実は私たちが当然受けるべき神様ののろいと刑罰を、既にイエス様が受けて下さった。「だから、もうあなた方は何も心配は要らないよ」と宣言して下さったのは、二千年前です。イエス様の赦しは今も変わらない。
だから、5章1節に「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」。
「信仰によって義とされた」とは、イエス様がこんな私のような者のために命まで捨てて、あの苦しみを受けて下さった事を信じて、私も主と共に死んだ者であって、今生きているのはキリストによって生かされている自分であると認める。これが、「信仰によって義とされる」ことです。そして、「神に対して平和を得ている」。もはや神様と私たちは敵対関係じゃなくて、神様が私たちの側に立って下さって、私たちの後ろ盾となり、味方になって下さっている。
そして2節に「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」。イエス様を信じて、神の子供とされ、神様の所有となり、神様の手に握っていただき、神様の御愛に包まれて生かされている。この豊かな恵みに導き入れられている。これは私たちの生活や、周囲の事情や境遇が激変するのではない。私たちの魂が、心が恵みに与って希望を持たせていただいている。どういう希望か?死を超えて永遠に生きる命、神様の御国に住まいが備えられて、イエス様が私たちをそこへ喜んで迎えて下さる時がくる。この「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」。私たちの卑しき体を、性情性格の穢たるものを清めて、瞬時にしてキリストの体と同じ、栄光の体へと変えて下さる。地上の死によって、そこで一旦、肉体を脱ぎ捨てますが、その死を超えて向こうに、なお神様の栄光の輝きとして、神と共に生きる新しい永遠の住まいに移される希望を持って、実は喜んでいるはずであります。年をとって、若い時と違ってしまったのは、希望がないからだと言いました。実は、持つべき希望があるのです。地上を越えて、その先に神様の御許に帰っていく、神の栄光に与る希望を絶えず持ち続けることが出来るのです。
ですから、患難をも喜ぶのです。何故ならば、神様が限りなきひとり子を賜うほどの大きな愛をもって、私を愛している事を信じているからです。こんな私を愛していると言われるけれども、神様はどの程度愛しているのかしらと疑うならば、もう一度、主が何を私のためにして下さったかを味わって下さい。イエス様の十字架を抜きにして、愛は無いからです。ヨハネの第一の手紙4章に、イエス様を罪の贖いの供え物として、私たちのためにこの世に遣わして下さったとあります。神様は御愛を悟らせるために、具体的に何をしたらいいだろうかと、考え抜いた末に、神様が出した結論が十字架なのです。私たちに美味しいものを食べさせて、事情境遇を変えるくらいなら、いとも簡単なことです。神様はどんなことでも出来る方ですから。しかし、そんなことでは神様の愛を全部表せない。最終的な結論は、私たちのために愛するひとり子を、あえて十字架に捨てて下さった。私たちが本来神様の前に償わなければならない罪の贖いとして、供え物として、神様の方が御自分のひとり子を、具体的に私たちの身代わりとして送って下さった。ここを信じなければ、神様を信じる事は出来ません。どうぞ、それほど大きな愛で、愛されているあなたであることを信じて下さい。
6節以下に、「わたしたちがまだ弱かったころ」、「不信心な者」であった時、8節には「罪人であった」、そういう神様を知らない、我侭な自己本位で本当に世を呪い、人を呪い、生まれながらに神様の呪いを受け、滅ぼされて当然である者を、神様は赦して下さった。私たちの状態が良くなったからそうしたのではない。まだ罪人であり、神様を知らないはるか以前に、やがて地上に命を与えられるであろう私たちためにと、エペソ人への手紙の1章に記されている。世が造られない以前から、私たちを愛のうちに選んでと記されています。神様は私たちを限りない愛をもって愛して下さっている。その愛にピタッと根ざして生きる。
エペソ人への手紙3章14節から19節までを朗読。
この16節から19節までは祈りです。勿論、その前も祈りの一節です。非常に長い祈りですが、この祈りの中心は、私たちが神様の愛を信じるようにという祈りです。神様が、私たちに求めておられることはたくさんありますが、なかでも一番大切なことは、私たちに神様から愛されている自分だと、知って欲しいのです。17節に「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み」とあります。神様の御言葉を信じて、イエス様が私たちと共に居て、住んで、生かして下さっている事を知って、神様の愛に信頼して生活をすること。これが、17節の「愛に根ざし、愛を基として生活すること」です。私たちの置かれた現実がどんな事情であろうと、悩みであろうと、患難の中であろうと、神様は私を愛してやまない方ですと、神様の愛を信じていくこと。これが神様を信じる事です。神様が私を愛して下さっているから、今はこういう状態であるかもしれない、今はこのような苦しみの中にあり、悩みの中にあっても、しかし、主は全てを知って、愛して下さっているのですから、決して捨て置くことを為さらない。このままで終らせないで、もっと素晴しい栄光の姿に造り変えてくださる。それが具体的にどうなるのか、分からないけれども、神様は、必ずその事を成し遂げてくださる。
だから19節に「また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って」とあります。言葉では説明のつかないほどの大きなイエス様の愛を知る。そのために、今この地上に命を与えられている。愛に根ざし愛を基として、神様の愛を知るための生活がある。だから、どんな時にも、どんなことにも、主が私を愛して下さっていると信じて生活する時、その愛の深さ広さを具体的に体験することが出来る。キリストの愛を知って、19節に「神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように」。素晴しい約束ですね。神様のうちの中にある栄光、力、愛、恵み、神様の持っている一切のものを私たちに注いで下さる。私たちを満たして神と同質の者へ、神に似る者へと造り変えて下さいます。これが今私たちに与えられている希望、望みです。
そして20節以下に「どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン」。ここに私たちが求めるよりも、思うよりももっとそれを超えた素晴しい事を、神様はして下さいます。神様を信じるとは、取りも直さず、神様が私を愛して下さっていると信じる事です。愛を知って、味わって、神様はどんなことでもして下さることを体験し、そこに希望を持つ時、希望は決して失望に終ることはない。
ローマ人への手紙8章31,32節を朗読。
これは本当に素晴しい約束です。神様が私たちの味方であるから、どんなものも私たちに敵する事は出来ない。この確信を絶えず握っていましょう。悩みに遭い、患難に遭うと、自分一人で、孤独に悩みを抱えているように思い込む。私も病気を宣告されて丁度一年になりますが、昨年の今頃のことを振り返ってみると、「自分一人がこんな悩みを負わせられて」と考えて、街ゆく人をみると、「あの人たちはこんな悩みも知らないで…」と、自己憐憫に陥り、「可愛そうな私だな」と思っていた。神様を離れてしまうとそういう思いになります。だから、ここにあるように、「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。私一人ではない、味方となって下さる神様が「わたしがあなたを愛しているではないか」、私はひとり子を惜しまないであなたのために捨てた。だから、他のことを惜しむことがあろうか。どんなことでも出来ないことのない方、その方が今それでよろしいと仰って下さる。主の愛の中に、自分を委ねて生きるのです。信頼しきっていくことです。
8章35節から37節までを朗読。
これが素晴しいですね。「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」。私たちをイエス様の愛から、一体誰が離れさせるでしょうか。そこにありますように「患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」、どんなことが起こってきても、私のキリストに対する愛、キリストよって証された神様の愛を、私から奪い去るものはいない。神様の愛を疑わせるものは、この世に一切ありません。そうでありながら、つい目先のこと、周囲を見て、直ぐに神様の愛を疑う。神様はこんな私をすら愛して下さっているから大丈夫!現実は大丈夫じゃない状態が見えるかもしれない。ああなったらどうしようか、こうなったら…と。しかし、大丈夫!神様はどんなことでも為し得給う方。主の手を信じて、御愛を信じて、望みを持っていこうではありませんか。そしてその希望は失望に終らない。37節に「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」。勝利から勝利へ、自分の力で打ち勝つことは出来ないけれど、主の愛を信じていく時、私たちは力を受けます。そして望みに立つことが出来る。また失望することの無い結果を、与えて下さいます。
私は最近一つの課題を与えられて祈っています。いろいろと考えると、「ああなるとこうなるだろう、どうも先行きが暗いな、これは大変な事になるかもしれない」と思い煩っていました。しかし、主の前に鎮まって、祈って、祈って、繰り返し祈っておりましたとき、段々と心に、神様の愛を悟らせていただきました。「そうだった、こんなに愛して下さった神様がいる。その神様がへまなことをなさるはずがない。この問題についても、神様がこれからどう為さるか、とにかく先の事は分からない。それを知っているのは神様です。私のために、最高にして最善の明日が備えられている。私が考えてもどうこうなることではない。主よ、あなたの御手に全てを委ねますから、よろしく導いて下さいと。主の愛に心を委ねるとき、望みなきことに望みを持つことが出来る。これは素晴しい恵みです。神様はそこから思い掛けない、驚天動地と言いますか、天地がひっくり返るようなことでもすることが出来ます。ですから、これは仕方がない、「諦め」という箱の中に投げ込んでいることがあったら、もう一度それを取り出して、神様に信仰を持って祈りましょう。
ローマ人への手紙5章5節に、「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。ここに「注がれているのだ!」とはっきり断言されています。これから注ぎましょうと言うのではない。私はあなたに愛を注ぐから、その前にあなたはこれだけのことをしなさいという事もない。もう注いでいるから、それを信じなさいと。主の御愛を信じて、置かれた所で、「大丈夫です、主よ、あなたが知っています」と信仰を持って、信頼していきましょう。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
5節に「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。
3節は「それだけではなく、患難をも喜んでいる」という言葉で始まります。これはちょっとびっくりする言葉です。というのは、患難とは、病気であるとか苦しいこと、辛いこと、経済的な問題、或いは人間関係の問題、自分自身の性情性格の問題、いろいろな悩みを患難と言います。それは自分自身のことであったり、或いは周囲から私たちに負わせられる事です。しかも、様々な患難が私たちの日々の生活を取り巻いています。私たちは一時として、心を安んずる時がない。そのために喜ぶことが出来ない。患難があるために喜べない、患難があるから安心がない、平安でおれないのが現実です。もし私たちが患難を喜ぶことが出来れば、毎日が楽しくて仕方がないでしょう。何故ならば、毎日が患難の連続ですから、悩みと苦しみばかりですから、それを喜んで生活できれば、人生は万々歳です。
ところが、「患難を喜べ」と幾ら言われても、なかなか喜べません。しかし、聖書では「患難をも喜んでいる」と語っています。私たちもこの喜びを得たいと切に願います。聖書に語られているように、患難をも喜ぶ者となるなら、どんなに幸いでしょうか。では、その秘訣は何か、なにゆえに患難を喜ぶことが出来るのか。「なぜなら」とその理由が記されています。「患難は忍耐を生み出し」と。いろいろな悩み、苦しみ、困難の中を通して、耐え忍ぶ、我慢をする力が私たちに備わってくる。これは確かにそうだと思います。私たちは、生まれながらに、我侭な存在であります。自分の思い通りにしたい、自分の好きなようにやりたいという心情が、心の一番根っこにあります。
小さな子供たちを見ているとよく思います。一才半くらいの女の子が教会のお掃除に連れてこられて、掃除を一緒にしている。その子は女王様です。最近は子供が少ないから、何でも「はい」、「はい」と皆が従う。その子が右と言えばみんな右、左と言えば左、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、親も言う通にする。で、お茶にしようと座ったら、途端にお菓子を食べ始めた。周囲の人たちはみな笑って見ていました。私は、「駄目!お祈りしてから」と言いました。そしたら、プッとすねて、シュッと下を向いて、動かなくなった。しかし、その後、みんなのお祈りが終るまで、じっと待っていたから「さぁ、食べていいよ」と言うと、ニコッと笑って喜んで食べました。機嫌を損ねたことは確かです。自分のしたいことを止められた。しかし、それによって心が整えられたと言うか、一つの経験だったと思います。それは一晩寝れば忘れるような事でしょうが、無意識のうちに何かが残っていくに違いない。
自分がしたいことを止められると、床に這いつくばって「イヤー」と手足をバタバタさせる。一、二才くらいの子がそれをするのは可愛いですよ。でも、大人になって、「イヤー」とやっても、見ておれません。神様の目からご覧になったら、私どもは、まるでその子のような状態なのです。自分のしたいことが止められる、さえぎられる、或いは妨げられる、抑えられる。その度に、私たちは「何で!」「どうして!」と、心の中は沸々と怒り心頭に達して、「なにが神は愛なのか」と、口では言いませんよ、口では!みんな偉いからですね、ただ心の中で密かに納得出来ない、そういう思いがいつもあるから、楽しめない、喜べない、感謝が出来ない。
それは忍耐が出来ないからです。自分のしようと思う事を止められて、耐え忍ぶのは、自分を捨てなければ出来ません。自分の思いを離れなければ、耐えることが出来ません。また忍ぶことが出来ません。ここに言われているように「患難は忍耐を生み出し」というのは、真にその通りであります。思い掛けなく、しようとしたことが出来なくなる、或いは願っている通りに事がいかない、悩みや困難や苦しみが立ち塞がって、耐え忍ばなければならない。だから、英語では病人のことを「a patient(ペイシャント)」と言いますね。このpatientと言うのは、忍耐強いという意味がある。patience(ペイシャンス)「忍耐」という言葉からきている。病気になると、治るまで待たなければいけない。耐え忍ばなければ…。
イギリスに旅をした時に、家内が病気になったのです。夜になり、38,9度くらいの熱が出て、体温計を宿の方に借りて計ったら39度近くあった。これは困ったと思って、朝起きまして、すぐに医者に連れて行こうと思って、ホテルの方に聞いたら、裏に開業医がいましたから、そこへ連れて行った。そして医者に診て貰った。様子を聞いた上で、処方箋を上げますから、これで薬を買ってくださいと、処方箋を貰って、近くのドラッグストアに行って買いまして、飲ませたのです。朝の10時過ぎに飲ませて、旅先ですから氷もありません。アイスクリームを買ってきて、頭にのせていました。夕方4時くらいになっても熱が一向に下がらない。私は焦りまして、このままイギリスで葬式を出すのかなぁと思って、医者は5時には終るので、何とかそれまでにと思って4時半くらいになって、居たたまれなくなり、出かけて行って「まだ薬が効かないのだけど、間違っていやしないか」と尋ねました。医者は「薬は24時間経たないと効かないものだ。これはペニシリンだから、抗生剤はそのくらいの時間が掛かるからもう暫く待ちなさい」と言われました。
飲んだら直ぐ効くということはない、人間の体は、神様の手の中にあって、その時が定められている。病気が治るにも時があると、伝道の書に書いてある。でも、そういう事態になった時、忘れるのです。だから、病気になって、忍耐を教えられる。これは幸いなことだと思う。ただ、なんでも忍耐したらよくなるかというと、そうはいかない。忍耐して、忍耐して、段々人がひねくれて、固まって、煮ても焼いても喰えなくなるケースも多くあります。
4節に「忍耐は錬達を生み出し」と記されています。練達というのは、新改訳聖書を読みますと、「練られた品性」という言葉で訳されている。練り清められた性情性格へ変わっていくことです。そうなるのだったら、忍耐はいい結果を生むに違いない。心が清められ、広くなり、愛に満ち溢れて、譬えて言うならば、世間でいう仏様のようになる。ところが、忍耐したらそうなるという保証はない。今申し上げたように、あまりにも苦しみが長く続いて御覧なさい。容貌が様変わりして、同じ人だと思えないことがあります。恐らく若い時の写真と、鏡の自分を見比べてみると、鏡に映る自分は「苦労の跡が深く刻まれた」顔になっている。私どもは練られた品性に変わっていかなければいけない。聖書はそれを約束しているのです。4節に「忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである」。そして、清められた性情性格になって、絶えず希望を持ち続けていく人になる。
若かった20代、或いは10代の写真と、今の鏡に写っている自分の顔と見比べて、何が変わっているかと言うと、希望が欠けているのです。望みのない顔になっている。若い時の顔の美しさは、望みに溢れている。幼稚園くらいの子供から中高生、大学生にいたるまで、夢に溢れていたのです。希望に満ちていました。将来こうなりたい、ああなりたい、或いはこんな人と結婚したい、こんな家庭を、こんな子供で、やがて老後はこうなってと、そして社会にあっては、こんなことをして、あんなことをして、人生はばら色だと輝いていた時代があった。
ところが、年とともに、全てが失われていって、希望が失望の始まりであるとひしひし身にしみて感じている。だから、今更「希望を持ちましょう」なんて言われても、「ふ、ふん」と冷笑する。「そんなものはあるはずがない」と言う。希望は失望に終わるもの、望みなんか持てないのが今の現実、ましてや自分自身を考えたら、もう後がない、希望もない。ここが私たちの一番の問題点。だから、「そして、希望は失望に終ることはない」と言われると、びっくり仰天、「失望に終らない希望なんてあるのか」と不思議に思う。私たちの経験からすると、失望することがない希望なんて有り得ない。しかし、5節に「希望は失望に終ることはない」。こんな希望だったら持ちたいと思います。失望に終わらない理由は、「なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。これが肝心です。3節から5節までの中で、一番大切なのは「神の愛がわたしたちの心に注がれている」ことです。神様の愛があれば、患難をも喜ぶことが出来、そして、患難は忍耐を生み出し、その忍耐は、決して人をひねくれた、扱い難い頑なな者にするのでなく、「錬達を生み出し」ていく。そしてその練達は希望に繋がって行き、そしてその希望は失望することのない希望となっていく。
世の中の人でもこの聖書の言葉は良く知っています。時に、結婚式のスピーチでこの聖言を引用する方がいる。「この人、聖書を読んでいるのか」と思う時があります。患、忍、練、希と、これはいい話になります。ただし、そうなるために欠くことの出来ない事柄がある。それがこの5節の、「なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって」とあります。今、私たちは聖霊に満たされているはずであります。ペンテコステの日に、弟子たち一同が集まっていた時、大きな風の音と共に、一人一人に聖霊が与えられた。この聖霊は神様の御霊、神の霊です。それは嘗ての二千年前の弟子たちだけでなくて、今私たちにも注がれている。私たちのうちにも御霊が宿って下さっている。そして聖霊、御霊なる神様が、私たちにして下さる一番大切な御用は、神様の愛を教えて下さることです。神様が私たちを愛して下さっていると信じるには、御霊によらなければ信じる事が出来ないのです。物事を自分の頭でいろいろと考えて、理屈や理詰めで、こういうわけだから、なるほど、神様が私を愛して下さっているのだとは、なかなか理解できない。悩みがあり、困難があり、苦しみがある人生を顧みて、現実の生活を眺めてみて、何処に神様が愛している証拠があるだろうか。神様が、ひとり子を賜うほどに愛しているというのだったら、もうちょっとましな自分になれないのか、もうちょっと悩み事が少なくても良いのではないかと思う。だから、頭で考える限り、神様の愛を信じられない。では何によって、神様は愛であると知ることが出来るか。それは御霊が一人一人の魂の中に、神が愛であることを証詞して下さるのです。御霊の働きによって、神様の愛を私たちに悟らせて下さる。だから、今読みましたこの3節以下に、患難を喜び、忍耐をし、そして忍耐から練られた品性に変えられて、そして希望を持ち、そして希望が失望に終らない秘訣は、先ず私たちが御霊に満たされること、神様の霊に満たされて、御霊によって神様の愛を知ることです。
その愛とは6節以下に記されています。もう一度読みますと、「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。6節から8節までの間に、「弱かったころ」、「不信心な者たち」、或いは8節に「罪人であった時」とあります。八百万もの神様がいる日本にいると、どこかでいわゆる神様に出会います。犬も歩けば棒に当たるどころではない。歩けばどこかで神様とぶつかります。そういう神様は知っていたでしょう。しかし、聖書に語られている真の神様を知らなかった。そういう神様がいることを知らないで、自分が神様になって、自分の人生、俺が、俺がと自己中心の我侭な子供のように、自分のことしか考えられなかった。その結果、いろんな悩みに遭い、問題に遭い、事柄に遭い、生きる力を失っていた私たちを、神様が時を定めて、イエス様の救いに引き入れて下さいました。イエス様は、はるか二千年も遠い昔に、しかも日本ではなくエルサレムという地で、神様に背いた私達の罪のために、贖いの供え物となって、十字架に死んで下さった。両手両足を釘つけられ、茨の冠を頭に被せられ、胸を槍で突かれて、苦しみ悶えながら、「父よ、彼らを許し給え」ととりなして下さいました。実は私たちが当然受けるべき神様ののろいと刑罰を、既にイエス様が受けて下さった。「だから、もうあなた方は何も心配は要らないよ」と宣言して下さったのは、二千年前です。イエス様の赦しは今も変わらない。
だから、5章1節に「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」。
「信仰によって義とされた」とは、イエス様がこんな私のような者のために命まで捨てて、あの苦しみを受けて下さった事を信じて、私も主と共に死んだ者であって、今生きているのはキリストによって生かされている自分であると認める。これが、「信仰によって義とされる」ことです。そして、「神に対して平和を得ている」。もはや神様と私たちは敵対関係じゃなくて、神様が私たちの側に立って下さって、私たちの後ろ盾となり、味方になって下さっている。
そして2節に「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」。イエス様を信じて、神の子供とされ、神様の所有となり、神様の手に握っていただき、神様の御愛に包まれて生かされている。この豊かな恵みに導き入れられている。これは私たちの生活や、周囲の事情や境遇が激変するのではない。私たちの魂が、心が恵みに与って希望を持たせていただいている。どういう希望か?死を超えて永遠に生きる命、神様の御国に住まいが備えられて、イエス様が私たちをそこへ喜んで迎えて下さる時がくる。この「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」。私たちの卑しき体を、性情性格の穢たるものを清めて、瞬時にしてキリストの体と同じ、栄光の体へと変えて下さる。地上の死によって、そこで一旦、肉体を脱ぎ捨てますが、その死を超えて向こうに、なお神様の栄光の輝きとして、神と共に生きる新しい永遠の住まいに移される希望を持って、実は喜んでいるはずであります。年をとって、若い時と違ってしまったのは、希望がないからだと言いました。実は、持つべき希望があるのです。地上を越えて、その先に神様の御許に帰っていく、神の栄光に与る希望を絶えず持ち続けることが出来るのです。
ですから、患難をも喜ぶのです。何故ならば、神様が限りなきひとり子を賜うほどの大きな愛をもって、私を愛している事を信じているからです。こんな私を愛していると言われるけれども、神様はどの程度愛しているのかしらと疑うならば、もう一度、主が何を私のためにして下さったかを味わって下さい。イエス様の十字架を抜きにして、愛は無いからです。ヨハネの第一の手紙4章に、イエス様を罪の贖いの供え物として、私たちのためにこの世に遣わして下さったとあります。神様は御愛を悟らせるために、具体的に何をしたらいいだろうかと、考え抜いた末に、神様が出した結論が十字架なのです。私たちに美味しいものを食べさせて、事情境遇を変えるくらいなら、いとも簡単なことです。神様はどんなことでも出来る方ですから。しかし、そんなことでは神様の愛を全部表せない。最終的な結論は、私たちのために愛するひとり子を、あえて十字架に捨てて下さった。私たちが本来神様の前に償わなければならない罪の贖いとして、供え物として、神様の方が御自分のひとり子を、具体的に私たちの身代わりとして送って下さった。ここを信じなければ、神様を信じる事は出来ません。どうぞ、それほど大きな愛で、愛されているあなたであることを信じて下さい。
6節以下に、「わたしたちがまだ弱かったころ」、「不信心な者」であった時、8節には「罪人であった」、そういう神様を知らない、我侭な自己本位で本当に世を呪い、人を呪い、生まれながらに神様の呪いを受け、滅ぼされて当然である者を、神様は赦して下さった。私たちの状態が良くなったからそうしたのではない。まだ罪人であり、神様を知らないはるか以前に、やがて地上に命を与えられるであろう私たちためにと、エペソ人への手紙の1章に記されている。世が造られない以前から、私たちを愛のうちに選んでと記されています。神様は私たちを限りない愛をもって愛して下さっている。その愛にピタッと根ざして生きる。
エペソ人への手紙3章14節から19節までを朗読。
この16節から19節までは祈りです。勿論、その前も祈りの一節です。非常に長い祈りですが、この祈りの中心は、私たちが神様の愛を信じるようにという祈りです。神様が、私たちに求めておられることはたくさんありますが、なかでも一番大切なことは、私たちに神様から愛されている自分だと、知って欲しいのです。17節に「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み」とあります。神様の御言葉を信じて、イエス様が私たちと共に居て、住んで、生かして下さっている事を知って、神様の愛に信頼して生活をすること。これが、17節の「愛に根ざし、愛を基として生活すること」です。私たちの置かれた現実がどんな事情であろうと、悩みであろうと、患難の中であろうと、神様は私を愛してやまない方ですと、神様の愛を信じていくこと。これが神様を信じる事です。神様が私を愛して下さっているから、今はこういう状態であるかもしれない、今はこのような苦しみの中にあり、悩みの中にあっても、しかし、主は全てを知って、愛して下さっているのですから、決して捨て置くことを為さらない。このままで終らせないで、もっと素晴しい栄光の姿に造り変えてくださる。それが具体的にどうなるのか、分からないけれども、神様は、必ずその事を成し遂げてくださる。
だから19節に「また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って」とあります。言葉では説明のつかないほどの大きなイエス様の愛を知る。そのために、今この地上に命を与えられている。愛に根ざし愛を基として、神様の愛を知るための生活がある。だから、どんな時にも、どんなことにも、主が私を愛して下さっていると信じて生活する時、その愛の深さ広さを具体的に体験することが出来る。キリストの愛を知って、19節に「神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように」。素晴しい約束ですね。神様のうちの中にある栄光、力、愛、恵み、神様の持っている一切のものを私たちに注いで下さる。私たちを満たして神と同質の者へ、神に似る者へと造り変えて下さいます。これが今私たちに与えられている希望、望みです。
そして20節以下に「どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン」。ここに私たちが求めるよりも、思うよりももっとそれを超えた素晴しい事を、神様はして下さいます。神様を信じるとは、取りも直さず、神様が私を愛して下さっていると信じる事です。愛を知って、味わって、神様はどんなことでもして下さることを体験し、そこに希望を持つ時、希望は決して失望に終ることはない。
ローマ人への手紙8章31,32節を朗読。
これは本当に素晴しい約束です。神様が私たちの味方であるから、どんなものも私たちに敵する事は出来ない。この確信を絶えず握っていましょう。悩みに遭い、患難に遭うと、自分一人で、孤独に悩みを抱えているように思い込む。私も病気を宣告されて丁度一年になりますが、昨年の今頃のことを振り返ってみると、「自分一人がこんな悩みを負わせられて」と考えて、街ゆく人をみると、「あの人たちはこんな悩みも知らないで…」と、自己憐憫に陥り、「可愛そうな私だな」と思っていた。神様を離れてしまうとそういう思いになります。だから、ここにあるように、「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。私一人ではない、味方となって下さる神様が「わたしがあなたを愛しているではないか」、私はひとり子を惜しまないであなたのために捨てた。だから、他のことを惜しむことがあろうか。どんなことでも出来ないことのない方、その方が今それでよろしいと仰って下さる。主の愛の中に、自分を委ねて生きるのです。信頼しきっていくことです。
8章35節から37節までを朗読。
これが素晴しいですね。「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」。私たちをイエス様の愛から、一体誰が離れさせるでしょうか。そこにありますように「患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」、どんなことが起こってきても、私のキリストに対する愛、キリストよって証された神様の愛を、私から奪い去るものはいない。神様の愛を疑わせるものは、この世に一切ありません。そうでありながら、つい目先のこと、周囲を見て、直ぐに神様の愛を疑う。神様はこんな私をすら愛して下さっているから大丈夫!現実は大丈夫じゃない状態が見えるかもしれない。ああなったらどうしようか、こうなったら…と。しかし、大丈夫!神様はどんなことでも為し得給う方。主の手を信じて、御愛を信じて、望みを持っていこうではありませんか。そしてその希望は失望に終らない。37節に「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」。勝利から勝利へ、自分の力で打ち勝つことは出来ないけれど、主の愛を信じていく時、私たちは力を受けます。そして望みに立つことが出来る。また失望することの無い結果を、与えて下さいます。
私は最近一つの課題を与えられて祈っています。いろいろと考えると、「ああなるとこうなるだろう、どうも先行きが暗いな、これは大変な事になるかもしれない」と思い煩っていました。しかし、主の前に鎮まって、祈って、祈って、繰り返し祈っておりましたとき、段々と心に、神様の愛を悟らせていただきました。「そうだった、こんなに愛して下さった神様がいる。その神様がへまなことをなさるはずがない。この問題についても、神様がこれからどう為さるか、とにかく先の事は分からない。それを知っているのは神様です。私のために、最高にして最善の明日が備えられている。私が考えてもどうこうなることではない。主よ、あなたの御手に全てを委ねますから、よろしく導いて下さいと。主の愛に心を委ねるとき、望みなきことに望みを持つことが出来る。これは素晴しい恵みです。神様はそこから思い掛けない、驚天動地と言いますか、天地がひっくり返るようなことでもすることが出来ます。ですから、これは仕方がない、「諦め」という箱の中に投げ込んでいることがあったら、もう一度それを取り出して、神様に信仰を持って祈りましょう。
ローマ人への手紙5章5節に、「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。ここに「注がれているのだ!」とはっきり断言されています。これから注ぎましょうと言うのではない。私はあなたに愛を注ぐから、その前にあなたはこれだけのことをしなさいという事もない。もう注いでいるから、それを信じなさいと。主の御愛を信じて、置かれた所で、「大丈夫です、主よ、あなたが知っています」と信仰を持って、信頼していきましょう。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。