「ペテロの第一の手紙」2章18節から25節までを朗読。
21節「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」。
今年もイースターを迎え、聖書の記事に従って言いますと、今日の木曜日はイエス様が晩さんの席に着いて弟子たちの足を洗ったという『洗足木曜日』と言います。イエス様のご生涯を振り返ってみますと、「ピリピ人への手紙」に語られているように、「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」とあります(2:8)。「従順」という言葉は主の生涯を解き明かすキーワードです。とことん従うこと、従順に従う。これはとても出来にくいことであります。しかも心からそれに従うことは、見た所、表向き従うこと、それらしい形をとることはいくらでもできます。しかし、心の底から相手に、言葉とか、何かに従って行くのは余程でないと出来にくいことです。
イエス様は神の位に居給うた御方、御子であったと証詞されています。イエス様は父なる神様の命令に従って、この世に降ってくださった。この世に来ることは、イエス様にとったら何一つ益するところがないどころか、悲惨な状況に身を置くことになります。考えてみますと、「父なる神様は大変なことをなさったなぁ」と思います。人の親でも我が子を過酷な、到底幸せとは思えない状況や事柄に委ねることはたまらないだろうと思います。それだけに父なる神様が私たちをどれ程愛してくださったかがよく分かります。
イエス様が神の位を捨て、人の世に来てくださった。「いいじゃないか、人の世なら俺たちと同じじゃないか」と、そのように思うかもしれませんが、しかし、いま私たちの生きている人の世は、どれ程悲惨で惨めで、誠に暗黒に覆われ、暴虐(ぼうぎゃく)に満ちたものであるかを思いますなら、決してイエス様が喜んで来られるような場所ではない。何とたとえて言えばいいか分からないような大変大きな落差であります。神の位に居給うた、栄光の中におられた御方が人となって、おとめマリヤの許(もと)に大工ヨセフの子として生まれて、この地上での生活を私たちと同じように苦しみと悩みの人であった、と語られています。そういう苦しみ、悩み、あるいは悲しみ、病を知り給う御方、弱き者となってくださった。私たちと全く同じかたちをとって、この世の悩み苦しみの中にご自身を置いてくださった。これだけでも大変な事態であったと思います。そのイエス様は「じゃ、何のために遣わされて来られたか? 」と。それは私たちの罪のあがないの供え物として父なる神様が断罪する、罪を裁くためのいけにえとしてご自分の御子を遣わしてくださったのです。だから、これほど悲惨な話はありません。そういう苦しみの中でイエス様はただひたすら父なる神様の御心に従うためにこの世に来てくださった。従順なる御方となってくださった。これは私たちにとって大きな恵みであり、喜びであると同時に、また私たちもそういう生き方をすべきことを語っておられるのです。
21節に「あなたがたは、実に、そうするようにと召された」とありますが、「そうするように」とは、どうすることなのか? それは18節から20節までに語られているように、どんなことの中に置かれても神様を仰いで、それを耐え忍んで行くこと。19節に「もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである」と。「不当な苦しみ」、自分の身に覚えのないこと、非難中傷、様々な取り扱いをこの世にあって受けます。そうしますと、それを私たちは受け難い、それを認めたくない、あるいは苦しい、つらいことですから、何とかして言い逃れるといいますか、自分の義を認めさせようとします。しかし、そうであるかぎり私たちは神様の義をあらわすことができないのです。19節に「不当な苦しみを受けても、神を仰いで」とあるように、神様を仰いで行くこと。神様に心を向け、思いを向け、そしてその苦痛を耐え忍ぶ。「それはよみせられること」、「よし」とされることです。神様から「それはよろしい」と、神様が「よし」と認めてくださることである、というのです。一方20節には「悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか」。確かに悪いことをしてそれなりの罰を受ける。「自業自得」という言葉がありますが、これは当然のことであります。「それは、あんたがしたのだから仕方ない」となります。「ちゃんと責任を果たしなさい」と言われておしまいであります。これは当然のことであります。ところが、「しかし」と20節の後半に「善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである」と。「善を行って苦しみを受ける」、善きことをしながらそれが受け入れられない、逆にそれを悪く取られる。いわゆる罪なき者が罪人とせられることです。
世の中で「冤罪(えんざい)」ということを言います。やってもいないいろいろな事件で「お前が犯人だ」と強く言われて、仕方なしにそれを渋々認めてしまう。しかし、自分には心当たりがない、覚えがない。どうしても納得いかないという。そのために裁判をもう一度やり直してほしいと、本来、裁判は一度審議が終わったら、それで決定してしまうのです。だから、下級審から上級審、最高裁に至るまで何回かの審議を経(へ)て来ます。最高裁の判決が出たら、それは確定でありまして、それを覆すということはまずもって無理、というのが今の司法制度です。しかし、どうしても人のすることでありますから、どこかに欠けた所、抜けています。そのために再審請求を出します。死刑を宣告され、死刑囚になった人が、「どうしても納得がいかない。自分は決してやっていない。自分の身は潔白である」ことを何とかして証明したい。そういう思いから、新しい証拠を調べたり、いろいろなことをもって再審請求をやります。これはなかなかすぐに認められないのが現実であります。
そういう不当な扱いを受けること、20節の後半に「しかし善を行って苦しみを受け」、その中を耐え忍んで行く。これは言葉で言うようになかなか人は簡単にたやすく「耐え忍ぶ」ことはできません。しかし、それを耐え忍んだ御方がいらっしゃるのです。だから「耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられること」、これこそが神様が喜んでくださることであると。21節に「そうするようにと召されたのである」。私たちがこうしてイエス様の救いにあずかって神の民としてこの世に生かされている使命、目的はここにあるのです。「こうするようにと召される」、どんなことでもいわゆるお手本があるとそれに倣(なら)えばやりやすいことがあります。
昔、学んだ「徒然草」であったと思います。兼好法師ですか、詳しいことは忘れてしまいましたが、「何事にも先達(せんだつ)はあらまほしきもの」という、どういう訳かこの言葉だけは覚えているのですが、どんなことにもお手本がなければならない、先導する者、ちゃんとその道をわきまえた人があって、教えてくれなければきちんとしたことができない、という趣旨の言葉であります。その具体例が「徒然草」にあったと思いますが、内容を忘れてしまいました。どんなことでもそうですが、お手本があってそれを見ながら生きること。私たちの人生に置いてもそうですし、また信仰生活でも同様です。私たちはイエス様の救いにあずかった者として生きる生き方は、まさにイエス様を私たちの手本として生きることに他なりません。では、イエス様を手本とするといって、何を手本とするのか? イエス様があれをした、これをしたとか、あんなことを言ったとか、こうした、ということが手本ではない。イエス様の行動、生き方、生活が成り立っている根本、原理原則といいますか、いちばん根底にある生き方が何であったか、しっかりとそこに倣うことです。見習って行くことが大切であります。
ですから、21節に「そうするようにと召された」、イエス様はどのように生きられたか、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残された」。イエス様は私たちの罪のためにいけにえ、犠牲となって十字架に命を捨ててくださった。罪無き御方が罪人とされて不当な苦しみをお受けになったときにも、決してそのことに不平、不満、憤りを現わさなかった。「御足の跡」、イエス様がそうやって歩まれた模範を私たちの手本として、倣うものとしてそこに生きるようにとこの救いに召された者であります。
その後22節以下に、「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」。イエス様は罪を犯したことのない御方、罪人では決してない。私たちは「お前、こんな悪いところがあるだろう」と言われて、過去から現在に至るまで振り返ってみると、たたけばどこかほこりか何かが出てくる、そういう者でありますから、あまり否定はできないのですが、イエス様はそもそも神の子でいらっしゃった御方、神であられる御方、神ご自身です。その御方が人となってこの世に来てくださった。罪を犯したことがない、これは当然のことであります。だから「ヘブル人への手紙」にありますように、「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」、また「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである」(4:15)と語られています。私たちと寸分変わらない、私たちと同じように肉の弱さを知り給う御方であられます、しかし、罪を犯したことのない御方。22節に「キリストは罪を犯さず」、しかも「その口には偽りがなかった」とあります。イエス様の心は清廉(せいれん)潔白、何一つ心にとがめる所のない御方であった。「その口には偽りがなかった」と。口というのは、言葉でありますが、私どもはどちらかというと、口から出まかせです。その場その場で適当に言ってしまい、後でしょっちゅう「言わなければ良かった」「言いすぎた」とか、「もう少し言えば良かった」とかになります。口に偽りがあるのです。ということは、「口から出て行くものは、心の中から出てくる」(マタイ 15:18)とイエス様もおっしゃいます。私たちの心がねじくれていますから、出てくるものは何もかも当てにならない、そのとおりであります。ところが、イエス様はお語りになったお言葉の一つ一つが真実である。何一つそこにはうそ偽りがなかった。そういうイエス様はどこを取っても非の打ち所のない御方でいらっしゃる。「それに倣え」と言われると、私たちは到底倣い様がない。「イエス様のように、お前はならなければ」と言われても、そんな完全無欠なイエス様のように私たちはどうやったらなれるかと。死んでもう一度出直しをするか、出直すたって、ニコデモ先生にイエス様がそう言ったように、「肉から生まれる者は肉である」(ヨハネ3:6)。何度生まれ変わっても、結局同じ人間です。イエス様はそういううそ偽りのない、何一つ……、完全無欠といわれる、パーフェクトな御方でいらっしゃった、しかしながら人として私たちと同じように弱いところを知り、経験してくださった御方が、罪人となって断罪される。その誠に耐え難い苦しみであっただろうと思うのです。
そのような御方が苦しめられても23節に、「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず」とあります。一つとして弁解することがない、ひと言として言い訳をなさらない。
「マタイによる福音書」27章11節から14節までを朗読。
11節に「さて、イエスは総督の前に立たれた」とあります。イエス様は過越の食事が終わってゲツセマネで祈っているときに、捕える者たち、長老や祭司長、あるいはローマの兵隊たちがやって来まして、イエス様を捕えました。その後、ヘロデの所やカヤパの屋敷や、あるいはこうして最後は総督、ピラトの所に引き出されたわけです。そこで尋問を受けられます。「総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。「あなたはユダヤ人の王なのか」と。「イエスは『そのとおりである』と言われた」。「そうだよ」とはっきりここでひと言答えました。これだけです、イエス様がこの裁判の場でおっしゃったのは。いわゆる人定尋問、その人が本人であるかどうかをまず裁判の一番最初に尋ねます。「あなたの名前はなんですか」、「なんのなにがしです」、「職業は?」、「これこれです」と、本人確認をするわけです。まさにイエス様はここで総督から、総督はこの場合裁判官でありますから、イエス様に尋ねて「あなたはユダヤ人の王であるか」と、それに対してはっきりと「そうである」と言われた。12節に「しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった」。それから後、ここにありますように祭司長、長老たちが次々とイエス様についてあること、ないこと、ことごとくの罪を並べ立てる、言い立てる。告発するわけであります。それをジーッと聞いていらっしゃったでしょうが、「イエスはひと言もお答えにならなかった」。イエス様は何一つ弁解なさらない、言い訳をなさらない。そのときピラトはあまりにも気の毒になったのです。13節に「するとピラトは言った、『あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか』」。祭司長、長老たちはイエス様に対して次から次へと「あんなことがあった」「こんなをした」「ああした」「こうした」と罪状を並べ立てる。それに対してイエス様はひと言もお答えにならない。ただ黙ってその場に立っていらっしゃった。ピラトはあまりにも不思議に思って、「お前は不利な証言をされているのに、どうして? 聞いていないのか」と、耳でも聞こえないのか。と思ったのです。「聞いていないのか」と、このときピラトはまことに驚いたと思います。14節に「しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった」。「総督が不思議に思ったほどに」とあります。裁判官であるピラトですらも「これはひと言もふた言もあってしかるべき」という、被告人としての思いも分かる。何か言いそうなものだ、と思うのだが、イエス様は何にもおっしゃらない。ひと言もお答えにならない。その後、祭りのたびに囚人を一人恩赦(おんしゃ)といいますか、そういう特赦を与えるという決まりがありました。このときピラトは「イエス様を何とか赦したい」と思ったのです。「この人には罪がない」と思いました。
ですから、そのことをピラトは告白しています。22節以下をお読みいたしますと「ピラトは言った、『それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか』。彼らはいっせいに『十字架につけよ』と言った。23 しかし、ピラトは言った、『あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか』。すると彼らはいっそう激しく叫んで、『十字架につけよ』と言った」。ピラトは「あの人はいったいどんな悪事をしたのだ。罪がないじゃないか」と。どうしてもピラトとしては進んで、「これは死刑だ。十字架刑だ」と断罪できないのです。しかし多くのユダヤ人や指導者たちはただひたすら闇雲(やみくも)に「十字架につけよ」と叫ぶ。この時のイエス様の思いはどんなであっただろうかと思いますが、到底想像がつきません。まさにピラトが不思議に思ったほどにひと言も言われない。なぜそんなに耐えることができるのか?「イエス様はスーパーマンに違いない。私たちとは違うのだ」と。もしそうであったら、私たちは倣っても意味がない。同じ様にはできないわけです。「御足の跡を踏み従うように」と模範であったイエス様、そのイエス様は私たちと同じ弱さを知り給う、悲しみの人であり、また私たちと同じように苦しみを知り給う御方です。もし自分がこの場に、このピラトの法廷に立たせられたら、こんなに黙ってなんていませんよ。泣きごとを言うかもしれない、あるいは強い言葉は出ないかもしれないけれども、情けない様になるに違いない。しかし、イエス様はひと言も言葉を発しない。黙って、そのなされるままに任せて行く。
「マタイによる福音書」27章27節から31節までを朗読。
まことに人の尊厳とか、人の誇りといいますか、自尊心というものを徹底的に打ち砕かれるのです。まさに兵隊たちがイエス様をもの笑いにするのです。29節に「嘲弄(ちょうろう)して」という言葉があります。31節にも「嘲弄したあげく」と繰り返してこの言葉が使われています。徹底的にイエス様の……、これは肉体が滅びる以上に私たちの精神性といいますか、その心を打ち砕く行為であります。なぶり物にされ、物笑いにされて自尊心を打ち砕かれてしまう。生きる力、そういうものをそぎ落としてしまうような取扱いを受けます。しかし、その間もイエス様はひと言も言葉を発しない。黙ってそのなされるまま、どのように取り扱われようとひと言もそれに抵抗しない。どうしてそんなことができたのか?
「ペテロの第一の手紙」2章23節に、「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」と。ここに「正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」。「正しいさばきをするかた」、これは父なる神様、義なる御方、正しい、全てのことにきちんと報い給う御方、この神様に徹底して委ねきっている。これはピラトの法廷に出てからなった、あるいは、そうやってローマの兵隊たちに嘲弄されているときにそうなったということよりも、もうひとつその前があります。ゲツセマネの園で既にイエス様は一つの決断をされているのです。
「マタイによる福音書」26章36節から39節までを朗読。
これはイエス様がゲツセマネの園で祈られた祈りであります。このとき食事が終わって、弟子たち共にいつも祈りの場としておりましたゲツセマネと言われている場所へ行きました。そこで弟子たちを置いて、イエス様が一人で祈っておられる。しかし、37節に「悲しみを催し、また悩みはじめられた」とあります。またその先38節には「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」とも語っておられます。イエス様は今から受けようとなさるご自身の苦しみがどんなに耐えがたいものであるかをよくご存じだったのです。決して「俺はへっちゃらだ」とおっしゃる御方ではありません。私たちと同じ弱い者であります。だからこそ「悲しみを催し、また悩まれる」「悲しみのあまり死ぬほどである」と、死ぬような悲しいつらい気持ちになっておられる。「何としてもこの悩みからわたしを救ってください」、これは主の切なる祈りでもあります。だからこの祈りに39節「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と。本当にそうです。「何とかこの悩みからわたしを遠ざけてください」と祈らざるを得ない。しかし、ここでイエス様は「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。「神様、あなたの御心に委ねます」と祈っておられます。ただイエス様は一回祈ったから「もうこれでよし」とおっしゃったわけではありません。その後にもまた同じ祈りを三回続けて、これは繰り返し祈り続けられたのです。そうやって祈っている間に神の霊がイエス様を励ましてくださった。
「マタイによる福音書」26章44節から46節までを朗読。
この祈りの内にイエス様の心と思いが整えられ、神様の新しい力に満たされて、だんだんと父なる神様のみ心と思いが一つになる。神様の御思いにしっかりと一致して行くのです。そのとき悩みであったもの、悲しんでいたその思いがスーッと消えて行きます。そしてここにイエス様は全く違った人になります。45節以下に「見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。46 立て、さあ行こう」と、「立て、さあ逃げ出そう」と言うのではないのです。「さあ行こう」と、いま向かってくる、自分を捕えようとする者に向かって、真正面から顔をあげて進んで行く。といって、敵対するためではないのです。自分の身を彼らの手に渡す、委ねるのです。この時点で、このところで既にイエス様は父なる神様と一つになりきっておられる。「みこころのままに」と自分を定める。心をきちっと神様につないでしまうといいますか、結びつけて行く。これが後のあの一言も、ピラトが不思議に思うほど何一つ言われないイエス様の覚悟といいますか、これがイエス様の生き方、父なる神様とご自分がどのように結びついて行くか。
これが私たちも倣うべき事柄であります。この地上にあって私たちも弱い者でありますから、いろいろ心配なこと、悲しいこと、つらいこと、憤ること、許せないこととか、また自分に対しても誤解があり、曲解があり、また非難中傷があり、腹立つことや憤ることがたくさんありますが、そのたびごとに私たちは祈って、祈って「主が、神様がご存じでいらっしゃる」。「正しいさばきをなさる御方がおられるのだ」と、きちっと心を定める。
「詩篇」108篇1節から4節までを朗読。
1節に「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます」。ここに「心を定める」、主を信頼する者となる、主の御心に自分をきちっと結びつけるといいますか、覚悟をするのです。私どもは、そこがどうもあやふやで、もうひとつ力がないのです。「御心を」と信じているつもりですが、「何とかちょっと逃れる道がないだろうか」「何とかこうはできないだろうか。ああはできないだろうか」と、いつまでも未練がましくグジャグジャになっているから、神様に心がつながらない、きちっと。イエス様がそうであられたように、徹底して祈って、そこで神様の御手を信じて「御心に委ねます」と心を定める。どこかで逃げ腰になったり、自分を惜しんだり、命を惜しむと、なかなかそこへ行かない。イエス様が最初ゲツセマネの園に行かれたとき、悲しみのため悩み、そして死ぬほどの悲しみの中に置かれた。そのときまだ心が定まらないのです。ご自分の使命は分かっていました。この日、この時、このためにこの世に遣わされた者であることをイエス様はご存じでした。しかし、知っているから、心もそうなるかと言うと、ならないのです。私たちもそうです。「こうあるべきなんだ」、「こうすべきなのだ。そうだよな」と分かっていても、もう一つ心がどうしてもついて行かない。そのときこそ、祈りに祈って、イエス様がどのように歩んでくださったか、こういう中でどのようにイエス様は父なる神様に従ったか、そこで心を定める。これが私たちの求められていることに他なりません。
「ペテロの第一の手紙」2章23節に、「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」。全てを委ねて行く。「心を定める」というのはここです。どうぞ、どんなことでも、小さなこと、大きなこと、どんなことにあっても、そこでつい私たちは右往左往し、いろいろなことで心を悩ませ、悲しみます。いろいろなことで思い煩いの中に置かれる。そのときこそ、「御足の跡を踏み従うようにと」とイエス様はそこでどうされたか? あの十字架を前にしてイエス様はどのようにご自分の心を取り扱われたか、その御思いに私たちはしっかりと倣う者となって、祈りによって心を定めて主に一切を委ねて行きたいと思う。神様はそういうイエス様を放ったらかしにされない、捨てておかない。「すべての名にまさる名を彼に賜わった」(ピリピ2:9)とあります。黄泉(よみ)より引き上げて神の栄光の姿にまで神様はイエス様を持ち上げてくださいました、高めてくださいました(使徒 2:31)。
私たちに対してもそうです。イエス様の御足の後に倣う者となって、主の栄光を共有する者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
21節「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」。
今年もイースターを迎え、聖書の記事に従って言いますと、今日の木曜日はイエス様が晩さんの席に着いて弟子たちの足を洗ったという『洗足木曜日』と言います。イエス様のご生涯を振り返ってみますと、「ピリピ人への手紙」に語られているように、「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」とあります(2:8)。「従順」という言葉は主の生涯を解き明かすキーワードです。とことん従うこと、従順に従う。これはとても出来にくいことであります。しかも心からそれに従うことは、見た所、表向き従うこと、それらしい形をとることはいくらでもできます。しかし、心の底から相手に、言葉とか、何かに従って行くのは余程でないと出来にくいことです。
イエス様は神の位に居給うた御方、御子であったと証詞されています。イエス様は父なる神様の命令に従って、この世に降ってくださった。この世に来ることは、イエス様にとったら何一つ益するところがないどころか、悲惨な状況に身を置くことになります。考えてみますと、「父なる神様は大変なことをなさったなぁ」と思います。人の親でも我が子を過酷な、到底幸せとは思えない状況や事柄に委ねることはたまらないだろうと思います。それだけに父なる神様が私たちをどれ程愛してくださったかがよく分かります。
イエス様が神の位を捨て、人の世に来てくださった。「いいじゃないか、人の世なら俺たちと同じじゃないか」と、そのように思うかもしれませんが、しかし、いま私たちの生きている人の世は、どれ程悲惨で惨めで、誠に暗黒に覆われ、暴虐(ぼうぎゃく)に満ちたものであるかを思いますなら、決してイエス様が喜んで来られるような場所ではない。何とたとえて言えばいいか分からないような大変大きな落差であります。神の位に居給うた、栄光の中におられた御方が人となって、おとめマリヤの許(もと)に大工ヨセフの子として生まれて、この地上での生活を私たちと同じように苦しみと悩みの人であった、と語られています。そういう苦しみ、悩み、あるいは悲しみ、病を知り給う御方、弱き者となってくださった。私たちと全く同じかたちをとって、この世の悩み苦しみの中にご自身を置いてくださった。これだけでも大変な事態であったと思います。そのイエス様は「じゃ、何のために遣わされて来られたか? 」と。それは私たちの罪のあがないの供え物として父なる神様が断罪する、罪を裁くためのいけにえとしてご自分の御子を遣わしてくださったのです。だから、これほど悲惨な話はありません。そういう苦しみの中でイエス様はただひたすら父なる神様の御心に従うためにこの世に来てくださった。従順なる御方となってくださった。これは私たちにとって大きな恵みであり、喜びであると同時に、また私たちもそういう生き方をすべきことを語っておられるのです。
21節に「あなたがたは、実に、そうするようにと召された」とありますが、「そうするように」とは、どうすることなのか? それは18節から20節までに語られているように、どんなことの中に置かれても神様を仰いで、それを耐え忍んで行くこと。19節に「もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである」と。「不当な苦しみ」、自分の身に覚えのないこと、非難中傷、様々な取り扱いをこの世にあって受けます。そうしますと、それを私たちは受け難い、それを認めたくない、あるいは苦しい、つらいことですから、何とかして言い逃れるといいますか、自分の義を認めさせようとします。しかし、そうであるかぎり私たちは神様の義をあらわすことができないのです。19節に「不当な苦しみを受けても、神を仰いで」とあるように、神様を仰いで行くこと。神様に心を向け、思いを向け、そしてその苦痛を耐え忍ぶ。「それはよみせられること」、「よし」とされることです。神様から「それはよろしい」と、神様が「よし」と認めてくださることである、というのです。一方20節には「悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか」。確かに悪いことをしてそれなりの罰を受ける。「自業自得」という言葉がありますが、これは当然のことであります。「それは、あんたがしたのだから仕方ない」となります。「ちゃんと責任を果たしなさい」と言われておしまいであります。これは当然のことであります。ところが、「しかし」と20節の後半に「善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである」と。「善を行って苦しみを受ける」、善きことをしながらそれが受け入れられない、逆にそれを悪く取られる。いわゆる罪なき者が罪人とせられることです。
世の中で「冤罪(えんざい)」ということを言います。やってもいないいろいろな事件で「お前が犯人だ」と強く言われて、仕方なしにそれを渋々認めてしまう。しかし、自分には心当たりがない、覚えがない。どうしても納得いかないという。そのために裁判をもう一度やり直してほしいと、本来、裁判は一度審議が終わったら、それで決定してしまうのです。だから、下級審から上級審、最高裁に至るまで何回かの審議を経(へ)て来ます。最高裁の判決が出たら、それは確定でありまして、それを覆すということはまずもって無理、というのが今の司法制度です。しかし、どうしても人のすることでありますから、どこかに欠けた所、抜けています。そのために再審請求を出します。死刑を宣告され、死刑囚になった人が、「どうしても納得がいかない。自分は決してやっていない。自分の身は潔白である」ことを何とかして証明したい。そういう思いから、新しい証拠を調べたり、いろいろなことをもって再審請求をやります。これはなかなかすぐに認められないのが現実であります。
そういう不当な扱いを受けること、20節の後半に「しかし善を行って苦しみを受け」、その中を耐え忍んで行く。これは言葉で言うようになかなか人は簡単にたやすく「耐え忍ぶ」ことはできません。しかし、それを耐え忍んだ御方がいらっしゃるのです。だから「耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられること」、これこそが神様が喜んでくださることであると。21節に「そうするようにと召されたのである」。私たちがこうしてイエス様の救いにあずかって神の民としてこの世に生かされている使命、目的はここにあるのです。「こうするようにと召される」、どんなことでもいわゆるお手本があるとそれに倣(なら)えばやりやすいことがあります。
昔、学んだ「徒然草」であったと思います。兼好法師ですか、詳しいことは忘れてしまいましたが、「何事にも先達(せんだつ)はあらまほしきもの」という、どういう訳かこの言葉だけは覚えているのですが、どんなことにもお手本がなければならない、先導する者、ちゃんとその道をわきまえた人があって、教えてくれなければきちんとしたことができない、という趣旨の言葉であります。その具体例が「徒然草」にあったと思いますが、内容を忘れてしまいました。どんなことでもそうですが、お手本があってそれを見ながら生きること。私たちの人生に置いてもそうですし、また信仰生活でも同様です。私たちはイエス様の救いにあずかった者として生きる生き方は、まさにイエス様を私たちの手本として生きることに他なりません。では、イエス様を手本とするといって、何を手本とするのか? イエス様があれをした、これをしたとか、あんなことを言ったとか、こうした、ということが手本ではない。イエス様の行動、生き方、生活が成り立っている根本、原理原則といいますか、いちばん根底にある生き方が何であったか、しっかりとそこに倣うことです。見習って行くことが大切であります。
ですから、21節に「そうするようにと召された」、イエス様はどのように生きられたか、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残された」。イエス様は私たちの罪のためにいけにえ、犠牲となって十字架に命を捨ててくださった。罪無き御方が罪人とされて不当な苦しみをお受けになったときにも、決してそのことに不平、不満、憤りを現わさなかった。「御足の跡」、イエス様がそうやって歩まれた模範を私たちの手本として、倣うものとしてそこに生きるようにとこの救いに召された者であります。
その後22節以下に、「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」。イエス様は罪を犯したことのない御方、罪人では決してない。私たちは「お前、こんな悪いところがあるだろう」と言われて、過去から現在に至るまで振り返ってみると、たたけばどこかほこりか何かが出てくる、そういう者でありますから、あまり否定はできないのですが、イエス様はそもそも神の子でいらっしゃった御方、神であられる御方、神ご自身です。その御方が人となってこの世に来てくださった。罪を犯したことがない、これは当然のことであります。だから「ヘブル人への手紙」にありますように、「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」、また「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである」(4:15)と語られています。私たちと寸分変わらない、私たちと同じように肉の弱さを知り給う御方であられます、しかし、罪を犯したことのない御方。22節に「キリストは罪を犯さず」、しかも「その口には偽りがなかった」とあります。イエス様の心は清廉(せいれん)潔白、何一つ心にとがめる所のない御方であった。「その口には偽りがなかった」と。口というのは、言葉でありますが、私どもはどちらかというと、口から出まかせです。その場その場で適当に言ってしまい、後でしょっちゅう「言わなければ良かった」「言いすぎた」とか、「もう少し言えば良かった」とかになります。口に偽りがあるのです。ということは、「口から出て行くものは、心の中から出てくる」(マタイ 15:18)とイエス様もおっしゃいます。私たちの心がねじくれていますから、出てくるものは何もかも当てにならない、そのとおりであります。ところが、イエス様はお語りになったお言葉の一つ一つが真実である。何一つそこにはうそ偽りがなかった。そういうイエス様はどこを取っても非の打ち所のない御方でいらっしゃる。「それに倣え」と言われると、私たちは到底倣い様がない。「イエス様のように、お前はならなければ」と言われても、そんな完全無欠なイエス様のように私たちはどうやったらなれるかと。死んでもう一度出直しをするか、出直すたって、ニコデモ先生にイエス様がそう言ったように、「肉から生まれる者は肉である」(ヨハネ3:6)。何度生まれ変わっても、結局同じ人間です。イエス様はそういううそ偽りのない、何一つ……、完全無欠といわれる、パーフェクトな御方でいらっしゃった、しかしながら人として私たちと同じように弱いところを知り、経験してくださった御方が、罪人となって断罪される。その誠に耐え難い苦しみであっただろうと思うのです。
そのような御方が苦しめられても23節に、「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず」とあります。一つとして弁解することがない、ひと言として言い訳をなさらない。
「マタイによる福音書」27章11節から14節までを朗読。
11節に「さて、イエスは総督の前に立たれた」とあります。イエス様は過越の食事が終わってゲツセマネで祈っているときに、捕える者たち、長老や祭司長、あるいはローマの兵隊たちがやって来まして、イエス様を捕えました。その後、ヘロデの所やカヤパの屋敷や、あるいはこうして最後は総督、ピラトの所に引き出されたわけです。そこで尋問を受けられます。「総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。「あなたはユダヤ人の王なのか」と。「イエスは『そのとおりである』と言われた」。「そうだよ」とはっきりここでひと言答えました。これだけです、イエス様がこの裁判の場でおっしゃったのは。いわゆる人定尋問、その人が本人であるかどうかをまず裁判の一番最初に尋ねます。「あなたの名前はなんですか」、「なんのなにがしです」、「職業は?」、「これこれです」と、本人確認をするわけです。まさにイエス様はここで総督から、総督はこの場合裁判官でありますから、イエス様に尋ねて「あなたはユダヤ人の王であるか」と、それに対してはっきりと「そうである」と言われた。12節に「しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった」。それから後、ここにありますように祭司長、長老たちが次々とイエス様についてあること、ないこと、ことごとくの罪を並べ立てる、言い立てる。告発するわけであります。それをジーッと聞いていらっしゃったでしょうが、「イエスはひと言もお答えにならなかった」。イエス様は何一つ弁解なさらない、言い訳をなさらない。そのときピラトはあまりにも気の毒になったのです。13節に「するとピラトは言った、『あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか』」。祭司長、長老たちはイエス様に対して次から次へと「あんなことがあった」「こんなをした」「ああした」「こうした」と罪状を並べ立てる。それに対してイエス様はひと言もお答えにならない。ただ黙ってその場に立っていらっしゃった。ピラトはあまりにも不思議に思って、「お前は不利な証言をされているのに、どうして? 聞いていないのか」と、耳でも聞こえないのか。と思ったのです。「聞いていないのか」と、このときピラトはまことに驚いたと思います。14節に「しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった」。「総督が不思議に思ったほどに」とあります。裁判官であるピラトですらも「これはひと言もふた言もあってしかるべき」という、被告人としての思いも分かる。何か言いそうなものだ、と思うのだが、イエス様は何にもおっしゃらない。ひと言もお答えにならない。その後、祭りのたびに囚人を一人恩赦(おんしゃ)といいますか、そういう特赦を与えるという決まりがありました。このときピラトは「イエス様を何とか赦したい」と思ったのです。「この人には罪がない」と思いました。
ですから、そのことをピラトは告白しています。22節以下をお読みいたしますと「ピラトは言った、『それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか』。彼らはいっせいに『十字架につけよ』と言った。23 しかし、ピラトは言った、『あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか』。すると彼らはいっそう激しく叫んで、『十字架につけよ』と言った」。ピラトは「あの人はいったいどんな悪事をしたのだ。罪がないじゃないか」と。どうしてもピラトとしては進んで、「これは死刑だ。十字架刑だ」と断罪できないのです。しかし多くのユダヤ人や指導者たちはただひたすら闇雲(やみくも)に「十字架につけよ」と叫ぶ。この時のイエス様の思いはどんなであっただろうかと思いますが、到底想像がつきません。まさにピラトが不思議に思ったほどにひと言も言われない。なぜそんなに耐えることができるのか?「イエス様はスーパーマンに違いない。私たちとは違うのだ」と。もしそうであったら、私たちは倣っても意味がない。同じ様にはできないわけです。「御足の跡を踏み従うように」と模範であったイエス様、そのイエス様は私たちと同じ弱さを知り給う、悲しみの人であり、また私たちと同じように苦しみを知り給う御方です。もし自分がこの場に、このピラトの法廷に立たせられたら、こんなに黙ってなんていませんよ。泣きごとを言うかもしれない、あるいは強い言葉は出ないかもしれないけれども、情けない様になるに違いない。しかし、イエス様はひと言も言葉を発しない。黙って、そのなされるままに任せて行く。
「マタイによる福音書」27章27節から31節までを朗読。
まことに人の尊厳とか、人の誇りといいますか、自尊心というものを徹底的に打ち砕かれるのです。まさに兵隊たちがイエス様をもの笑いにするのです。29節に「嘲弄(ちょうろう)して」という言葉があります。31節にも「嘲弄したあげく」と繰り返してこの言葉が使われています。徹底的にイエス様の……、これは肉体が滅びる以上に私たちの精神性といいますか、その心を打ち砕く行為であります。なぶり物にされ、物笑いにされて自尊心を打ち砕かれてしまう。生きる力、そういうものをそぎ落としてしまうような取扱いを受けます。しかし、その間もイエス様はひと言も言葉を発しない。黙ってそのなされるまま、どのように取り扱われようとひと言もそれに抵抗しない。どうしてそんなことができたのか?
「ペテロの第一の手紙」2章23節に、「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」と。ここに「正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」。「正しいさばきをするかた」、これは父なる神様、義なる御方、正しい、全てのことにきちんと報い給う御方、この神様に徹底して委ねきっている。これはピラトの法廷に出てからなった、あるいは、そうやってローマの兵隊たちに嘲弄されているときにそうなったということよりも、もうひとつその前があります。ゲツセマネの園で既にイエス様は一つの決断をされているのです。
「マタイによる福音書」26章36節から39節までを朗読。
これはイエス様がゲツセマネの園で祈られた祈りであります。このとき食事が終わって、弟子たち共にいつも祈りの場としておりましたゲツセマネと言われている場所へ行きました。そこで弟子たちを置いて、イエス様が一人で祈っておられる。しかし、37節に「悲しみを催し、また悩みはじめられた」とあります。またその先38節には「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」とも語っておられます。イエス様は今から受けようとなさるご自身の苦しみがどんなに耐えがたいものであるかをよくご存じだったのです。決して「俺はへっちゃらだ」とおっしゃる御方ではありません。私たちと同じ弱い者であります。だからこそ「悲しみを催し、また悩まれる」「悲しみのあまり死ぬほどである」と、死ぬような悲しいつらい気持ちになっておられる。「何としてもこの悩みからわたしを救ってください」、これは主の切なる祈りでもあります。だからこの祈りに39節「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と。本当にそうです。「何とかこの悩みからわたしを遠ざけてください」と祈らざるを得ない。しかし、ここでイエス様は「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。「神様、あなたの御心に委ねます」と祈っておられます。ただイエス様は一回祈ったから「もうこれでよし」とおっしゃったわけではありません。その後にもまた同じ祈りを三回続けて、これは繰り返し祈り続けられたのです。そうやって祈っている間に神の霊がイエス様を励ましてくださった。
「マタイによる福音書」26章44節から46節までを朗読。
この祈りの内にイエス様の心と思いが整えられ、神様の新しい力に満たされて、だんだんと父なる神様のみ心と思いが一つになる。神様の御思いにしっかりと一致して行くのです。そのとき悩みであったもの、悲しんでいたその思いがスーッと消えて行きます。そしてここにイエス様は全く違った人になります。45節以下に「見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。46 立て、さあ行こう」と、「立て、さあ逃げ出そう」と言うのではないのです。「さあ行こう」と、いま向かってくる、自分を捕えようとする者に向かって、真正面から顔をあげて進んで行く。といって、敵対するためではないのです。自分の身を彼らの手に渡す、委ねるのです。この時点で、このところで既にイエス様は父なる神様と一つになりきっておられる。「みこころのままに」と自分を定める。心をきちっと神様につないでしまうといいますか、結びつけて行く。これが後のあの一言も、ピラトが不思議に思うほど何一つ言われないイエス様の覚悟といいますか、これがイエス様の生き方、父なる神様とご自分がどのように結びついて行くか。
これが私たちも倣うべき事柄であります。この地上にあって私たちも弱い者でありますから、いろいろ心配なこと、悲しいこと、つらいこと、憤ること、許せないこととか、また自分に対しても誤解があり、曲解があり、また非難中傷があり、腹立つことや憤ることがたくさんありますが、そのたびごとに私たちは祈って、祈って「主が、神様がご存じでいらっしゃる」。「正しいさばきをなさる御方がおられるのだ」と、きちっと心を定める。
「詩篇」108篇1節から4節までを朗読。
1節に「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます」。ここに「心を定める」、主を信頼する者となる、主の御心に自分をきちっと結びつけるといいますか、覚悟をするのです。私どもは、そこがどうもあやふやで、もうひとつ力がないのです。「御心を」と信じているつもりですが、「何とかちょっと逃れる道がないだろうか」「何とかこうはできないだろうか。ああはできないだろうか」と、いつまでも未練がましくグジャグジャになっているから、神様に心がつながらない、きちっと。イエス様がそうであられたように、徹底して祈って、そこで神様の御手を信じて「御心に委ねます」と心を定める。どこかで逃げ腰になったり、自分を惜しんだり、命を惜しむと、なかなかそこへ行かない。イエス様が最初ゲツセマネの園に行かれたとき、悲しみのため悩み、そして死ぬほどの悲しみの中に置かれた。そのときまだ心が定まらないのです。ご自分の使命は分かっていました。この日、この時、このためにこの世に遣わされた者であることをイエス様はご存じでした。しかし、知っているから、心もそうなるかと言うと、ならないのです。私たちもそうです。「こうあるべきなんだ」、「こうすべきなのだ。そうだよな」と分かっていても、もう一つ心がどうしてもついて行かない。そのときこそ、祈りに祈って、イエス様がどのように歩んでくださったか、こういう中でどのようにイエス様は父なる神様に従ったか、そこで心を定める。これが私たちの求められていることに他なりません。
「ペテロの第一の手紙」2章23節に、「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」。全てを委ねて行く。「心を定める」というのはここです。どうぞ、どんなことでも、小さなこと、大きなこと、どんなことにあっても、そこでつい私たちは右往左往し、いろいろなことで心を悩ませ、悲しみます。いろいろなことで思い煩いの中に置かれる。そのときこそ、「御足の跡を踏み従うようにと」とイエス様はそこでどうされたか? あの十字架を前にしてイエス様はどのようにご自分の心を取り扱われたか、その御思いに私たちはしっかりと倣う者となって、祈りによって心を定めて主に一切を委ねて行きたいと思う。神様はそういうイエス様を放ったらかしにされない、捨てておかない。「すべての名にまさる名を彼に賜わった」(ピリピ2:9)とあります。黄泉(よみ)より引き上げて神の栄光の姿にまで神様はイエス様を持ち上げてくださいました、高めてくださいました(使徒 2:31)。
私たちに対してもそうです。イエス様の御足の後に倣う者となって、主の栄光を共有する者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。