「習主席、政敵退け“腐敗撲滅”で権力基盤固めか」 News i - TBSの動画ニュースサイト smar.ws/GcqXa #SmartNews
【周永康氏失脚】親族ら拘束300人超 - MSN産経ニュース smar.ws/iAIz2 #SmartNews
【周永康氏失脚】習氏、政敵“粛正”で崩れる党内バランス、抗争の恐れ - MSN産経ニュース smar.ws/b9Bsv #SmartNews
周氏を巡る報道が事実上、解禁になった30日、中国国内でも香港メディア発の様々な情報が飛び交った。国営中央テレビ出身の現在の妻と結婚するため、前妻を交通事故に見せかけて殺したとも伝えられ、拘束された周氏関係者は300人を超えたという。
「党の権威に挑戦する『危険分子』を放置する方がマシだというのか」
党関係者によると、習氏は周氏処分に慎重な意見を漏らした党幹部を声を荒らげてこう批判したことがあった。習氏が「党の権威への挑戦者」と断定し、恐れたのには理由がある。
「周元根」。出身の江蘇省無錫郊外の寒村でこう呼ばれていた紅顔の少年は、やがて「永康」と名を改めた。人生が大きく変わったきっかけが、北京石油学院への進学だった。卒業後、大慶油田(黒竜江省)で石油採掘の技術者として頭角を現し、石油工業省次官や国土資源相などに抜てきされた。
エネルギー業界に影響力を持つ「石油閥」の代表格に引き上げたのは、同業界で影響力を持っていた曽慶紅元国家副主席や曽氏と親しい江沢民元国家主席らだ。江氏らは業界での利権を守るべく、胡錦濤前政権で周氏を最高指導部入りさせたとみられている。
胡前政権では公安・司法部門のトップに就き、新たな力を手に入れた。警察機構や武装警察の指揮権を持ち「軍以外のあらゆる強制執行力を握る男」と恐れられた。
習氏とのつばぜり合いは習指導部発足前にさかのぼる。当時、最高指導部入りに野心を燃やしていたのが重慶市トップだった薄熙来氏だ。周氏は薄氏と組んであわよくば習氏の国家主席就任を阻止し、自らもキングメーカーとして君臨することまで考えていた節がある。
周氏は指揮下にある公安権力を駆使して胡氏や習氏らの通信を盗聴し、弱みを握って取引材料にしようとしていた。
クーデターの噂
「周氏が薄氏と謀って軍事クーデターを企てた」「周氏は少なくとも2回、習氏の暗殺を謀った」。そのような噂を少なからぬ党員が信じている。
習氏は共産党トップに就いた時点から周氏を危険視し、排除を決断していた。周氏が務めた公安・司法トップの役職を最高指導部である政治局常務委員から格下げし、9人いた常務委員も7人に減らした。
「汚職」を名目にした周氏摘発ののろしを上げたのは、政権発足から半年ほどたった2013年9月。周氏側近で「石油閥」の実力者だった国務院国有資産監督管理委員会の蒋潔敏主任(当時)の拘束を手始めに、元側近や元秘書、親族らを相次いで拘束した。
「閣下の行動は今後、大きく制限されます」。ちょうどそのころ、武装警察のある部隊が北京の中南海にある周氏の執務室を取り囲み、周氏にこう告げたという。13年末には拘束され、内モンゴル自治区の軍関連施設に移送されたようだ。
世論を誘導も
事件の公表まで時間が掛かったのは、周氏追及に慎重姿勢を示す党長老らとの意見の相違がなかなか埋まらなかったからだ。その間、習氏は周氏らの汚職を示唆する情報を「出所不明の噂」として流し続けた。世論も次第に、周氏に退治すべき汚職の帝王、「大虎」の烙印(らくいん)を押すようになった。
激しい権力闘争を繰り広げた共産党の歴史の中でも、最高指導部にあたる党政治局常務委員経験者が、引退後に汚職問題で追及された例はない。党総書記だった趙紫陽氏が失脚したのは天安門事件への対応を問われてのことだった。
国内でメディアなどへの締め付けを強め、東シナ海や南シナ海などで対外的にも拡張政策を推し進めてきた習指導部。権力基盤を固めた後に国内外でどういう政策を打ち出すのかが今後の焦点になる。
(北京=島田学)