深井少佐の甥ブログ(とっても気まぐれ)

横須賀から海兵士官として神風特攻した深井良に思いを馳せながら、凡庸な甥の日常を切り取ったブログ、ものぐさゆえに画像多し。

「第九銀河隊指揮官深井良」についての補足 The addition to "Daikyughingatai Shikikan Fukai Ryo"

2016-12-15 12:01:18 | 文化

「第九銀河隊指揮官深井良」についての補足:           2015年7月15日

多くの方から労作と評されましたが、振り返ってみると伯父が書き残したものが多く、伯父が書いたものを形にするお手伝いをしたという様な印象です。記録である事を主としましたので、感情に訴える様な表現は意識して避けるようにしました。特攻ものを良く読んで泣くという読者の方から、伯父の事を好きになったが、あまり泣けなかったというお手紙を頂きました。泣くための読み物でなく、事実に基づく記録を残したかったという趣旨をご説明しました。伯父良と子ども時代を過ごされた方々からは、涙と共に一気に読了されたというお話をいくつかお聞きしました。本を読まれ良の腰の怪我を初めてお知りなった中学の友人篠原氏は「地上で敵機の銃撃を受け退避する時腰を強打し痛みをこらえて任務を遂行しましたが、若しも入室(ママ:入院)していれば運命が変わっていたかと身のつまされる思いです」と仰って頂きました。これを聞いて私も入院加療していてくれたらとつくづく思いました。しかし、また、先に飛び立ったたくさんの友を想い敢えてそうしなかった伯父の気持ちを、今は少し分かるような気がします。

2007年3月3日に、良の所属した海軍兵学校21分隊の1号生徒10名の中で唯一ご存命でいらっしゃる旭輝夫様からお手紙を頂き、私にとって見過ごせない事実誤認が判明しました。本文32ページで良も鉄拳制裁という確立した教育的指導に順化し、下級生に対し鉄拳を振るったようだと記述しました。弟、妹達に優しかった良が環境の中で気持ちを曲げ、弟達のような下級生に指導的制裁をしなければならなかったとしたら痛ましい事だとも書きました。異なる時代の考え方を現代の尺度で不当に批判するつもりは毛頭ありませんし、当たり前であった鉄拳制裁を行なった方達を責め様という気持ちも全くありません。しかし、1号(4年生)時の同分隊生、旭輝雄氏によると事実は次の様なものでした。良は昭和17年11月25日頃三学年の編成替が発表され、新しい21分隊のメンバーとなり74期3号生徒の教育方針の話し合いの中で次の様に発言しています。「1号十名が夫々意見を述べた時、深井良兄は紳士的であり鉄拳の修正は行なわないと発言され貴公子の如く感じました」これは当時としては特異な見解であり、そういう主張をする事自体勇気がいる事ではなかったかたと思います。雰囲気に負ける事なく自分の正しいとするところを主張し、貫いた伯父に敬意を払わずにはいられません。良の指導法は次の様なものでした。「井上校長の『海軍士官である前に紳士であれ』のモットウを良く御説教をする時に使われていました。3号生徒に対して御説教をするとき『貴様等それでも紳士なのか』という文句は良く使って居た様に思われます。亦割合に寡黙でした。率先垂範(注、自分から率先して行動し示すこと)が彼の意思であったと思い出すと共に水泳係りとして鍛えられる時も文句を言わず2号3号の先頭に立って指導された事を思い出します」昭和18年9月14日の72期卒業時の井上成美(しげよし)は校長訓示として部下統率について「第一 高潔ナル人格=部下統率ハ自己統御ナリ。第二 部下ト部下ノ職務境遇ニ対スル理解=親心ヲ持テ。第三 垂範=無言ノ教育=無言ノ統御。四、旺盛ナル意気ヲ以ッテ事ニ当レ」という事を示しています。これは井上校長の教育、良の元からの資質のどちらが先であったものか分かりませんが松木一飛曹の遺書投下の件、旭氏のこの手紙の内容を見ても良の考え方と非常に共通するものであったと考えられます。母に本心を綴った遺書を届けたいという必死の願いを、親心を持って自身の事或いは弟の事、と置き換えれば規則に反するなどとは言わなかったのでしょう。規則か、残り少ない命の訴えか、どちらにプライオリティーがあるか判断できる自分のCODE(自分を律する規範、考え方、ポリシー)を持った人間であったと思います。

なお、本の中にいくつか間違いがあるので訂正させて頂きます。

64ページ: 俳優藤田誠氏の御尊兄が陸軍少年飛行兵という記述があるが、錯誤。特攻死と勘違いしていましたが、事実は船で移動中にアメリカの潜水艦に攻撃されて亡くなったとの事で、ご本人の事務所にお詫びと訂正をしました。

西暦表記の、原稿で下二桁だけの部分に上二桁が校正時に加えられた際、千年と二千年が取り違えられた箇所がいくつかあります。76ページ: 島根県は鳥取県。

94ページ: 800キロの爆装としましたが、実際は銀河の爆装設計1000キロをはるかに超える1600キロの爆弾を装着していた事が分かりました。特攻機も五航艦発電文では「極光」となっており、銀河を夜間戦闘機極光に改修したものを、再び爆装できる銀河に再改修した銀河16型甲、乙、丙である可能性があります。

掲載写真の撮影場所に関するキャプションに間違いがあります。145ページ: 明治神宮は横須賀の諏訪神社です。お詫びして訂正致します。 

本書脱稿後、講談社現代新書「『特攻』と日本人」保阪正康著の「4刷にあったての補」として沖縄戦の最後の頃、失禁したり、腰が抜けて立てなくなったりする特攻隊員がいたりした、茫然自失しているのを抱え込んで乗せ、そして飛ばしていった。「私は彼らを殺したという思いから逃れることはできない。特攻の内実を正確に記録してほしい」と学徒出身の元整備兵が苦渋の証言をしたという追記を目にしました。特攻機、すなわち翼の付いた柩に乗り込むにはとてつもない決断と持続する精神力を要した証左がここにあります。自分だけが大切でありがちな今の世の中を見ながら、無茶苦茶な運命に翻弄されつつも文字通り必死で日本を守ろうとした若者達を改めて想います。同時に、色々な見解がある事は承知していますが、10代、20代の特攻隊員が命に代えて守ろうとした日本を象徴する日の丸や「君が代」を蔑む考え方を私はなかなか受け入れられません。

75ページで空地分離政策は統帥批判に繋がる搭乗員と整備兵等の交友関係を防ぐためではと書きましたが、保阪氏のこの「補」によれば実際はもっと現実的、プラクティカルな理由であった事が分かります。尻込みし、躊躇する特攻隊員を機内に押し込むための空地分離であったのです。苦楽を共にしてきた仲間であればとてもこんな仕打ちはできません。しかし、従軍記者も当然目にしたであろうこれら数々の修羅場は一切報道されませんでした。もし、この様な正視に堪えられないような光景が新聞に載っていたら、世論もきっと変わって、大本営も無視できないものになっていたのではないでしょうか。勇躍飛び立っていったという様な報道が若い命を次々と消していったと思うと、報道統制した軍部とそれに追従した報道機関に怒りを感じずにはいられません。当時の価値観を現代の定規で批判するつもりはありませんが、でたらめの報道を目にしていなければ銃後の人々(民間人)が想像力を働かせられたであろうという意味で、軍の宣伝報道しかしないのなら報道などむしろ無い方が良かったと思います。 

寄贈した杉並区立図書館、港北図書館、大倉精神文化研究所、鹿屋航空基地資料館、江田島幹部候補生学校、第一術科学校、防衛大学校、防衛省防衛研究所戦史史料室、横須賀高校の他にも千歳、府中、武蔵野、横浜、吹田、堺、川口、上福岡、山形、呉市立図書館(パソコン検索による)、鹿児島県立、岡山県立図書館、横須賀市中央、鎌倉市中央図書館等々の公立図書館には蔵書して頂いたようです。また、故筑紫哲也様、防衛大学校長(当時)五百籏頭(いおきべ)真(まこと)様、元航空幕僚副長 鈴木暸五郎(りょうごろう)様、海上自衛隊幹部候補生学校 教務課長 釜井清治様、戦史研究家 神野正美様、小沢一郎様、中松義郎(ドクター中松)様、森田一義(タモリ)様からは有難いご感想を頂きました。

今回の出版に際し、深井良の一生が多くの読者に、国土を守るとはどういう事かを考えるきっかけとなり得た思うと、ひとつの使命を果たせたかと思います。それは伯父を含め、多くの飛び立って行った若者たちに対する義務でもありました。

コメント (1)
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