ふかごろうキリスト教神学日記

キリスト教の神学について、ふかごろうが学んだことを記して行こうと思います。

ふかごろう神学・あとがき

2020-07-31 21:18:56 | ふかごろう神学・あとがき
●ふかごろう神学・あとがき

『ふかごろうキリスト教神学日記』を書き終えるにあたり、何をあとがきに書こうか、色々考えていました。
今、私、ふかごろうが一番言いたいことはなんだろうと。
それで、一つのフレーズが私の頭に浮かびました。

それは、
「働かざる者、食うべからず」
と言う言葉です。
共産主義者、レーニンはこの言葉を世に残しました。

私は、この言葉を打ち消そうと思います。
それでこう言いたいです。
「働かなくても、食べていい」

もう少し言うと、
「働きたくない者も、食べていい」
と言いたいです。

これは、レーニンが参考にした、聖書に書いてある言葉、

「働きたくない者は、食べるな」
(第2テサロニケ3章10節)

と言う言葉と真逆のことです。

私は、この聖書の言葉を打ち消そうと思います。
この言葉は、パウロが残したのですが、これは間違っていると断言します。
多くの人がこの言葉で苦しみました。
人類に対する呪いの言葉となっていると思います。
私は、この言葉の呪縛を解きたいと思っています。

この労働に関する呪いは、元々は、創世記3章17〜19節に出てきます。

「大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。
大地は、あなたに対して茨(いばら)とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。」

この呪いを私は解きたいと私は思っています。

西暦2020年現在、人類は、働きたくない者でも、生きていける社会を作るべきではないだろうかと思っています。
現在でも、その社会は、少しずつ実現できていると思います。
例えば年金や生活保護などの制度があります。
そういう社会の実現をもっと推し進める必要があると思います。

ただ、急に皆が働かなくなると、皆が困ることになると思うので、こういう改革をするには時間が必要だと思います。
ゆっくりと時間をかけて社会を変えてゆく必要があると思います。
また、労働力に関しては、テクノロジーの進化によって、それを補っていくことが可能になるのではないかと思います。
例えば、今、私の家の近所の洋服屋では、レジのシステムが自動化されています。
また、近所のスーパーでも、レジがかなり進化しており、半自動になっております。
さらに、AI(人工知能)や5G(通信規格)の発展により、自動車の運転も、だんだん自動化されていくと思います。

あと、社会の変革以上に大切だと思われるのが、人々の意識の問題だと思います。
人々が働かなくてはいけないと強く考えているなら、社会の変革もなかなか前に進まないような気がします。
人々の意識改革も必要だと思います。

ここで、はっきり言いたいと思います。
働きたくない人は、働かなくてもいいんです。

このことをキリスト教の神学でどのように考えるのか、考察してみようと思います。

パウロは、
「働きたくない者は、食べるな」
との言葉を残しましたが、これは、当時主流だった考え方を言ったに過ぎません。
いわば、良識的に言った言葉です。
新約聖書に書かれているからと言ってそれが全て正しいとは限りません。

この言葉、「働きたくない者は、食べるな」は、例えば、子どもには当てはまらないと思います。
また、年老いて、体力のなくなった人にも当てはまらないと思います。
また、一部の労働することが困難な障がい者にも当てはまらないと思います。
また、就職活動を何回しても、職にありつけない人は、どうすればいいのでしょうか?
死ねと言うのでしょうか?

まあ、死ねと思っている悪魔のような人もいるとは思いますが。

えっと、話がそれました。
神学的にどうかと言うことですね。

これは、聖書の無謬性(むびゅうせい)とか、無誤性(むごせい)の問題になると思います。
「聖書は原典において誤りなき神の言葉である」と言う、神学的な思想の問題です。

私は、聖書には、間違いがあると思っています。
なので、私は、聖書の無謬性や無誤性は否定します。

この点で、私は、キリスト教の福音主義者ではないと思います。

パウロは、神じゃなく、我々と同じ人間です。
間違いも犯します。

多くの点でパウロは素晴らしいことを書いて残しました。
でも、間違いも残しています。

例えば、パウロは、女性に対する差別のような文章も残しています。

「女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。」
(第1コリント14章34節)

また、パウロは、同性愛に否定的な文章も残しています。

「男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤り対する当然の報いをその身に受けています。」
(ローマ1章27節)

私は、この2つのことに対しては、パウロは間違っていると思います。
ただ、この2つのことに関しては、ここでは論じないでおこうと思います。

私は、労働についてだけ、ここでは論じようと思います。

私が、この世に生を受けて生まれたのは、パウロの、この労働に関する考え方の間違いを指摘するためだったとも感じています。

私は、西暦2002年に、エンジニアの仕事を辞めてから、2020年の現代に至るまで、18年間一般就労はしていないです。
障がい者向けのいわゆる作業所と呼ばれているところでは、10年以上働いていました。
法定の最低賃金をはるかに下回る、工賃を貰って働いていました。
でも、それは一般就労とは言いません。

私自身の経験として、一般就労していない期間が長かったのです。
この経験は、私の思想に強く影響しています。
働きたくても働けない、そういう環境に長いこと居たのです。
何年かして、一般就労の意欲もあまり無くなってしまいました。

もしかして、神様は、私に一般就労することを望んでないのではないのかとも思いました。

それで、一般就労していない、この18年間、私は哲学書や聖書、神学書を読み漁りました。
その結論として、
「働かなくても、食べていい」
と言う1つの言葉を残したいと思うようになりました。

そもそも、2003年に、初めて聖書を通読した時に、心に引っかかった言葉が、
パウロの「働きたくない者は、食べるな」と言うものでした。
最初に読んだ時、すでに、「なんだこれ?」と思っていました。
その時は、まだ作業所にも通っておらず全くの無職でした。
おかしいと思っていました。

それから15年ほど経過した後、その疑問が解けました。
その時カルヴァンの『キリスト教綱要』を読んでいました。
カルヴァンは、『キリスト教綱要』に、
「 働きたくない者は、食べるな」
と言う言葉は誰にでも当てはまるわけでは無いと、わざわざこの聖句に言及して書いていました。

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「使徒は働く人にしか食べることを許さなかったが(IIテサロニケ 3:10)、この理由の下に子供たちから食物を取り上げるなら、万人から唾棄(だき)されるに価しないだろうか。なぜそうなるのか。それは、特定の種類の人間と特定の年齢について言われたことを、無差別に全ての者に禁じるからである。」

『キリスト教綱要改訳版第4篇』ジャン・カルヴァン著、渡辺信夫訳、
第16章の「29」、381ページより引用。
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私は、カルヴァンよりさらにもう一歩踏み込んで、
「働かなくても、食べていい」
と言いたいです。

それが、私が18年間、一般就労していないという経験と神学書などを読んで思ったことです。

ふかごろう神学と言うものがあるならば、この1つの言葉をその神学の要約としたいと思います。
シンプルにこの1つのことを、ふかごろう神学の真髄として残したいと思います。

有名な哲学者、例えばデカルトも、
「コギト・エルゴ・スム」(我思う。ゆえに我あり。)
と言う言葉を残しました。
哲学書を大量に残しても、多くの人の心に残るものは、1つの言葉だったりします。
私は、デカルトには遠く及びませんが、この1つの言葉、
「働かなくても、食べていい」
を後世に残せたら良いと思っています。

もちろん、働きたい人は働けばよいとも思っています。
それを、制限するつもりは無いです。

最後に、湯浅誠さんが次の言葉をテレビでおっしゃっていました。
その言葉を引用しようと思います。
今、世の中は、
「“やさしさ”に対して“やさしく”なった」と。

そして、今後の目標として、湯浅誠さんは、
「“やさしさ”に対して“よりやさしく”なる」
とおっしゃっていました。

『Eテレ ハートネットTV シリーズ コロナの向こう側で③ 
1億分の1としてできること ~湯浅誠~』
2020年6月3日(水)PM8:00放送より。

「“やさしさ”に対して“よりやさしく”なる」と、私もそう思います。
労働に関連して起こる問題、弱肉強食とか、拝金主義とか、パワハラとか、いじめとか、もう止めた方が良いと思います。
そんな中で働く必要はないです。
再度、次の言葉を記しておきます。
「働かなくても、食べていい」

ということで、これであとがきを書くのを止めたいと思います。
これを読んでくださった方々に、感謝します。
ありがとうございました!

2020年6月20日(土) ふかごろうこと、深澤信行