親鸞聖人も慕われた 源信和尚というお方がおられました。
このお方は 親鸞聖人よりも百年ほど早くお出ましになられたお方であります。このお方の言葉に、次のような言葉がございます。
「人間に生まれたること、大きなるよろこびなり」
と。
人の世に生まれたことを非常に尊いこととし、人のいのちを受けたという、人のいのちというものを、味わい深く喜ばれたのでありました。
なぜ、源信和尚は、人の世に生まれたことを そのようにお歓びになられたのでありましょうか。
それは、「本願に出遇われた」からともいえ、「お念仏に出遇われた」からと思うことであります。
私なりに もう少しそのお心を窺うことでありますが、それは、人間の というよりも この自分というものが 光に出遭い 本当のこの自己のあり方を照らし出され知らされるとともに、その私に光があてられるからだと思うことであります。
光に出遭うということは、照らしだされるということであります。光に照らされてみれば、それまで 全く 見えなかったものの姿が 浮かび上がります。そして、その 照らされたものの姿そのものが 光に 包まれることであります。
真っ暗闇の中では、光も影もわかりません。人は光と出あうことによって、この自分の本当の姿、あり方というものを 照らし出されるとともに、その照らし出された この私は 光の中にあったと知らされるのであります。
親鸞聖人は、『正信偈』には、阿弥陀さまのことを「南無不可思議光」と讃えられています。「不可思議光如来」とは、すなわち、阿弥陀さまのことで、このみ仏は、私たちの思いや心をはるかに超えた 光の仏さまという意味であります。その 光と讃えられる仏さまの 光とは、仏さの明らかなる智慧のことであります。その 仏さまの 光の智慧は、この 私の 本当の姿を知らしめ 気づかせるとともに、その 照らし出した姿のままを 光で包まれる仏さまなのであります。
このお方は 親鸞聖人よりも百年ほど早くお出ましになられたお方であります。このお方の言葉に、次のような言葉がございます。
「人間に生まれたること、大きなるよろこびなり」
と。
人の世に生まれたことを非常に尊いこととし、人のいのちを受けたという、人のいのちというものを、味わい深く喜ばれたのでありました。
なぜ、源信和尚は、人の世に生まれたことを そのようにお歓びになられたのでありましょうか。
それは、「本願に出遇われた」からともいえ、「お念仏に出遇われた」からと思うことであります。
私なりに もう少しそのお心を窺うことでありますが、それは、人間の というよりも この自分というものが 光に出遭い 本当のこの自己のあり方を照らし出され知らされるとともに、その私に光があてられるからだと思うことであります。
光に出遭うということは、照らしだされるということであります。光に照らされてみれば、それまで 全く 見えなかったものの姿が 浮かび上がります。そして、その 照らされたものの姿そのものが 光に 包まれることであります。
真っ暗闇の中では、光も影もわかりません。人は光と出あうことによって、この自分の本当の姿、あり方というものを 照らし出されるとともに、その照らし出された この私は 光の中にあったと知らされるのであります。
親鸞聖人は、『正信偈』には、阿弥陀さまのことを「南無不可思議光」と讃えられています。「不可思議光如来」とは、すなわち、阿弥陀さまのことで、このみ仏は、私たちの思いや心をはるかに超えた 光の仏さまという意味であります。その 光と讃えられる仏さまの 光とは、仏さの明らかなる智慧のことであります。その 仏さまの 光の智慧は、この 私の 本当の姿を知らしめ 気づかせるとともに、その 照らし出した姿のままを 光で包まれる仏さまなのであります。