聞思(もんし)の部屋

浄土教の祖師方親鸞聖人多くの先生からお育ていただいた尊いお言葉から私の味わいなどを中心に書き残していきたいと思います。

源信和尚のこと

2017-07-26 01:48:53 | 日々の味わい
親鸞聖人も慕われた 源信和尚というお方がおられました。
 このお方は 親鸞聖人よりも百年ほど早くお出ましになられたお方であります。このお方の言葉に、次のような言葉がございます。

 「人間に生まれたること、大きなるよろこびなり」
と。

 人の世に生まれたことを非常に尊いこととし、人のいのちを受けたという、人のいのちというものを、味わい深く喜ばれたのでありました。
 なぜ、源信和尚は、人の世に生まれたことを そのようにお歓びになられたのでありましょうか。

それは、「本願に出遇われた」からともいえ、「お念仏に出遇われた」からと思うことであります。 

 私なりに もう少しそのお心を窺うことでありますが、それは、人間の というよりも この自分というものが 光に出遭い 本当のこの自己のあり方を照らし出され知らされるとともに、その私に光があてられるからだと思うことであります。
 
 光に出遭うということは、照らしだされるということであります。光に照らされてみれば、それまで 全く 見えなかったものの姿が 浮かび上がります。そして、その 照らされたものの姿そのものが 光に 包まれることであります。
 
 真っ暗闇の中では、光も影もわかりません。人は光と出あうことによって、この自分の本当の姿、あり方というものを 照らし出されるとともに、その照らし出された この私は 光の中にあったと知らされるのであります。
 
 親鸞聖人は、『正信偈』には、阿弥陀さまのことを「南無不可思議光」と讃えられています。「不可思議光如来」とは、すなわち、阿弥陀さまのことで、このみ仏は、私たちの思いや心をはるかに超えた 光の仏さまという意味であります。その 光と讃えられる仏さまの 光とは、仏さの明らかなる智慧のことであります。その 仏さまの 光の智慧は、この 私の 本当の姿を知らしめ 気づかせるとともに、その 照らし出した姿のままを 光で包まれる仏さまなのであります。