聞思(もんし)の部屋

浄土教の祖師方親鸞聖人多くの先生からお育ていただいた尊いお言葉から私の味わいなどを中心に書き残していきたいと思います。

念仏申すということと お救い

2017-10-08 23:10:39 | 日々の味わい
私が救われるとは どのようなことなのでしょうか。念仏申すということは私のいのちとどのように関わっていて、私が念仏を申して救われるとは どのようなことと言えるのか・・。

舘凞道先生は 念仏と救いということについて 次のように述べられていました。

 私のいのちに念仏が薫重(くんじゅう=しみつく)しているというのは、私が私のはからいによって念仏しているということではなくて、念仏が私に到り聞こえているということであります。私が名号を聞くということは名号を信じるということであります。聞くとは「領解(りょうげ)」においてこそ真の「聞く」になるのであります。私が念仏するということは、如来の本願が私のいのちに働いているということであります。『正信念仏偈』とは、念仏の歴史の歌でありますから、『正信念仏偈』は南無阿弥陀仏が人間の歴史の上に働くドラマであります。『正信念仏偈』は南無阿弥陀仏にはじまり南無阿弥陀仏におわるのであります。南無阿弥陀仏は三千年と三千里の歴史を通じて働き、今も私に「南無阿弥陀仏」と聞こえとどいているのであります。仏法の歴史のどの断面も南無阿弥陀仏であり、歴史全体も南無阿弥陀仏で貫かれているのであって、ひとのいのちは「ただ念仏して弥陀に助けられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏まふさんと思いたつ心のおこるときすなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」であります。往生をとぐるとは「救済」にあずかることであります。「摂取不捨」が「救済」であります。人間が念仏往生の道を歩き往生浄土をとぐることが、「救済」にあうことであります。「救済」の根拠は人間にではなく、「本願」にあり、信心においてこそ救済が可能となるのであります。「正信念仏」の偈はまさしく信心の讃歌であり歓喜の讃歌であります。本願が念仏となる時に念仏は人間の生きる道であるのであります。時間と空間の制約を超えた本願が、その制約の世界の人間に念仏となってとどく時が、観経的世界のドラマが念仏の世界となるのであるが、そのドラマこそは『大無量寿経』の法蔵菩薩のドラマを源流とするのであり、念仏に導かれて人間は自らドラマの源流に至るのであります。超時間的永遠が時間的有限の世界のドラマに転ずるのはひとへに如来の本願力回向のなせるわざであります。(「真宗における救済」)

 念仏は私が念仏申しているのでありますが、それはわが はからいではなくて、時間と空間を超えた阿弥陀仏とその浄土が、時間的空間的有限のこの世界に、私のいのちに、本願となり、念仏の声の姿となって 働いていることなのだと思います。そのように 念仏申すという ありえない出来事が 今 私の身の上に起こっていること それが 今 まさに 救われつつ(救われた)ある姿なのだと 思いました。