2011年5月13日のブログ記事一覧-カトカト日記 ~霊園・墓石の株式会社加登 公式ブログ~

生きよう。その3。


日本では、年間3万人もの方が自ら命を絶っています。
今回の大震災でお亡くなりになった方が現在までで1万5千人ですから、実に2倍という途方もない数字です。

人口当たりの自殺率で見てもアメリカの2倍、世界で第4位という統計があります。
未遂者の数はその10倍以上とも言われ、「死にたい」と思ったことのある人も含めるとそれこそ何百万人にも上るでしょう。

そう考えると、医療の充実や交通事故の防止、災害対策などももちろん必要ですが、自殺者が出にくい社会をつくるということも非常に大切なのではないでしょうか。

経済規模が縮小しているとは言え、それでも世界的にみればまだまだ裕福すぎるくらいの日本。
それなのに、どうしてこんなに心を病んでいる人が多いのでしょう。

ひとつには、「世間体」の名のもとに、多様性が認められにくい社会が出来上がってしまっていることが挙げられるでしょう。
「こうでなければならない」というプレッシャーが強く、そこからはみ出る個性はつまはじきにされてしまう。
日本人に多い悩みが「自分は変なんじゃないか」、フランス人に多い悩みが「自分は普通すぎるんじゃないか」だという笑い話をどこかで耳にしたことがあります。
が、そもそも大乗仏教の教えからすればどんな命も例外なく、仏になる可能性を持っているはずなんですよね。
だから仏教では「こうでなければならない」なんてことはあんまり言ってない。

「こうでなければならない」というのは、支配者の論理です。
武家に対しては武家諸法度という厳しいルールを制定し、農民に対しては五人組制度などにより、中央集権を徹底したのが江戸幕府だと思います。
あくまで勝手な推論ですが、村の中で人々を互いに監視させ合うという巧妙なシステムが「村八分」という言葉に代表されるムラ社会を決定的なものとしたのではないかと思えてならないのです。

現在、特に大都市などではそうしたムラ社会は解体していますが、「こうでなければならない」という呪縛は根強く残っています。
ムラ社会の素晴らしさってたくさんあるし、日本人の美点の多くはこの「ムラ意識」によるものだとも思います。
けれど、「こうでなければならない」という事柄の多くは単なる幻影に過ぎないのではないでしょうか。
勉強して良い大学に入ることだけが良い人生ではないし、結婚して幸せな家庭を築くことだけが幸せではない。
それらはもちろん幸福のひとつのカタチではあるけれど、そうでないからといって気に病むことはないと思うのです。
幸せにはいろんなカタチがあって然るべきだし、むしろ定められた幸せのカタチに無理にはまろうとするのは苦痛以外の何ものでもない。
他人からいくら羨まれたところで、本人が楽しめなければ甲斐がありません。

今はもう21世紀、多様性の時代です。
みんながいろんなことを考えて良いのです。

自分だけが特別なわけじゃなくて、実際はみんながそれぞれに独特の悩みを抱えているんです。
それなのに、みんながみんな「普通」のフリをしなきゃいけないから、「こんなことで悩んでるなんて知られたら、おかしいと思われるに違いない」ということで、偽りの笑顔に終始する。
でも、程度の差こそあれ、実際はみんな必ずどこかヘンなところを持っているし、それこそがほとんどの国で賞賛されている「個性」なのだと思うのです。
だからそれを恥じることもなければ気に病むこともないはずです。
互いに相談し合ってお互いの「ヘンさ」を確認して、それを尊重し合うっていうことが、今すごく大事な気がします。

命は尊い。社会や国家がどれだけ変わろうと、命の尊さだけは決して変わらない。
社会に殺されて良い命なんてあるはずがありません。
周りが何と言おうと、人はただ生きているというそれだけで、胸を張って良い存在なのです。

だからどんなに苦しくても、やっぱり生きなきゃダメですよ。