私の研究日記(映画編)

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『ヒトラー 最後の12日間』(TV)

2009-02-13 03:02:57 | は行
 
監督 オリウ゛ァー・ヒルシュビーゲル
製作 ベルント・アイヒンガー
脚本 ベルント・アイヒンガー
出演 ブルーノ・ガンツ、アレクサンドラ・マリア・ララ、ユリアーネ・ケーラー他
公開 2004年9月16日(ドイツ)、2005年7月9日(日本)
製作国 ドイツ・イタリア・オーストリア
時間 156分





 自宅NHKBSにて鑑賞(2009年1月24日)。

 あらすじ。「1945年4月20日、ベルリン。ソ連軍の砲火を逃れ、ヒトラー(ブルーノ・ガンツ)とその側近たちは総統官邸の地下要塞に避難していた。敗戦を目の前にしたヒトラーは正常な判断力を失い、状況を更に悪化させていく。狂気の独裁者を前に、生きるか死ぬかの選択を迫られる側近たち。それを一部始終見ていた秘書のユンゲ(アレクサンドラ・マリア・ララ)はある日、ヒトラーから遺書の口述筆記を依頼され…」(『ヒトラー 最後の12日間』オフィシャルページからの引用)。


 今年に入って2本目となるナチス映画。

 どこかで書いた気もするが、大学学部時代の恩師の一人がファシズム研究の権威で、私はその先生のゼミで1年ほど第二次世界大戦前後のドイツについて勉強した。その関係で、ヒトラーやナチスに関する著作はいろいろと読んだことがあるが、中でも、ヒトラーの人物像は、星の数ほど先行研究があり、かつ最も諸説対立している分野の一つでもある。ヒトラーといえば、映画やドラマ、小説の中で悪の独裁者として描かれることが多いが、実際のところ、ヒトラーがどのような人物だったのかは今もそれほどわかっていないのだ。そんな中、彼の人物像に関する重大な手がかりとなる本が2002年に出版された。それが『私はヒトラーの秘書だった』(邦訳、2004年、草思社)。この映画の原作である。映画の中でヒトラーから遺書の口述筆記を依頼されるユンケが、その作者だ。


 敗戦直前のヒトラーとその側近達の様子を描いた本作は、そうした貴重な歴史的資料を原作としているからか、どちらかというとドキュメンタリー映画のような作品。ドラマチックな物語が展開するというわけではなく、ヒトラーを中心とする大戦中のナチス・ドイツ上層部の様子がただ淡々と描き出されていく。

 だが、作品の中で描かれる2つのコントラストは、とても印象的である。

 まずは地下と地上の雰囲気。敵(ソ連軍)がすぐそこまで迫り、地下壕へと追い詰められる政府高官たち。驚いたのは、やがて彼らが、絶望の果ての開き直りからか、宴に興じるようになったこと。酒を飲んで酔い潰れたり、ダンスパーティーまで開いてしまう。非常時とはまるで思えない。現実逃避は、私にも多分に心当たりがあるが(笑)、人間は極度に追い詰められると、返って緊張感をなくしてしまうものなのだろう。

 一方地上では、残りわずかとなったドイツ軍の将兵たちや総統を信じて疑わない少年兵たちが、迫るソ連軍に対し絶望的な戦いを続けている。特に、死んでいく少年兵たちの姿は、余りにも可哀そうで胸が締め付けられる思いがした。地下の高官たちの狂乱と醜態ぶりを考えると、悲劇的ですらある。

 また怖い感じがしたのは、地下壕でのヒトラーの恋人エウ゛ァ・ブラウン(ユリアーネ・ケーラー)。華やかな彼女の美しさや発言が、地下壕ではものすごく奇異な感じに映る。特に、戦闘が行われている中で開かれたダンスパーティーの場面は、物語的にもさることながら、映像的にも強烈なインパクトを感じた場面だった。笑みを浮かべながらパーティを楽しむエヴァの様子が、奇異を通り越して狂気的ですらあったからだ。絶望的な状況にも関わらず、無邪気とも不敵ともとれるような笑みを浮かべる彼女の表情が、思わずゾッとしてしまうほど怖かった。夢に出てきそう(笑)。





 もう一つ対象的だったのが、ヒトラーの人物像である。側近である高官たちや、恋人のエウ゛ァなどともに、地下壕へ避難したヒトラー。敵軍がベルリン市内に侵攻したという絶望的な戦況にあるにもかかわらず、彼はかたくなにナチス・ドイツの勝利を信じている。そして、あるはずのない味方の援軍を想定しながら、やみくもに敵軍への反撃の指示を繰り返す。これに意見しようものなら激しく怒鳴り散らされ、挙句の果てに裏切り者扱いされる始末。こうした狂気としか言いようのないヒトラーの様子に、地上と地下の様子のコントラストが加わり、見ている私までもがどうしようもない隘路に立たされたような気持ちになってくる。


 ちなみに、こうした強面のヒトラー像は、これまで様々な映画で描かれ、恐らく一般的にわれわれのイメージするヒトラー像にも近いものだっただろう。この映画の面白いところは、そんなヒトラーとは別の一面を描き出した点にある。部下たちに対して厳しいヒトラーも、女性や子どもたちに対しては優しいおじさん。例えば、ユンゲなどの女性職員や恋人のエウ゛ァに対しては、細かく気を遣い優しく労るのだ。上に書いたような狂気的で癇癪持ちのヒトラーとは実に対象的である。

 考えてみると、ヒトラーのこうした一面を描いた映画は、少なくとも私は見たことがない。普通の映画で描かれるような、極悪な独裁者という人物像も、ヒトラーの一つの面としては誤りではないだろう。だが、意外と知らない人が多いが、ヒトラーは選挙という民主的な政治手続きを経て、首相の座に上り詰めた人物。ヒトラーの演説の上手さには定評もあるが、それだけではなく、彼には人を惹き付ける魅力的な一面もあったのではないだろうか。実際、女性の有権者の中には、彼の演説を聞きながら卒倒してしまうような熱狂的なファンまでいたのだという。女性や子供たちに見せる細やかな気遣いや優しさも、そうした面の延長上にあるのかもしれない。

 思い出すのは、昔、大学受験で通った予備校で、世界史の先生がおっしゃっていた言葉。歴史を振り返えれば分かるが、ローマ帝国のカリギュラ帝やロシアのイヴァン雷帝など、残虐の限りを尽くした歴史上の暴君たちには、名高い名君と期待されながら歴史の表舞台に登場した人が多い。先生いわく「暴君はたいてい聖人の顔をして世に登場するものだ」とのこと。だから人々はそれを見抜けず、たびたび同じような歴史的過ちが繰り返されてしまうのだ。

 ヒトラーの細やかな気遣いや親切、国民的な人気といった点を考えると、この教訓は多少なりとも彼にも当てはまっているといえるだろう。そういう意味で思うのは、一般的な映画がヒトラーを描くとき、極悪な独裁者というステレオタイプを強調し過ぎではないか?ということ。繰り返しになるが、当時のドイツでヒトラーは国民的人気のある政治家であり、ナチスは選挙のたびに得票数を伸ばしていった。総統の地位に昇り詰めてからも、その人気は変わりなかった。その影でユダヤ人の虐殺が行われているのに、それは国民に知られるところではなかった。「暴君はたいてい聖人の顔をして世に登場するものだ」という教訓の通り、ヒトラーの本当の怖さは、くだけた表現を使えば、そうした外面の良さにあったのだと思う。だとすれば、一般的に映画の中で描かれるような、極悪な独裁者という強面のヒトラーは、その怖さを覆い隠してしまうのではないか。映画を見終えた後、そんなことを考えた。


 話がだいぶ脇道にそれてしまった・・・。それにしても、ヒトラーを演じたブルーノ・ガンツの演技力は見事という他ない。ヒトラーの持つあらゆる側面を、違和感なく巧みに演じ分けていた。ちなみに、戦後の映画の中で、ヒトラーをドイツ人が演じたのは、この作品が初めてで、ガンツはそのことをかなりストレスに感じていたそうだ。それはそうだろうな~と思う。


 ドラマチックな展開があるわけではなく、ただ戦争の冷たい現実がひたすら描き出される。だが敗戦直前の崩壊した政府上層部の様子をはじめとして、その現実は十分に印象に残るものだった。「事実は小説より奇なり」というが、この作品にはまさにそんな言葉がぴったり。考えさせるところの多い作品だった。




上の写真の女優さんはユンゲ役のアレクサンドラ・マリア・ララ。きれいな女優さんだな~と思っていたら、2005年に「もっとも美しいドイツ人」に選ばれこともあるそうだ。納得である^^。


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