神社の世紀

 神社空間のブログ

伊吹山の神は誰ですか(10)

2014年10月13日 21時57分59秒 | 近江の神がみ

★「伊吹山の神はだれですか(9)」のつづき

 草津市志那中町の惣社神社も意布伎神社であることを主張する神社である。


草津市志那中町にある惣社神社
Mapion


惣社神社々殿


同上

 祭神は志那津彦命と志那津姫命だが、社蔵の鰐口には「奉懸意吹總社宮願主志那氏敬白、文明二年(★1470)庚寅十二月吉日敬白」と刻まれており、この中に見える「意吹神社」の4文字が意布伎神社と関連づけられている。ただし、『式内社調査報告』の宇野茂樹氏は、「この意吹は小字名の気吹をさす可能性がある。」としている。

 さらに草津市志那町にある三大神社も意布伎神社であることを主張している。


草津市志那町の三大神社
Mapion


三大神社々殿

 祭神は志那津彦命と志那津姫命の2柱で、大宅主命を配祀する。国の重要文化財に指定された石灯籠には正応四年(1291)の年記があり、鎌倉初期に制作された鞍も社宝として伝わるなど、当社もなかなかの古社であることが伺われる。


重要文化財に指定されている石灯籠
正応四年(1291)の年記がある

 注目されるのは、条里制が施行された頃、栗太郡条理内に「伊吹里」という里があったが、石灯籠について草津市教育委員会が解説した看板によると、この「伊吹里」は当社の鎮座地辺りに比定されているとのこと。その場合、ここに見られる「伊吹」という地名が「意布伎神社」の社名と何か関わりがあるとすれば、三大神社がこの式内社であった可能性は高くなる。もっとも、前述の志那神社と惣社神社も当社からあまり離れていないので、この両社も「伊吹里」ちかくに鎮座していたことになり、いずれかの神社が「意布伎神社」であったてもおかしくない。が、しかし、『式内社調査報告』の宇野茂樹氏はここでも、「三社はともに所在地が隣村で、琵琶湖に近く、それぞれ意布伎神社を主張しているが、根拠となるものがなく、意布伎神社の所在は不詳といはざるを得ない。」としている。にべもない調子だ(なお、宇野氏は「伊吹里」のことについては何も触れていない) 

 さて、『式内社調査報告』を読んだ人なら知っていると思うが、この本では各式内社ごとにそれに比定される神社の位置を落とした地図が最初のページに載っていて、論社がある場合はさらに「ABC…」などといった形でそれらも含めて地図に落としてある。ところが、ごくたまに地図が載っていない式内社がある。これは論社すらなく、まったく所在が不明になっている式内社がそうなるのだが、「意布伎神社」の項は地図が載っていない。したがい、宇野氏はこの式内社については論社の存在を完全に否定していることになる。 

 総じてここで私は、草津市矢倉町の伊吹神社が「意布伎神社」の後裔社である可能性を検討しているので(管見では当社を「意布伎神社」に比定する説が他にないこともあって)、宇野先生がこうして他の論社群をバッサバッサと切り捨ててゆくのを読んでいると心強いものを全く感じない、と言えばウソになる。しかし公平に言って、追来神社が社蔵する鎌倉初期に造られた狛犬の台座には「意夫伎里惣中」と墨書きされているのだし、他の3社も「伊吹里」という古地名があった地域に鎮座するなど、いずれの社も「意布伎神社」の論社として扱われる資格をじゅうぶんにもつと思う。
 むろん、これら4社のどれかを式内社に比定できる確実な根拠はないので、宇野先生の言う通り「意布伎神社の所在は不詳といはざるを得ない。」。しかし、そこから一気に論社の存在までを否定するようでは行きすぎになると思うがいかがか。だいたい、式内社であることを主張する根拠がこの4社よりはるかに薄弱な神社が、『式内社調査報告』で論社として取り上げてられているケースは他にいくらでもあるのだ。

 

「伊吹山の神は誰ですか(11)」につづく

 

 

 

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伊吹山の神は誰ですか(9)

2014年09月10日 22時19分59秒 | 近江の神がみ

★「伊吹山の神はだれですか(8)」のつづき

 それにしても、この伊吹神社の信仰が本当に古代豪族の息長氏によって湖北地方から持ち込まれたものなら、当社はたいへん古い由緒をもつことになる。そんな古社なら式内社であってもおかしくない。そして『延喜式』神名帳の近江国栗太郡には「意布伎神社」という神社の登載があり、『式内社調査報告』では所在不明とされているのだ。伊吹神社のある場所も古代の栗太郡内なので、ひょっとして当社はこの所在不明の式内社なのではないか?、という疑いが生じる。そこでこの問題について検討してみよう


草津市矢倉の伊吹神社
ひょっとして式内社?

 まず、「意布伎」の読みだが、九条家本は「いぶき」である。これに対し『神社覈錄』は「おふき」で、『特選神名牒』は「おぶき」とする。九条家本は平安初期に書写されたもので、『延喜式』の写本としては現存する最古のものだが、そこに「いぶき」とあることは看過できない。しかし、これから述べる追来神社との絡みで「おふき(おぶき)」説もそれなりに侮れない。 

 いっぽう、さっきからも言っているようにこの式内社は所在不明とされている(少なくとも『式内社調査報告』では)。だが、論社とされるものが全くない訳ではない。それどころか、この式内社の後裔社ではないかとされる神社は4社もあるのだ。 

 そのひとつは、栗東市綣(へそ)にある追来(おうき)神社である


栗東市綣にある大宝神社
追来神社は現在、この神社の境内社となっている
Mapion


大宝神社

社頭のふんいき


大宝神社の四脚門

 この神社は現在、大宝神社という神社の境内社だが、大宝神社は大宝元年(701)の疫病流行の際、防疫神として素盞鳴尊と稲田姫命を追来神社の社地に勧請したもので、当社はそれ以前からこの地で祀られていた地主神であった。「追来」という社名も、「意布伎」を「おふき」と読んだ場合の音に一致し、また鎌倉初期に制作され、現在、国の重要文化財に指定されている狛犬の台座には「意夫伎里惣中」と墨書されている。


境内社となっている追来神社の社殿
国の重要文化財に指定されている

 ただし、大宝神社の境内社に「追来」という名のそれが登場するのは明徳二年(1493)の『相撲頭役里々次第事』が所見であるいっぽう、弘安六年(1283)に建立された追来神社々殿の棟札には「若宮殿御造替事」とあり、少なくとも弘安頃は「追来」ではなく「若宮」と呼ばれていたことになる。また、『式内社調査報告』で意布伎神社の項を執筆した宇野茂樹氏は、前述の狛犬台座にある墨書きについて「この六字の墨書きだけでは意布伎神社をこれに当てるのに十分な説得力をもたないし、また追来神社即意布伎神社とするのも早計である。」と述べている。
 なお、当社の祭神は『帝王編年記』に登場する伊吹山の神、多々美彦命である。ただし、創祀の頃から祀られていたかどうかはよく分からない。


祭神は多々美彦命
タタミヒコは『帝王編年記』に登場する伊吹山の神だ

 いっぽう、草津市志那町の志那神社も式内「意布伎神社」であることを主張している。


草津市志那町の志那神社
社頭のふんいき
Mapion


松並木の参道


境内入口


今きた参道を振り返る


志那神社々殿
永仁六年(1298)の墨書きが残り、
国の重要文化財に指定されている


同上


同上
この優美な建物は瑞垣がないので間近から鑑賞できる

 永仁六年(1298)の墨書きが残り、国の重要文化財に指定されている当社の本殿を解体修理した際、床下からそれ以前の社殿で使われていたと思われる礎石が発見されたが、鑑定によると平安期のものであるという。こうしたことは当社が相当の古社であることを示すものだろう。


旧社殿で使われていた礎石
様式から平安期のものとわかるのだという

 祭神は風神の志那津彦命、志那津比売命、伊吹戸主命であり、鎮座地の「志那」という地名も祭神名からきているものと思われる。ただし、『日本歴史地名大系』には、当社はもとは「白山大権現社」と呼ばれていたとあり、だとすると現祭神に菊理比命などの名前が見当たらないのが不思議である。

 

伊吹山の神は誰ですか(10)」につづく

 

 

 

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伊吹山の神は誰ですか(8)

2014年08月05日 23時47分28秒 | 近江の神がみ

★「伊吹山の神は誰ですか(7)」のつづき

 もっとも、こんなように「姥が餅の伝承の基層には、伊吹山々麓で行われていたダイイングゴッドの信仰が眠っている。」などと言い出すと牽強付会の説と思う人がいるかもしれない。しかし、そういう人には次のことを指摘したいのである。すなわち、(さっきも言ったが)かつての「うばがもちや」は旧・東海道と八橋街道が分岐する地点に店を構えていたが、そこから300mほど南に「伊吹神社」という神社が鎮座するのである。  


『近江名所図絵』にある「うばがもちや」の大店

店内には多くの旅人たちがいる
この大店は旧・東海道と八橋街道が分岐する地点にあった
Mapion


瓢泉堂
かつての「うばがもちや」があった場所は現在、
縁起物のヒョウタンを扱う瓢泉堂という店になっている


稲荷神社々頭(旧・東海道側)
草津市矢倉二丁目7-36に鎮座
稲荷神社は上の「うばがもちや」があった場所から
旧・東海道を300mほど南下した処に鎮座している
伊吹神社はこの稲荷神社の境内社
Mapion

 この伊吹神社は稲荷神社という神社の境内社になっているが、しかし、これが普通の境内社でないのだ。というのも、この神社の社殿は本社である稲荷神社のそれと同サイズで、両社が下画像のように並んでいるのである。これでは何も知らないで参拝した者は、鳥居の扁額がなければどちらが本社で、どちらが境内社か見分けがつかないだろう。境内社とはいえ伊吹神社は、本社の稲荷神社と同じくらい重視されているらしい。


伊吹神社(左)と稲荷神社(右)
同規格の社殿が基壇の上に並んでいる


同上


稲荷神社の鳥居扁額
左に「伊吹大明神」とあるため、並列社殿の左側が伊吹神社と分かる
右には「朝日大明神」とあるが、これは稲荷神社のことだろう
どうして稲荷神社が「朝日大明神」なのかは不明
当社の境内で伊吹神社の話をうかがった方に
このことも聞いておけば良かった

 それにしても、「いぶき」などという名の神社は「稲荷」や「八幡」などと違って、そう矢鱈にあるものではない。この草津にある伊吹神社以外で、近江にある「いぶき」という名の神社を探すと、(境内社を含めて捜した場合でも)下記のA~Dしかみつからなかった。ちなみに、伊吹山の美濃側にも「伊富岐神社」という神社があり、近江にあるのではないがこれもEとしてあげておく。 

   A.伊夫岐神社(祭神:伊富岐大神、素盞嗚尊、多多美比古命)滋賀県米原市伊吹
   B.伊吹神社(祭神:素盞嗚尊)滋賀県米原市上平寺
   C.伊吹神社(祭神:伊吹神)滋賀県長浜市山階町
   D.伊吹神社(祭神:日本武尊)滋賀県高島市朽木荒川
   E.伊富岐神社(多多美彦命)岐阜県不破郡垂井町伊吹 

 このうち、Dいがいはいずれも伊吹山の山麓か、それを遠望できる地域内に鎮座している。またその祭神も、A・Eで祀られている「多多美比古命(多多美彦命)」は『帝王編年記』に登場するこの山の神であり、A・Cで祀られている「伊富岐大神」「伊吹神」もそうである。してみると近江にある「いぶき神社」のほとんどが伊吹山の神霊を祀ったものであり、その信仰圏はこの山が遠望できる地域からあまり外に拡がらないことが分かる。


Aの伊夫岐神社(米原市伊吹)
伊吹山の神を祀る代表的な神社
近江国坂田郡の式内社である


伊夫岐神社と伊吹山


Eの伊富岐神社(岐阜県不破郡垂井町伊吹)
美濃国不破郡の式内社
祭神の「多多美彦命」は『帝王編年記』に登場する伊吹山の神
 


伊富岐神社々殿
 


同上
静謐な境内
 


同上
 


同上

 
当社のシンボル、神木の大杉
 


同上

当社は関ヶ原の兵火にかかって社殿を失っているが、

神体だけはこの木の股に隠して安泰だったという
 


同上
 

 その点、この草津市にある伊吹神社は伊吹山がまったく見えない地域に鎮座する「いぶき神社」として特異である。何か特別な由緒があってこの場所に鎮座していると思うのだが、手持ちの資料を調べた範囲ではほとんど何もわからなかった 


稲荷神社の杜(旧・東海道側から)
路線商業地化と宅地化が進むこの地域にあって
この杜の存在はとても貴重だろう


同上

 そこで、伊吹神社を訪れたとき、境内の清掃をしていた地元の方に当社の祭神や由緒について聞いてみたのだが、生憎、その時の返事は「この神社のことはどれだけ調べても分からない。」というものだった。もっともそれは、「そうそう、それなんだけどねぇ、、、。」といった感じの、いかにもちょっと残念そう答え方であった。地元でも当社のことが気にかかり、折々、調べてみるが結局、分からずじまであった様子が窺える。 

 ただ、その方は続けて、「言い伝えはあるのだけれど。」と前置きしてから、「膳所藩主だった本多の殿様が、膳所城の鬼門鎮護の神として勧請したのではないかと言い伝わっている。」とも仰っていた。地図で確かめると確かに伊吹神社が鎮座しているのは、膳所城からみて鬼門にあたる方角である。しかし、言い伝えとは言っても最初に「どれだけ調べても分からない。」と言っている訳なので、これは「そうではないか。」という推測が伝わっているということなのだろう。

 いずれにしても、こうしたことから地元では、伊吹神社の神紋を膳所藩主だった本多家の家紋である「立葵」としているとのことだった。ちなみに、稲荷神社の紋も立葵であるとのことで、これはかつての当社が膳所藩(本多家)から社領五石が寄進されていたことと関係がありそうである。総じて本多家が関係していた神社は、当社に限らず「立葵」を神紋とするケースが多い。


稲荷神社の屋根瓦に入っていた立葵の神紋
この紋が入った屋根瓦は現在、稲荷神社の屋根にしか使われていなかったが、
かつては伊吹神社の屋根にも使われていたという
紋入りの瓦は特注品でコストがかかるため、
現在では全て稲荷神社のほうに寄せてしまった由

 それはともかく、以上のようなことで、この草津市にある伊吹神社の祭神や由緒については地元の方でもよく分からない様子だった。しかし近江にある他の「いぶき神社」の事例から言っても、当社は伊吹山の神霊を祀ったものと考えるのが自然ではないか。そしてそうだとすると、過去にそのような信仰を伊吹山麓からこの場所に持ち込んだ者たちがいたことになり、それが息長氏だったのではないか。 

 以下、憶測を逞しくする。
 その場合、この栗太郡に来た息長氏の分派が「生命の水」として信仰していたのが玉井だったのではないか。現在では想像も付かないが、残された歌から伺われるかつての玉井は、そのような信仰を受けるに相応しい清冽な清水だったのである。いっぽう、やがてこの地域に、南島の「死の起原説話」を伝えるまた別のグループも流れ込んできた。この際、「すで水(=「生命の水」)」という共通の信仰を介して、彼らの神話がこの泉に上載されて生じたのが例の玉井の伝承である。

 さらに、彼らの持ち伝えた神話には「かつては人間も蛇と同じように脱皮して再生していたため不死であった。」という特徴的なモチーフがあったため、これに基づき、玉井の水で小豆を煮て長寿を寿ぐ儀礼が生まれた。再生と長寿を祈願するために、こうして玉井の水をつかって小豆を煮た儀礼食はやがて、東海道を行き交う旅人達に草津名物として知られる姥が餅の源流となった。しかし、その場合においても、姥が餅を売って佐々木義賢の孫を養育した「福井との」のイメージの中には、後世に上載された南島神話を突き抜け、もっと古層にわだかまる息長氏の巫女のそれが湧出しているように思われる。あたかも、白清水の伝承において、照手姫のイメージの中に彼女らのそれが記憶されていたように。 

 ついでに言っておくと、玉井の伝承を分析したところで、当該伝承において「すで水」にあたるものとして登場した五十鈴川の水は後世の附会ではないか、と述べた。では、どうしてそのような附会が生じたかを考えるに、近世後期以降、街道筋の名物として聞こえたあんころ餅としては、「姥が餅」と並んでおかげ詣りで賑わう伊勢の「赤福」があったから、何となくそこからの連想で、伊勢を流れるこの河川のことが附会せられたのではないか。

 

伊吹山の神は誰ですか(9)」につづく

 

 

 

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伊吹山の神は誰ですか(7)

2014年06月30日 21時19分49秒 | 近江の神がみ

★「伊吹山の神は誰ですか(6)のつづき 

 宮古島では次の(a)(b)のような神話も見つかっており、アカリヤ仁座の登場するそれの類話と考えられている。 

(a)シツ(節)という祭りに井戸から水を汲んできて、それを浴びて、人間は若返っておった。ある日、女が井戸から水を汲んできて、重いからおろして、いらごの実を食べている最中に蛇が入り、その水で若返った。人間は蛇に敗けて死ぬようになった。
(b)昔、人間は蛇のように皮を脱いで若返っていた。蛇は一代限りのものであった。ある時、人間と蛇が賭をした。節祭りの日に平良市のムズカ川に早くいって水を浴びたほうが皮を脱いで若返るようにしようということになった。節祭りの日の朝早く人間が皮に水浴びにいくと、すでに蛇が水を浴びていた。それ以後人間は死に、蛇は皮を脱ぎ若返るようになった。
 ・『沖縄民間説話の研究』丸山顕徳 勉誠社 p158 

 それにしても、この2つの神話にはアカリヤ仁座の処で登場した「しに水」にあたる存在がみられない。あるいは、より素朴な印象を与えるこれらのほうが、アカリヤ仁座の登場するものより古い神話のフォルムを伝えているのではないか。また、この2つの神話は同じくアカリヤ仁座のそれと違って「すで水」の由来が天上界に求められておらず、地上にある井泉、なかんずく(b)の場合では「平良市のムズカ川」なる実在するとおぼしき河川名が登場している。こうした実在の泉が「すで水」としての信仰を受けるというケースは沖縄にもあったらしく、折口信夫の『若水の話』には「首里朝時代には、すで水は国頭の極北辺土の泉まで汲みに行った。其が、村の中のきまった井にも行くやうになり、一段変じて家々の水ですます事にもなった。」という一節がある。 

 それはともかく、玉井の伝承を分析した際、「生命の水」である「すで水」は伊勢の五十鈴川の水のほうで、これに対して玉井の水は「しに水」にあたるとした。しかし、「しに水」の登場しない上の(a)(b)の神話からも感じるのだが、古くは玉井のほうが「すで水」であり、五十鈴川のほうは後から附会されたように思う(どうして玉井の伝承に、伊勢を流れる五十鈴川のことが附会されたかは別考しよう)。ようするにこの泉の水は、栗太郡に住んでいた人々によって、かなり古くから「生命の水」として信仰を受けてきたと考えるのだ。 

 ではその場合、どうして玉井の水は「生命の水」として聖別を受けるようになったのか?
  ── それを考える前に、まず次のことを整理しておく。すなわち、玉井の伝承が宮古島に伝わる死の起源説話と同型である以上、最初からそれが近江に伝わっていたとは考えにくい。おそらく、いつの時点かに海人族などの流入に伴って南島から持ち込まれたものだろう。しかし、たとえそうであったとしても、そのような伝承が玉井に伝わるようになったことまでが偶然とは思えない。人の移動に伴い伝承は伝播するが、それが特定の土地に定着するには、やはりそれなりのきっかけが必要だったと思われるからである。おそらく、この神話が伝わる以前から玉井の水は「生命の水」として信仰を受けていたのではないか。だからこそ、南島に起源をもつ神話が持ち込まれた際、同質の信仰を基底材としてそれがそこに上載されたと考える。 

 では、玉井の水を最初に「生命の水」として信仰したのはいったいどのような人たちであったか? 

 ここで「姥が餅」に注目したい。 

 姥が餅を販売する現在の「うばがもちや」本店は、草津駅近くの国道1号線沿いにあるが、かつては旧東海道と八橋街道が分岐する地点に店を構えており(現在の瓢泉堂がある場所)、そこは復元された玉井のある場所から北に約1km程度、離れた地点であった。わりと近い範囲である。 

 この餅は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などにも登場し、近世以来、草津宿の名物として知られたものである。だいたい親指の先ぐらいのサイズをしたあんころ餅の一種だが、白あんと山芋を練り切りしたものが頭に載っており、これによって乳房を表している。


姥が餅
画像は「うばがもちや」のホームページから

 どうして姥が餅は乳房を表しているのか?
 「うばがもちや」のホームページにある「うばがもち物語」によると、この餅には次のような謂われがある。永禄十二年(1569)、織田信長に滅ぼされた佐々木義賢が、3歳になるひ孫を乳母の「福井との」に託して息を引き取る。「との」は郷里草津に身を潜め、幼児を抱いて住来の人に餅をつくって売りながら暮らした。やがて忠義な乳母が売る餅は誰いうとなく「姥が餅」と呼ばれるようになり、その評判は草津名物として全国に広がった。この餅のフォルムは乳母が幼君に奉じた乳房に因んでいるのだ。 

 さて以前、白清水のところで、この清水が「生命の水」として信仰を集めたのは白濁していることが母乳を連想させたからではないか、という感想を述べた。また、それを支証する事例として、やはりダイイングゴッドとして再生儀礼に預かる大国主神の場合も、八十神の計略に遭って殺害された際には、キサガイ姫とウムギ姫の調合した「母の乳汁」をもって息を吹き返したことを述べた。


青木繁の『大穴牟知命』
八十神の迫害に遭って落命した大国主神が、
キサガイ姫とウムギ姫の治療によって蘇生する場面を描いた絵画
左にいるキサガイ姫のモデルは
青木の愛人だった「福田たね」だが、
右側で乳房を出しているウムギ姫のモデルは、
当時の青木が止宿していた旅館の娘、「宮田たけ」であるという


宮田たけ
青木は茨城県筑西市にあったこの旅館で名作『大穴牟知命』を描きあげたが、
当時の彼は「たね」との間に長男が生まれたばかりだった
しかし、「たね」は乳の出が悪く、このため「たけ」にもらい乳したという
「たけ」がウムギ姫のモデルをつとめるようになったのには、
こうしたいきさつがあったらしいが、
彼女の実家であったこの宿の名はなんと「玉之井旅館」であった

 ここで、母乳というモチーフを介した通底に基づき、「姥が餅の伝承の基層には、伊吹山の神に殺害されるダイイングゴッドの信仰と同タイプのそれが眠っている」としてこれを解釈してみる。
 ── 繰り返しになるが、このタイプの信仰とは、かつて伊吹山が望める地域で行われたもので、この地域に広がる水田の穀霊は、刈り入れの季節になると伊吹山に登ってこの山の神に殺戮され、春になり田植えの季節がはじまると、息長氏出身の巫女たちが山麓に湧きでた「生命の水」を使ってこれを蘇生させる、というものである。 

 その場合、まず、殺害される「ダイイングゴッド/穀霊」が亡くなった「佐々木義賢」にあたり、同じく彼を滅ぼした「織田信長」が穀霊を殺害する「伊吹山の荒ぶる神」にあたることになる。
 同じく、穀霊を蘇生させた「息長氏の巫女」は「福井との」にあたり、彼女の「母乳」は白清水をはじめとして伊吹山麓に湧き出るあれらの「生命の水」にあたる。「との」によって養育された「義賢のひ孫」は、「生命の水」によって再生した「佐々木義賢」であるとともに、蘇生した「ダイイングゴッド/穀霊」になるのだ。 

 乳母のものと伝わる「福井」という姓も意味深長である。『延喜式』によれば、宮中には天皇の長寿を寿ぐ聖水として、「生井」「綱長井」と並び「福井」という井泉が置かれていた。「生井」は天皇の生命を健康に保つための聖水であり、「綱長井」は長い綱のように天皇の寿命が途切れなく続くことを寿ぐ聖水であったろう。ここから、「福井」もまたたんに福をもたらすというだけでなく、ある種の生命主義に基づいた「生命の水」だったことがうかがわれる。してみると、「福井との」のイメージの中には、こうした聖水をつかさどる巫女のそれが残響しているのではないか。そして近江でそのようなイメージに相応しい巫女とは、これまで繰り返し述べてきたとおり、水の霊力を操る呪能に長けた息長氏出身の女性たちなのである。とすれば、玉井の水が「生命の水」として聖別されるようになった背景には、伊吹山麓いったいから息長氏の分派が栗太郡に移住し、彼らの信仰をこの湧水に持ち込んだ事情があるではないか。

 

伊吹山の神は誰ですか(8)」につづく

 

 

 

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伊吹山の神は誰ですか(6)

2014年06月30日 21時19分31秒 | 近江の神がみ

★「伊吹山の神は誰ですか(5)」のつづき 

 次のような伝承が玉井にはある(以下の引用で「野路の玉川」とあるのは、本論で言うところの「玉井」である。)。 

「正月の十五日、伊勢の五十鈴川の水で煮た小豆の粥を祝うのが、宮中でのしきたりになっていた。神宮の神域を流れる五十鈴川の水を使うと、小豆がよく煮えるとされていて、毎年その水を汲むための使いがさし向けられた。
 ある年、その使いに立った男が、野路の玉川のほとりを過ぎようとして、あまりの水の美しさに足を停めた。そして、わさわざ伊勢まで行くには及ばない、この川の水でも間に合うのではあるまいか、と考えたのである。男は玉川の水を汲んで帰り、黙って主水司に渡した。さて粥を煮てみると、その年に限って小豆がうまく煮えない。糺明の結果、伊勢まで行っていないことが明らかとなり、男は遠流に処せられた。
 罪びととなって同じ道を下ってきた男は、玉川のほとりを再び通りがかった。そして、この川の水がこんなに美しくさえなかったら、と長歎したのだった。玉川はその日から濁りはじめたのだという。記録によると江戸時代の寛政の頃には、すでに幅三メートル足らず長さ五メートルの小池になっていたようである。」
 ・『近江の伝説』駒敏郎・中川正文 角川書店 p68~69 

 ここに見られる1月15日、すなわち小正月の日に小豆粥を祝う習俗は実際に宮中で行われていたものである。今後の検討の際、重要になるのでこれを簡単に説明しておこう。『延喜式』にはこの日、宮中で米粥に小豆・粟・胡麻・黍・稗・葟子が入ったものを食べ、一般官人には米粥に小豆だけが入ったものを振舞う旨の規定があった。小正月に小豆粥を食した記事は『土佐日記』や『枕草子』にも見られ、現在でも東北地方の一部には同様の習俗が残るという。その趣旨は邪気を払い新しい一年の健康を祈念するものとされるが、年の改まる節目の時期に生の更新を図り、心身ともに強壮になって新しい年を迎える再生儀礼の一種と思われる。とうに無くなったこんな古い習俗の登場するこの伝承は、それだけでもユニークで興味深い。 

 それはともかくアイヌには、怠惰な若者が水を汲みに行くのを嫌がって神々の怒りに触れ、地上から引き離され月の中に置かれたため、月面にこの若者の姿がみえるという神話がある。 

 このアイヌの神話は、宮廷の使いが五十鈴川まで小豆粥を煮る水を汲み行くが、伊勢まで行かないで途中の玉井の水で済ませてしまい、やがてそのことが発覚して遠流に処せられたという玉井の伝承と似ている。もし両者がほんらい同型の説話であったとすれば、玉井の伝承にも月が関係していたのではないか。むろん、この伝承は一見すると月が登場しない。しかし小豆粥を食す習俗は小正月(正月十五夜)に行われるのであり、この日付は月との関係をうかがわす。また、玉井を歌った天仁元年(1108)の「むすぶ手も涼しかりけり月かげに底さへ見ゆる玉の井の水」に月が登場するのも注意をひく。 

 もしも玉井の伝承とこのアイヌの神話が類話の関係にあるとしよう。その場合、ニコライ・ネフスキーが宮古島で採話し、『月と不死』で紹介したあの有名な死の起源説話こそは、これらの伝承の原型ではなかったか。 

「大昔、宮古の島の人の世の出初めの時、月の神と天の神は、人間の命を幾代かけても末長く続かせようと思召され、アカリヤ仁座をお呼びになって、水を入れた二つの担桶を授けて仰せらるるには、これを下界に持ち下り、人間にはスデ水(蘇生の水)を浴びせ、幾代かわるも末長くスデ代わて常世の命あらせ、蛇には心さまの悪しき者なればスニ水(死の水)を浴びせよ。と、真正なる曇なき御情を人類に授けようとされた。
 アカリヤ仁座は、み旨に従って、二つの水桶を担って下界へ下った。もとより長い水のりを来たこととて足腰も疲れたので、担桶を下して憩いつつ道の側に放尿していた。すると其のひまに、一疋の蛇がすばしこくやって来て、人間に浴びせるためのスデ水の桶に入ってジャブジャブと浴みてしまった。アカリヤ仁座は打驚き、さてどうすればよいことであるか。まさか蛇の浴び残りを人間に浴びせる訳にもいかない。よんどころないことである。スニ水なりとも人間に浴びせよう、気の毒に思いつつも人間にはスニ水を浴びせて天上へ帰った。そして自分の非を悔いて正直に事の仔細を申し上げると、月の神、天の神はことの外お憤りになり、永久につきせぬ命を授けんと思いし此の心は汝の不覚によりあだになりしぞ。汝の其の許し得ぬ科あれば、人間の下界に住いなす限り、宮古の島の存する間、その担桶をになって月の世界に立ちて居れと、審き給うた。それで月の世界には今まで審きのままにアカリヤ仁座は担ぎ桶を担って、つきせぬ罪に問われて立っているという。 そして、スデ水を浴びた蛇は、幾世かわるも脱皮しては新生命をうけつぎ、スニ水を浴びせられた人間は永久に行き度くても、一度死ねば再び帰る能ほず運命づけられてしまった。それでアカリヤ仁座は、審きの庭で罪に問われつつも、何とかして人間に蘇生の道を得させ度さに、毎年、シツの深夜には柄杓を取ってスデ水を汲んでは撒きちらすので、今でも其の夜は小雨が降るといわれている。」
 ・『万葉びとの世界』桜井満 雄山閣 p138~139 

 ここに登場する蛇は「すで水」を浴びることで、「幾世かわるも脱皮しては新生命をうけつ」ぐ不死の存在となっている。古代人は蛇や蟹などの生物は脱皮(脱殻)の度に若返る不死の霊力をもつと考えていた。沖縄から奄美にかけて新生児の額に蟹を這わせる出生儀礼が分布するが、これなどもほんらい、新たに生まれてきた子が蟹のもつそうした霊力によって長寿になることを願ったものだろう。
 ちなみに、こうした習俗は、その裏に、かつて人間も脱皮し、その度に再生ないし若返ったので死ぬことはなかったが、何らかの事故(たとえば「すで水」の代わりに「しに水」を浴びてしまった等の)に遭ってそのような能力を失い、死すべき運命になったという古い信仰の存在を暗示している。 

 それはともかく、正月の習俗の中にはこうした脱皮する生物を食すことで、その霊力を体内に取り入れて生の更新を図ろうとするものがある。たとえば、伊勢エビは豪華おせち料理の定番だが、これなどもほんらい、脱穀するエビの霊力を年が改まるにあたって摂取し、生の更新を図る由来があったように思われる


高級おせち料理の食材には欠かせない伊勢エビ
(ウィキペディアの画像を拝借)
今回の画像はこれだけになってしまった
 

 また、正月料理に出される縁起物の中で、生の更新のために食される「脱皮する生物」は必ずしも動物とは限らない。伊勢エビに比べると地味な存在だが、おせち料理には里芋(八つ頭)も入る。里芋と言えば、正月ではないが中秋の名月にこの芋を供える「芋名月」の風習もある。大林太良によれば、正月と八月十五夜に縁起物としてこの芋を食す習俗は、日本各地から中国の江南地方にわたって分布するというが、これについて論じる中で彼は次のように述べた。 

「ここで興味深いことは、広東省においては、儀礼的食品として里芋を食べることを、里芋の汚い皮を剥ぐという表現で表していることが多いことである。私は、これは脱皮による再生のモチーフを元来表していたのではないかと考えている。つまりⅡ章で論じたように、人間も里芋の皮を剥くように脱皮して再生、ないし若返ったのだという信仰があったのではなかろうか?〈中略〉新年と八月十五夜に里芋の皮を剥いて食べることは、神話的な元古における脱皮能力を儀礼として再現し、反復することなのである。これによって食べる人の生命は、この節日にあたって更新され、活性化されるのである。」
 ・『正月の来た道』大林太良 小学館 p151 

 つまりここで大林は、新年に里芋を食べる習俗のことを、おせち料理の伊勢エビと同じようなものとして捉えているのだ。私もこの大林の議論に大賛成である。というのも、ここから小正月の日に小豆粥を食す習俗の由来について見当がついてくるからである。すなわち、よく煮て柔らかくなった小豆をつぶすと外皮を残して中から餡が出てくる。古代人はそこに里芋と同じような脱皮の表象をみたのではないか。その場合、彼らは類感呪術によって「脱皮による生の更新」を図るために小豆粥を食したことになる(伊勢エビや里芋のように)。 

 ここで玉井の伝承に話をもどす。
 古代人が煮えた小豆に脱皮の表象を見たとすれば、「宮廷の使いが五十鈴川のそれの代わりに玉井の水を渡したため、宮中で小豆粥を作ろうとしても例年のように良く煮えなかった。」というのは、小豆の脱皮が不全に陥ることであり、ひいてはそれを食す人間たちに「脱皮できない/死なねばならない」運命がもたらされることと等価となる。そしてそのように考えると、小豆がよく煮えるとされる「五十鈴の水」は「すで水」、そうではない「玉井の水」は「しに水」に該当し、使いの者の犯した罪は、人間たちに「しに水」を浴びせたアカリヤ仁座のそれと等しくなる。「すで水」を浴びて不死となった蛇にあたる存在は脱落しているものの、以上の検討から、玉井の伝承はもともと宮古島に伝わる死の起源説話と同型の神話であったように思われる

 本土のしかも内陸部にあたる近江に、宮古島に伝わる神話の類話が残っているというのはやや突飛に感じられるだろうか。しかし、古代の近江はヒボコの伝説でも明らかなように、渡来人や海人族を含む多くの人々が流入してくる土地であった。そういった人たちが伝えた多様な文化の中に、こうした古い神話も紛れ込んでいたのだろう。 

 

伊吹山の神は誰ですか(7)」につづく

 

 

 

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