偶発的なハプニング。台本の枠からはみだした笑い。
とんねるずとは、こういった類いの笑いを慈しんでやまないコメディアンです。
とんねるずのファンもまた、そういった笑いを常に期待しているし、型に嵌まった笑いに対しては拒否反応をしめす傾向があるように思います。
とんねるずも、とんねるずファンも、ただ台本通りにすすんでゆく笑いに対して、ちょっとアレルギーのようなものがあるのじゃないだろうか。
「みなさんのおかげです」でのコントはリハーサルを一切していなかった、と以前タカさんがどこかで言っていました。
それはやっぱり、彼らが常に新鮮なリアクションを求めていたからなんでしょう。
アドリブ、ハプニング、共演者の意外な行動・・・そういった、台本に書かれていないところで起きる事象への新鮮な、本気のリアクションこそが、とんねるずの笑いになにか爆発的なパワーとでも言うべきものをあたえていたし、いまもあたえつづけていると思うんです。
いつでも、本気でやる。
逆に言うと、本気でやれないことははじめからやらない。
このシンプルな信条が、とんねるずの30年の歴史をささえてきたんじゃないだろうか。
ところで、「リアクション」ということばがお笑い用語として定着したのは、いつからなのでしょうか?
「リアクションがいい」とか、「リアクション芸」とか、「芸人ならリアクションをとれないと」とか・・・
これも時代の趨勢なのかもしれません。芸人さんたちだって、がんばってる。
それはよーくわかってる。
だけど、なあ・・・
なんというか、さびしい時代になったもんです。
たとえば、芸人さんたちがジャイアントだるま落としゲームをやるとする。
彼らは、失敗して転げ落ちるリアクションをとる方がお笑い的には「おいしい」と計算する。
失敗したくないフリをしつつ失敗しようとしていることが、見ているこっちにもわかってしまう。
時には、あからさまに「ここでいいリアクションとらなきゃ」と周りの芸人が声援を送りさえする。
たちまちつまらなくなる。
とんねるずが同じゲームをやるとする。
彼らももちろん失敗するほうがおいしいことはわかっている。
だけど、そのために自分から失敗の方向へむかっていくことは絶対にしない。
特にタカさんは、カッコよく成功しようと全力でがんばる。
真剣にがんばったのに、結局大失敗してしまう・・・
なにもこういう比較でとんねるずをヨイショする気はないんです。
ただ、いったいどちらが「笑い」にとって幸福なんでしょうか?
なにも考えずにリアクションを見て純粋に笑うということは、もはや贅沢になってしまったんでしょうか。
皮肉なことに、「リアクション」をひとつの技術として客観的に見る傾向は、とんねるずにその由来があると言えるかもしれない。
笑いにメタ性をとりこんだ元祖は、まさにとんねるずなのだから・・・
じゃあ責められるべきはとんねるずなのか、というと、全面的にそうだとは言えない気がする。
なぜならとんねるずは、笑いを徹底的に対象化する、いわばデジタルな側面を持っていたと同時に、できるかぎり本気のリアクションを求めるという、いわばアナログな部分をも絶対に手放さなかったからです。
笑いの「技術」を芸人さん自身が云々するということ自体、わたしはあまり好きではないんですが、いまの笑いはますますアナログ面が矮小化して、予定調和にがんじがらめにされているような、そんな印象を受けることがよくあります。
「笑い」にとって、本当にむずかしい時代です。
な~んて言うと「いまどきの若いモンはブツブツ」ってぼやいてるみたいでいやなんだけど(笑)
たとえば「ゴッドタン」なんかは、そのあたりのむずかしさをちゃんとわかった上でセンスのあるバラエティ作りをしているなあ、と感じる番組のひとつです。
「ゴッドタン」は、ほんっとおもしろいよなあ・・・
とんねるずとは、こういった類いの笑いを慈しんでやまないコメディアンです。
とんねるずのファンもまた、そういった笑いを常に期待しているし、型に嵌まった笑いに対しては拒否反応をしめす傾向があるように思います。
とんねるずも、とんねるずファンも、ただ台本通りにすすんでゆく笑いに対して、ちょっとアレルギーのようなものがあるのじゃないだろうか。
「みなさんのおかげです」でのコントはリハーサルを一切していなかった、と以前タカさんがどこかで言っていました。
それはやっぱり、彼らが常に新鮮なリアクションを求めていたからなんでしょう。
アドリブ、ハプニング、共演者の意外な行動・・・そういった、台本に書かれていないところで起きる事象への新鮮な、本気のリアクションこそが、とんねるずの笑いになにか爆発的なパワーとでも言うべきものをあたえていたし、いまもあたえつづけていると思うんです。
いつでも、本気でやる。
逆に言うと、本気でやれないことははじめからやらない。
このシンプルな信条が、とんねるずの30年の歴史をささえてきたんじゃないだろうか。
ところで、「リアクション」ということばがお笑い用語として定着したのは、いつからなのでしょうか?
「リアクションがいい」とか、「リアクション芸」とか、「芸人ならリアクションをとれないと」とか・・・
これも時代の趨勢なのかもしれません。芸人さんたちだって、がんばってる。
それはよーくわかってる。
だけど、なあ・・・
なんというか、さびしい時代になったもんです。
たとえば、芸人さんたちがジャイアントだるま落としゲームをやるとする。
彼らは、失敗して転げ落ちるリアクションをとる方がお笑い的には「おいしい」と計算する。
失敗したくないフリをしつつ失敗しようとしていることが、見ているこっちにもわかってしまう。
時には、あからさまに「ここでいいリアクションとらなきゃ」と周りの芸人が声援を送りさえする。
たちまちつまらなくなる。
とんねるずが同じゲームをやるとする。
彼らももちろん失敗するほうがおいしいことはわかっている。
だけど、そのために自分から失敗の方向へむかっていくことは絶対にしない。
特にタカさんは、カッコよく成功しようと全力でがんばる。
真剣にがんばったのに、結局大失敗してしまう・・・
なにもこういう比較でとんねるずをヨイショする気はないんです。
ただ、いったいどちらが「笑い」にとって幸福なんでしょうか?
なにも考えずにリアクションを見て純粋に笑うということは、もはや贅沢になってしまったんでしょうか。
皮肉なことに、「リアクション」をひとつの技術として客観的に見る傾向は、とんねるずにその由来があると言えるかもしれない。
笑いにメタ性をとりこんだ元祖は、まさにとんねるずなのだから・・・
じゃあ責められるべきはとんねるずなのか、というと、全面的にそうだとは言えない気がする。
なぜならとんねるずは、笑いを徹底的に対象化する、いわばデジタルな側面を持っていたと同時に、できるかぎり本気のリアクションを求めるという、いわばアナログな部分をも絶対に手放さなかったからです。
笑いの「技術」を芸人さん自身が云々するということ自体、わたしはあまり好きではないんですが、いまの笑いはますますアナログ面が矮小化して、予定調和にがんじがらめにされているような、そんな印象を受けることがよくあります。
「笑い」にとって、本当にむずかしい時代です。
な~んて言うと「いまどきの若いモンはブツブツ」ってぼやいてるみたいでいやなんだけど(笑)
たとえば「ゴッドタン」なんかは、そのあたりのむずかしさをちゃんとわかった上でセンスのあるバラエティ作りをしているなあ、と感じる番組のひとつです。
「ゴッドタン」は、ほんっとおもしろいよなあ・・・
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