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- 無用の用 -

52『国境の南、太陽の西』村上春樹

2008-10-12 15:29:53 | 本 2008
村上春樹『国境の南、太陽の西』


【内容情報】
今の僕という存在に何らかの意味を見いだそうとするなら、僕は力の及ぶかぎりその作業を続けていかなくてはならないだろう―たぶん。「ジャズを流す上品なバー」を経営する、絵に描いたように幸せな僕の前にかつて好きだった女性が現われて―。日常に潜む不安をみずみずしく描く話題作。



『ねじまき鳥クロニクル』以来の村上作品。
相も変わらずの文章。文体。何度も読み返したくなる表現方法。村上作品はやはり面白い。とても興味深いものだ。

他の村上作品を読むと落ち着くのだけど、これを読んでいる間ずっと落ち着かない気持ちになった。
はっきり言ってこの作品は全体的に好きじゃあない。
それは私の身の回りで起こった出来事と結びつけてしまうからだろう。
だけど、好きじゃない感じがずっと漂っている作品なのに、ある所ですごく目頭が熱くなった。
ものすごく人間の「生」というものを感じた。そこでは感動さえした。
こんなふうに書かれたものって他にあっただろうか。
すごく大切なものを真綿でくるんで投げてしまう行為、という意味不明な文章が今頭に浮かんだ。
なんかそういう感じを受けた。

これから内容に触れていると思うので、これから読みたいと思う方はご注意を。















wikiの概要に「『ねじまき鳥クロニクル』を執筆し、第1稿を推敲する際に削った部分が元になり、そこに更に加筆する形で書かれている。」とあった。
読み終わって考えてみると、どこがどうなのかさっぱりだが、読み始めてすぐのところでとても興味深い一文があった。
最初の数ページで、「一人っ子」というフレーズが出てきたのだ。
それを読んで、ああ確かに繋がっているかもしれない、と思った(ブログの『ねじまき鳥~』の記事に一人っ子について書いていた)。
たったそれだけのことだし、村上作品には多くの同じようなキーワードが出てきたりするから、それだけでどうとは言えないし、結局のところ、私にはどこがどうなのかはわからなかった。そこまで読み解ける読解力はない。

この「一人っ子」ということについて、作品の中で「一人っ子が両親にあまやかされていて、ひ弱で、おそろしくわがままだというのは、僕が住んでいた世界においては揺るぎない定説だった。」と書かれていた。
今まで自分がわがままだとは思ったことがなかったけれど、よくよく考えてみたら、私の思考はわがままだからこそのものかもしれない。
短絡的というか、そういう部分のことが。自分の思い通りにならなかったら不安定になったり、相手や自分を必要以上に悪く思ったりする。
この部分を読んでそういうことを思い返して、ああ私はわがままなのかもしれない、と思った。


この本の登場人物を自分と重ねてしまうと書いたが、前の彼が主人公の僕で、今の彼女が初恋の相手(島本さん)、そして、私たちは結婚なんてしていなかったが、私が主人公の奥さん(有紀子)、と書くとなんともまあ間抜けな思考だが、どうしてもそういう感じで読んでしまった。

僕は初恋の相手島本さんと再会をして、奥さん有紀子との間で心が揺れる。そして僕はある時はっきりと島本さんを選ぶのだけど、その彼女は僕の前から消えてしまう。
最後は結局有紀子のところに戻ったが、その有紀子がすごいと思った。
僕は、君を傷つけたが、これから先君を傷つけないという約束は出来ない、と言う。しかし、有紀子はそれでも構わない。あなたが好きだ。今度は私があなたを傷つけてしまうかも知れないのだから。と言う。
これは私には真似が出来ない。
確かに人間の心なんてとても流動的でその時約束は出来たとしても、それをずっと守り通せるかどうかなんてわからない。わからないのに約束をして、そしてそれを破るぐらいならこの僕のように言うほうが正直だと思う。
だけど、人間正直だけでは生きていけない。
そして、作品の中で、有紀子は僕に「私と別れたい?」と尋ねる。
「僕の話を聞いてくれないか?」と言った主人公に対して、有紀子は「その女の人の話なんて何も聞きたくない」ときっぱり言う。
ここは本当にわかるなあ、と思った。
彼女の話なんて聞きたくもない。世の中には聞きたい女性もいるかもしれないが、少なくとも私は有紀子と同じ意見だ。
その過程の話やなにやかやは知りたくもない。聞きたいのは、私と別れたいかどうか。答えはイエスかノオしかないのだ。

私と別れた彼は月に何度か会っている。
当たり前のことだが、以前のようにそんなに頻繁ではないにしろ、月に数回は会っている。
会っていると言っても最近では昼ごはんを食べに行く程度だ。
だいたい私の仕事が終わったあとどこかで待ち合わせをして、二人で遅い昼食をとり、ぶらぶらと本屋などへ行ったり、お茶をしたりして晩ご飯までには帰ってくる。
時間にしたらほんの2,3時間程度だ。
その間に交わされる話と言えば、音楽の話か本の話、それに他愛のない世間話のようなものだ。
時々仕事について話をしたりするが、それ以外の話はしない。
彼女のことなんて聞いたりもしないし、もちろん向こうもそんな話はしてこない。
今どういう状態なのか。あれから会ったりしているのか。うまくいっているのか。時たま聞いてみたい思いが頭を過ぎるが、聞いてどうなることでもない。どうせ自分自身が乱れてしまうことはもうわかりきったことだ。
それに、本当にそのことについて私は知りたいと思っているのかどうかもわからない。知ってどうするというのだろう。もしうまくいっていたら事態は変わらない。もしうまくいっていないとしたら、どうなのだろう。また彼とやり直したいと思うのだろうか。有紀子のように、何もかも受け入れ、あなたが好きだと言えるのだろうか。
それにはもう私の心は変わり過ぎた。
今は自分から連絡を取らないし、彼女に悪いと思って何も彼に働きかけていない。いや、彼女に悪いからだろうか。それさえもわからない。とにかく何も働きかけていない。
彼と会っているその時間は私自身寛いでいるのかどうかもわからない。話をする。笑う。緊張もしない。しかし、寛いで安心できているかどうかというとわからない。
多分、そのように「話しにしたくない話」というものが存在するからだろう。そこで薄い壁のようなものが出来てしまっているのだろう。少なくとも私はそう感じている。
私は有紀子のように、別れる前から彼に好きな人が居ることを薄々感じていた。実際にそれを相手に確認はしなかったが、そういうのは自然にわかることだ。

私が消えてしまったらどうなるのだろう、と考えた。
今後何もしなかったら、どうするのだろう。どう思うのだろう。
本当に消えてしまおうか。
消えてしまうことは簡単だ。
ブログは読んでいないし、携帯に連絡が来ても返事をしなければいい。
それで一切は無くなる。
なんて簡単な繋がりなのだろう。

彼が一体何を考えているのか全くわからない。
単純に茶飲み友達ということなのだろうな。


一体私は何を書きたかったのだろう。
この作品を読んで、たくさんのことを考えた。それだけこの作品がリアリティというものを持っているということかもしれない。

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