Little Tree

日々のいとなみのなかで感じた子どものこと、季節の移ろいやこころに映る風景

ひとりで、お花見・・・その2

2008-04-05 11:18:09 | 子育て
朝の空も…春模様、小鳥の声が遠くに近くに響いています。

このところ、なぜか夜の9時頃には眠くなってしまい
私一人でうつらうつらしていることが多くなりました。

そのせいなのでしょうか?今朝は6時にスッキリと目が覚めました。


まずは、昨日の出来事などお話いたしましょうか…


昨日の朝は、9時すぎ頃に起きてきたkirikouでしたが
早速、従兄の家に電話をしていました。

(夫の)妹も仕事に出ていて、お留守番とのことでしたが

一時して「お母さんが良いっていったら、遊びに来てもいいよ」と言われたらしく

一旦電話を切って「ねぇ、良いでしょう。一人で行けるから…」と言い出しました。

私としても…妹の留守中に行くのもなんだし
一人で行くなんて…、まだチョッと…という気もするので

「そうだ、とりあえずおばあちゃんに相談してみよう。」ということで
kirikouにおばあちゃんに相談の電話をかけるように言いました。

おばあちゃんも従兄に電話で確認して
「お母さんに連れてってもらうなら、良いよ。」と言ってくれました。

床屋さんに行く予定だったので、ナントカなだめて
一人で先に床屋さんに行かせて、私もお弁当のおにぎりを作ってから追いかけました。

ところが、いつもの床屋さんがたいそう混んでいて
おとなしく座って待っているkirikouの顔も不機嫌で、まだ順番がくるには、相当かかりそうです。

急に立ち上がって番号札を置いて、kirikouが出て行ってしまい

私も「用事があるので、またにします。」って断って、kirikouを追いかけました。

電車に乗ってからも、kirikouはブツクサ言ってメチャクチャ不機嫌な表情ですし
急遽出かけることになって、私としてもシブシブなので

「そんなんだったら、もうお母さんは帰りたいよ…」と気持は、どんどん落ち込んでいきます。

ナンダカンダ言って、横浜駅で乗り換えて、電車の中でも離れた席に座ったりして…

駅からも、kirikouは一人で従兄の家まで向かって、私も買い物をしてから行きました。

けれど…歩き出すと、風は気持のよい春のあたたかさですし
桜も、そこここに綺麗に咲いています。

従兄の家に着くと、もうすでに二人で最新のテレビゲームをやっています。

飼っているワンちゃんが、見慣れない私に激しく吠えたててきますが

私も「大丈夫よ~」って、声をかけながら
持って行ったおにぎりとから揚げを温めて…食べ始めました。

ご飯を少しだけ「食べる~?」って、ワンちゃんに差し出すと
はじめは、おそるおそる…そのうち「もっと~」という表情に変わったように見えました。

「ワァ~!!ほんとうにかわいいものですね!!」

そうそう、このごろkirikouが「ハムスターを飼いたい」と言い出して
(喘息もあるので)「家の中で飼うのは、無理だよ~」って言っているんですけれど。

私も小さい頃「犬が飼いたい…」って、言っていましたけれど
どうも、「ガマンをするいい子」だったようで…(それも良し悪しではありますが…)
ふと、そんなことを思い出しました。

「やりたいコト」と「できるコト」「ノビノビするコト」と「ガマンするコト」

ドチラもドチラ…その折り合いが、上手につけられるといいのでしょうか?


それにしても…

あのゲームを、間近でやるのを観たのは初めてでしたので

あの小さくって、早い動きのどこを見ながらやっているのでしょうか
ほんとうに、ビックリデス!!

フィールドやらキャラクターを変えながら
まぁ飽きもせずに、二人でア~ダコ~ダと言いながら、夢中になってやっています。

少ししておやつを食べて、少しは外で遊んだら…ということになって
二人は近くの川に亀つりに出かけました。


ようやく私も一人になって…2階にあるリビングの窓からも、桜の花が見えました。

そして…時間は、さかのぼり…


「ひとりでノンビリお花見も、ワルクはないかしらぁ・・・」とつぶやきつつ

出がけに持ってきた読みかけの新書「さみしい男」を開きます。

著者は、諸富祥彦さんです。

(おそらく山極寿一著「オトコの進化論」からのつながりで借りたものです。)

2002年と5年ほど前の出版ですから、その後の変化も気になるところですが

私としては、「男の人」そして「男と女」「夫と妻」「家族の中の男」そして

これから思春期を迎えるkirikouとの付き合い方も含めて
「これからを生きるオトコの人は、どうなるの~?」などなど

とてもオモシロい視点からのお話を伺うことができました。

中でも一番気にかかって、できれば原典にも当ってみたいと思った部分をご紹介します。

(第5章コミュニケーションできない男  P136~)

「夫婦間のほんとうのコミュニケーションとは」より、以下一部引用)

『…現代カウンセリングの礎を築いた人物として知られるカール・ロジャーズという人は、『結婚革命―パートナーになること』(村山正治・村山尚子訳、サイマル出版会)という本で、それを次の三点にまとめています。

●結婚は、固く動かない建物でなく、流れる川である

●肯定的であろうと否定的であろうと、自分の最も深い感情を相手と分かちあうこと

●お互いに独立した二人の人間が、自分自身を発見し、それを分かちあうこと

 では、「独立した自分自身」になるとはどういうことか。ロジャーズは次の五つの要素から説明します。①自分自身の発見―自らの内なる感情に気づく。②自己受容―自分の内部の複雑で多様な感情を自分自身のものとして受け入れる。③仮面をとる―男らしさや力強さといった仮面や偽り、防衛から離れる。④「~すべき」「~が当たり前」といった社会通念に支配されず、自らの実感に従って物事を選択する。⑤二人の成長―お互いの成長を認めあい分かちあうことができる時、結婚生活そのものも成長する。 
 ロジャーズは、これらの条件が満たされれば、夫婦の間に、お互いを制約しない豊かなパートナーシップが実現されるはずだと考えています。』(引用ここまで)


確かに…これらの条件が、整えば…すばらしい!のひと言ですよね。

私のささやかな経験から言っても、言うはやすし行うは…だと想います。

けれど、夫婦に限らず、「人と人との関わり」の方向性として
とても大切なことを指摘しているように、私には感じられます。

まぁ、ドチラかが気づくことによって
少しずつでも、これらのことを意識した働きかけをしていく中で

「まずは、相手の話を聞いてみる。そして、話しかけてみる。」ことを、諦めずにトライしていけば

それなりの「コミュニケーションのつながりができる」ように
なるのではないでしょうか~?


さて…そんな折、ふと思い出したのが

松田道雄著「私は女性にしか期待しない」です。

もう20年近く前の出版ですが、タイトルもカナリ手キビシイ調子ですね。

(以前「私は赤ちゃん」という本についてお話いたしましたが)

小児科医として、戦前・戦後の家族の様子を
子どもやお母さんたちとの交流の中から見守っていらしたからこそのお話が書かれています。

男の人も…女の人も…そして、子どもたちも…

それぞれに生きづらさを感じることがあるのでしょう。

そんな時にも、何か明るいものを見いだすことができたら良いなぁ…

それには、どうすれば良いのかしらぁ…と想わずにはいられない私です。



さらにお話は、飛んで…昨日、もう一冊読み終わったのが

岩宮恵子著「思春期をめぐる冒険  心理療法と村上春樹の世界」で
手元にあるのは、茂木先生の解説つきの文庫本です。

私自身は、村上春樹さんの小説を読もうという機会に恵まれませんでしたが

(もしかすると、私にとっての「向こう側」につながる入り口ではないのかも知れず…)

それらの小説を知らなくっても、十分に興味を覚える内容でした。

その背後には、河合隼雄先生の言葉が優しく見守っているように流れているのも感じられて
ユング心理学の奥深さや大きさを観る思いがいたしました。

(梨木香歩さんのお書きになる「異界とのつながり」が、私には心地よく
河合先生と梨木香歩さんとの間にある見えない糸のようなものを、ふと思い出しました。)

そして、河合先生といえば…

「こころの子育て [誕生から思春期までの48章]」がありましたっけ。

「木のある風景」「ふたばのころ」「新芽のころ」「若葉のころ」
そして「森へ」という見出しも趣があって

「おわりに」の部分だけを読んでも、ことに奥深いことが書かれています。(以下引用)

『・・・「自己実現」というのは、スイスの心理学者のユングが考えたことです。
  西洋では近代になってからは、人間は自我の確立が大事なんだということでやってきた。日本もそれにならって「みんなとつながって」じゃなくて西洋みたいな、ほかから独立した「自我」を確立することが大切だという考え方になってきた。
 ところがそんなふうにかっちり自己を確立して生きていても「中年の危機」と言われるように、中年になってから大きな不安がくることがわかってきた。そしてその不安に立ち向かう仕事がユングの言う「自己実現」なんです。(中略)
 ユングは、人間は人生の前半は自我実現を目指し後半に自己実現に取り組むのだとわりと図式的に言っています。自己実現は、そんなに早くからできるはずがない、年をとってからのお楽しみなんだ、というわけですね。(中略)

よく「子育てと自己実現は両立するか」なんて言われますが、ぼくは子育てほどおもしろい「自己実現」はないと思います。「子育ては自己実現だ」というのは、子育てはこころも身体も、つまり人間全体を使わないとできないからです。(中略)
 自己実現を本気で考えたら、自分が好きなことをしているだけではダメで、他人との関係を考えざるを得なくなってくる。…だから、自己実現を本気で考え出したら、それは最終的には「世界」を考えることになります。そして、結局それは「楽しさ」をもたらします。 
 それでは、独身者とか、子どものいない夫婦は、どうなのかということもあります。そのような人も、象徴的な意味で何らかの「子育て」をしていると思われますが、今回はそれについては触れないことにします。
 
 「自己実現」はそれができたから一生それでいけるというものではありません。ユングはいつも「自己実現の過程」と言っていました。「個性化」とも言っています。結果ではなくプロセスだということです。
 人は「その人になる」(傍点あり)という過程を一生ずっと歩み続けていくんです。そして自分の歩んでいる道が自己実現に通じているかどうか。それは歩み始めてみてわかることのほうが多いと思います。それでどこをどう軌道修正するかしないかひとりひとり、みんな違います。それは自分自身に聞いて決めていかなければ仕方がない。まさに自己実現ですから。』(引用ここまで)


読みながら…私には、河合先生がお話になっているあの優しくってあたたかな声が
耳元に響いているような気がしてなりませんでした。


そして…昨年の夏、私の元にやって来た黄色い表紙の「ゲドを読む」を開いてみると…

「『ゲド戦記』と自己実現」というタイトルの(1978年9月号の『図書』岩波書店に掲載)
河合先生のお話が載っています。

小見出しを、順に挙げていくと…

『作者ル=グウィンとユング』『「名」の探求』『物語への出発』『英雄の起源』
『魔術師と治療者』『影の統合にむかって』『腕輪をめぐって』
『もう一つの統合』『均衡をめざして』『宛て名のない旅』となっています。

ユングの観ていた世界に
「ある種の畏れを抱きつつも、惹かれるものを隠せない…」でいた私にとっては

まだ読んでいない「ゲド戦記」に対する興味が、ますます湧いてきました。

特に、私が気になるところを引用いたしますと…

『…ところが、第三巻の仕事は何も獲得していない。何も獲得していないどころかヒョッとしたら失ったかもしれません。というのは、第三巻の終わりにゲドはもう魔法を使い果たしたといっていますね。そうすると、第三巻のゲドというのは一度こわれたバランスをもとどおりにしただけですね。なんか新しくなったのじゃなくて、一度こわれたバランスをもとどおりにして、そのためにゲドは魔法を使い果たした。だからいってみればマイナスになったようなものです。ところが、それが実はわれわれの最後の仕事である。つまりわれわれが年老いていくことは、そういうことなんだといっているように私は思います。つまり私が何をしでかした何を残した、あれをしたというふうにいっているのは青年期、あるいは中年でしょうが、老年にわれわれがいうことは、つまり私は何もしなかったということですね。あるいは持っていたものを全部使ったのだそういう仕事なのだ。ただおもしろいのは、ゲドはアレンという若者を連れていきます。私がいいましたようにただマイナスばかりじゃなくて、ここの第三巻には老人と若者というふうな非常におもしろいテーマが出てきます。最後の仕事で老人と若者がおるということは始めと終わりが共存していることだと思います。(中略)おれがおまえを選んだのか、おまえがおれを選んだのかと。だからこの老人と若者という組み合わせは非常に不思議な組み合わせである。つまり最後の地点に到達しているようでありながら始めも含んでいる。だからやはり終わってはいない。また始まるんだというような非常に逆説的な表現をこのなかに盛り込んでいると思います。

  宛て名のない旅  

 そしてこの第三巻の旅の非常に特徴的なことは、旅している二人も目的地が不明なままで、ともかく出ていているのですね。こういう航海のありさまは、われわれ心理療法家の仕事に非常に良く似ています。こられた患者さんと二人でほんとはなにをしていいかわからないのです。ともかく舟を出すのですが、どの方向へ行くのか二人ともはっきりわからない。そういう感じも非常によく出ています。心のなかに目標のようなものをもってはいるんだけれども、これが目的地というのをわれわれは持ち合わすことができない。これが自己実現の旅の特徴です。(中略)
 ゲドとアレンという老若二人の組み合わせは、非常に唐突に感じられるかも知れませんが、私には禅の「十牛図」の第十図の老人と若者の絵を思い出させます。禅の十牛図も自己実現の過程を描いたものとして、私は前から注目しているのですが、第十番目の最終図に描かれたものが、ゲドの自己実現の物語の終りとパラレルになっていることは非常に興味深いことです。(中略)
 ここでひとつ疑問点を挙げますと、十牛図では女性が出て来ないということがあります。ゲドのほうではテナーという女性の存在が重要でしたが、十牛図ではどうなっているのでしょう。あるいは、女性が出現しているのだが、われわれの目には、それと見えなかったのかも知れません。
 このような比較検討をこころみることによって
自己実現と一口に言っても、なかなか難しいことであることが解ると思いますが、後の仕事は皆さんが各自やってくださることを期待して
話を終わることにします。』(引用ここまで)


長々と引用いたしましたが、
どの言葉も奥深いことを示唆しているように思われてなりません。

(因みに、「ゲド戦記」を検索してみると…

「影との戦い」A Wizard of Earthsea(原作1968年、邦訳1976年)
「こわれた腕環」The Tombs of Atuan(原作1971年、邦訳1976年)
「さいはての島へ」The Farthest Shore(原作1972年、邦訳1977年)
「帰還 -ゲド戦記最後の書-」Tehanu, The Last Book of Earthsea(原作1990年、邦訳1993年)
「アースシーの風」The Other Wind(原作2001年、邦訳2003年)
「ゲド戦記外伝」Tales from Earthsea(原作2001年、邦訳2004年) とのコト。

原作の題名には、ゲド戦記に当る言葉は…見当たらないような気もしますが…?)


読みかけのアーシュラ・K. ル=グウィン著「ファンタジーと言葉」の続きも気になりつつ…

読んでみたい本が、またまた増えてしまいました。


これから、kirikouの向かう旅のゆくえがわからないのと同じように…

私に残された旅の行く先も、まだまだ見えてはきませんが…

それもそれ…吹く風の心地よさに、まかせてみたい…と想う私です。



朝ごはんのあと、夫が出かけるついでにkirikouが床屋さんに行きました。

家事の間のスキマの時間に、ここまで書いてまいりました。

いつの間にか、洗濯機の回る音も止まったようです。


あらっ、ちょうどkirikouも帰ってきたようですね…


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