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登校拒否って言うな!

2006年03月31日 22時44分45秒 | 不登校
本田由紀さんたちのお書きになった「ニートって言うな!」が売れている。

職場の人権研究会主催の彼女の報告会でのできごとがあった。
「不登校の親の会」の人が、こうおっしゃったのだった。
「自分たちはどうして『登校拒否でもいい』、と言ってしまったのか。なぜ『登校拒否って言うな!』と言えなかったのか。」
悔恨のひとことだった。

その思いは、この新書を手にしてから、わたしも持っていた。
どうしてあのとき「登校拒否って言わないで」と言えなかったか。
有徴化に診断帝国主義、専門家支配に健康至上主義批判、正常と異常の区切りの恣意性と明るさ至上主義の相対化・・・・それらはすべて大事なことの周囲をめぐるだけの論議ではなかったか。(それらの真剣な試行錯誤を前面否定するわけではないとしても。また、うちの子は「登校拒否って言わないでほしい」と言っていて、みなさんと同じじゃなくて困ると出版記念シンポジウムで発言した親御さんに、「その子ががそう言うのならそれでいいんじゃないか」と別の立場を尊重するおおらかな姿勢を崩さなかったとしても。)

もちろん、まだインターネットもなかった時代の十代の子ども、それもフリースクール間の自由な移動を無理解な両親といいかげんなフリースクールによって封じられた家庭の囚人だったわたしにそんな気の効いたことを言えといっても無理だろう。

だけど、今ならなんとか言うことができる。

登校拒否って言うな!

専門家だろうが、素人だろうが、はたまた当事者であっても、
登校拒否なんて言うな。

たぶん、そのキーワードを使っているかぎり、問題解決はない。
カッコつきで使うのはいい。歴史的な文書や証言のなかに出てくるのは仕方ない。
ただし、ベタで使うな。

たった1日や2日、あるいは一週間や10日学校に行かないだけで登校拒否なんていうな。

学校の外で別の学びや経験をやっているときに、登校拒否?どうして?

学校に行きたい/行かなければとの意識は大きい。にもかかわらず、行きたくないとも思う。2つの考えの落差とギャップに戸惑い、苦しんでいるときに登校拒否? やめてよ。バカじゃないの。。。。病気でも障害でもないのに薬を飲ましたり、強制入院させたり、フリースクールに行けと圧力をかけたり・・・。子どもはゆがめられ、搾取されるばかりだ。

意識は学校に行きたがり、片や無意識では学校を拒む。まあ、ひとつの説明なんでしょ。それもひとつの仮説でしょう。確かな証拠はなく、わからないところは推論でおぎなっている。ヒトの祖先は何種かみたいなもので、ミッシング・リングはわからない。それを探求することがいいことかどうかも含めて未知の世界である。

もちろん、「登校拒否でもいいじゃないか」は、ぜんぜん役立たずだったわけではない。もう生きる資格がないと思いつめる究極の自己否定から自己肯定へのいのちがけの飛躍を助けてくれた。
だけれども、社会的な立場や肩書きとしてこれほど不当なものもない。ちょっと学校に行かないだけで人にこの世でもっとも不利なレッテルをはりつける。それはとんでもない暴力だ。
「登校拒否でもいい」という言論。それは、レッテルそのものを問わないものだった。それは自分たちの思考停止もしくは表現力不足だった。
たしかに、登校拒否というマイナスのラベルをなんとかプラス、またはプラス・マイナス・ゼロに価値反転させようとするのは「善意」からの試みだったかもしれない。
ただそれは、ネガをポジにひっくりかえすだけの作業だった。荒っぽい論理だった。
むしろ、どうやっても学校に行きたい気持ちと行きたくない気持ちの間でゆれ・まどい、葛藤するのを否認させる悪魔の思考だった。

診療室やフリースペースのなかではそれでもいい。だけど、外に出たときには偏見・無視・冷遇・排除が待っている。それを改良することかなわぬ無力な論理だった。子どもたちをそういった安全空間に閉じ込め依存させる効果こそあっても、そこから自由になれる力強さのない、小さなコミュニティに特有の論理であり、批判として中途半端だった。

もういいかげんに言うな。登校拒否とも不登校とも言わないで。
なかには学校に通いつつフリースクールにもやってくる子もいる。いっときフリースクールに通い、その後学校に行く子もいる。一生学校には行かないという子もいれば、行く子もいる。

勝手に、専門家の利益のために、あるいは学校のある社会はいいものだという幻想を保つためにいけにえを作らないで。

そう、登校拒否と言われた子と元子らは、この呪いの呪文から自由になっていい。

登校拒否って言うな!

進歩の光は闇をともなう。高校全入、高等教育大衆化は、それゆえのゆがみと犠牲をともなう。
光が強くなれば、闇もいっそう際立つ。
登校拒否という闇を、攻め滅ぼそうとしてはいけない。
登校拒否は悪くない。
そして、登校拒否とはもう言うな。
そこには登校するのと同じ子どもしかいない。
同じようにひとりひとり異なる存在があるだけだ。
その子を殴るな・蹴るな。その子の親を責めるな。
その子を薬漬けにするな。病院に閉じ込めるな。
家を座敷牢にして閉じ込めるな。
何が再登校だ。再家庭、再地域じゃないのか。

そんなことができるのは、たった半日も学校を休んだことのない人だけだ。そして、そんな人は多分どこにもいない。
誰もが何日かは学校を休んでいる。登校と不登校に絶対の差はない。

とにかく、登校拒否って言うな。問題を解決せず、さらにつくりあげるだけだ。

何度でも言おう。登校拒否って言うな!



(この話、つづく


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2 コメント

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ビンゴ! (rabbitfoot)
2006-06-06 10:53:12
うちの娘(世間的には現在小5)も、幼稚園から「ムラ社会的日本社会の集団生活アレルギー」です(笑)

小1の時の担任の先生が理解ある方だったので、私はとっくに容認してます。ただ、義務教育期間中は、学校(教師)側の“ご機嫌取り”に腐心するつもりです。それで娘が守れるなら、親として闘ってやるべきだと思ってます。

娘は、学校は嫌いだけど、勉強することは好きで、塾は嬉々として通っていますよ。正常な精神の持ち主だと思ってます。

食物アレルギーと同じです。それを食べて死ぬんなら、食べなくていいですよね。

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賛成します (rabbitfoot)
2006-06-28 16:29:18
うちの娘(世間的には現在小5)も、幼稚園から「ムラ社会的日本社会の集団生活アレルギー」です(笑)

小1の時の担任の先生が理解ある方だったので、私はとっくに容認してます。ただ、義務教育期間中は、学校(教師)側の“ご機嫌取り”に腐心するつもりです。それで娘が守れるなら、親として闘ってやるべきだと思ってます。

娘は、学校は嫌いだけど、勉強することは好きで、塾は嬉々として通っていますよ。正常な精神の持ち主だと思ってます。

食物アレルギーと同じです。それを食べて死ぬんなら、食べなくていいですよね。





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