★ New!Kimmy's Diary ★

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アシンメトリーの美

2011年09月27日 | 日本文化
秋草を眺めながら思い出すのが酒井抱一の「夏秋草図屏風」です。今年は生誕250年を記念した展覧会が開催されているため、この時期見かけることがあるかと思います。俵屋宗達や尾形光琳の流れをくむ琳派の絵師で、江戸琳派を作った人と言われています。

私の一番好きな日本の建造物は厳島神社と平等院鳳凰堂ですが、その美しさは床面を境とした上部と下部のバランスと、左右対称の美しさにあります。横に伸びた平面の美しさと伸びやかさを支える柱の高さ、柱と柱の間隔のバランスが好きです。こういった美しい建築は決まってシンメトリーです。何よりも安定感を求められる建物ですから当然でしょう。世界一美しいと言われるタージマハールも完璧なシンメトリーです。

それに対し、日本の伝統文化のさまざまなシーンでは、アシンメトリーの美を見つけることができます。右と左の対象物のバランスを考えながら大部分を占める真ん中のスペースの使い方にも、それぞれのオリジナリティを見つけることができます。俵屋宗達の風神雷神図屏風、尾形光琳の紅白梅図屏風などは描かない部分をどう活かすかが綿密に計算されているようです。

アシンメトリーの美の理由ーそれは未完成であるということでしょう。未完成が完成に向かう時、そこには動きが生まれます。動かないはずの絵に動きを感じることができます。その完成形を想像するのは私たちです。ちょうど音楽のコードが「不安定」のセブンスから「安定」のⅠ度に移る時、その一瞬に劇的なドラマが生まれるのと同じような感覚です。そして、未完成とはまさに自然界の魅力であり、あるがままを「美」とみなす、その「姿勢」そのものを「美」とする理念にあるのではないでしょうか。

手を加え、洗練された美もあるけれど、自然のまま、あるがままも美しいーこんなメッセージを琳派の絵から感じます。そしてまた、そのあるがままの美を表現するための色彩感覚や描写技術は、鍛錬された絵師たちによって受け継がれ、空間もまた描かれたもの同様に意味を持つことを知ると絵を見るときの楽しみが増えます。

床の間に花をいける時、水盤の中の剣山を真ん中に置かずに横にずらしてみるー生活の中でアシンメトリーの美を見つけるのも面白いかもしれませんね。

国宝 秋草文壺

2011年09月24日 | 日本文化
秋風にたなびく野原の雑草を眺めていると、数年前に愛知県陶磁資料館で見た陶磁器部門での国宝第一号「秋草文壺」を思い出します。


平安時代後期に、すでにこのような美しい形の壺が作られていたということにまず感動します。開口部と胴体部分の一番丸みを帯びた部分と底の部分の三箇所の大きさのバランスと、壷全体の高さとのバランスが絶妙。さらに、表面に描かれたさまざまな秋草の模様の素晴らしさ。ススキ、ウリなどが大胆に、でも、描き過ぎもせず、素朴すぎることもなく、突起したヘラで引っ掻いて描いただけなのに、風情に溢れています。

デザインの配置は、日本文化独自の黄金比率でしょうか。琳派の画家達が好んで取り上げた草花文様の原点を感じます。全部を埋めつくさず、作為的に残された空間が美を演出しています。

それから感動するのは時空を超えた奇跡的な遺産であるということ。制作地は、以前は常滑説だったものが、現在では渥美説が有力、となっていますが、いずれにしても我が故郷愛知県で800年以上前に作られた骨壷が、1942年に神奈川県で発見され、それがほぼ完璧な姿で残っていることに歴史ロマンを感じます。

渥美は日本の六古窯のひとつで、鎌倉時代の東大寺再建の際には瓦を作っていたという史実あり、東大寺瓦窯跡が今でも残っています。秋のドライブに渥美半島の先端近くまでおでかけになる人はぜひお立ち寄りください。


あれ、いつのまにか、私、観光協会の人になってる・・・(笑)



象徴化された日本庭園

2011年09月21日 | 日本文化
京都にあるお寺の中でも特徴的な大寺院を「大徳寺の茶面、建仁寺の学問面、東福寺の伽藍面、南禅寺の武家面、相国寺の声明面」と言うのをご存知でしょうか。それぞれの大寺院の歴史がわかる素晴らしいキャッチコピーですよね。

北区にある大徳寺は、その中でも私のお気に入りの寺院です。著名な僧侶を数多く輩出し、茶の湯文化との縁が深い禅宗寺院で、22の塔頭があり、それぞれに趣の違った茶室や露地(茶室に面した庭)があります。庭を見ながらその歴史をたどるだけでも一日十分に楽しめます。

日本庭園は ①枯山水②池泉回遊式庭園③露地 に分類することができますが、京都ではそれぞれの代表的な庭を鑑賞することが簡単にできます。西洋にも昔から自然を取り込みながら日常生活をすごすという感覚はあります。ガーデニングが盛んなイギリスを始めとしてヨーロッパでは、古くから競って人工的で広大な庭園を城や荘園に配しています。

では、日本庭園をそれと決定づけるのはなんでしょうか。例えば枯山水は、小石や砂利で海や川を表現し、石を立てて滝や自然界に生息する鶴や亀のような動物を表現し、見る者の側にその具現化を委ねています。そして、それを見ている「自分」をも含めて、時間の経過や空間も抽象化して表現し、宇宙全体を表現しているとも受け取れます。ですから、日本庭園を本当に理解したければ、そこに石や砂や岩などが置かれている理由を考えることになります。「精神性の象徴化」といっていいでしょう。

これは「能」の表現方法にも通じているのではないでしょうか。何もない舞台の上で繰り広げられる謡と舞。役者の身に纏う面と衣装の模様などから、それぞれのキャラクターの置かれた立場、事件や心情を、観客がひとりひとりの脳内で解いていくのに似ているような気がします。

何を表現するためにそれはそこに配されているのか。あの石とその石との関係性は何なのか。周囲のものとの関連や、見る者へのメッセージを考えることは、日本文化の深さを感じさせてくれるでしょう。非常に哲学的ですがその「わかりにくさ」がきっと、人々を惹きつけて止まないのでしょう。

「象徴しているものは何か」日本庭園を見るときはそれをキーワードにして鑑賞するときっと今まで見えなかったものが見えてくるかもしれません。そして同時に大切にしたいことは逆説になりますが「哲学しすぎない」ことです。最優先したいことは「そこに作り出された空間を自分の五感を使って感じること」です。さあ、秋の庭に出かけてみませんか。


仏像からの示唆

2011年09月16日 | 日本文化
今年立ち上げたNPO法人フィール・ザ・ワールドの活動では、これからの日本に生きる人たちに大切にしてほしいことを十分に伝える機会を作っていこうと考えています。英語を教えてきた私が機会を捉えては「日本文化の大切さ」を話させていただいていることに違和感を感じられることが多々あるようですが、英語を教えてきたからこそ気づくことはたくさんあります。

ことばはその人の思考であり、考え方であり、何を伝えるのか、何をわかってほしいのか、というコンテンツなくしては成立しません。自分の考え方や感じ方、知識、技術、思いがまず「存在する」ことが大前提にあります。それを「誰に」伝えるのか、「どう」伝えるのか、という部分で初めて言語力が必要になってきます。

海外に出て生活したことのある人はわかるでしょう。自分が「日本人であること」を一番知らなかったのは「自分自身」であったことを。自分がいかに日本のことを知らないか、ということを痛感させられるのは、自分自身を「外」からの眼差しで見てみる、という経験をしてはじめて理解できるのかもしれません。日本について尋ねられて満足に答えられない時、はじめて自分の無知と不勉強に気づかされます。それと同時に、日本人であることの誇りや歴史に対してあまりにも無関心だった自分を恥ずかしく思うのではないでしょうか。何を伝えたくて英語を学んでいるのでしょうか。ただ表面的なコミュニケーションで満足しているのではないでしょうか。

私の日本人再認識の原点は、在学していたアメリカの大学寮で、ルームメートだった友人が25年前私を頼って日本に来た時の出来事にあります。御多分に漏れず一緒に京都と奈良を旅行し、東大寺の法華堂を訪れた時のことです。彼女が聞くのです。

'What are the differences between these buddas?'
(これらの仏像の違いは何?)
'This is called Nyorai. This is called Amida. This is called Kannon.
How are they different?'
(これは如来というのね。これは阿弥陀。これは観音と呼ばれているんだ。どう違うの?)
'They look different. This looks scary. This one looks angry. Why?’
(これは怖そう。これは怒ってるみたい。どうして?)

この旅の間中、私は彼女の質問攻めに合い、あまりの自分の無知さに落胆しました。暗記の苦手な私にとって日本史は不得意科目でしたし、さほど興味もありませんでした。寺はどの寺も退屈なもので、仏像なんてどれも同じ、神社もどれも同じで、価値も分からず、意味も分からず…。そんな私に彼女の数々の質問は学校のテストより辛いものでした。

私が答えられなければ誰が一体教えてあげられるのだろう。日本人である私たちが伝えられないで誰が伝えられるのだろう。私たちがこの価値あるものを「価値がある」と認識しないで、日本の宝を守れるのだろうか。誇れる日本文化を次世代に伝えて行けられるのだろうか。そんなことを自問自答しながら、その旅を終えました。仏像の存在により私は自分が日本人であり、誇るべき歴史や伝統があることを再認識することができました。まさにアイデンティティの復活でした。

日本人であることを誇りに思って欲しい。日本にある価値あるものや潜在的に価値あることを顕在化させ、認知したい。そして、大切にしていきたい。フィール・ザ・ワールド(世界を感じること)はフィール・ジャパン(日本を感じること)も大切にしていきたいと考えています。

夜長の季節ですね




感動のラウル・ミドン

2011年09月05日 | その他
「人一人」と「ギター一本」で、こんなに人を感動させることができる人間が他にいるでしょうか。先日「東京JAZZフェスティバル」でラウル・ミドンの演奏を聴き、久しぶりに魂を揺さぶられる体験をしました。

1966年生まれのアメリカ・ニューメキシコ出身の全盲のシンガー、ギタリスト。母はアフリカ系アメリカ人、父はアルゼンチン人。彼は幼少の頃からアルゼンチンの音楽とリズムの中で育ちました。4歳でドラムを始め、その後ギターに移行、マイアミ大学のジャズ科を卒業した後はバックミュージシャンとしてジェニファー・ロペスやフリオ・イグレシアスと共演、ジェフ・ベックの前座を務めています。その後2005年に‘State of Mind' でデビューを果たし現在は世界各国で音楽活動を行っています。

彼の奏でる正確なビートとリズムとメロディラインは、一人の人間が弾いているとは思えないほどの卓越した技術によって裏打ちされています。それに加えて、ところどころでギターを打楽器のように扱い、打ち鳴らしたり、弦をはじいたりと、パーカッシヴに弦の音と連動させるのにも驚きました。たった一本のギターを使っていろいろな音を作り出していく技は実に見事です。カルテットくらいの迫力はあります。

そのギター演奏の上に乗せる歌唱力と歌詞で表現されるメッセージがまた抜群。人間味ある素直で正直な表現で、心にぐっと来ます。更に、口でトランペットの音色を出すマウス・トランペット奏法で「ラウル・ワールド」はどんどん重厚感を増していきます。誰かそこにトランペッターがいるような錯覚にとらわれます。「どこ?」とステージ上を探しても他に誰も演奏者はいません。こういった魅力は、ライブで聴いてこそ存分に味わうことができます。

彼の歌はとてもわかりやすい英語です。そして「滑舌」が極めて良いシンガーです。
‘articulation, enunciation, and intonation'に優れているので、英語学習者にとっては絶好の教材になります。彼のジャジーな音楽を楽しみながら、英語のリスニング力アップができるのは一石二鳥です。

人に音楽を楽しむ機会を提供する立場に身を置く者として、自分自身を振り返る良い機会になりました。そして、音楽は「聴くもの」と、いつの間にか決め込んでいた私を、もう一度ライブコンサートに誘ってくれるきっかけになりました。

もうすぐ夜長の秋がやってきます。

http://www.youtube.com/watch?v=zzaClXAt3aY&feature=related