ドバイ駐在員ノート

一人の中年会社員が、アラブ首長国連邦ドバイで駐在事務所を立ち上げて行く過程で体験し、考えたことの記録。(写真はイメージ)

アカデミー賞発表に想う

2007年02月26日 23時15分30秒 | 観る/聴く
菊地凛子さん助演女優賞逃す 米アカデミー賞発表(共同通信) - goo ニュース

今年のアカデミー賞は、日本人が何かと話題を提供した。

主演した「硫黄島からの手紙」は作品賞を逃したものの、渡辺謙は作品紹介までしたそうで、存在感を示した。二世でない日本人の俳優がこういう場で英語のスピーチができるようになったのは誇らしい。昔、坂本龍一が「ラストエンペラー」で音楽の賞を獲ったときに、どんなことをしゃべったのか記憶にない。確かThank you とかその程度ではなかっただろうか。全然関係ないが、10年は一昔、私は渡辺謙にそっくりと言われたことがあって(本当です)、ちょっと他人事とは思えない。

何十年ぶりかで、菊地凛子という女優が助演女優賞の候補になったとかで、これも話題を提供した。ただし、賞の候補になった映画「バベル」の彼女の役どころは聴覚障害者でセリフもほとんどないらしい。この映画をまだ観ていないが、これについて書かれたブログを読むと、賛否両論というより、批判的な記事が多いように感じる。特に、彼女が裸になるシーンは、聴覚障害者だけでなく女性から不快感を感じるというコメントが目についた。

なぜ、日本が舞台の一つに選ばれたかについても、韓国や中国だったら、映画に反対する抗議行動が起こっただろうから、といううがった意見もあり、なるほどと思った。イスラム教に対する偏見を助長するメディアは、イスラム人権委員会がチェックしていて、抗議をする仕組みが一応ある。日本人はこういうことに対して寛容なのか鈍感なのか、はたまた不快感を英語で表明する能力がないのか、抗議したと言う話をついぞ聞かない。

映画というのは怖ろしいメディアで、例えフィクションという断り書きがあっても、それによってある国の国民のイメージが作られてしまうことがある。最近では、日本人が描かれたハリウッド映画を観ると、昔のようなステレオタイプは少なくなり、随分フェアに描かれるようになったきているように思う。

80年代後半から90年代前半にかけては、「ガンホー」(1986年)や「ライジング・サン」(1993年)のように日本企業を買いかぶりすぎていたり、日本人を異質なものとみていたり、あまり感情移入できないものが多かった。俳優も2世か中国人、または日本では盛りを過ぎた日本人を使っていたのも原因かもしれない。中で「ブラック・レイン」(1989年)は、やくざの描き方がマフィアと混同している節はあったものの、松田優作他、存在感のある俳優を使っていて、まあまあの出来だった。

最近では、「キル・ビル」(2003年)のような日本に関する考証がめちゃくちゃな映画もあいかわらずあるが、太平洋戦争前後に生きた芸者の半生を描いた「SAYURI」(2005年)やウィスキーのCM撮影のために来日したアメリカ人ハリウッド俳優の困惑を描く「ロスト・イン・トランスレーション」(2003年)など、違和感がなく入り込めた。もっとも、前者は主演女優が中国人というのが悲しい。英語のセリフが多い役をこなせる主役級の日本人女優がいないということのようだ。桃井かおり、工藤夕貴は助演でがんばっていた。(工藤夕貴が主演した「ヒマラヤ杉に降る雪」(1999年)は、興行的には成功しなかったようだが、なかなか良かった)。アラブ人を魅了して止まない「ラスト・サムライ」(2003年)に出演した小雪あたりどうなのか、とも思うが、この映画では彼女のセリフは少なかったから勤まったのかもしれない。

上記のような変化は、渡辺謙など日本人俳優やスタッフのハリウッド進出と無縁ではないだろう。彼らがハリウッドの映画人と日常的に接する過程で、アメリカ人の日本人に対する歪んだイメージも修正されてきているし、日本人スタッフの助言を求めるようになっているのではないか。

映画好きなもので、つい話が長くなった。硫黄島はどうかわからないが、バベルがドバイでノーカット上映されることはないだろう。日本に一時帰国した時にでも観ることにしよう。

願わくは、アカデミー賞の授賞式で英語でスピーチができる日本人女優が現れてほしいものだ。菊地凛子もまだ若いので頑張ってほしいが、そのためには、まずは英語を勉強しなくてはね。

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