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是非にあらず

小手前の安心は無い

古事記

2013年12月07日 11時19分11秒 | 歴史
成立の経緯を記している序によれば、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したもの。一般的に「誦習」は「暗誦」することと考えられているが、荻原浅男(小学館日本古典文学全集)は「古記録を見ながら古語で節をつけ、繰り返し朗読する意に解すべきであろう」という。

712年(和銅5年)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶(おおのやすまろ))によって献上された、現代に伝わる日本最古の歴史書である。上・中・下の全3巻に分かれる。原本は存在していないが、後世の写本の古事記の序文に書かれた和銅年及び月日によって、年代が確認されている。勅撰の正史ではない。
しかしながら、序文で天武天皇が、
「撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉」
訓読文:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。
と詔したと記載があるため、勅撰とも考えられる。

※『帝紀』:初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している。これらは朝廷の語部(かたりべ)などが暗誦して天皇の大葬の殯(もがり)の祭儀などで誦み上げる慣習であったが、6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。

※『旧辞』:宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。



書名について:もともと、固有名詞ではなく、古い書物を示す一般名であり、正式名ではないといわれている。

※正史:王朝が正当と認めた歴史書の意味。

※勅撰:天皇・上皇の命によって、詩文を選び、書物を編纂(へんさん)すること。

■構成
・上つ巻(序・神話)
・中つ巻(初代から十五代天皇まで)
・下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)

上巻(かみつまき):天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が語られ、天孫降臨を経てイワレヒコ(神武天皇の誕生までを記す。いわゆる「日本神話」である。
中巻(なかつまき):初代神武天皇から15代応神天皇までを記す。
下巻(しもつまき):16代仁賢天皇から33代推古天皇までを記す。

『古事記』は物語中心だが、多くの歌謡が挿入されている。


現存する『古事記』の写本は、大きく、「伊勢本系統」と「卜部本系統」に分かれる。
現存する『古事記』の写本で最古のものは、1371年~翌1372年に真福寺の僧・賢瑜によって書写された真福寺本古事記三帖(国宝)である。「伊勢本系統」

古事記原文検索サイト Wikipediaより


Wikipediaより



藤田民次郎

2013年04月14日 20時51分32秒 | 歴史
?-1813 江戸時代後期の一揆(いっき)指導者。
陸奥(むつ)津軽郡(青森県)鬼沢村の農民。弘前(ひろさき)藩の松前出兵による増税と冷害がかさなり,文化10年約2000人の農民が弘前城におしかけ強訴した(民次郎一揆)。減免の願いはとおったが,民次郎は首謀者として,同年11月26日斬首(ざんしゅ)された。22歳とも25歳ともいう。

コトバンクより


弘前市鬼沢で、弘前藩最大規模の百姓一揆を率いた藤田民次郎の伝承や、鬼(き)神社の伝説を地区の子どもたちに語り継いできた藤田日出子さん(享年65)が24日、亡くなった。くしくも今年は「民次郎一揆」から200年の節目の年。
遺族は「母の死には深い意味があったのかもしれない」と話す。
藤田さんは、民次郎の墓がある鬼沢地区の同じ墓地で眠りについた。

Web東奥より


聞いてみたかったですね。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。




詳しくは下記サイトへ↓

義民 藤田民次郎


過去は忘れていくものですね。

津軽 承昭

2013年01月27日 11時06分55秒 | 歴史
津軽 承昭(つがる つぐあきら)は、陸奥国弘前藩の第12代(最後)の藩主。和歌にも優れていたと言われている。

熊本藩主・細川斉護の四男として江戸に生まれる。安政4年(1857年)、第11代弘前藩主・津軽順承の婿養子となり、その偏諱を受けて初め承烈(つぐてる)と名乗り、後に承昭と改名した。
※細川斉護:細川 斉護(ほそかわ なりもり、熊本藩の第10代藩主。代々の藩主による出費などで、すでに80万両という膨大な借金を抱え、財政は破綻寸前となっていた。しかもこのような中で、アメリカやイギリスなどの日本接近もあって、幕府から天草地方や相模湾警備を命じられ、その出費で財政はさらに悪化した。改革派と保守派が対立し、かえって藩内が二分された。このような混乱と苦悩の中で万延元年(1860年)、斉護は57歳で死去した。

安政6年(1859年)2月7日、養父の隠居で家督を継ぐ。藩政においては洋式軍備の増強に努めた。明治元年(1868年)の戊辰戦争では、官軍に与して箱館戦争などで功績を挙げたため、戦後に新政府より1万石を加増された。明治2年(1869年)、版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官。東京へ移る。明治17年(1884年)に伯爵となる。
※知藩事:知藩事(ちはんじ)は、明治時代初期に置かれた地方行政官の名称。県令(都道府県知事)の前身に当たる。藩知事とも言う。
※伯爵:伯爵(はくしゃく)とは爵位の一つである。侯爵(こうしゃく)の下位、子爵(ししゃく)の上位に相当する。古くは中国での名称で、のちに近代の日本の華族(「五爵」の第3位)やヨーロッパ・ロシアの貴族の階級を表す訳語として用いられた。
※爵位:爵位(しゃくい、Title)とは主に古代から中世にかけての国家や現代における君主制に基づく国家において、貴族の血統による世襲または国家功労者への恩賞に基づき授与される血統別・等級別の栄誉称号のことである。



その後は第十五国立銀行取締役となる。大正5年(1916年)7月19日、77歳で死去した。跡を養子の英麿(近衛忠房次男)が継いだ。
※第十五国立銀行:第十五国立銀行(じゅうごぎんこう)はかつて日本に存在した銀行である。1944年帝国銀行に吸収合併された。
※近衛忠房:近衛 忠房(このえ ただふさ)は、幕末期の公卿。過激な尊王攘夷運動には反対で、文久3年(1863年)の八月十八日の政変においては父と共に薩摩藩に協力して、長州藩の勢力を京都から追放することに尽力した。慶応2年(1866年)、第二次長州征伐が起こったときには、長州征討を強行する幕府と、長州藩を擁護する薩摩藩の仲介を務めている。明治維新後は神官となった。明治6年(1873年)、父に先立って36歳の若さで死去した。死の前年からは伊勢神宮の祭主となっていた。
※公卿:公卿(くぎょう)とは公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。
※祭主:祭主(さいしゅ)とは、伊勢神宮にのみ置かれている神職の役職である。「まつりのつかさ」とも読む。


Wikipediaより



ということで、津軽 承昭の墓と思われるのを撮って来ました。
四方コンクリートに囲まれ、中に入るにはどうしたら良いのか謎の墓です。





ちょうど、1ヶ月のスペシャル企画となりました。
色々な歴史がありましたね。

そうそう!この間、津軽家の下屋敷に祀られていた稲荷を撮って来ました。










では、また。






津軽 信順

2013年01月26日 19時32分42秒 | 歴史
津軽 信順(つがる のぶゆき)は、陸奥国弘前藩の第10代藩主。

弘前藩では第7代藩主・信寧や第8代藩主・信明の下で藩政改革が行なわれ、大いなる成功を収めた。しかし、名君と謳われた信明は早世した。

信明には継嗣がなく、そのために養嗣子の寧親が藩主となった。これが信順の父である。しかし、寧親は信明と違って有能ではなかった。そしてそのような藩主の息子として生まれた信順も暗愚の器で、後世に「夜鷹殿様」と渾名された。

しかし、この暗君親子には一つの野望があった。それは、中央政界への進出、つまりは幕政への参与である。そのために寧親は世子である信順の正室に、特に身分の高い娘を選ぶことで、強力な門閥関係を作ろうとした。文化8年(1811年)、信順は内大臣・近衛基前の娘と婚約した。しかし、2年後にこの娘は夭折する。次に信順は徳川斉匡の六女・鋭姫と婚約する。斉匡は第11代将軍・徳川家斉の弟である。このため、将軍の一門衆となった信順は文政3年(1820年)12月、それまでの歴代藩主の官位よりさらに高い、侍従に叙任された。しかし鋭姫は信順が叙任された日に夭折する。
※夭折:年が若くて死ぬこと。若死に。早世。
※近衛基前:近衛 基前(このえ もとさき、天明3年8月11日(1783年9月7日) - 文政3年4月19日(1820年5月30日))は江戸時代後期の公卿。
※徳川斉匡:徳川 斉匡(とくがわ なりまさ)は、徳川御三卿の一つ田安徳川家第3代当主。
一橋徳川家2代当主徳川治済の五男。母は丸山氏。江戸幕府11代将軍徳川家斉の異母弟にあたる。
※御三卿:御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した大名家である。

翌文政4年(1821年)年4月に、今度は斉匡の九女・欽姫と婚約し、文政5年(1822年)12月には結婚するに至った。しかし、この3度に及ぶ結婚騒動のために公家や幕閣にばら撒いた金銀は数十万両に及び、この膨大な資金のため信明時代に再建されていた財政は破綻した。

信順は父親以上に暗愚であった。参勤交代で宿泊した所で、夜中は女と酒に入りびたりであった。しかも信順は昼頃に起きるという不健全な生活を繰り返した。そのため、参勤交代の行列の進み具合は遅れる一方であった。当時、参勤交代には決められた期日までに江戸に到着しないといけない決まりがあった。このため家老の高倉盛隆は、参勤が遅れて主家が改易されることを恐れて、信順に対して諫死した。しかしこの忠臣の死を知っても、信順は「遊興は余の病である」と言い放って遊び呆けたという。

天保5年(1834年)には、本来なら必要の無い大名行列で領内を巡察し、さらに花火見物、ねぶた見物、月見見物と、藩財政を自分の快楽で乱費した。このため、名君・信明が築き上げた財政再建は水泡に帰した。

さらに、正室に将軍家と繋がりのある欽姫を迎えておきながら、江戸日本橋の油屋から娘を入れ込んで側室にするなど、乱行を繰り返した。このため、弘前藩の借金は70万両近くにまで膨れ上がったと言われている。このような失政と乱行に家臣団も絶望した。さらに幕閣もこれを捨ておけず、天保10年(1839年)に強制隠居を信順に命じた。家督は養嗣子の順承(松平信明の七男)が継いだ。

その後、信順は政治の表舞台に立つことなく、1862年に63歳で死去した。


Wikipediaより







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