【 滑稽本氏へのお返事 】
前置きが長くなって恐縮です。
貴氏からのご指摘にお返事するには、あまりにも字数を要するため、こちらも記事としてエントリーさせて頂きました。諸事情ご理解下さい。
当初は、これ以上議論が噛み合わない場合には、お返事をご遠慮しようかと思っていたのですが(貴ログにおける8月23日のコメント参照)、貴氏から
>仏教というのは礼儀を教えないモノらしい
というご指摘がありましたので、私個人はもとより、仏教に対する風評被害を払拭するため、私も貴氏に倣って「重い筆」を取ることにいたしました。ご了承下さい。
>どうしても筆が重い。こっちが真面目にやってるというのに、駄弁を弄したという自覚がありながら駄弁を弄するこの不躾さが気に食わない。
私の主張は貴氏にとって「駄弁」にしか映らないだろうな、と危惧したもので一文付しただけです。
貴氏にとっては「駄弁」でも、私にとっては「駄弁」ではありません。ゆえに「不躾」という指摘は当たらないし、またそういう自覚もありません。
>仏教というのは礼儀を教えないモノらしいというくらいは分かったが、そもそも私の質問を適当にあしらおうという姿勢を見せた、と暴露している人間に対して真面目さを要求する方が無理があるか、とか考えると、尚更筆が重いワケだ。
貴氏から「不躾」とか、「私の質問を適当にあしらおうという姿勢を見せた」とか、「真面目さを要求する」といった言葉が出てくるとは正直思いませんでした。
貴氏にとって「不躾」、「適当にあしらう」、「真面目さ」という言葉は何を意味するものでしょうか。合わせて、「自らの言動を顧みる」といった自戒の念についてどのようにお考えなのかをお尋ねしたいです。
ブログ上にて貴氏のご高説を拝する限り、そういう概念にあまり囚われない方だとばかり思っておりました。
誤解を恐れずに問い質せば、貴氏のブログにおける論調こそ、「不躾」であり「適当にあしらう」ことに長け、「真面目さ」に欠けていると言えるのではないでしょうか。
読み手側の心証を意に介さない論調や表現等は、時に目に余る気がいたします。
>私の質問の前提を、全て「かも知れない」で片付けられてはホトホト困る、というよりこれは無礼だ。
何を指してこう仰るのかいまいち不明瞭ですが、恐らく私が敢えて断定的な表現を避けて論を展開している点についてでしょうか。
それは、貴氏に対して断定的な表現を多用すれば、以前私が掲げた「この世に万古不易たる絶対的な真理など存在しない」という立場に抵触するのでは
と揚げ足を取られる事を危惧したからです。
これまでの様に、お互いの立場に固執して議論を進める以上、相手に理解を求める上において、そのぐらいの配慮は出てきて当然でありましょう。
そもそも「この世に万古不易たる絶対的な真理など存在しない」とする私の立場と、貴氏は同じ様な立場を取っていたと思っておりました。その点においては、私たちは相通ずる部分があったのではないでしょうか。
ここで言う「全て「かも知れない」で片付けられてはホトホト困る」というご指摘と、貴氏が当初「駄目なものは駄目!」(ならぬものはならぬ)を批判していた立場というのは、どこで整合性が取れるのか非常に興味があります。
「~かもしれない」という表現は、この場合貴氏に対する「誠意」や「謙虚」といった過大評価は受けたとしても、貴氏の言う「無礼」には当たらないものと考えます。
>「かも知れない」で済まさず、「それは正しい」か「それは違う、こうこうこうだ」と根拠を示してハッキリ言うべきだ。
前後の文脈を読み計る事なく、このフレーズだけ切り取って俎上に載せれば、それはまさしく正論でありましょう。
しかし、そこには貴氏の恣意的な論理の誘導が見られます。
繰り返しますが、貴氏の言う「根拠」に相当する部分が、実は「仮有の構築」でしかないという次元の話をしているゆえに、「かもしれない」なのです(「仮有の構築」に関しては、貴ログ7月4日と7月23日のコメントを参照)。
貴氏は絶対的な「根拠」を示せという割には、時にその「根拠」の懐疑性を指摘してみたり......一体どういう立場で論を展開しようとしているのか分からなくなる時があります。
私も当初は、貴氏の依る立場が読み取れない時期に、貴氏の真意を探る質問や発言を繰り返していました(拙ログ7月30日~8月2日のコメント参照)。
私なりに距離を縮める努力はしてきたつもりですが、未だに貴氏に恣意的に操られている感がどうしても否めません。
>何もかも知った風な顔をしているから、分からない事を聞いているというのに、はぐらかして済まそうという不誠実さ。
これもタイムリーな話題を提供いただきました。
実は、私もこれに似た感情を抱きつつありました。
例えば、当初しつこいぐらい貴氏にお尋ねをしていた「人を殺して良い理由」。
それに未だお答え頂けてないという事は、もしかして「はぐらかして済まそうという不誠実さ」によるものなのでしょうか?
貴氏が何を以て「はぐらかす」と言うのかよく分かりませんが、その意味で言えば貴氏は誠実だと言えるのでしょうか?
>こういう面でも不誠実な相手に質問をぶつけるという事、或いはそういう相手からの質問に答えるという事がどれだけ苦痛か。
一つ前にコメントした立場に立てば・・・私も十分「苦痛」なのです。
>まぁ、仕方が無い。というワケで、この問題についての返事が遅れているのは、私の責任では、無論、無い。
別に責任を問うたりはしていません。
話が噛み合わない以上、お返事が遅れるのも当然かと思っておりましたので。
相手の主張を理解しようという姿勢がない以上、お互いの見解を擦り合わせて議論に繋げようとしても困難が伴います。というか、物理的に不可能でありましょう。不可能なことに挑む以上、時間を要するのは当然のことです。
私たちは、お互い異なる立場であることを自覚しない限り、議論は一向に前に進みません。
「責任」云々の問題ではないので、あまり気になさらないで下さい。
>それはさて置き、取り敢えずこの無礼者(今度は駄弁を弄するのは勘弁して下さい)の質問の何が間違っていると私が感じているかを指摘しておこう。
繰り返しますが、貴氏にとっては「駄弁」でも、私にとっては「駄弁」ではありません。誤解のないように。
で、少し前にも同じ様な質問をいたしましたが、ここで言う貴氏にとっての「無礼者」という言葉の意味や定義を教えて下さい。合わせて「自らの言動を顧みる」といった自戒の念についてどのようにお考えなのかをお聞かせ願いたい。
百歩譲って私が「無礼者」であるならば、貴氏は面識のない第三者(私)に対して、「この無礼者」と言い放つことができるほど礼儀を弁えた人格者なのでありましょう。
>無論、それで相手が納得するかどうかは知らないし、多分納得しないだろう、という諦めが無いではないが、間違っているモノは間違っているのだ。
「間違っているものは間違っている」・・・まるで「ならぬものはならぬ」というコピーを想起させる言葉ですね(笑)
貴氏の「間違っているモノは間違っている」と断言するだけの「根拠」の正当性を、「ならぬものはならぬ」を否定してきた今までの立場とどう整合性をつけるのか非常に楽しみです。
>私の知る限りにおいて、堂頭@Netさんは3つの間違いを犯していると思う。
①ぜひこの混沌とした社会に対して有益で具体的な提言をして頂きたかった。
②但し、それが基本的人権を蹂躙する最たる行為の「殺人」であれば話は別です。ある意味、無批判な従順さを強制しても然るべき、というのが私の立場です。それに異を唱えるなら、その異を唱えた人は必然的に「人を殺して良い理由」を反証すべきであろうというのが前回の私の主張でした。
③我々は生きる意味すら見出せなくなってしまうでしょう
>それぞれについて述べていく事にしよう。後に振り返れば私の弁も駄弁かも知れないが、少なくとも現段階では駄弁では無い、と言える程度には私は責任感がある人だ。
貴氏の言う「責任感」と、私の責任感にどのような差異があるのか?これから見極めていきたいと思います。
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前置きが長くなって恐縮です。
貴氏からのご指摘にお返事するには、あまりにも字数を要するため、こちらも記事としてエントリーさせて頂きました。諸事情ご理解下さい。
当初は、これ以上議論が噛み合わない場合には、お返事をご遠慮しようかと思っていたのですが(貴ログにおける8月23日のコメント参照)、貴氏から
>仏教というのは礼儀を教えないモノらしい
というご指摘がありましたので、私個人はもとより、仏教に対する風評被害を払拭するため、私も貴氏に倣って「重い筆」を取ることにいたしました。ご了承下さい。
>どうしても筆が重い。こっちが真面目にやってるというのに、駄弁を弄したという自覚がありながら駄弁を弄するこの不躾さが気に食わない。
私の主張は貴氏にとって「駄弁」にしか映らないだろうな、と危惧したもので一文付しただけです。
貴氏にとっては「駄弁」でも、私にとっては「駄弁」ではありません。ゆえに「不躾」という指摘は当たらないし、またそういう自覚もありません。
>仏教というのは礼儀を教えないモノらしいというくらいは分かったが、そもそも私の質問を適当にあしらおうという姿勢を見せた、と暴露している人間に対して真面目さを要求する方が無理があるか、とか考えると、尚更筆が重いワケだ。
貴氏から「不躾」とか、「私の質問を適当にあしらおうという姿勢を見せた」とか、「真面目さを要求する」といった言葉が出てくるとは正直思いませんでした。
貴氏にとって「不躾」、「適当にあしらう」、「真面目さ」という言葉は何を意味するものでしょうか。合わせて、「自らの言動を顧みる」といった自戒の念についてどのようにお考えなのかをお尋ねしたいです。
ブログ上にて貴氏のご高説を拝する限り、そういう概念にあまり囚われない方だとばかり思っておりました。
誤解を恐れずに問い質せば、貴氏のブログにおける論調こそ、「不躾」であり「適当にあしらう」ことに長け、「真面目さ」に欠けていると言えるのではないでしょうか。
読み手側の心証を意に介さない論調や表現等は、時に目に余る気がいたします。
>私の質問の前提を、全て「かも知れない」で片付けられてはホトホト困る、というよりこれは無礼だ。
何を指してこう仰るのかいまいち不明瞭ですが、恐らく私が敢えて断定的な表現を避けて論を展開している点についてでしょうか。
それは、貴氏に対して断定的な表現を多用すれば、以前私が掲げた「この世に万古不易たる絶対的な真理など存在しない」という立場に抵触するのでは

これまでの様に、お互いの立場に固執して議論を進める以上、相手に理解を求める上において、そのぐらいの配慮は出てきて当然でありましょう。
そもそも「この世に万古不易たる絶対的な真理など存在しない」とする私の立場と、貴氏は同じ様な立場を取っていたと思っておりました。その点においては、私たちは相通ずる部分があったのではないでしょうか。
ここで言う「全て「かも知れない」で片付けられてはホトホト困る」というご指摘と、貴氏が当初「駄目なものは駄目!」(ならぬものはならぬ)を批判していた立場というのは、どこで整合性が取れるのか非常に興味があります。
「~かもしれない」という表現は、この場合貴氏に対する「誠意」や「謙虚」といった過大評価は受けたとしても、貴氏の言う「無礼」には当たらないものと考えます。
>「かも知れない」で済まさず、「それは正しい」か「それは違う、こうこうこうだ」と根拠を示してハッキリ言うべきだ。
前後の文脈を読み計る事なく、このフレーズだけ切り取って俎上に載せれば、それはまさしく正論でありましょう。
しかし、そこには貴氏の恣意的な論理の誘導が見られます。
繰り返しますが、貴氏の言う「根拠」に相当する部分が、実は「仮有の構築」でしかないという次元の話をしているゆえに、「かもしれない」なのです(「仮有の構築」に関しては、貴ログ7月4日と7月23日のコメントを参照)。
貴氏は絶対的な「根拠」を示せという割には、時にその「根拠」の懐疑性を指摘してみたり......一体どういう立場で論を展開しようとしているのか分からなくなる時があります。
私も当初は、貴氏の依る立場が読み取れない時期に、貴氏の真意を探る質問や発言を繰り返していました(拙ログ7月30日~8月2日のコメント参照)。
私なりに距離を縮める努力はしてきたつもりですが、未だに貴氏に恣意的に操られている感がどうしても否めません。
>何もかも知った風な顔をしているから、分からない事を聞いているというのに、はぐらかして済まそうという不誠実さ。
これもタイムリーな話題を提供いただきました。
実は、私もこれに似た感情を抱きつつありました。
例えば、当初しつこいぐらい貴氏にお尋ねをしていた「人を殺して良い理由」。
それに未だお答え頂けてないという事は、もしかして「はぐらかして済まそうという不誠実さ」によるものなのでしょうか?
貴氏が何を以て「はぐらかす」と言うのかよく分かりませんが、その意味で言えば貴氏は誠実だと言えるのでしょうか?
>こういう面でも不誠実な相手に質問をぶつけるという事、或いはそういう相手からの質問に答えるという事がどれだけ苦痛か。
一つ前にコメントした立場に立てば・・・私も十分「苦痛」なのです。
>まぁ、仕方が無い。というワケで、この問題についての返事が遅れているのは、私の責任では、無論、無い。
別に責任を問うたりはしていません。
話が噛み合わない以上、お返事が遅れるのも当然かと思っておりましたので。
相手の主張を理解しようという姿勢がない以上、お互いの見解を擦り合わせて議論に繋げようとしても困難が伴います。というか、物理的に不可能でありましょう。不可能なことに挑む以上、時間を要するのは当然のことです。
私たちは、お互い異なる立場であることを自覚しない限り、議論は一向に前に進みません。
「責任」云々の問題ではないので、あまり気になさらないで下さい。
>それはさて置き、取り敢えずこの無礼者(今度は駄弁を弄するのは勘弁して下さい)の質問の何が間違っていると私が感じているかを指摘しておこう。
繰り返しますが、貴氏にとっては「駄弁」でも、私にとっては「駄弁」ではありません。誤解のないように。
で、少し前にも同じ様な質問をいたしましたが、ここで言う貴氏にとっての「無礼者」という言葉の意味や定義を教えて下さい。合わせて「自らの言動を顧みる」といった自戒の念についてどのようにお考えなのかをお聞かせ願いたい。
百歩譲って私が「無礼者」であるならば、貴氏は面識のない第三者(私)に対して、「この無礼者」と言い放つことができるほど礼儀を弁えた人格者なのでありましょう。
>無論、それで相手が納得するかどうかは知らないし、多分納得しないだろう、という諦めが無いではないが、間違っているモノは間違っているのだ。
「間違っているものは間違っている」・・・まるで「ならぬものはならぬ」というコピーを想起させる言葉ですね(笑)
貴氏の「間違っているモノは間違っている」と断言するだけの「根拠」の正当性を、「ならぬものはならぬ」を否定してきた今までの立場とどう整合性をつけるのか非常に楽しみです。
>私の知る限りにおいて、堂頭@Netさんは3つの間違いを犯していると思う。
①ぜひこの混沌とした社会に対して有益で具体的な提言をして頂きたかった。
②但し、それが基本的人権を蹂躙する最たる行為の「殺人」であれば話は別です。ある意味、無批判な従順さを強制しても然るべき、というのが私の立場です。それに異を唱えるなら、その異を唱えた人は必然的に「人を殺して良い理由」を反証すべきであろうというのが前回の私の主張でした。
③我々は生きる意味すら見出せなくなってしまうでしょう
>それぞれについて述べていく事にしよう。後に振り返れば私の弁も駄弁かも知れないが、少なくとも現段階では駄弁では無い、と言える程度には私は責任感がある人だ。
貴氏の言う「責任感」と、私の責任感にどのような差異があるのか?これから見極めていきたいと思います。
