
まず初めに、今回の記事はこれまでの経緯が分からないと、読んでも全く意味不明な記事かもしれません。
もし、それでも目を通して頂ける方がいれば、以下の記事(コメントのやり取りも含む)をご覧になってからご一読願います


※コメント覧のやり取りもご確認下さい。

※コメント覧のやり取りもご確認下さい。

当該記事は、上に挙げた滑稽本氏からのご指摘に対する返信的意味合いがあります。
先方のコメントスペースに文字制限があるゆえ、私も先方に倣ってブログ上の記事としてエントリーさせて頂きました。予めご了承願います

興味のある方は以下をクリックしてご訪問下さい。もちろん興味のない方はスルーして頂いて結構です(あくまでもプライベートなやり取りでもあるので)。


※滑稽本氏は直接こちらからどうぞ

そして、文意の把握くらいはして下さい。
更に、私の主張への反論があるのなら「かも知れない」で済まさずに証拠を示してください。
と、書いたハズですが?
あなたの脳内の妄想の結果、ではなく、実際にあって、人類一般(過去・将来・洋の東西を問わず)に一般化し得ると考えられる事実、という証拠を。
貴氏の言う「根拠」とは、畢竟私の言うところの「立場」の表明です(この主張は一貫しております)。
仏教の立場から「万古不易の絶対的な真理は存在しない」と表明した以上、いわゆる「根拠」の提示は「立場の表明」でしか為し得ません。
ここで言う「立場」の表明は、前回の六編にわたるお返事できちんとお示したはずです(いわゆる、それが私の「根拠」そのものです)。
それに気付かぬようであれば、気付いて頂くまで記事を読み返して頂くしかないですね。
なぜなら、お返事したとしても、同じ主張を繰り返すのみになってしまいますから。
一つ言わせて頂ければ、貴氏は「根拠を示せ」という割には、その「根拠」自体は単なる貴氏独自の「思い込み」でしかありません。
その「思い込み」の部分に関しては、きちんと例を示して反論させて頂いたつもりです。
(例:脳味噌の構造と人の認識の問題、「基本的人権」という概念を二元論でのみ捉えようとする姿勢、「人を殺して“良い”理由」を説明できない訳、「生きる意味」に対する根本的な誤解など……etc.)。
私の記事を流し読みするだけで、単に「脳内の妄想」の一言で済ませてしまうその態度は、それこそ不誠実の極みなのではないでしょうか。ましてや、仏教に対する風評被害も甚だしいものと危惧します。
貴氏の言う「根拠」が単に「思い込み」でしかない以上、我々はお互いの立場を表明し合う事でしか歩み寄る道はないと思います。互いに「思い込み」を武器に相反し合っても、それこそ時間を無駄に浪費するだけです。
普段から先生の話を聞いているため、先生の言いたいことはよく分かります。
しかし、滑稽本先生の真意はどこにあるのか、それを直接本人から確かめてみたい気もしますね。
ところどころ違う立場を取りながら、一度だけ結論部分が重なるところは思わず「座布団、一枚」と叫びたくなりましたけど(笑
初めて読む方には、滑稽本先生の主張は分かりにくいのではないかと感じます。確かに論理の飛躍は感じますね。問題の核心を突き過ぎるため、返す言葉に苦慮しているのではないでしょか。引くに引けなくなっている部分もあるのだと思います。ただ、進むべき方向は同じなのかなと。
堂頭先生の方から歩み寄る姿勢を見せれば相手も言葉の表現に注意を払うのではないでしょうか。
それでは、良い年をお迎え下さい。私はこれから家族で初詣に行ってきます。
少し遅れてしまいましたが、リンクにてトラックバック確認しました。
新年早々熱い議論を交わしてますなあ。今いつものみんなで酒を飲み交わしながらやり取り拝見してました。あれからまだ激論が続いていたわけですね。
それにしても、先生の説得はあっぱれです!熱い思いのみならず、論理に裏打ちされた緻密さが伝わる説得でした。相手もここまで説明されたら打つ手がないのでは???
しかし、世の中の価値観も混沌としてますね。先生はお人よし過ぎるのと違いますか?どう考えても、相手の言っていること無理があるでしょう。こういう理屈がまかり通るから荒んだ事件が世の中多発するんです。もっとガツンと言ってあげなくちゃ駄目です。
間違っても、歪んだ価値観が横行する世の中にはなってはいけません。これからも勉強させてもらいます。
論理が破綻して矛盾に満ちた文章ではない、マトモな奴をお願いします。
私の文章を、一字一句読み落とし無きよう(汗
以前、勉強会(誠志会)にて議論を交わした友崎といいます。覚えてますでしょうか?
実は、その誠志会のリンクからこの記事を読ませていただきました。
あの時は先生の言っていることが理解できませんでしたが、今回のやり取りを見てようやく理解できたような気がします。
私もあの当時はどちらかというと、今回のお相手の方と同じような立場を取っていたと思うのですが、客観的に同じような議論のやり取りを見て、自分の浅はかさに気づけたような気がします。
現実がこうだからと言って、それを分析するだけでは何も生まれないという事なのですね。
先生のおしゃっていた「分析するだけでは何も生まれない。問題はその分析を今後にどう生かすかだ」という一言が頭に浮かびました。
私はその現実社会の分析のみに興味がありましたが、お相手の方の分析にも正直疑問が残りました。
初めに横綱朝青龍のサッカー事件について触れてますが、先方の分析だと朝青龍のサッカー事件も正当化することが可能ですね。
理由はいくらでも正当化が可能です。ようはその理由の正当性の問題なのではないでしょうか。
そういう意味で、その理由の正当性を社会に問う姿勢を保ち続けている先生の姿勢には共感します。
先方の論の立て方だと、殺人や戦争、テロも正当化することは可能でしょう。
あ、そこでもあの時先生が私に言ってくれた内容とつながりますね。奥が深いです。今度ぜひまた都合を付けて勉強会に出席して下さい。
深く考えずにTBリンクを貼りましたが、やはりこの種のテーマは皆さまにとっては看過できないものらしいですね
すっかり失念しておりました
> K.SASAKIさま
新年明けましておめでとうございます
あの時以来のご訪問ですね。まさかまたコメントをお寄せ頂けるとは思ってもみませんでした。
しかも、ご丁寧に皆さまに転送して頂いたみたいで
いきなりの展開にびっくりです
単に、昨年に引き続き、今年のテーマにもリンク可能な議論かと思いTBさせて頂きました。
詳細については、直接お会いした際にお話させて頂きます。
> とまりんさま
こちらこそ、明けましておめでとうございます
多少先方の論の展開に無理があっても、重なる部分も見受けられるのは事実かと思われます。
先方に「不誠実」とあしらわれないためにも、根気強く説明していくのみです(もちろん限界もありますが)
ま、今年はなるべく時間を作りますので、詳細はお会いした時にでも......。
> 友崎さま
こちらこそ、お久し振りです。
覚えておりますよ。あの時の......友崎さんですよね
お元気だったでしょうか
客観的な第三者の議論を通して、その当時の自分を顧みる姿勢は大切かと思います。
以前行ったロールプレイ研修でもそうでしたが、今回の様に先方の主張とご自身の主張に重なりが見える場合、それをモデルにして自己の主張を客観的に観る事が可能となりますよね。
その意味において、今回の滑稽本さんは友崎さんにとって当時の自分を知る良いサンプルになったのではないでしょうか。「理屈」を述べるための「理屈」になってはいけないという事です。
時に「理屈」は人を酔わせます。それが乗じて人は酔いたいがために「理屈」をこねるようになります。その色気が健全な議論の妨げになる時もあるのです。
そこで言う「理屈」とは、「理屈」のための「理屈」でしかなく、検証に繋がる「理屈」にはなり得ません。
「理屈」に酔う事はある意味簡単で、その「理屈」により自己を正していく姿勢が必要なのだと思います。
それに気付けただけでも前進なのではないでしょうか。
年初めということで、バタバタしておりお返事が滞ってしまいました。
>論理が破綻して矛盾に満ちた文章ではない、マトモな奴をお願いします。
そこまで仰るなら、恐らく私の文章は「論理が破綻して矛盾に満ちた文章」なのでしょう。
しかし、それと同じように、私には貴氏の文章こそ「論理が破綻して矛盾に満ちた文章」にしか見えません。
しかし何度も言う様に、それはそれでお互い良いのではないでしょうか。
私から見て「論理が破綻して矛盾に満ちた文章」であれば、その「論理が破綻して矛盾に満ちた文章」をお書きになる人(つまり貴氏)は、私の文章を見て同じ様に感じることは至極当然のことです。
誤解を恐れずに極論すれば、貴氏の仰っていることは「正しい」のです。
しかし、貴氏に徹底的に欠けている点は、貴氏の主張が「正しい」のであれば、私の主張も同様に「正しい」という点です。
この道理が分からなければ、私の話は一向に理解不能でありましょう。
ここで言う各々の「正しさ」は、時にその主張する人の「立場」次第で如何様にも変わります。
戦争やテロが、互いの「正義」と「正義」がぶつかり合う形で悲劇を生み出してしまう構図はそこにあります。
双方にとって、戦争やテロは「悪」ではないのです。まさしく「正義」そのものなのです。
であるならば、互いの「正義」とは「万古不易の絶対的真理」が決定するものではありません。その「正義」を主張する人の「立場」そのものが決めるとも言えましょう。
私が一貫して「立場」そのものに拘る理由はそこにあります。
では、なぜ客観的な「善悪の基準」なるものがこの世の中には存在するのでしょうか。
それは、その人の「立場」が社会的に妥当であるか否か、その「立場」の正当性が世の認知を得られるか否か、が一つの基準になりましょう
公的な価値基準(道徳、倫理、法秩序など)は、全てその客観的な視点(検証作業)に耐え得るものでなければなりません。
その意味で言えば、貴氏の言う「人を殺めて良い理由」は決してその条件を満たしているとは言えないでしょう。
他のブログ記事を拝見しても、貴氏の主張はそういった客観的な検証作業に耐え得るものかどうかは疑問です。貴氏が独裁者でない限り、貴氏独自の「正しさ」は決して世の「正しさ」とはなり得ません(今回の議論の発端ともなった朝青竜の一件も然り)。
貴氏の主張を、貴氏自身が「正しい」と信じる「立場」と、私の主張が私自身「正しい」と信じる「立場」、この双方がぶつかり合ってきたのが今までの議論の構図です。
ゆえに、貴氏の「立場」は如何なるものかを知りたいのです。最終的に「人を殺めること」を是としたいのか、それとも非としたいのか、私はそのレベルの話をしています。そこに「論理の破綻」も「文章の矛盾」も見当たりません。あるのは、貴氏の「無理解」か「逃げ」のみです。
私は、もうこれ以上「戦争」や「テロ」がなくならない理由を貴氏と一緒に分析するつもりはありません。そんな事ぐらい百も承知で議論しているからです。
これまた仏教の喩えで恐縮ですが、腕に毒矢が刺さったとしても、その毒矢を如何にして抜くかが重要なのであり、その刺さった矢がどこから飛んできたのか、塗られている毒の種類は何なのかは二の次なのです。
私と貴氏の根本的なズレはそこにありましょう。お互い歩み寄る姿勢を見せなければ、我々の議論は一向に前に進まない……というのはそれを意味します。
加害者側の一方的な「人を殺して良い理由」というのは、少なくともその対極にある被害者側の「殺されても良い理由」と符号しなければ、少なくともその正当性と公共性は担保されません。
ただ単にその条件を満たしていない「人を殺して良い理由」を延々と並べられても……厳しい言い方ですが、それは「駄々っ子の戯言」にしか聞こえないのです。
もちろん、そちらにも言い分がおありでしょうが、互いの「立場」を慮ることなく議論を進めても、私の主張は永遠にそちらにとって「駄弁」にしか映らないという事です。ゆえに「たかが駄弁、されど駄弁」と称したのです。
では正義は悪とどこで線引きが引かれるのか、それは社会からどれだけ支持が得られて正当性が担保されるかがカギという点も同感。
となると、やはり人を殺して良い理由は支持されっこないですね。それに正当性を与えてしまっては、管理人さんが言うように理由さえ付ければ何でもありの世界となってしまうでしょう。
それはまさしく詭弁だと思う。というのが私の結論。
また勉強させてもらいます。
拙ログへのコメントありがとうございます
誤解を恐れずに極論すれば、互いの「正義」により戦争やテロが繰り返されるのであれば、逆に「人を殺して良い理由」はいくらでも説明可能だし正当化できます。
であるならば、その「理由」が説明できるか否かという事よりも、その理由が許容されるか否かが問われるのです。
「許容されるか否か」が問われるのであれば、「理由」の説明自体は議論の核心ではありません。
「理由」そのものよりも、その理由を是とする「立場」そのものが問われるのです。
なぜなら、主張の正当性はその人がどういう「立場」でもの言うかで決まるからです。
私が「理由」そのものよりも「立場」そのものに拘る理由はそこにあります。
つまり、「理由を説明せよ」という言葉の真意は「立場を明確にせよ」という事への裏返しなのです。