神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

恐れることはない。悩むことはない。

2020年03月19日 | キリスト教

 今も死語になったわけではありませんが(笑)、以前、というかかなり昔、「Slow Life」という言葉がもてはやされたことがありました。。。

 なんというか、人生を一段階シフトダウンして、あくせくとではなく、少しゆったりと人生を生きてみよう――的なことだったと思うのですが、ある時テレビで、このスローライフというのを実践しておられる方が、こんなふうに言っていたことがあります。

「今まで、人生にゆとりがなかったと思う。でも(スローライフを実践している)今は、前までは気に留める余裕もなかったこと……雨上がりの水たまりに空が映っていてとても綺麗だとか、そうしたことに気づけるようになって、良かったと思います」と。

 で、この時一緒にテレビを見ていた母曰く、「なーにがスローライフだ!」ということだったんですよね(笑)。「そんなのは、ある程度金に余裕のある人であればともかく、毎日あくせく生きてお金を稼ぐしかない人間には、関係ない言葉だよ」と。

 いえ、母の言うことはもっともだと思います。というのも、母は当時(父とふたりになった今もそうとは思いますが)、朝は4~5時に起きて、お弁当作ったり朝食作ったりして、その後身仕度を整えて、自分のパートの仕事へ行く……パートなんて言っても、大体9~5時で働いてますから、拘束時間的に正社員の方と変わらないだけでなく、母の場合能力的にもほとんど正社員の方と同じように働いているも同然でした。

 その後、買い物して家に帰ってきて、今度は夕ご飯の支度――母が「は?スローライフだと?馬鹿でねえの」と言うのもそりゃ当然だろう、という話です(^^;)

 しかもその合間合間に父親が浮気するとか、子供が不登校になるとか、なんかのことで問題起こしたりといったことも起きてきますよね。それでこういう時……もし教会などで「恐れることはない。悩むことはない」、「心配する必要はない」、「何故なら神さまが我々とともにいてくださるのだから」――というメッセージを聞いたとしたら、どうしますか?

 その上、母の場合、自分の体自体もそんなに強いほうではなく、特に足が悪かったり、しょっちゅう体のあっちが痛かったりこっちが痛かったり、という感じでもあるのです。

 わたしの母はキリスト教徒ではないのですが、クリスチャンの方がこうした「恐れる必要も、悩む必要もない」、「今あなたの抱えている問題について、心配することはない」……といったメッセージを教会で聞く場合、感じるのはとにかく、聖霊さまを通した平安だと思うんですよね。

 イエス・キリストが十字架にかかったのは、わたしやあなたや、その他人類すべてのためであり、イエスの十字架の血にはわたしたちの罪を贖う力がある――つまり、イエスさまの十字架の血潮によって、わたしたちは一切罪のない身としていただくことで、天国へも行けることが約束される……と聞いても、とにかく最初は「なんでそうなの?」という感じで、意味などほとんどわかりません。

 でも、意味などわからないながらも、そのことを教会で信仰告白する時、その時に強く聖霊さまが臨まれることもあれば、その後、聖霊のバプテスマを求める祈りを通して……聖霊さまの注ぎかけといったことの意味がわかってくる――というのが一般的(?)なクリスチャンの辿る道ではないか、という気がします。

 ですから、イエスさまの聖霊さまを通しての語りかけとして、「恐れることはない。悩むことはない。心配することはない」……といったことを教会で牧師さんなどが語る時、信徒の方が感じ、思うのは――肉の思いとしては、自分がその時抱えている問題に対し、「恐れることはないんだ。本当は悩むことはないんだ。心配しなくていいんだ」という明るい希望と励ましを受けるということであり、これは霊においてもまったく同じであると同時に、霊の場合においては聖霊さまからの語りかけによってそう信じるということですから、これは理屈ではないわけです(^^;)

 この「理屈ではない」というのは、イエス・キリストが二千年前に十字架におかかりになったことの意味などわからなくても、まずは「信じてみよう」と決意した時と同じ力が働く、ということでもあると思います。意味や理屈などわからなくても、突然フワッと心が軽くなったり、聖霊さまが強く臨まれることによって、霊の感動が肉にも伝わり、何故だか涙がでるといった体験を通して――「神さまが今ここにおられる」、「今もイエスさまは生きてわたしたちの間で働いてくださっている」ということの意味がわかるのです。

 ただし、わたしたちの霊の領域で起きる事柄というのは、肉の言葉としてはどう表現したらいいのかわからないことなので、信徒間でも割と、お互いに「ああ、あなたも<アレ>を経験したからイエスさまを信じておられるのですね」という霊の一致についてははっきり感じていながらも……なんと言いますか、この<アレ>というのを言葉でうまく表現するのは難しいと言いますか、このあたりはキリスト教における秘蹟、経験に関する領域ですので、「信じた人しかわからない」ことでもあるわけです(^^;)

 それで、ですね。ノンクリスチャンの方が教会に来られた場合、その時かその後か、「信じた場合と特に信じなかった場合」とに分かれる気がするのです。たとえば、「恐れることはない、悩むことはない、心配する必要はない」――というメッセージを教会で聞いた時、その言葉がスッと入ってきて、嫌々ながら教会へ来た方でも何故か突然信じる決意をすることもあれば、「恐れることはない、悩むことはないだって?何を無責任なことを言ってるんだ。俺は今人生であんなことやこんなことで悩んでいて、とても困っているんだぞ。あんたが本当の神だというのなら、宝くじにでも当ててくれて、俺の抱える借金三百万を今すぐ帳消しにしてくれ。そしたら心配ごともなくなって、俺もあんたのことを信じてやってもいい」……といったように、特に教会で働かれる聖霊さまの力を感じるでもなく、帰ってしまわれる方もおられると思うのです。

 といっても、後者の方の生き方の心がけが悪かったから信じずに終わったとか、これはそうしたことではないのです。たとえば、「あの人が酒をやめられたら奇跡だ」という方や、あるいはギャンブルに狂っていて、女房の稼いだ金すらも巻き上げて賭け事をする……といった方でも、突然涙を流してイエスさまを信じるという決意をされ、その後アルコールやギャンブルも辞めて、牧師さんになった――という方もおられますし、「誰がイエスさまのことを信じて、誰が信じないか」というのは、本当に神さまのみぞ知るというか、人間にはわからないことだと思います(^^;)

 また、一度だけ友人に連れられて教会へやって来たけれども、その時は特にどうとも思わず、「これがクリスチャンの礼拝とかいうやつか」くらいで帰った。でもその後、何年もしてから人生に困った出来事が起き、藁にも縋る思いで教会へ通うようになり、その結果救われて問題のほうも解決した……といった方もおられます。

「恐れることはない」、「悩むことはない」、「心配する必要はない」、「絶望することはない」――と聞いても、そう教会の礼拝で聞いた翌日にはわたしたちは何かのことを恐れ、悩み、心配しているでしょう。もちろんイエスさまはそうしたわたしたちの弱さをご存じの上で、聖霊さまの力をわたしたちの内に送るためにそう語ってくださるわけですけれども……問題に対してではなく、主に目を留めるというのは、問題解決のための大切な方法と思います。

「恐れることはない」と言われても、わたしたちの肉は震えおののいているかもしれません。しかも、自分では震えたくもなければ緊張したくもないのですが、肉の弱さにおいては、わたしたちはいつでも究極、そのような状態にあるかもしれません。けれども、「イエスさま、この体の震えと緊張をあなたにお委ねします。この問題に関してあなたは悩む必要はないと語ってくださっていますから、わたしの悩みと心配のすべてをあなたにお捧げします」……といったように祈りつつ、さらに自分の問題の一切のことを感謝し、そのことで神さまを賛美し、褒め称えます。

 もちろん、それでもしつこくなんらかの問題は残り続けるかもしれませんが、このことを繰り返していくととにかく、「これ以上のことは、わたしの手を離れていることだからどうにも出来ない」、「けれど、イエスさまが最終的には良くしてくださるだろう」――といったように、必要以上に苦しんだり悩んだりしなくてもよい、というある一定の習慣が形作られてくると思うのです。

 ただ、このように書くのはわたしが不信仰であるせいであり、多くの方が「その結果、絶対になくならないと思っていたことで、悩まなくてよいようになった」、「神さまの勝利と栄光を刈り取ることが出来た」、「必要以上にくよくよと心配しなくてよくなった」……といったように、聖霊さまの力を通してのイエスさまの十字架の勝利と栄光の御業についてお証ししておられます。

 今、地上の世では新型コロナウィルスのことで、多くの方が心配をし、また一方、テレビのニュースの報道では「必要以上に心配しないように」といったように語られたりもします。でもみんな、マスクと同じようにティッシュペーパーやトイレットペーパーが手に入らなくなったらどうしようと思うから、腐るものっていうわけでもないし、とりあえず買い溜めしておこうと考えるわけですよね(^^;)

 でもとにかく、こうした時に一番大切で必要なのは、「お互いに祈りあう」ということだと思います。子供さんも学校が休校になったり、会社員の方も会社が休みになっても、何分こうした状況で家にいることが多い……とお聞きします。もちろん、クリスチャン・ファミリーの方であれば、いつも以上に家族で祈る時間を多くとったり、神さまを賛美するための賛美歌を歌いつつ、お過ごしになったりしているかもしれません。

 神さまはとても不思議なお方です。「こんな時に神に祈ってなんになる」という時にこそ、人々が心を一致させて祈る時……わたしたち人間にはわからない、何かの流れを変えてくださったり、「それは人間の頭では考えつかないことだった」という出来事を通して――目には見えないそのお姿を、力ある御業を通して起こしてくださる方なのですから。

 世界が心をひとつにして祈りあうなら、今ある心配はいずれ消えてゆきます。「その時がいつか」ということですべての人がもちろん心配しています。でも、それがわからないからこそ、目に見えない神さまに、イエスさまに祈るということが一番大切なのです。

 それではまた~!!





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