日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

教育と自身が悩まされた事一つと   20211122  修正20211129

2021-10-26 23:15:38 | 日記
 教育についての教科書が,此処まで構成がバラバラだと、この内容に付いて思い感じるものが出てくる。所謂の変な風な曖昧さというヤツでこの曖昧さに向き合ってみるとある事柄に思い至る。

その感覚と言うのが、(教科書中の時代という話の中で)(修正)取り上げられている,小学生時分の頃の妙なモヤモヤ感の一致する感覚。それから、その感覚の正体に気付かされた計算の法という概念。

この法は実際の法律の法と計算の法MODとでは違うと云う事に為っているが実質的には同じだろう。アルス・マグナの概念からすればということになる。

11月に、学校の生徒時代に生じた頭の分離は何処から来たのだろうかと思っていたのだが、元々の性質に加えて、学校教育自体が、分離と遊離しているという事が漸く理解出来て来た。最新のものでさえもそうなのだから、私が10代の頃だったら尚更だろう。

このprincipleが法理と原理で別々の言葉として存在しているのがそもそもの問題なのだろうと思える。理としても混ぜるのではなく理として明確に使われる様に厳密に為っていればもう少し違ったのだろうか。methodに付いての方法と方式が用いられていたりするし、此れも分離の兆候を生じさせているのかな。

そうしたものを認識できたとき以前は物凄く集中しないと何を言っているのか解からなかったが、心理学研究法を学び直してみると、物凄く理解が早いし解りやすい。当時は時間ばかり掛かって結局終わらず何とか単位を取得できたという感じで、その時は何故が教科書が手にとれなかった。

今考えると苦手意識もあり、当時の時点でも必要とする視座に達していないのも解っていたので「科学的な見方考え方」から生じた発展段階の記号論理学や数学史に向かう過程の時で、長岡亮介の「数学の二つの心」の本を求めている心境だったから、当然と言えば当然。

だがそれで何を言いたいかと言えば、私が散々に逡巡した事がその当の教育に全く反映されていない、と言うよりも理解されていない事がありありと判るのが何ともな読みにくさを生じさせている。何章にかに渡っての執筆している人が特に酷い。

思いだけで文章を書いている。何だこれはという感想でこんなものでいいのかという、何とも言えない気持ちにさせる。

漸く解ったCLAYMOREしかし・・

2021-10-11 15:28:44 | 日記
 大学の忙しい時にclaymoreに凄く惹かれてdvdを全巻揃えてしまう程で、当時は何故此れ程にchromeに惹かれてしまうのか考え続けたが解からなかったんだよな。けれども今なら漸く解り、大切なモノの拡散だったんだよな。

これは自己なのかもしれないし、価値感が価値観になっているのかもしれないし、生きる意味であるのかもしれないし、己を己たらしめているものかもしれないし多くを含んだものだけど。アニメ版ではその肝心な示す所が抜け落ちているからこの物語の題材が正に物語通りに拡散してしまっている。

あまりにも不自然で納得行かなかったので漫画版の最終巻だけを買った時に、何だが納得のいくものが目から溢れた。何故此れ程この作品に共感するのか理解し難く認められなくもあり、当時はソノ共感すら否定する思いだったんだよな。

そして、作品はその拡散したモノの欠片を少しづつ集めて行きながら自らも生きて居る。正に現代日本にも通じるモノなんだよな。

そこで、前回の「図形思考型の続き」に繋がるが、その時のモヤモヤは怒りだったんだな。良い様に遣り込められる様がなぜ日本人には解らないのかという怒りに、以前書いた自身のあの歌「壊れた世界の秒針は」の様にも通じ、そしてあの有名なエヴァンゲリオンにも通じる。


その思いもあり、今回書きたかったのは納得できたので、漫画版の後半部分を買おうと思ったら、何と紙版新品本が売っていないという結果。

図形思考型の続き

2021-10-02 01:33:24 | 日記
 図形思考型https://blog.goo.ne.jp/dark_angel_jam/s/%E5%9B%B3%E5%BD%A2%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C
 この記事を以前書いた途中で思い出した事があった。小学校の頃の当時図形問題を遣っているときに、段々難しく為るに従って次第に普通は遅くなると言う事だが私は次第に早く為って行った。

そして、それは時間を計測するのだが、初めてやったときは中の上、そして3回目を遣るころには上の中、そして4回目を過ぎる頃には一位に成っていた。それは徐々に難しく為って行っても変わらず寧ろ、計測時間がドンドン早く上がって行った。

男性の先生からは驚かれてどれくらい早いのかと、当時聞いたことがあったが、学年で一番だったという。当時の一クラスが38人程度で6クラスあったから228人位で1位と言う事になる。

そしてその後その学習と授業が全く繋がっていない事に、不思議な思いに駆られもっと別の在り方があるんじゃないかと、常に疑問に苛まれることに為り続ける。

そして、あらゆる学問に自分なりの遣り方を常に模索していくこと成った。例えば当時文章を書くのが酷く苦手で、私だけ常に小学時代は作文があると居残りすることになり18時迄一人で居残りさせられることに。

一度書き始めれば何ということもな書けるのだが、何だか纏まらない。何か何かと詰まる思いだけが心に残り、他の人が直ぐに終わってしまう事について居残りする。

そして、詰まっているならば素直になって詰りを取ろうと思い、渡された作文用紙の他の自分の自由帳に書き始めた。心の思いを自由にしたら、初めは直線だったものが曲線になり、次第に自由に自由にと自分に言い聞かせる内に、自然と形を組み合わせる様に成った。

此処からは早いもので、自分の思いを形にして紙面に重ね上げて行くという行為を重ねた。そして、ソレを日本語と整合させるのである。

日本語に結び付けるのに、日本語自身を記号化にしてしまった。まさにそれが日本語アカデミックライティングの本に最近採用されたのだから面白い。

副学長と話をした時に、その話をした事が採用されたのかもしれない。


何だか、モヤモヤする時に吐き出すには丁度良いが何故モヤモヤするのだろうか。ブログタイトル通りのものが久し振りなのか書けたかな。