今回は、狭山市・日高市を散策した。
まずは、狭山市堀兼にある、埼玉県指定旧跡「堀兼の井」へ行ってみた。
ここは、平安時代の井戸のようだが、現在は大部分が埋まっていて、水も枯れていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/d0/50196b10e3edd9f71e00301349abc264.jpg)
ただ、この井戸は古来より数々の歌人に歌を読まれているらしい。
武蔵野の 堀兼の井も あるものを うれしく水の 近づきにけり (千載集 藤原俊成)
あさからす 思へはこそは ほのめかせ 堀金の井の つつましき身を (俊頼集 源俊頼)
くみてしる 人もありなん 自づから 堀兼の井の そこのこころを (山家集 西行法師)
いまやわれ 浅き心を わすれみす いつ堀兼の 井筒なるらん (拾玉集 慈円) などである。
しかし、この辺りには「堀兼の井戸」と呼ばれた井戸がいくつもあったらしく、実際のところ、この井戸が歌人に詠まれた「堀兼の井戸」であるという証拠はないようだ。
【史跡データ】
名称:埼玉県指定旧跡「堀兼の井」
所在地:埼玉県狭山市堀兼
時代区分:平安時代
形態:井戸跡(堀兼神社内)
また、この井戸のある「堀兼神社」は、社伝によると、景行天皇の40年に日本武尊が東北の蝦夷征伐の際に、この地にに立ち寄り、土地の人々が干害によって苦しむ姿を見て、富士山に祈願したところ、清水が湧いてきたので、土地の人が浅間神社を創建したのが始まりだとしている。その後、江戸時代に至り、慶長3年(1598)に松平信綱が家臣に命じて再建させたと伝えられている。「随身門及び二神像」は江戸時代後期のものと推定され、狭山市指定有形文化財(建造物)になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/f7/a528a7c368d0d8dde3661ef0a73e125b.jpg)
結構、雰囲気の良い神社であった。
【史跡データ】
名称:狭山市指定文化財(建造物)「堀兼神社境内 随身門及び二神像」
所在地:埼玉県狭山市堀兼
時代区分:江戸時代後期
形態:随身門及び二神像(堀兼神社内)
まずは、狭山市堀兼にある、埼玉県指定旧跡「堀兼の井」へ行ってみた。
ここは、平安時代の井戸のようだが、現在は大部分が埋まっていて、水も枯れていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/a1/b9198840fa2e85be59f99bc9835d7af3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/d0/50196b10e3edd9f71e00301349abc264.jpg)
ただ、この井戸は古来より数々の歌人に歌を読まれているらしい。
武蔵野の 堀兼の井も あるものを うれしく水の 近づきにけり (千載集 藤原俊成)
あさからす 思へはこそは ほのめかせ 堀金の井の つつましき身を (俊頼集 源俊頼)
くみてしる 人もありなん 自づから 堀兼の井の そこのこころを (山家集 西行法師)
いまやわれ 浅き心を わすれみす いつ堀兼の 井筒なるらん (拾玉集 慈円) などである。
しかし、この辺りには「堀兼の井戸」と呼ばれた井戸がいくつもあったらしく、実際のところ、この井戸が歌人に詠まれた「堀兼の井戸」であるという証拠はないようだ。
【史跡データ】
名称:埼玉県指定旧跡「堀兼の井」
所在地:埼玉県狭山市堀兼
時代区分:平安時代
形態:井戸跡(堀兼神社内)
また、この井戸のある「堀兼神社」は、社伝によると、景行天皇の40年に日本武尊が東北の蝦夷征伐の際に、この地にに立ち寄り、土地の人々が干害によって苦しむ姿を見て、富士山に祈願したところ、清水が湧いてきたので、土地の人が浅間神社を創建したのが始まりだとしている。その後、江戸時代に至り、慶長3年(1598)に松平信綱が家臣に命じて再建させたと伝えられている。「随身門及び二神像」は江戸時代後期のものと推定され、狭山市指定有形文化財(建造物)になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/d1/3494b5728bb5785be5e53d40367e4fb6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/f7/a528a7c368d0d8dde3661ef0a73e125b.jpg)
結構、雰囲気の良い神社であった。
【史跡データ】
名称:狭山市指定文化財(建造物)「堀兼神社境内 随身門及び二神像」
所在地:埼玉県狭山市堀兼
時代区分:江戸時代後期
形態:随身門及び二神像(堀兼神社内)