くろにゃんこの読書日記

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神は妄想である リチャード・ドーキンス

2007年12月07日 | 科学&ノンフィクション
もう12月、あっという間に年末です。
おりしもイエス・キリストの誕生日であるクリスマスの季節に「神は妄想である」を取り上げることになってしまいました。
別に狙ったわけではありません。
偶然です。

私が成長してきた過程、現在の環境において、数多くの宗教的な儀礼、風習がありますが、それを深く考えることなく、習慣として受け入れているのが私であり、そこには特別な信仰心はありません.
それが宗教的なものであるという意識さえも乏しいのが事実です。
宗教が世俗化している日本においては、それが当たり前であり、もともとたくさんの神々が存在することに慣れている国民性にとって、一神教のような唯一絶対的な神を理解するのは難しく、その宗教と信仰についても同じことが言えるのではないかと思います。
海外、特にヨーロッパやアメリカの文学を読む場合、キリスト教の知識は欠くことが出来ませんが、それは、キリスト教が血と肉になるほどの歴史的な積み重ねがあるからで、そういう状況の中でドーキンスのように無神論者であると公言するのは、それ相当の勇気がいることだというのを理解する必要があります。
例えば、アニメ「アルプスの少女ハイジ」の第1話(偶然再放送を観たのです)。
レーテおばさんがハイジをアルムおんじに預けると聞かされた村人たちがレーテに思いとどまらせようとおんじについて「あのひとは気味がわるい」「変わっている」とか口々に言うのですが、決定的にしているのは「教会に来たことがない」ことなのです。
教会に来ない人はアウトローであり、ちょっとした恐怖の対象であったわけですね。
もちろんこれはハイジの時代のハイジの生まれた村でのことですが、そういう社会状況が一般的にあったこと、その延長線上に現在の文化や社会が形成されていることを考えると、無神論者でいることが困難な立場に立たされるというのもあながち理解不能なことではありません。

ドーキンスが妄想であるとする「神」は、一神教の人格神であり、この唯一無二の神は、宇宙を創造し、あらゆるものを設計したデザイナーです。
進化論と真っ向対決するこの存在は、現代的な合理的精神の持ち主なら即座に却下されるか、なんらかの妥協案を生み出すに違いありませんが、ダーウィニズムを却下し、インテリジェントデザインを推奨する人々も存在することも確かです。
進化論を信じる人がアメリカ国民の10%に満たないということが本当であるなら、
なんと驚くべき数字でしょうか。
問題なのは、頑迷な原理主義的精神であり、これはキリスト教に限ったことではありません。
世俗的な宗教の中に暮らす私たちには関係ないと思うでしょう。
私も最初はそう思いながら読んでいたんですが、後半に入っていくにつれ、
だんだん背筋が寒くなってきました。
現在の世界情勢を原理主義的な衝突として捉えると、日本もその状況下に置かれているわけで、決して蚊帳の外のことではないのです。
そういう目を開かせてくれる本書は、一神教の猛威に直接晒されていないわたしたちにとっても大いに有益であるといえるでしょう。
また、長年、世俗的宗教に対して抱いていた疑問、本当にこんないい加減でいいのかという疑問は、このままでいいんだなと確信するに至りました。
道徳に関する章、特に時代精神(ツァイトガイスト)の考察は非常に興味深く、面白かったです。

12月5日付けの夕刊に「善光寺いま物語」という記事が載っていました。
善光寺は無宗派で、天台宗や浄土宗などの幾つかの寺が運営に携わっているのだそうです。
母の供養に訪れた五島列島出身のある女性は、きょうだいの宗教がばらばらなので、
善光寺に納骨したとか。
あくまでも想像ですが、五島列島出身ということは、
もともとはキリスト教を信仰していた家庭だったのでしょう。
神と仏を混同して参拝でかしわ手を打つ50-60代の人もいることをこぼす住職の話や若い人たちを中心に信仰への関心がなくなっているとして、経営難の寺もあると記事にはありました。
その一方で、オウムにはまってしまった優秀な若者がいたこと、何の病気でも治す水や白骨化していてもなお生きていると言い張るなど奇妙としか言いようがない宗教を信じる人は後を絶ちません。
いつでも合理的で批判的な精神を持ち、柔軟な思考を持ち続けたいと思うばかりです。

神は妄想である―宗教との決別




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6 コメント

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信仰 (めるつばう)
2007-12-13 17:37:32
気が付くとキリスト教なるものを7年も勉強させられていたのですが、
最初から感じていた違和感をドーキンスがよく表していると思いました。
特に一神教は契約形態をとることが多く非契約者に対する差別は大きいものだと思います。

今インテリジェントデザインの本を読んでいますが
なかなか、手が込んでいます。素人の私では
うまく解釈が出来ませんが、違和感を感じる部分は多いです。

いったい宗教とはなんなのかなぁと不思議に思います。
7年間 (くろにゃんこ)
2007-12-15 23:02:02
それは、幼稚園+小学校なのかしら、それとも高校+大学なのかしら。
いや、なんとなく7年という期間が、学校教育と関係ありそうだなと想像しただけです。

一神教というのは、「神」と言えば唯1人、それ以外は偽者なのですから、神との契約は一種のステータスなのかもしれませんね。
他者に対する差別は、仲間とそうでない者、身内と部外者、というような仲間意識が高じているのではないかと思います。
お互いが正しいと思っていればなおのこと衝突も激しいものです。

インテリジェントデザインについて、詳しくは知らないのですが、神が設計者であるということを前提とした論証なのでしょうね。
バラの花びらの開く角度がどうのと言われたことがあって(よく覚えていないというか真剣に聞いてなかった)、こんなに精巧なものが自然とできるはずがないみたいなことを神を信じる人から聞いた記憶があります。
あははは・・・と苦笑いしながら受け流したような。

一神教を信じる人が無神論者になった場合、確実に神はいなくなるわけですが、私のように適当に神を信じている場合、全ての神を捨て去ることは、なかなかに難しいのではないかと思います。
神を信じることは、なにかの副作用ではないかとドーキンスは考察していましたが、人間がそういうものであるならば、全ての信仰をなくすことは困難であると言わざるおえません。
だから、オウムやなにやらの宗教がはびこるわけですね。
何事も適当というのが一番なんだなぁと思った次第です。
神は実在します (一般法則論者)
2008-02-15 00:42:24
 ドーキンスも、実在する天然自然の存在の創造主である神のことは知らない。
 実在する本物の神自身に自らの存在証明をさせる形の神の存在証明の方法についても知らない。
 そもそも、自然科学とは何かの定義も、科学者であるはずのドーキンスは、知らない。
 http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
 いわゆる神の存在証明がもたらす意味について
 天然自然の存在の創造主である神の存在証明をして、神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みについて説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。
  一般法則論者
よく分からないのですが (くろにゃんこ)
2008-02-22 10:59:11
そちらのブログを覗いてみたのですが、17日付けの記事、いまひとつなんなのか分かりません。
私の理解力不足なのだと思いますが、↑のコメントを寄せてくださったのは、本人さまなのですよね?
↑のようなコメントを幾つか書き込みした先のブログ筆者が、騙りを行ったということでしょうか。
ウ~ム。
私じゃないですよ。
そんな悪意のあること、とても出来ませんって。
Unknown (有沢翔治)
2010-12-14 11:49:27
こんにちは、折しもクリスマスのネタ本として読もうと思って予習がてらぐぐってみましたら辿りつきました。
足跡だけで読んだらまたTBさせていただきますね。
では、また。
どーもです (くろにゃんこ)
2010-12-16 15:53:33
わぁ、もうこれを書いてから3年になるのですね。
光陰矢の如しです。
ドーキンスがすべてを解決しているわけではないですが、いろいろ考えさせられる本ではあります。
感想、お待ちしています。