知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「東日本大震災の記憶を紡ぐ紙芝居」

2017年08月17日 08時00分53秒 | 震災
 紙芝居には不思議な力があると思います。
 読み手の思いを直接手渡しすることができるからでしょうか。
 繰り返し繰り返し・・・。


■ TOMORROW「記憶を紡ぐ紙芝居」
2015年11月8日:NHK BS-1
【語り】ステュウット・ヴァーナム・アットキン
 詳細大震災と原発事故に見舞われた福島県で、当時の出来事を紙芝居で語り継ごうという活動が続いている。発起人は広島の紙芝居作家、福本英伸さん。福島に足を運んでは取材を重ね、数々の作品を描いてきた。番組では、震災から4日間避難指示区域に取り残された人々の体験談と、5人の命を救った後に津波で命を落とした少年の物語を紹介。制作に至った背景や込められた思いをひも解き、紙芝居として生き続ける震災の記憶を見つめる。


<関連記事>
■ “震災の記憶”後世に 浪江まち物語つたえ隊が体験紹介
2015年3月11日 福島民友ニュース
「被災地の現実を知ってほしい」と各地で紙芝居の上演を続ける浪江まち物語つたえ隊

 県外で東日本大震災の記憶が薄れつつある中、風化防止に向けて被災者が「語り部」となり、自身の体験を伝える取り組みが各地で行われている。子どもたちに震災の教訓を継承しようと、震災から丸4年の節目に合わせて公立学校は防災の授業を行う。津波で被災した車や駅の改札口、道路標識などを「震災遺産(震災遺構)」として保存する動きも出ているが、当時の悲惨な光景を呼び起こすとして複雑な思いを抱く住民もいる。震災の記憶をどのように受け継いでいくのかが問われている。
 東京電力福島第1原発事故の影響で避難する浪江町民と、避難先の住民らが被災した体験を紙芝居にし震災の記憶として伝えている。「被災地の現実を知ってほしい」。震災から4年がたち、明るい話題も出てきたが、復興の影に隠れてしまいがちな被災者の思いを紙芝居で紡ぐ。
 紙芝居を披露するのは浪江町と桑折町、伊達市保原町の語り部有志で昨年4月に発足した「浪江まち物語つたえ隊」。広島市の市民団体の協力で古里の民話を紙芝居にして各地で上演。これまで制作した紙芝居は37作品に上る。
 被災体験を伝える最初の作品となったのは、浪江町の語り部で2012(平成24)年6月に84歳で亡くなった佐々木ヤス子さんが、避難の体験をつづった手記を基に作られた「見えない雲の下で」。佐々木さんから語り部について教わり、続ける約束をした八島妃彩さん(49)=浪江町=が読み手として思いを引き継ぐ。原発事故直後の不安な気持ちを思い起こさせる物語は、被災者の共感を得ているほか、被災していない人々の心も打つ。原発事故から時間がたつにつれて「(世間が)鈍感になっている部分がある」と感じる八島さんは「まだまだ復興が進んでいないことを知ってほしい」と話す。
 桑折町と伊達市のメンバーが加わったことで読み手が増え、活動の幅が広がった。8日には、東京で開かれたイベントで紙芝居を披露し、首都圏の人々に震災の記憶と被災地の現状を訴えた。同隊の小沢是寛会長(69)=浪江町=は「震災と原発事故を風化させてはいけない。そのために現実を伝え続けたい」と思いを語る。

 浜通り中心に語り部活動 
 県によると、被災者が震災の語り部となり体験を伝えるツアーの受け入れが相馬市やいわき市など浜通りを中心に行われている。県は2012(平成24)年にふくしま観光復興支援センターを設立。県外から寄せられるツアーや防災研修などの問い合わせに答え、観光協会や自治体など県内各地の受け入れ団体を紹介している。
 同センターが取り次いだ数は12年度が月平均で約700人、13年度は約1000人に上り、本年度は約700人という。同センターに登録する語り部の数は約180人で、地域復興の取り組みなども紹介している。
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「ただぬくもりが欲しかった~戦争孤児たちの戦後史~」

2017年08月17日 07時31分25秒 | 戦争
ただぬくもりが欲しかった~戦争孤児たちの戦後史~
(2017.8.13:NHK)



<内容>
過去を知られたくない、つらい記憶を思い出したくないと、路上生活を送った戦争孤児たちは、その経験をほとんど語ってこなかった。そんな中、孤児たちの戦後を記録しようと、全国規模の調査が始まっている。高齢となった孤児たちは、つらい記憶をようやく語り始めた。餓死する仲間たち、生きるために働いた盗み、周囲の冷たい目、そして差別…見えてきたのは、戦争の犠牲者なのに社会からさげすまれた孤児たちの姿だった。


 「学童疎開が大量の戦争孤児を作ってしまった」という文言は衝撃的でした。
 それから、子ども心には「親しかった人達から拒絶される経験は人間不信を生む」こともわかりました。
 学童疎開先は親戚が多く、しかし東京の両親が亡くなるとその子どもは親戚にとってお荷物以外の何物でもなくなります。
 優しかった親戚のお兄ちゃん、お姉ちゃんの態度は一変し、蔑まされ、虐められます。

 番組に登場する目の不自由な老人(写真の男性)もその1人で、「大人が始めた戦争なのに、なぜ俺がこんなひどい目に遭うんだ・・・一生社会に反抗して生きてやる」と当時思ったそうです。
 しかしその後、疥癬でボロボロになった皮膚を撫でて同情し風呂に連れて行ってくれた大人と出会い、希望を持って生きることができるようになり、マッサージを勉強して生業(なりわい)としたという人生。

 戦争孤児が取り上げられるようになったのは、つい最近のこと。
 社会的な力がない存在はいつの時代にも後回しにされてしまいがちです。
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