知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

七福神の由来

2017年07月30日 06時46分10秒 | 民俗学
 七福神に関する日経ビジネスの記事が目に留まりました。ちょっと興味があります。

■ 「なぜ七福神は外国の神様ばかりなのか?」(日経ビジネス:2017.7.8

 フムフム・・・自然崇拝の要素がある民間信仰や神道と異なり、応仁の乱後の不安定な社会情勢の中で、商人を中心に発生した信仰で、お馴染みの宝船に乗った七福神の姿は徳川家康が一枚噛んでいるようです。
 日本製(?)の神さまは恵比寿神のみで、ほかはインドや中国から借りたもの。もっとも、仏教でも外国の神さまを取り入れながら広まったという同じような構造がありますから、アジアの宗教はその辺が寛容なのかもしれません。

 ポイントを抜粋:

七福神の由来
大黒天 食物と財運の神 インド、中国の神様
恵比寿神 商売繁盛の神    日本の神様
毘沙門天 武運と財運の神 インドの財運の神様、後に中国で武運の神様
弁財天 福徳と財運の神 インドの神様
福禄寿 長寿と財運の神 中国の神様(道教)
寿老神 長寿の神       中国の神様(道教)
布袋尊 千客万来の神    中国に実在した僧侶

 7人のうち6人が商売繁盛、財運、先客万来など、商売にご利益がある神様である。さらに日本の神様は恵比寿神だけで、他の神様はインドや中国の神様。

七福神の生まれた経緯
 日本の神道は、山や川などの自然や自然現象、神話の神、怨念を残して死んだ人に“八百万の神”を見出す多神教である。そこに商売の要素はあまり見当たらない。商売繁盛の神様として最も知られる「稲荷神」も元々は稲の神、つまり農業の神様で、商売をはじめ産業全般の神様になったのは中世以降といわれている。京都にある総本山の伏見稲荷大社も、商人の人気を集めたのは江戸時代だったと伝えられている。だから、戦の世に商売繁盛を願う商人たちは、外国の神様に救いを求めたのかもしれない。

七福神巡りの発生
 日本最古の七福神(現在は「都七福神」)は、「応仁の乱」が勃発した室町時代の末から戦国時代にかけて、京都の商人たちが参拝し始め、庶民に広まったといわれている。
 戦乱が長引く中、京都の商人たちは一つの神様に参拝しているだけでは心が落ち着かず、他の神様にも参拝するようになり、「この神様、ご利益あったよ」などのウワサを聞くとたちまち参拝する、といったことを繰り返していた。そのうち複数の神様を参拝することが定着し、次第に七福神めぐりになっていったと伝えられている。

七福神と徳川家康
 世の中が落ち着いた江戸時代に徳川家康が七福神には「七福」があり、人の道に必要だと説いたことから隅田川周辺で「七福神めぐり」が盛んにおこなわれるようになった。このとき家康の求めに応じて狩野派の絵師が描いた絵が、現在の「七福神」の姿と「宝舟」であり、その後、定着した。よって、今に伝わる七福神像は徳川家康が広めたものといえる。

エビス神
 日本最古の七福神の中でも、最も商人にゆかりのある商売繁盛の神様「京都ゑびす神社」は、 鎌倉時代の1202年(建仁2年)、栄西禅師が「建仁寺」を開山したとき、鎮守として建てた神社。
 参拝の仕方は、本殿に手を合わせた後、左側の拝殿に回ってトントンと扉を叩いて参拝すると願いが叶うとされている。
 入り口に近い右側に「財布塚」と「名刺塚」がある。「財布塚」は松下幸之助さんが寄進されたもの。名刺塚は京都実業界の重鎮で105歳の長寿をまっとうされた吉村孫三郎氏の寄進。

大黒天
 応仁の乱後、政府の加護なしに自らの力で商売をせざるを得なくなった京都の商人たちはまず、恵比寿神と、比叡山延暦寺を開いた最澄が延暦寺の台所に祭った大黒天(毘沙門天と弁財天との合体神)を一対で祭るようになった。
 室町時代中期までは、恵比寿信仰と大黒天信仰はまったく別で、それぞれ別の宗派のように分かれていたのに、戦乱の世に2神を一緒に祭り始めた。
 さらに商人たちは京都の鞍馬寺に祭られていた毘沙門天にも参拝するようになった。

伊勢の海女さんは現在1000人いる。

2017年05月06日 08時26分12秒 | 民俗学
新日本風土記〜伊勢志摩の海
NHK-BS、2014年11月21日 放送

たまったTV録画を、GW中につらつら見てます。
今回は、伊勢の海を扱った番組。

冒頭に伊勢の海で働く海女さんが登場し、「伊勢の海には現在も1000人の海女さんがいる」とアナウンスされて、私はその数に驚きました。
海女さんって、もう絶滅危惧種の職業と思い込んでいたものですから・・・。
現実は、やはり高齢化が進んでおり、紹介された20代の新米海女さんは4年振りとのことでした。

海女さんがはちまき状に頭に巻く白い手ぬぐいに「☆印」が書いてありました。
「セーマン様」という神様で、これは陰陽師の阿倍晴明に由来すると説明されていました。

現在の海女さん達は、ウエットスーツに身をくるんで潜っています。
潜る前には“海女小屋”で体を温めます。
夏でも薪をたき40℃以上の部屋で1時間談笑してから潜るそうです。
昔々の写真では、海女さんは裸でした(土地による?)。
体が冷えて大変だったでしょうね。

<内容紹介>
 日本有数のリアス海岸に大小600の島々が浮かぶ、伊勢志摩の海。ここは、たくましい女性たちが活躍する、いわば「女性が主役」の地である。全国のおよそ半数、千人の海女が暮らし、彼女たちが獲る鮑や伊勢エビは、神の食事「神饌(しんせん)」として古くから伊勢神宮に捧げられてきた。
 豊かな恵みをもたらす海は、一方で危険と隣り合わせ。この地に生きる海女や漁師は、いまも篤い信仰心と強い結束を保ち続けている。鳥羽市おうさつ相差では、海の事故で海女や漁師が亡くなると、海岸沿いに地蔵を建てて弔う風習が残されている。また、島ごとの独特な風習も受け継がれ、伊勢湾最大の離島・答志島では、15歳になった男子は血縁関係のない家と義理の親子関係を結び、寝泊まりをしながら共同生活を送る。
潮騒の響く伊勢志摩の海を舞台に、伝統を受け継ぐ人びとを描く。



<オムニバス項目>
●海は女が“主役”...
  キャリア40年、伊勢エビを狙うスーパー海女。元イルカトレーナー、海女になり初めての夏。
●神様、仏様、“セーマン様”...
  伊勢神宮の神様、仏様、そして陰陽道の魔除け「セーマン」。漁の安全を願う海女の篤い信心。
●3人の女神様...
  女神の里帰りを祝う奇祭、女神のご神体を持ち回りする島、島に降り立った吉永小百合さん。
●“寝屋子”の島...
  答志島の男子は、15歳になると親が増える。「寝屋子」と呼ばれる不思議な風習。
●寝屋子の島のお盆...
  寝屋子たちの久しぶりの再会。集落の人々が一斉におこなう墓参り、「火入れ」。

<癒やしの伊勢志摩>
 はじめまして。「伊勢志摩の海」を担当した名古屋局の馬場と申します。
 海女、伊勢エビ、アワビ、美しいリアス式海岸、どこに行っても何を食べても魅力的な伊勢志摩ですが、私が今回初めて訪れ魅了されたのは離島、神島です。鳥羽市から定期船で40分。それだけでも旅情をそそられますが、その魅力はやはり「癒し」。とても穏やかな空気が島中に流れています。  唯一の集落は急勾配の斜面にあり、島のみなさんは、みな徒歩移動。車をほとんど見かけない事が大きな一因かも知れません。
 集落で食事や散策をのんびり楽しんだら、ちょっと足を伸ばして「監かん的硝てきしょう」と呼ばれる展望台に行ってみましょう。(*監的硝の説明は、難しいので割愛させて下さい、、、すみません。)ここは映画「潮騒」のクライマックスシーンの撮影が行われた場所。吉永小百合さん演じる海女の初江の台詞「その火を飛び越してこい!」で一躍有名になりました。
 ここから眺める海の景色は、ちょっと壮大です。対岸の愛知県伊良湖岬まではわずか2㎞。この狭い海峡を、自動車コンテナ船、原油タンカー、LNG船など超大型船舶がひっきりなしに行き交います。伊勢湾の入り口にある神島は、背後に四日市や名古屋、豊田など大工業地帯を抱えているためです。でも、日本を支える大型船舶も、どこかのんびりと見えてしまうのは、やはり神島だからかも知れません。
 都会に疲れた方、仕事に行き詰まった方、癒しが欲しい方、是非一度、神島へ!


それから、答志島の“寝屋子”制度も登場。
昔は子どもの成長を見守りサポートするシステムが地域に根付いていたのですね。
日本が失ってしまったよき伝統の一つ。
かなり前に、『新日本紀行』で見たことあったなあ・・・検索したら(↓)を見つけました。



■ 新日本紀行「現代若衆宿 ~三重県鳥羽・答志島~」
 30分/1970年(昭和45年)
 三重県鳥羽市答志島(とうしじま)では、中学校を卒業した若者が、結婚して一人前になるまで、他所の家で共同生活をする、「若衆宿」と呼ばれる慣習があった。
 若者たちは、宿の主人と杯を交わし、生涯義理の親子として付き合っていく。先輩達からは、日々の生活の中で、島の伝統や一人前の男になるための作法を学ぶ。
 この年もまた、新たに11人の若者が若衆宿で生活を始める。その一方、一人の若者が島の女性と結婚し、若衆宿から独立する。
 番組は、当時15ほどあった答志島の若衆宿とそこに暮らす若者たちの姿を記録していく。

「柳田国男・南方熊楠往復書簡集」

2017年05月05日 05時57分18秒 | 民俗学
柳田国男・南方熊楠往復書簡集
平凡社、1994年発行



Nature論文50編以上という“知の巨人”南方熊楠と、“日本民俗学の父”柳田国男による手紙のやり取りをまとめた本です。
南方熊楠は博物学者として紹介されることが多いのですが、彼の守備範囲はそこに収まらず、神社合祀反対運動など民俗学領域にも及びます。
神社合祀反対運動の際に逮捕・収監されたことがあるのですが、そのとき柳田国男の本を差し入れされて読むに至り、共感して手紙のやり取りが始まったそうです。

2人にとても興味のある私ですが・・・途中で挫折しました(^^;)。

これは「読み物」ではなく「資料」です。
文章も明治時代のお堅い「〜候」調で、ちょっと読みにくい。

当時のやり取りをゆっくり味わいたい人にはこの上ない書物と思われます。
その余裕がなくエッセンスを吸い取りたい私のようなスタンスには合いません。

仕事を引退して時間ができたら、またトライしたいと思いました。

BS歴史館「大江戸・妖怪ブーム」

2015年08月15日 15時57分52秒 | 民俗学
 いつの放送だったんだろう・・・たまっていた録画を夏休みなので見てみました。
 出演はレギュラーメンバーの他に、荒俣宏氏、そして民俗学者の小松和彦氏。
 小松先生はその著作を何冊か読んだことがあるのでなじみの人物でしたが、本物を目にするのは初めて(笑)。

 その昔は怖い&恐ろしいだけの存在だった妖怪が、現在のような「怖いけど親しみのある存在」というイメージに落ち着いたのは江戸時代だそうです。
 妖怪の図鑑が発行され、大きなブームとなったそうな。

 本来、妖怪とは存在してはならない“もののけ”でした。
 江戸時代の思想の規範である朱子学(儒教)では妖怪の存在を認めていません。
 また、仏教は死んだ人を成仏させることも仕事ですが、その失敗例として妖怪が存在することになります。
 つまり、江戸時代の妖怪ブームは、時代を支える思想が破綻を来した結果として生まれたのです。
 そして妖怪は社会のひずみを風刺する手段として利用されるようになりました。

 江戸末期に妖怪を学問として研究した人物がいました。
 彼の名前は平田篤胤。
 そこに至る前に、平田はありとあらゆることを学び研究しました。
 仏教・儒教・西洋の学問・・・しかし、どの分野でもわからないことが残ることに疑問と不満を持ちました。
 分析的な西洋の学問もいよいよ説明できないことが出てくると「神の領域」として逃げてしまう。

 妖怪の存在をも認めるような学問、民衆が安心できる思想を生涯求めた彼は、最終的に日本神話にたどり着きます。
 死んだ人は見えないけどすぐそばにいるんだよ、という安心感が日本人に一番馴染むことを発見したのです。
 彼の思想は尊皇思想へつながり、明治維新を民衆側から支えることになりました。 

 ・・・という解説にうんうん頷きながら視聴しました。

映像民俗学シリーズ「日本の姿」第1期6巻(監督:姫田忠義)

2015年02月01日 08時38分17秒 | 民俗学
発行:紀伊國屋書店
企画・制作:民族文化映像研究所

1.アイヌの結婚式(北海道平取町二風谷(にぶたに)) ~民族の魂の復活
2.山に生きるまつり(宮崎県西都市銀鏡(しろみ)) ~狩猟と信仰
3.椿山(つばやま)ー焼畑に生きるー(高知県池川町椿山) ~山の農耕大地の恵み
4.奥会津の木地師(福島県田島町針生)~自然から生まれた人間の技術
5.龍郷のアラセツーショッチョガマと平瀬マンカイー(鹿児島県大島郡龍郷町秋名) ~南の島 いのちと稲のまつり
6.寝屋子ー海から生まれた家族(三重県鳥羽市答志島答志) ~海に生きる人々の絆


 以前から探していた映像です。
 ネット・オークションで見つけ、自分へのお年玉と言い訳して(笑)、落札しました。

 そこには、自然の力を借りて生き、自然に感謝する日本人の姿があります。
 しかし、仕事の変遷とともに当時の行事・習慣のほとんどは現在失われてしまいました。
 と同時に、自然に感謝する気持ちも一緒に失ってしまったのかもしれないと気づかされました。

 すべて30分程度の長さですが、通して見ると、「実写版・日本むかし話」と錯覚しそうな映像。
 「むかしむかし、日本のあるところに・・・」という語りがあっても違和感がないかもしれなません。
 たった40~50年前の日本なのですが。

「これを語りて日本人を戦慄せしめよ」(山折哲雄著)

2014年05月30日 12時37分39秒 | 民俗学
新潮選書、2014年発行

副題:柳田国男が言いたかったこと
帯のキャッチコピー:
 『遠野物語』の序文に記された激烈な言葉の意味とは? 
 日本人の真の姿を新しい学問で追い求めた先駆者の半生



本屋さんで何とはなしに本を眺めていて目に止まった本です。
ただならぬ気配の題名なので「“反日”の本か?」と思いきや、民俗学の本でした。

「今から十年ほど前に定年を迎えたとき、・・・これからは長谷川伸と柳田国男を読んで暮らそうと思うといった。ふと口をついて出た言葉だったが、じつをいえばかなりいぜんから考え続けていることではあった。」
という序文に引かれました。
私も老後は里山に抱かれた土地で柳田国男の思考世界にどっぷりと浸りたいと常々思っていたからです。

著者は言わずと知れた著名な宗教学者。
その、現代の代表的な宗教学者による柳田国男論・最新版です。

題名は『遠野物語』の序文に由来します;
国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」
・・・文中の「平地人」を「日本人」に置き換えたのですね。正直云ってそのセンス、今ひとつです(苦笑)。

柳田国男と折口信夫の複雑な師弟関係、研究の方向性の違いに関する記述は意外であり、またふむふむと頷きながら読みました。
柳田の普遍化志向、折口の始原化志向
柳田の童子、折口の翁
柳田の自然還元、折口の不可思議還元・・・
などと対比して論じる視点が見事です。
柳田は学問を目指し、折口はファンタジーを求めた、とも云えるかもしれません。

読んでいる自分自身について、意外な発見がありました。
このブログを始めた私の漠然とした気持ち「知らない世界に帰りたい」=「仏教が伝来する以前の日本と日本人を知りたい」であることを再認識させてくれたのです。
これだけでもこの本を読んだ価値がありました。

読み進める中、内容に共感できる箇所が多々ある一方で、著者の推察~空想の域を出ない記述が多いことが気になりました。
空想の翼はとどまるところを知らず、あちこちにワープします。
いきなりガンジーが出てきた箇所には驚きというか、半分呆れてしまいました。
本文中、「柳田国男は、・・・ではなかったか。」
という言い回しが目立ち、理系のエビデンスに基づいた仕事をしている私にとっては説得力がない内容に終始したことは残念です。

「現代の日本人に対して、柳田国男が本当に言いたかったことはいったい何か?」
という“まえがき”の問いに対して、本文に答えが書いてあるとは思えず、消化不良の読後感が残りました。


メモ
 ~自分自身のための備忘録~

民俗学の斜陽化
 民俗学が落日の光景の中に沈むことになった一つの誘因に、人類学もしくは民族学との不器用なつきあい方があったのではないかと思う。
 日本の民衆学は世界の民衆学からもっぱら「理論」の殻だけをかじり取ることに専心し、それに対して世界の民衆学の方は日本の民衆学から主として「素材」の果実だけをむさぼり取ろうとする対照的な構図ができあがってしまった~「理論」を提供するのは世界の民衆学、「素材」を提供するのは日本の民衆学という、古くて新しい分業体制。

サイノカワラ~デンデラノ
 「賽の河原」とは何か、何よりも「魂の通い路」であるというのが柳田国男の変わることのない考えであった。サイノカワラはもともと漢字として記されることはなく、根っからの日本思想から生み出されたものだったと彼は言っている。あとからやってきた仏教がただ地獄の説明をするために漢字化して借用したに過ぎない、という解釈だった。サイノカワラは要するに、死者の魂の通う路だった。この世とあの世を分ける堺、つまり道祖伸(さえのかみ)を祭る堺と考えられていたのだ。
 恐山の頂上には宇曾利湖がある。恐山のオソレは、このウソリが訛ったものである。
 『遠野物語』の中で「蓮台野(れんだいの)」にも言及している。土地の人々がサイノカワラとは言わずに「でんでら野」(蓮台野)と呼んでいた場所である。そこはかつて、60歳を越えた老人達がすべて追いやられるところだった。棄老伝説に出る姨捨の風習を思わせるところであるが、しかし老人はいたずらに死んでしまうわけではなかった。日中は里へ下り、農作をしてなお生き続けている。朝に野良に出るのを「ハカダチ」といい、夕べ野良から帰ることを「ハカアガリ」と言っていたのだという。しかしその「でんでら野」で老人達はやがて死を迎える。でんでら野にいつもサイノカワラの風が吹いているのはおそらくそのためなのであろう。草の根の細い路を辿っていけばたどり着く、死者(魂)が登っていく山中の高値のそれは指していた、そういう場合もあったと柳田は言っているのである。

『先祖の話』
 これはなによりもまず、国土が荒廃に化していくときに発想され、書き綴られた鎮魂の書であった。
 また、自分の魂の行方を実感できる人間の「魂の物語」でもあった。

普遍化志向
 柳田国男の学問には「普遍化志向」が底流している。民族や文化をめぐる不可思議で珍しい事象を、どこにでも見られる自然的な現象へと還元して読み解こうとしているのである。
 一連の著作の中の「山人」たちは、要するにかつて平地を制した支配民によって山に追い込まれた「縄文人」のなれの果てではないかと結論している。「山人」社会に伝えられてきた、奇妙で不可思議な風習を、「縄文人」の生活において現実にあり得た自然の現象へと還元しているわけである。それらの「山人」=「縄文人」とは、かつて吉野の山中に居住していた「国栖(くず)」や九州地域に住みついていた「隼人(はやと)」、そして奥羽に広く分布していた「蝦夷(えみし)」のことだったというわけである。

キーワード「先住民」「犠牲」
 「一つ目小僧」論:日本の各地には一つ目の妖怪をめぐる伝承がいろんなストーリーや衣装を纏って分布しているが、その全ては毎年人間を犠牲にして神に捧げていた慣習の名残であろうという結論に我々を導いていく。彼は「先住民」とか「犠牲」とかいったキー・コンセプトを用いて、民族の不可思議現象をいわば普遍的な枠組みの中に回収して読み解こうとしていると云っていい。

柳田の普遍化、折口の始原化
 折口信夫は、眼前に横たわる不可思議な現象をとらえて、それをさらにもう一つの不可思議な現象へと還元する方法をとった。
 「翁の発生」を例にとると、「翁」の祖型は「山の神」の伝承をさらに辿っていくと最後に「まれびと」の深層世界に行き着くほかはない、という観点である。
 柳田国男の普遍化(=現代化)志向にたいして折口信夫の始原化(=古代化)志向、あるいは柳田の自然還元の方法に対して、折口における反自然還元の方法といってもいい。
 これに対して南方熊楠の場合はカオス還元といったイメージがある。彼の論文に見られる特色に狂気のごとき羅列主義がある。その羅列の最後尾が地球を一回りして再びその羅列の出発点と接触し、そこに飲み込まれていく。

『遠野物語』におけるあの世とこの世
 私(筆者)はかねて『遠野物語』はこの世の物語なのか、それともあの世の物語なのかと疑ってきた。とにかくヒト、カミ、オニの境界がはっきりしない。タマ(魂)とヒト、生霊と死霊のあいだの輪郭がぼやけている。これはもう神話の世界に近いと云うしかないではないか。

『遠野物語』と『山の人生』
 『遠野物語』は「読み人知らず」の物語集成、それに対して『山の人生』は柳田国男という研究者の目によって捉えられた分析的散文の集成、ほどの落差がある。
 『山の人生』は『遠野物語』の注釈、頭注、脚注、といった性格を持っている。

『山の人生』における「偉大なる人間苦」
 柳田はこの日本列島の庶民史に埋め込まれている「人間苦」の実態を、つまり各地の山間部に追いやられ、特殊な蔑視にさらされ、人里離れて飢餓線上をさまよう不運な山人たちの世界をできるだけ探り出そうとしていた。
 土地から土地へとさまよい歩く異形の者たち、けもの道や藪の中を行く異人たちそのような者たちの足跡や幻像が、しだいに柳田の視界に捉えられていく。住所不定の狩猟採集の民である。遍歴する物乞い、芸や春を売る者たち、人を殺し追われて流浪をつづける者、飢餓線上に生きる流民、要するに絶え間なく異動する人間たちの群である。

「巫女考」
 巫女はもともとカミオロシ、ホトケオロシなど口寄せ、託宣を業としていた。その霊的技能によって農村から浮遊し、漂泊の旅に出て稼いでいたが、やがて機会を見つけて土着するようになる。しだいにその地の百姓に同化してしまったというのが柳田のだいたいの見取り図である。
 「巫女」は「女聖(めひじり)」とのいわれ、その多くは亭主もちで売色を副業としていた。その点では遊女、クグツなどと同類で、それが熊野比丘尼(びくに)や勧進比丘尼、白拍子などの流れをつくり、近世になって傾城(けいせい)、太夫(たゆう)などを生み出した。

「毛坊主考」
 「毛坊主」とは中世には既に出現していた有髪、妻帯の坊主のことをいう。山村僻地の地に散らばり、野良仕事のかたわら魂送りや葬送の相談にあずかっていた。姿形の上でも、生活内容の店からしても「半僧半俗」の風態をしている。ここで面白いのが柳田が、それは仏教とは何の関係もない職業だったと云っていることである(柳田は仏教嫌いだった)。
 「毛坊主」とは要するに「俗聖」の一類で、さきの「女聖」と対をなすのだという。
 しかし15世紀の応仁の乱時代に本願寺第8代法主・蓮如の活動を転機として、「毛坊主」が歴史の表舞台に登場することになる。山間僻地に隠れ住む毛坊主を懐柔して組織化したリーダーが、その蓮如だった。彼の大衆伝道路線が毛坊主集団の掌握へと展開したのだった。

「ヒジリ(俗世)沿革史」
1.柳田にあってヒジリと(俗聖)の歴史は、古代的聖としての行基からはじまって、近世江戸期の末世・零落型としてのエタ、階級までを含む、一種の平民宗教史である。
2.「ヒジリ」とは、もともと中国伝来の「聖」とは何の関係もない生き方を指す言葉だった。それは「日知(ひじり)」に通ずる、卜占を業とする一階級であった。もともとは「神の子孫」として、民とカミの間を媒介する生活技能者であり、仏教思想とは何の関係のないものだった。それがのちに寺や仏の教えとの連携を深めるに至ったのは、ひとえに民衆の信仰心を支配していた死霊・亡霊に対する畏怖の感情が、それを救済しようという仏教の考えと結びつき、そこから念仏の功徳が説かれるようになったからである。柳田の見取り図で云えば、京都以西では、天台宗出の空也上人と、その流れをくむ鹿杖(かせづえ)・鉢叩きの念仏団体が発展し、これに対して関東では、時宗を開いた一遍遊行上人の流れをくむ鉦(かね)打ちかね叩きの念仏団体が勢力を伸ばしていった。
3.このヒジリ集団は、仏法との接触を内面的にも外面的にも保っていたが、自律的な進化と退化のコースを歩んでいった。
①ヒジリ集団の盛衰は、基本的には「事業次第、人次第、乃至は境遇の順逆適否」によった。
②当然の帰結として、ヒジリ集団の展開は、大勢として、信仰第一・生活第二の救済事業から、生活第一・信仰第二の職業的定着へと移行変遷を遂げた。
③このような移行変遷が、仏教の変化・変質と相互規定的な関係にあった。
総括すると結局、「勧進」という事業がもっとも重要なポイントだったことがわかるのだと柳田は云う。「勧進の歴史」こそ「ヒジリの歴史」だったというのである。

 柳田の構想するヒジリ史の主人公はあくまでも半僧半俗のヒジリたちなのであって、彼らは何よりも生活第一・信仰(信心)第二の世界で生きる人々だった。それに対して親鸞の云う非僧非俗の生き方は信心第一・生活第二の立場を鮮明にする生き方であった。
 柳田は「偉大なる人間苦」を救済する真の担い手はいったい誰かという問いを投げかけていた。それは果たして親鸞の云う「非僧非俗」を標榜する「聖」「聖人」たちだったのか。それとも「半僧半俗」の「ヒジリ」たちだったのか?
 柳田は、いつの間にか外来宗教(仏教)の藪の中に放り込まれてしまった日本の「固有信仰」の救出を図ろうとした。

折口信夫の「乞食者」論
 「巡遊伶人の生活」(大正13年発表)は万葉集にうたわれている「乞食者(ホカヒビト)」に着目し、「乞食」の祖型を極東の辻音楽師(巡遊伶人)になぞらえて明らかにしようとする論文である。
 巡遊伶人の系譜は、奈良時代にいたって神社に奉仕する神人、まじないの治療をつかさどる呪禁師(じゅごんし)、あるいは諸種の芸人、などへと分化を告げる。のみならず、聖武天皇の頃には、托鉢生活によって遊行する行基集団が形成されたが、それらの得度しない道心者たちの階級も先に述べた乞食者の後裔にほかならなかった。そしてこれらの古代的な巡遊伶人や乞食者の一軍こそ後世の演劇や演芸を発達せしめる唯一の原動力だったのだ、と折口は主張する。
 中世以降、この「ホカヒビト」は、業病を象徴する乞丐(かたい)と結びつき、またらい病やらい病の乞食を意味する物吉(ものよし)に接合され、いわゆる近世風の「乞食」概念に零落していく途をたどった。この乞食者が古くは土地の精霊を代表する「山の神」と一体のものと表象されていたことだった。すなわち、「ホカヒビト」は山の神の資格で寿詞を語り歩き、山の神の芸能と信仰を各地に宣伝して歩く漂白の専門職能者であった。
 折口の云う山の神の観念の背後には、いうまでもなく「まれびと」の面影が揺曳していた。かれのいう「まれびと」は、常世の国から訪れる遊行漂白の文化英雄であり、定着農耕民に祝福と繁栄をもたらす異世界からの来訪者(神)であった。

 柳田はこの折口の「まれびと」論を受け入れなかった。
 なぜなら柳田は、折口の云う「まれびと」ないしは「カミ」のことを、来訪する神とはついに考えることがなかったからである。それらの「カミ」や「ヒト」はすべて柳田にあっては「先祖」であり、「祖霊」のヴァリエーションだったからである。

各人の旅の形態・意義
 柳田の旅はいってみれば隅々まで計算された巡村調査の旅だった。折口のそれはそれぞれの地域の山の神や地霊と対話を交わす類の、憑かれたような巡村行脚の型に属する。
 芭蕉は旅の詩人、管江真澄は旅のフォークロリスト。
 旅の真骨頂は何といっても乞食の境涯にこそあるだろう。そしてこの乞食の境涯をつきつめていくと、そこからはいつしかロマンの香りや感傷の響きが消え失せていく。それを行脚僧や修行僧の覚悟に託して「乞食(こつじき)」と呼ぼうと、あるいはや門付け芸人の心事に託して「乞食(こじき)」と呼ぼうと、そこにロマンや感傷の宿る余地は全くないのである。

家永三郎による柳田国男批判
 「柳田史学」は日本近代主義思想の本筋を邁進しながらも、過去的契機を重んずるその民俗的思考の故に、結局は近代産業革命の意味と構造を総体的に捉えることができなかった。

「童子」の世界に見入る柳田国男
 柳田は桃太郎や瓜子姫の物語に強い関心を持っていた。小さい子どもがいったいどうして物語の主人公と鳴り、やがて成長していって、どうして異常な力を発揮するようになるのか、という疑問を持っていた。
 彼にハッとするような暗示を与えたのが、イタリアのフィレンツェの美術館にあるボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」である。その絵の前に立った柳田に突然閃くものがあった。桃太郎の誕生が水の神に連なるものであることを直覚したのだ。ヴィーナスは海辺の水の泡から誕生したという伝承を持つ女神である。
 これらの小さ子伝承の源流が実は三中の水神に対する信仰にあったのではないかと考えた。しかもその水神が母神の面影を濃厚に示している。そこから、このような言い伝えの中心には母子神信仰があったのだろうと論を進めていった。
 柳田は我が国の御子神や若宮などの「小さ子神」を取りあげて、それらの神々がいずれも神霊を宿す巫女(=母神)の子、という伝承を持つことに注目していた。

折口の翁~まれびと論
 冬祭りの際に山の彼方からこの地上に忍び寄ってくる神、それが折口には異様な姿をした老人に見えた。それがいつしか柔和で優しい翁へと姿を変えていく。村祭りに欠かせない翁や嫗の振る舞いを思い起こせばよい。田楽や猿楽に登場する老人たちもそうだ。おかめやひょっとこと一緒に愛嬌を振りまく柔和で優しい「老人」たちである。
 かれはその「翁」の背後に山の神の身じろぎを感じ、さらにその彼方に「まれびと」という不可思議な存在を透視しようとしている。老人→ 山神→ まれびとへと、どこまでも遡行していく、折口の不可思議還元の方法と呼ぶほかない。

訃報2人

2013年08月27日 05時59分41秒 | 民俗学
 私の本棚に名前の並ぶ著者が相次いで2人亡くなりました。
 ご冥福をお祈りします。

森浩一氏(考古学者)>

■ 森浩一氏が死去 同志社大名誉教授、古代史ブームけん引(2013/8/9 日本経済新聞)
 多くの著作や講演会などを通じて古代史ブームを引っ張った考古学者で同志社大名誉教授の森浩一(もり・こういち)氏が6日午後8時54分、急性心不全のため京都市の病院で死去した。85歳だった。自宅は京都市東山区本町15の778の18。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は妻、淑子さん。
 1928年、大阪市生まれ。高校教諭を経て67年に同大助教授、72年に同大教授。旧制中学のころから奈良県の橿原考古学研究所に出入りし、大学予科時代に大量の短甲(たんこう)が出土した大阪府の黒姫山古墳、大学卒業のころに、中国・魏の年号「景初三年」銘の銅鏡が出土した同府の和泉黄金塚古墳の発掘調査などに加わった。
 古墳や遺跡の研究・調査などを基に、卑弥呼が魏の皇帝から下賜された鏡を「三角縁神獣鏡」とする説に疑義を投じ、大きな論争を呼んだ。宮内庁が管理している陵墓についても、同庁による被葬者の指定が必ずしも裏付けられないことを問題提起し、天皇名などではなく所在地名で呼ぶことを提唱した。
 作家の司馬遼太郎氏や黒岩重吾氏らと交流、古墳や遺跡の保存活動にも取り組んだ。2012年、南方熊楠賞を受賞。著書に「巨大古墳の世紀」「記紀の考古学」など。

谷川健一氏(民俗学者)>
■ 谷川健一氏が死去 民俗学者・文化功労者(2013/8/25 日本経済新聞)

 「谷川民俗学」と呼ばれる独自の視点による研究を確立し、在野で活動した民俗学者で、文化功労者の谷川健一(たにがわ・けんいち)氏が死去したことが24日、分かった。92歳だった。
 熊本県水俣市生まれ。東京大文学部を卒業後、平凡社に入社。1963年創刊の雑誌「太陽」の初代編集長を務めた。退社後、執筆活動を開始、民俗学者の柳田国男から大きな影響を受けた。日本人の死生観を踏まえた独自の考察は「谷川民俗学」と呼ばれた。各地を自らの足で回り、特に奄美諸島や沖縄の南島文化について考察した。
 詩人の故谷川雁氏、東洋史学者の故道雄氏は弟。自身も66年に「最後の攘夷党」で直木賞候補になるなど作家としての創作も旺盛だった。短歌や詩も数多く発表した。
 81年に川崎市に日本地名研究所を設立し、伝統的地名の消滅を批判。92年、「南島文学発生論」で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。2007年文化功労者。
 08年5月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。

■ 中日春秋(2013年8月27日:中日新聞)
 国語辞典で、「地名」と引けば、<土地の名称>とある。二十四日に九十二歳で逝去した民俗学者の谷川健一さんは、地名を、こう定義した。「人間の営為が土地に刻んだ足跡」「時間の化石」
▼谷川さんにとって地名とは、決して単なる記号などではなかった。それは悠久の時の流れの中で、大地と人のつながりが紡いできた物語の結晶だった
▼例えば、鹿児島の薩摩川内市には「悪」という地名がある。このアクは、阿久津や芥(あくた)と同じく低湿地に由来するものという。だからこそ悪戦苦闘しつつ低湿地を切り開いた先人たちの労苦を、こういう地名に偲(しの)ぶべきだと、指摘した
▼そんな先人の営みが宿った地名も高度経済成長期から進んだ行政による地名変更で、無残に失われてきた。谷川さんは「地名を守る会」をつくり、「地名が消えるのは、村の過去を知っていた古老が死ぬのとほとんどおなじような悲劇…つまり幾千年以来の…歴史はそこで終止符を打つ」と訴え続けた
▼「古老」は天災の語り部でもある。海から離れているのに、津波が遡上(そじょう)した「大船沢」や、古歌通りにその手前で波が止まった「末の松山」…と、その重みは東日本大震災で再認識された
▼今年三月に出版された『地名は警告する』で谷川さんは、地名とは<人間が大自然の中の存在であることを忘れないように>との教えであると説いていた。

■ 「谷川健一全集」が完結(毎日新聞 2013年08月11日)
 冨山房インターナショナル(東京・神田神保町)が2006年から刊行していた『谷川健一10+件全集』(全24巻)が完結した。日本を代表する民俗学者は長年、沖縄をはじめ全国の民俗調査などを通して「日本人とは」「日本人の誇りとは」と問い続けた。「古代」「沖縄」「地名」「評論」「短歌・創作」などのテーマ別で構成した。各巻とも6825円(分売可)。全巻セットは16万3800円。

小沢昭一氏、逝く

2012年12月11日 07時26分03秒 | 民俗学
 俳優の小沢昭一さんが亡くなりました。

俳優の小沢昭一さん死去 83歳、芸能研究も
(2012/12/10:日本経済新聞)
 味わい深い語り口で親しまれた俳優の小沢昭一(おざわ・しょういち)さんが10日午前1時20分、前立腺がんのため東京都内の自宅で死去した。83歳だった。告別式の日取りなどは未定。
 東京都生まれ。家業は写真館で、蒲田で少年時代を送った。麻布中学から海軍兵学校予科に進学したが、終戦。復学した麻布中学、早稲田第一高等学院で俳優の加藤武氏らと演劇に熱中した。
 早稲田大文学部卒後、俳優座養成所に入り、1951年、初舞台。俳優小劇場結成にかかわった後、芸能座、しゃぼん玉座を主宰し、井上ひさし作品などで活躍。親友だった今村昌平監督「『エロ事師たち』より 人類学入門」などの映画をはじめラジオ、テレビでも活躍した。
 郡司正勝氏に師事し、民衆芸能の研究にも力を注いだ。芸能の原点をたどる「日本の放浪芸」シリーズの取材、録音の成果は学術的にも評価が高い。昭和の心を伝えるハーモニカ・コンサートが人気を呼び、TBSラジオ「小沢昭一の小沢昭一的こころ」は73年に始まり放送1万回を超す人気長寿番組だった。変哲の俳号をもつ俳人としても知られていた。
 放送大学客員教授なども務めたが、今年秋からラジオ収録を休むなど体調不良が続いていた。


 俳優業もさることながら、私にとっては「民衆芸能の採集者」として心に残っています。歴史の表舞台に縁のない人々に惹かれる私にとって、小沢さんの存在は貴重でした。

 古くから日本には民衆芸能の担い手が存在しました。
 それは神の使いとして一目置かれる一方で、流浪の民として差別の対象にもなる二面性を有した微妙な存在。
 昭和時代の後半、ラジオやテレビの普及と共に密やかに姿を消していきました。
 その失われていく民衆芸能を音と映像に残すべく、全国を行脚して採録して回ったのが小沢さんです。

日本の放浪芸 壱 横手萬歳 解説
日本の放浪芸 壱 横手萬歳 御門萬歳

 彼の残した記録を聞いて、古くは民衆芸能の合間に時間つなぎ目的で行った「萬歳」を、大阪の芸人が洗練させて独立させたのが現在の「漫才」であることを知り、驚きました。

 Amazonで「小沢昭一 放浪芸」で検索すると購入可能な作品がわかります。
 これらの内、CDはだいたい手元にありますが、今は希少価値なのか中古品が高値で取引されている様子。

 その昔(20年くらい前?)に放送大学で放浪芸の講義を行っていたのも記憶に残っています。「バナナのたたき売り」が画面に出てきた時には「これも学問になるのか!?」と度肝を抜かれました。ビデオに録画したのですが、引っ越しを繰り返す中で紛失してしまい、残念でなりません。

 小沢さん、ご苦労様でした。合掌。

民俗学者 小泉八雲(小泉凡著)

2012年08月04日 17時10分43秒 | 民俗学
副題 ~日本時代の活動から~
恒文社、1995年発行。

民俗学関係の書籍を読んでいると、小泉八雲(=ラフカディオ・ハーン)の存在が気になってきます。
そう、英語の教科書に載ってた「KWAIDAN」の著者ですね。

ギリシャに生まれ、アイルランド~フランス~イギリス~アメリカと世界を渡り歩いたジャーナリストが、日本人と結婚して定住し、その視点から日本の失われつつある伝統・習俗を記録して残した・・・というのが私の予備知識。
彼が活動した明治20~30年代の日本は帝国主義まっしぐらで、古来の習俗を切り捨てさる風潮が蔓延していました。その時にフィールドワークを行い、消えゆく日本の民俗事象を残してくれた小泉八雲に感謝する次第です。

さて、この本は彼の曾孫(ひまご)に当たる凡氏が、彼の足跡・仕事を分析して民俗学の中で位置づけるという内容です。
・・・でも、ただ「位置づける」だけなんです。
私の知りたい、あるいは期待した民俗学的事象そのものの記載がありません。彼の採集したわらべ歌を見たかったのに、ガッカリ。

著者の分析によると、小泉八雲は一時期文学を目指していたこともあり、新聞記者としての特ダネを見つける視点(本来の民俗学が重視する庶民の日常生活よりも、奇異な伝承や習慣を重視)と、それを論文形式ではなく文学的作品として発表した点が特徴と云えるようです。

そして、何より彼は日本を愛しました。
明治時代に訪日した外国人の目から見た日本旅行記はいくつもありますが、結婚して国籍を得て生活した彼の視点・存在は貴重です。
ただ、彼が結婚したセツは士族でした。つまり、純粋な庶民・常民の生活に寄り添ったわけではありません。

残念ながら彼の仕事は学問としての評価はされませんでしたが、一方では現在まで読み継がれる著作として残り、当時ライバル視したチェンバレン氏より愛する日本にインパクトを残すことになったのでした。
論文より小説の方が、我々にはとっつきやすく、わかりやすいですからね。


メモ
 私自身のための備忘録。

小泉八雲の著作からうかがえる民俗学的特色と方法
・特色
① 民間信仰の重視
② 感性によってとらえられる民俗事象の考察
③ 口承文芸の緊急採集と再話
④ 日常的伝承の欠如
⑤ 地域差の重視
・方法
① フィールドワークと微視的調査法
② 直感的研究法
③ 比較民俗学的研究の視点
④ 文学としての作品形式

学問としての評価
・科学的研究者としての素質と収容の欠如から、民俗学を学問的に発展させるには至らなかった。
・ハーンは先駆的な民俗の採集者ではあったが、それを系統立てて歴史的発生的な研究の域に踏み込むことはできなかった。

柳田国男との比較と柳田による評価
・柳田国男の山村調査時における関心事とハーンのそれとは、共通する点を見いだすことができるが、柳田の場合は地域社会における異常性を追求することにより、逆に地域社会における「常」なるものを探らんとした目論見を推察することができるが、ハーンの場合は、その点の洞察は希薄だったと云える。
・柳田がハーンの著作の中でもっとも関心を抱き、影響を受けたものは『日本人の微笑』(「Glimpses of Unfamiliar Japan」より)であろう。
・柳田は「小泉氏以上に理解ある外国の観察者は滅多にない」と述べ、ハーンを一外国人ではあるが、日本の基層文化の理解に努めたすぐれた先人と考えたのであった。


※ 先日、「ラフカディオ・ハーン 東の国より 」(OUT OF THE EAST, LAFCADIO HEARN)1895出版
 をネットで入手しました。なんと初版本です。


  

魂の行方を見つめて ~柳田国男・東北をゆく~

2012年07月29日 06時47分59秒 | 民俗学
NHKの「日本人は何を考えてきたのか」の第7回は上記のテーマで放映されました。

作家の重松清さんが柳田の足跡を含めて被災地を歩き、民俗学者の赤坂憲雄さんが解説する内容です。
途中、現在の民俗学界の長老である谷川健一さん(御年90歳)も登場して驚きました。
何回も大津波の被害を受けた東北地方を民俗学の視点から紐解き、さらに「死後の魂の行方」について民俗学の流れを俯瞰する、私にとってまことに興味深い番組でした。

柳田国男は明治時代の三陸大津波のあと、東北を取材しています。
なんとその記録の一つが『遠野物語』第99話に収められていました。

漁村に婿養子に来た福二という男が、地震による大津波で妻と子どもを失った話です。
福二は妻の幽霊を見ました。
男と二人連れで、その男は福二と結婚する前に彼女が心を通わせた人物。
「子どもがかわいくないのか」と妻に問うと、少し悲しい顔をして涙したと。
いつの間にか二人は福二の前から消えてしまい、福二はその後長煩いをするという内容です。

福二さんは実在の人物です。
4代あとの長根勝さんという方が取材に応じて話してくれました。
彼も津波の被害で両親を失いました。

福二さんはなぜそのような個人的な話を柳田にしたのか?
後世に自慢できるような内容ではありません。
赤坂氏は「遠野物語は実話が多い一方で、幽霊も多数登場する。死者と和解するために日本人は幽霊という存在を作ってきたのではないか。福二さんは生前の妻とのわだかまりを幽霊と対話することで和解したのだろう、だから他人である柳田にも話せたのだと思う。」と推論していました。

私はここで、青森県の「イタコの口寄せ」を思い出しました。
死者を呼び出して対話するという行為。
これも、浮かばれない思いを残して亡くなった死者との和解を目的としたカウンセリングであると社会学的には捉えられています。

柳田とその弟子の折口信夫は「魂の行方」について昭和24年に論争を繰り広げたそうです。
柳田は「祖先が神となり、里山の上から田んぼを見守り、家々に個々の神が宿る」と家を重視した考え、
一方折口は「死者の魂は常世で集合体となり個性を失う」と主張します。

赤坂氏は「折口は同性愛者で家族を持たなかった。養子にした息子も太平洋戦争で失った。家単位で考えると、折口のような人間が死後に行く場がなくなってしまう。」と推論していました。
すごく納得できる解説です。

谷川氏は「柳田の視点は、ふつうの日本人(常民)の生活感から出てきた説で、折口の視点は古代研究者としての要素を感じる」とコメントしていました。

折口は師の柳田より先に他界します。
折口の死を知った柳田は「折口君が私より先に逝くなんて・・・そんなバカなことがあるものか」と激しく悲しんだそうです。

私は高校生の時(30年以上前)に柳田国男の『遠野物語』を読んで魅せられました。
戦後、核家族でアパート住まいをするようになった現代日本人には、祖先が山から見守ってくれるという概念は実感しにくくなりました。
そんな根無し草のような魂が、自分のルーツを知りたい、探したいと欲していたのだと、後になって気づいた次第です。

「新日本風土記~富士山~」by NHK-BS

2012年02月06日 06時12分18秒 | 民俗学
 NHK-BSの「新日本風土記」で富士山が扱われました。
 以前、録画していたものを遅ればせながら視聴しました。

~番組紹介文~
富士山>(放送日:2011年7月1日)
 日本一の山、富士山。なぜ、私たちは、これほど富士山に心ひかれるのか。その謎を解き明かす、富士山の決定版映像大全集である。
 富士山は、四季折々、変幻自在に妖艶な姿を見せる。紅富士やパール富士に雲海富士…。太陽や月に照らされ、風と雲が生み出す一瞬の表情をカメラが記録。“千円札の富士”をはじめ、生涯で38万点もの富士写真を遺した男の執念の物語。江戸時代、爆発的なブームとなった庶民の信仰・富士講の謎。葛飾北斎や歌川広重が競い合い、描き出した富士の真髄。全国に作られたミニチュア版富士山“富士塚”がつなぐ、故郷の絆。
 その昔から富士を愛してきた日本人を、美しい映像と共にたどる旅。富士山の山開き当日に、お届けする。


 富士山は云うまでもなく標高3776mの日本一の山であり、その美しい姿が古来日本人を魅了してきました。
 そこに生まれた文化や信仰を紹介する内容でした。

 江戸時代の浮世絵師もこぞって富士山を題材にした作品を残しています。
 一番有名なのは葛飾北斎の「富嶽三十六景」。ややデフォルメされた富士山がインパクトを残します。中でも「赤富士」は秀逸で、あれは北斎の創造ではなく、実際に夏にまれにみられる一瞬の美だそうです(YouTubeで見つけた赤富士)。
 「東海道五十三次」で有名な安藤広重(歌川広重)も富士山シリーズ「不二三十六景」を残しています。こちらは写実的でややおとなしい富士。

 参拝という名の旅行が流行した江戸時代、富士山に参拝する「富士講」が全国に広がりました。
 村単位でお金を積み立て、代表者が富士登山に向かうのです。
 行けなかった人たちは、近くの富士塚(富士山を模した築山)に参拝。
 私の住んでいる土地の近くには「富士嶽神社」という社があります。文字通り、富士山を祀った神社で、昔からの富士講の記録が拝殿に飾られています。信仰が厚かったのですね。

 「ふるさと富士」という現象もあります。
 日本各地の姿が美しい山を、その土地の名前を入れて「○○○富士」と呼びお国自慢したのです。
 その一つとして津軽富士(青森県の岩木山)が紹介されました。私は学生時代を青森県弘前市で過ごしたので、毎日目にしていたふるさと富士ですね。
 現在の住まいの近隣に100mにも満たない「西場富士」という里山があります。やはり姿が美しい。

 富士山を生涯の撮影対象とした岡田紅陽という写真家も紹介されました。
 1000円札の裏にある富士山の元になった作品を残した方です。


(写真をクリックすると拡大します)




 美しい写真の数々・・・写真集を手に入れたくなりました。

「子育ての民俗を訪ねて」by 姫田忠義

2012年01月12日 09時05分32秒 | 民俗学
 副題「~いのちと文化をつなぐ~」
 柏樹社、1983年発行

 前項「忘れられた日本の文化」に触発されて、手元にある他の姫田さんの著書を読んでみました。
 内容は、彼が「民族文化映像研究所」の仕事として日本各地を訪れた際に見聞きした子育て文化に関する文章をまとめたものです。

 う~ん、やはりこの人の著書は肩に力が入っているというか頭でっかちの印象が拭えず、読んでいてちょっと疲れます。現象をもとに推論しているのですが、それが多すぎて概念が先走ってしまう感があります。
 宮本常一氏の「忘れられた日本人」のように、消えつつある生活習俗を列挙し、それを読んでいるうちにぼんやりと「日本」が浮かび上がっている感動は、残念ながらありません。

 ま、それはさておき・・・。

 日本古来の一般人の生活を垣間見ると「弱き者は寄り添い工夫して生き延びてきた」という厳しい現実に突き当たります。
 夫婦・親子の絆、地域の結びつきが現在よりも強かったのは、取りも直さずそうしなければ生きていけなかったから。そして「生きるための知恵」が随所に散りばめられているのを発見することになります。

 当然、子育て習俗にも反映されます。
 子どもを育て、一人前の働き手にするシステムが家・村に存在するのです。もちろん学校がない時代から。
 記憶に残った箇所を列挙します;

与論島では一人で子どもを産む
 この島では、家族にも誰にも知られないで一人で出産するのが賢い女のすることだとされていた。出産を家族や他人に知られるのは恥だった。産婦は昼間の畑で一人で産み落とし、自分の下着にくるんで帰ったり、夜であれば、主人に知られないように奥の間で一人で産み落とし、産み落とした後に主人を起こしたりした。ヘソの緒は、一人でヤンバルダイ(琉球竹)で切り、マフウ(麻)でしばった。そして1週間ほど、火の燃えるジュウの横で休ませてもらった後、体を慣らしながらふだんの生活に戻っていった。
 この村に産婆さんが登場したのは昭和15年頃だが、その後も自宅分娩がふつうだった。
 出産は自分の力でするものだという気風が、今も脈々と生きている
 しかし、昨今の日本では、そうでもない様子。出産であろうが何であろうが、すべて医者任せの風潮が嘆かわしい。
 ここで生まれた子には、和風の名をつける前にまず伝統的な島風の名(先祖から子孫へ次々に伝えられてきた名)をつける習わしがある。子どもは単に夫婦の子ではなく、先祖から与えられ、神から与えられたものだという意識が脈々と生きており、特に女性にそれが深々と伝えられている。

子どもは神からの授かりもの
 埼玉県秩父地方では「7歳までは神の子」「7~15歳は村の子」「15歳以上は村の人」という。
 これは7歳まで生き延びるのが大変だった時代の名残もあると思われる。事実、7歳になるまで祭事が多く存在し、子どもの発育・成長を喜びながら大切に見守ってきたことの表れであろう。
 伝統的な日本人の認識では、子どもは決して親という個人のなにものかではなく、社会的な集団の一員であり、ことに7歳まではその社会全体が注意深く見守るべき「授かりもの」であった。今日の私たちには、そういう意識が欠落してきていると云わざるを得ない。

大和撫子の意味
 昭和初期は戦争を繰り返した時代だった。
 天皇・国家に忠実な国民として、男には「醜の御楯」「山桜」、女には「大和撫子」という言葉が盛んに使われた。
 ナデシコは秋の七草の一つに数えられた野草で、撫子(撫でる子、愛撫したい子)と書いた。昔の人はこの野草に強い愛着を持ち、また子ども(あるいは女性)への愛情をこの野草の名に託して歌に詠み込んだりしてきた。
 そしてそれが、国民はすべて天皇の赤子だという言い方と同じように、女は大和(国家)の撫子である、天皇の撫子である、というふうに利用されるようになった。撫子として生きるのが女らしさである、言い換えれば愛撫され服従して生きるのが女らしさである、ということ。
 古来日本人が抱いてきた自然の草木への愛情や純なる人間的愛情の表現が、見事に天皇制国家主義のうたい文句に利用されたのである。

トシドン~失われた「郷中教育」
 鹿児島県下甑島では、毎年大晦日の夜行われる「トシドン」という正月迎えの行事がある。トシドン(歳どん)と呼ばれる異形の神が子どものいる家々を訪れて回る行事で、秋田の「ナマハゲ」や能登半島の「アマミハギ」などと共通の性質の行事である。
 トシドンは伝承によれば天上から首のない馬に乗って降りてくる神様。その異形の神様が闇の中から「おるか、おるかーっ。おるなら雨戸を開けーいっ」と大声で呼ばわる。
 トシドンを迎えるのは3~7歳の子ども。家の中で裸電球一つの暗がりで、子ども達は親と一緒に正座し息を殺して待っている。
 トシドンが入ってくると、親は子どもにきちんと挨拶をさせる。トシドンは容赦なしにふだんの行い・いたづらを問い詰め、改めるべきことは改めるかどうか子ども達の返答を迫る。そして最後は褒め、諭して去っていく。
 つまりトシドンは、子どもを怖がらせるためにくるのではなく、子どもを諭したり励ましたりするためにくるのである。
 そしてトシドンが与えてくれる餅(モチ)がトシダマと呼ぶ。トシダマは、新しいトシ(歳・年)のタマシイ(魂)という意味。今日私たちがお年玉といっているのは、本来そういう意味のもので、それが今ではお金になっている。
 トシドンに変装するのは今は大人だが、第二次世界大戦が終わるまでは7~15歳の子どもが担当した。ということは、3~7歳は迎える側、7歳を過ぎると今度は訪ねる側になるのである。子どもは「教え諭される側から教え諭す側になる」という両方の体験をすることになり、そして15歳を過ぎると様々な村の仕事や行事の担い手となっていく。この3つの段階を「郷中教育」という。
 今の学校教育では、子ども達は常に一方的に「教えられる側」にある。「郷中教育」では、最初は「教えられる側」であるが、すぐに「教える側」になり、しかも絶えず「教えられる側」でもあるという優れた面を持つ。
 なによりもトシドンには、子どもが子どもを教える、子ども同士が教えあうという非常に大事な、また最も有効な教育のあり方、さらには文化の伝承の仕方が内包されている。
 そもそも教育とは何だろうか、それは、人間の自覚を促すと云うことではないだろうか。


 子どもがまともに育ちにくい今の時代、含蓄に富む言葉です。

※ 「トシドン」の動画を見つけました;
種子島行事・鞍勇(くらざみ)の仮面神「トシドン」
種子島行事・野木野平の仮面神「トシドン」

「忘れられた日本の文化」by 姫田忠義

2012年01月12日 07時33分44秒 | 民俗学
 副題「ー撮り続けて30年ー」
 岩波ブックレット、1991年発行。

 62ページしかない小冊子です。タイトルに惹かれてしばらく前に購入したものですが、昨年末蔵書の整理をしていて見つけ、一気に読んでしまいました。

 姫田さんは民俗学者ではありませんが、色々な職種を経験後に宮本常一さんに師事し、1961年から映像による民族文化の記録作業を始め、1976年には「民族文化映像研究所」を創立し、所長として現在に至る方です。
 このブックレットは、彼の反省を詰め込んだエッセンスといったところ。タイトルからして宮本常一氏の「忘れられた日本人」を思い出します。

 はじめの方は、自分がこの仕事をするようになった経緯が記されています。非常に肩に力が入った文章(悪く云えば大げさ)で、ちょっと辟易してしまいましたが、話が進むにつれ、実際に記録映画の作成余録が出てくると俄然魅力的になり引き込まれました。

 時代の流れに消されていく日本の習俗・職業を愛情を込めて映像に残そうという熱意がひしひしと伝わってきました。柳田国男、折口信夫、宮本常一やその後続の民俗学者達が文章で残してきた古からの日本庶民の生活を、姫田さんは映像で残したのです。彼はフィールドワークを実践してきた実体験から「私の仕事は日本の『基層文化』を映像記録に残すことだ」と自信を持って言い切っています。
 専門外なんだけど、血が騒いでフィールドワークを実行して記録に収めたという点では俳優の小沢昭一さん(「日本の放浪芸」)と共通するところがありますね。
※ 一部 YouTube でも予告編や一部の映像を見ることができます。タイトル箇所をクリックしてみてください;

■ 「アイヌの結婚式
 古来北海道に住んでいたアイヌ民族は、明治時代以降、日本民族によって侵略・支配されるようになりました。日本は単一民族ではなかったのです。彼らの生活には、大自然に感謝し、そのおこぼれで生活させてもらっているという敬虔な精神が伺われます。
★ 「イヨマンテ~熊送り~
★ 「沙流川アイヌ・子どもの遊び
★ 「Ainu, First People of Japan, The Original & First Japanese」これは姫田さんとは関係ありませんが、アイヌの古い映像を見ることができます(英語版なので投稿は外国人?)。

■ 「奥会津の木地師
 木の日常食器を造るために移動生活を続ける職人家族の痕跡を追います。里に下りてこない「山人」達の貴重な生活記録となりました。ハンマーのようなノミを見事に使いこなす様は、まさに職人技です。

■ 「周防猿まわしの記録
 これは「反省ザル」で有名になった太郎・次郎コンビの成り立ちのお話。
 村崎義正(太郎さんの父)さんという方が、昭和30年代に絶えてしまった大道芸猿まわしを復活したいと持ちかけ、姫田さんの「椿山」という記録映画を見て感動し、息子の太郎さんを後継者に指定した、という経緯。その後苦労を重ね、紆余曲折を経て現在に至ります。
★ 「講演:宮本常一生誕100年(姫田忠義)

■ 「椿山~焼き畑に生きる
 焼き畑農業は稲作以前から日本で行われてきた歴史的な農業形態です。これは四国の山深い小さな村の、1970年代まで焼き畑農業を営んでいた人々の記録です。
 ひたすら体を使って働き続ける夫婦の姿に引きつけられます。生きるために働く、次世代を育んで命を、生業を伝える、というシンプルな構図に、現代家族が見失っている生の本質を垣間見たようでした。

■ 「寝屋子
 三重県の小さな島の若者宿のお話。男児が一定の年齢になると、信頼できる大人を指定して「寝屋子」という若者宿を造り、そこに集団で寝泊まりする習俗です。他人ながらも親子同然の付き合いが生まれ、育ち合い、漁師として独り立ちした後も一生その関係が続きます。

★ 2012.1.12のNHK「地球イチバン」で「イチバン長~い成人式:パプアニューギニア・フリ族」を放映していました。フリ族では10歳頃から親元を離れて若者だけの宿で暮らすようになり、弓矢、畑仕事、他部族との戦い方/駆け引きの方法を学びます。20歳頃から2年間かけた成人式が行われ、そこで村民から一人前と認められて初めて独立可能となり、結婚も許されるようになる、というシステムが現在進行形で生きていました。
 日本の成人式の話をすると「好き勝手に生きてきて20歳になったら1日で大人になれるなんて信じられない」と驚いていました。
 ゲストは「日本もああやればいい」などとコメントしていましたが、何のことはない、日本にも同じようなシステムが存在したのに、それを捨て去ってきたことをみんな忘れているだけ。


■ 「奥三面
 新潟県の奥深い山村で大正時代の国勢調査までは知られることがなかった平家落人伝説の里。漁業以外の生業をすべて行い生き延びてきた山人たちのがダムに沈んでしまうことが分かり、消えゆく山の生活を残そうと挑んだ記録映画です。

★ 「遙かなる記録者への道~姫田忠義と映像民俗学~
 姫田さんが自分の仕事を語った映像です。

※ YouTubeで閲覧可能な他の民族文化映像研究所の映像
□ 「豊松祭事記
□ 「奈良田の焼き畑
□ 「うつわ~食器の文化


日本民家園の旧和田家住居

2011年10月06日 21時42分23秒 | 民俗学
 BS朝日の「百年名家~築100年の家を訪ねる」という番組を時々見ています。
 歴史ある建造物を訪ねて語り部に解説してもらう内容で、民家から洋館まで何でもありなのが民放らしい。

 先日放映された川崎市にある「日本民家園」。
 日本各地の民家をそのまま移築して展示している画期的な博物館です。
 私としたことが、今まで知りませんでした。

 その中でも特に興味を引いたのが千葉県九十九里町の旧作田家住宅(17世紀建築)。
 二棟連結構造で、座敷のある母屋と土間がくっついた形です。
 その姿を見た瞬間、ある本の記述が頭に浮かびました。

 それは「日本人の心と建築の歴史」上田 篤 著、鹿島出版会(2005年発行)

 上田氏は、土間は縄文時代の竪穴式住居の名残、座敷は弥生時代の高床式イネ倉庫の名残、元々は別に離れて建てられていたものが、時代が下るに従い合体したのが日本民家の一つの原型であろう、と推論しています。
 イネの倉庫であった高床式建築は、大切な空間であり神聖な場所となり、住居へ進化する一方で、神社の本殿に発展していきます。
 旧作田家住宅は、まさにこの概念を具現化した住まいなのです。

 ああ、行ってみたい、見てみたい!

最近購入した日本の古いモノ

2011年05月09日 06時33分44秒 | 民俗学
 ネットオークションにはいろんなモノが出品されています。
「こんなモノ誰が買うんだ?」というような品を私が買ってしまいました。

1.麻製野良着

 これは世界遺産に指定されている白川郷の旧家が放出したモノだそうです。昔の麻の生地を見てみたいというのが購入のきっかけ。田畑のドロがしみ込んだ日本農家の遺産です。編み目は粗い感じですね。

2.十手

 こちらは骨董収集家のおじいさんが放出したモノ。実物を手に取るとずっしり重い「鉄の警棒」です。これで頭を殴られたら・・・というような武器。時代劇で振り回しているけど、あんな風に手軽には扱えないのではないでしょうか。

3.百万遍数珠

 まさかこんなモノが出品されるとは・・・ふつうは郷土館や民俗博物館に展示されている貴重な道具。
 これは民間信仰行事で使われる長~い数珠(写真のモノは6m以上)。前述の白川郷からの依頼品で、明治時代に造られ実際に使われていたそうです。長い数珠を大勢の人が円を描くように並んで座って手に持ち、念仏を称えながら移動させていく行事で、みんなで合わせて百万遍(百万回)念仏を称えることによりいろんな願をかけてきた、その祈りがこもっている数珠です。

 思い起こせば、私が初めて「百万遍」という言葉に出会ったのは四半世紀前の学生時代でした。当時所属していた「民俗研究部」というサークルの勉強会で見聞きしました。
 実物を見たことはありませんでしたが、現在はYoutubeで閲覧可能ですね。便利な時代になったものです。

<ネット上で見つけた解説文>
 念仏を百万回唱える行法である「百万遍」のならわしは全国にみられますが、阿弥陀の名号(みょうごう)を唱えて数珠を繰(く)る方法は京都市・知恩寺の善阿(ぜんな)からといわれています。
 知恩寺八世の善阿は疫病が流行した元弘年間(1331-34)に後醍醐天皇の命を受け、7日間にわたり百万遍念仏の修法を行いました。そして、後醍醐天皇から流行り病を鎮めた功績として「百万遍」の寺号を賜りました。以後、知恩寺では念仏を唱えながら大念珠(数珠)を繰る行事が定例化したと伝えられます。
 また、大勢の人々が1080珠(たま)といわれる大数珠を繰り、各々が一珠繰るごとに念仏を唱え、その総計をもって百万遍念仏を唱えたとみなす方法が民間に広まっていきました。
 数珠の珠数は、手にかけて用いる普通の数珠の場合は108(除夜の鐘と同じ)が一般的で、これに10をかけた1080が基本的な百万遍数珠の珠数とされます。しかし、必ずしも1080という数になっているとは限りません。


 先日、BSで「法然上人絵伝」の謎解き番組を見ました。竹馬で遊んでいる子どもがいたり、ペットとしてのイヌを抱いている人がいたり、新たな発見があり驚きました。
 この法然の「恩を知る」ために造られたのが知恩寺であり、時代が下ってその八代目の住職が始めたのが百万遍であり、それが民間に広がっていったのですね。たまたまですが、不思議な繋がりを感じました。