citron voice

詩人・そらしといろのブログ~お仕事のお知らせから二次創作&BL詩歌まで~

【刀剣乱舞×詩】春は化け物【 #刀剣詩 】

2016-03-28 15:41:19 | 二次創作詩=漫画/アニメ/ゲーム×詩
宗三左文字は髪から衣装から全身が桜色で、桜に攫われそう系男士だなと、ふと思いました。
織田信長をはじめ天下人のもとを渡り歩いてきた刀。それだけ、想いや志の強い人々の傍にあった刀ならば、刀とはいえ何か気持ちが入ってしまいそうな感じがします。
春は浮かれがちな気持ちとおなじくらいに、憂鬱を抱えやすい季節。
そんな想いを抱えていそうな桜色の宗三左文字を妄想して書いてみました。
タイトルは「春は化け物」です。

………………

春は化け物/そらし といろ

花々に囲まれて
中空をさまよう意識
肢体も
おぼろに揺れる
金属だって疲労する

白銀に翻る
蜘蛛の巣と絡みあう
不快な命運の糸を斬れないまま
転がる世を狩る人の
たくさんの眼もつぶせないまま

斬れない糸の
ひとすじと
つぶせない眼の
一対が
数珠になってしまうほど

(容赦ない執着をひとは信仰とした)

化け物のような
春爛漫と
渡り歩き続けるという
呪いに病んだ時の狭間

疲労した
金属たちの
懇願がこだまする

散歩道

2016-03-21 17:23:17 | 日記
お墓参りのあとの散歩道。
いたるところで満開の菜の花。独特の甘じょっぱいような匂いがする。




もう少し視線を落とせば、菜の花とはちがう花も黄色い。
かたばみ、だろうか。


土筆もたくさん。本当に小筆のように生えている。
水彩絵の具を触りたくなる。


散歩道はめまぐるしい変化をしていて、頭の中の古い地図とうまく重ならない。
思えばここ2年くらいは、そういうことをテーマに詩を書いている気がしてきた。
そろそろ、作品を並べてみようと思う。

【刀剣乱舞×詩】暁光レクイエム【 #刀剣詩 】

2016-03-14 16:59:12 | 二次創作詩=漫画/アニメ/ゲーム×詩
刀剣乱舞のゲーム内で初期刀と呼ばれる5振りの刀のなかでも、坂本龍馬の佩刀だった陸奥守吉行に、わりと身近な感じを抱くのは私だけでしょうか?
「江戸幕府が倒れてから150年しか経っていない!」なんて言うフレーズを聞くと、そうか、幕末ってそんなに遠い昔ではないんだ、と感じます。
ちなみに、初期刀として選べる加州清光は新撰組の沖田総司の愛刀で、陸奥守とは元の主同士が対立関係にあります。
今回は陸奥守視点です。日々、誰かが生まれ、誰かが絶えて、時間は止まってくれなくても、その時間ごと生きてゆくこと。
タイトルは「暁光レクイエム」です。

………………

暁光レクイエム/そらし といろ

なつかしい
誰かと聞いた
鳥のさえずり
鮮やかに迎えたくて
窓を開ける

(昨日とおなじ
布団をたたむ
衣服をまとう
廊下をあるく

ずっと夢を見ている
そんな恐ろしさを
目の裏から洗い流すために
汲みたての井戸水を
桶へ空ける

(昨日とちがう
微妙にかわる
空気のあつみ
仲間がふえて

時空の境界
日めくりを千切って
うすい紙飛行機は
今日の朝風へ乗せて
夜が明ける

【刀剣乱舞×詩】ひそかごと【 #刀剣詩】

2016-03-04 16:29:15 | 二次創作詩=漫画/アニメ/ゲーム×詩
そういえば私が書いてきた刀剣詩のなかで、大太刀は蛍丸しか登場していないことに気づき、今回は石切丸をイメージして書いてみました。
石切劔箭神社の御神刀をもとにしたキャラクターなので、ゲームの中でも「もっぱら腫れ物や病魔を霊的に斬ることが多い」と自己紹介して、「加持祈祷」をしているような刀剣男士です。
審神者と刀の付喪神である刀剣男士は、どうやら本丸で共同生活をしているようなので、審神者が刀剣男士の領域へ引きずられることもありそうだなぁと。
だけど石切丸は、神社の参拝客を見ているだろうから、審神者という今の主が人の領域にとどまっていることを願ってくれていそう……という個人的な妄想を詩にしました。
タイトルは「ひそかごと」です。

………………

ひそかごと/そらし といろ

掃き清める
枯れた枝葉の尽きはじめて
やがては
枯れることを諦める
枝葉は不自然にかたちよいだろう

切り取って
安寧を与えることで
安定する精神のために

仄かな灯りを宿す
桃の一枝を
わたしに捧げてください

神の息吹に
清められた庭が
あなたを壊してしまう
その日を
切り取ることが許されるには

許されなくても)

名もなき草が揺れる
たわいなく踏まれて
早緑の血のにじむ土
根は案外しぶとくて
そのようなあなたを
信じる祈りを今日も

#ポエゾン ~存在ヒットチューン~ *感想文の続き

2016-03-03 18:42:56 | 日記
クレプスカ+象短歌会 朗読ライヴ ポエゾン~存在ヒットチューン~
2016年2月27日土曜日@池袋FIELD

 昨年の11月、日本大学芸術学部の学園祭で、詩の会:クレプスカの皆さんが、詩についてのシンポジウムを開催した。
 私はそこへゲスト出演したことをきっかけに、クレプスカの皆さんと、日大芸術学部の短歌会:象短歌会の皆さんの合同朗読ライヴ「ポエゾン~存在ヒットチューン~」を観覧しに行った。
 現役の学生さんの朗読会は初めてで、ライヴの1部終了後と2部終了後にアンケートへ感想を記入したけれど、現場の熱に浮かされた状態だったから、あまり冷静な言葉ではなかったと思って、改めてここに書いている。

 朗読は全体的に激しい調子だった。正直に言うと、会場では朗読の言葉を浴びるだけ浴びて、受け止めることが上手く出来なかった。こんなに激しい朗読会、朗読ライヴを私は知らなかった。
 激しさの一つ目。叫ぶように朗読する方が多かった。マイクを通す・通さないに関わらず声量があって、声が観覧席まで刺さるように飛んでくる。まさしく絶叫系。もちろん、叫ぶではなく語りかけるような、私にも馴染のある朗読をしている方もいた。それでも、絶叫系が目立った。
 激しさの二つ目。演劇的パフォーマンスや、楽器・音楽とのコラボレーションをしながらの朗読だ。楽器や音楽と朗読のコラボはよくある。演劇的なものとは異なるかもしれないけれど、舞踏、コンテンポラリーダンサーと共演した朗読を、私は見たことがあった。
 だけど、今回の場合はさながら、一人芝居や二人芝居のような雰囲気があって、これを朗読という言葉でくくって良いのか、その場では判断ができなかったし、今もよく分からない。

 私はこの日記で、朗読パフォーマンスの方法の否定をしたい訳ではないのだ。
 現場で感じた違和感の正体が何なのか、ここ数日考えていた。(アンケートの感想にはたぶん、絶叫の要素や演劇の要素を抜いたときの朗読を聞いてみたい、と書いたと思う。)
 ふと、自分が学生時代に詩を書いていた環境を思い出してみた。現代詩を経由して短歌、俳句の道へ進んだ友人たちとの出会いは、私が学生だった頃だ。今思い返してみれば、現代詩というカプセルのなかに、のちの歌人・俳人を含有している状態だったのだ。
 そのことを思い出して、今回の「ポエゾン~存在ヒットチューン~」という朗読ライヴを、理解できたように思えた。

 今、彼らは詩や短歌というカプセルのなかに入ってはいるけれど、そこから飛び出して、演劇やダンスの世界へ向かう人が含まれている可能性がある。
 可能性が細分化する前の、未分化な状態の朗読パフォーマンスがあの日、展開されていたとしたら……詩や短歌のカプセルのなかで、そこへ繋がる別の表現が鼓動を刻んでいたのならば。そう考えると、私のなかであの日感じた違和感が、違和感ではなくなっていった。
 詩と短歌と朗読と、それへ繋がる別の表現が分化することなく一体化した状態。発芽以前の種の中身を覗いたような、そういう朗読ライヴを私は目撃したのだと思う。
 未分化のものは、必ず分化する必要があるわけではない。でも、どちらか一つを選ぶ日がくるかもしれない。捨てがたいものを置いて行く日が来ても、それは永遠の別れではないと私は考えている。それぞれのプロとして、かつての友人と共演することが出来たら、とても豊かなことだと思う。

……当日のアンケートに書ききれなかった感想は、こんな感じです。あくまでも個人の感想です。
改めて、クレプスカの皆さん、象短歌会の皆さん、朗読ライヴお疲れでした!