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磐姫皇后と八田皇后の葛藤、雌鳥の皇女の悲劇

2017-05-29 23:43:58 | 59難波天皇

難波高津宮御宇天皇の代の歌

万葉集事典では「難波天皇」は、「仁徳天皇。孝徳天皇とも」と書かれています。

万葉集の巻二は、「相聞」の部立に始まり、『難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯天皇 諡を仁徳天皇』と、巻一と同じように「○○天皇の代」という歌が詠まれた時期を示す表題が掲げられています。聖帝といわれる仁徳天皇は、三人の女性を不幸にしたとわたしは思います。

万葉集巻二の冒頭歌ですが、「磐姫皇后、天皇を思いて作らす歌四首」という題があります。難波高津御宇天皇の皇后は磐姫ですから、これが事実であれば「万葉集では最古の歌になる」ということです

磐姫皇后は帰って来ない天皇を思って歌を四首詠みました。

85 あの方がお出かけになってからずいぶん日が経ちました。お帰りにならないあの方を山に入ってもお迎えに行こうか。それとも、このまま待ち続けようか。

86 このように恋しく思っているよりは、お迎えに行って高い山の岩を枕にして死んでしまうほうがまだいい。

87 いえいえ、このままあの方を待ち続けましょう。靡くように長いわたしの黒髪が白髪になるまでも。

88 秋の田の稲穂の上に立つ朝霧はやがて消えてしまうけれど、わたしの恋は何時か消えるのだろうか。

磐姫は帰って来ない天皇を死ぬほど待っているようです。一体何があったのでしょう。仁徳天皇は何処へ行かれたのでしょうか。不思議なことに、書紀では帰って来ないのは磐姫皇后の方で、帰ってほしいと何度も歌を詠んで呼びかけるのは仁徳天皇の方です。

書紀の仁徳天皇は妹の八田皇女を「後宮に召し入れたい」と、磐姫皇后に云うのですが、皇后は許しませんでした。天皇は皇后が紀伊國に出かけた隙に、八田皇女を宮中に召しいれます。それを聞いた皇后は、そのまま難波には帰らずに 山背川(木津川)を遡り、山背の筒城に宮室を建ててそこに留まりました。何度も何度も歌を詠んで帰ってほしいとねがった天皇は、筒城宮まで出かけて皇后に呼びかけますが、皇后は会いません。そこで、天皇は最後の歌を詠みました。

つぎねふ 山背女(やましろめ)の木鍬持ち 打ちし大根 根白の白腕(しろただむき)巻かずけばこそ 知らずと言はめ

(つぎねふ)山背女が木の鍬で掘り起こした大根、その白い大根のような貴女の腕を枕にしなかったなら、あなたを知らないと云うこともできようが

この歌に皇后は奏上させて答えました。「陛下は八田皇女を納しいれて妃となさいました。皇女と並んで、后でいたいとは思いません」それでも、天皇は皇后を恋しく思っておられたと、書紀には書かれています。

こうして見ると、万葉集の磐姫皇后の歌はなんだかすんなりとは受け取れませんね。万葉集と書紀とこれほど食い違うのは何故でしょう。何かありそうですね。では、仁徳天皇について少し考えてみましょう。

仁徳天皇=大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)は誉田(応神)天皇の第四子で、もともと皇太子ではありませんでした。皇太子は応神天皇の末子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)でした。応神天皇の41年に天皇崩御、「時に皇太子、位を大鷦鷯尊に譲りまして、未だに即位されていません」でした。のみならず、菟道稚郎子は兄の大鷦鷯と皇位を譲りあう事三年にして、ついに自殺してしまうのです。

真に不思議不可解なことでありましたが、これは兄を思う弟の美談として書記に書かれているのです。然しながら、死ななければならない理由は、皇太子が生きていれば大鷦鷯尊は即位できなかった、だから死を選んだということです。そして、妹の八田皇女を差し出した(八田皇女は後に皇后となりますが、子供はありません)のは何故でしょう。郎子(いらつこ)という呼称は、「皇子」と同じ意味で使われていますが、実際に「郎子」と呼ばれる男性は、菟道稚郎子の他には三人、大郎子(継体天皇の皇子)、波多毘大郎子(大日下王・大草香皇子・応神天皇の皇子、安康天皇に殺される)、大郎子皇子(継体天皇の皇子)だけです。「宇治天皇」の言葉のみが残されていますが、菟道稚郎子は大王位についておられたかも知れませんね。そうなると、仁徳天皇の謀反が成功したということになります。

八田皇女は倒した相手の皇統をつなぐ女性ですから、当然、後宮に入れられます。八田皇女の同母妹の雌鳥(めとり)皇女も後宮に入れられようとしますが、仁徳天皇の異母弟の隼別(はやぶさわけ)皇子が先に雌鳥皇女を見初め奪ってしまいました。仁徳天皇が雌鳥皇女の殿(寝室)にいでますと、歌が聞こえました。

久方の天金機(あめかなはた)雌鳥が織る金機 隼別の御おすひがね (天の金機は、雌鳥の織女たちが織る金機は、隼別皇子のお召し物なのです)

仁徳天皇は弟の秘密を知るのですが、八田皇后の言葉を畏れて見逃し我慢していました。

然し、ある日、雌鳥皇女の「隼は天に上り、飛び翔り、いつきが上の鷦鷯とらさね

は天高く飛翔し、清められた木の上の鷦鷯をお取りなさい)の歌を聞き、天皇の怒りが爆発します。殺されそうになった隼別皇子は雌鳥皇女を連れて、伊勢神宮に逃げ込もうと思って急ぎました。八田皇后は天皇に奏上しました。「雌鳥皇女は重罪ですが、殺す時にその身に着けているものを取らないでください」天皇は「皇女の身に着けた足玉・手玉を取ってはならない」と命じました。

逃げながら、隼別皇子は歌いました。梯立のさがしき山も我妹子と二人越ゆれば安むしろかも 

梯立の険しい山も我が妻と二人で越えれば、むしろに座るように楽なものだ

愛し合う二人の運命は仁徳天皇によって断たれました。八田皇后は妹がせめて皇女として賜死することを願ったのでしたが、皇女としてその身に付けた珠は奪われていました。その珠を臣下の妻と采女に見た時、八田皇后はどれほど絶望したでしょうね。

八田皇女は果たして幸せだったでしょうか。気になるところです。

仁徳天皇の87年間という異常に長すぎる治世にも違和感はありますね。

また。


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