グダグダ cobamix

グダグダと書いています

岩塩

2018年01月22日 19時03分54秒 | つれづれに
カミさんがハマっている、アメリカの岩塩。

今日はスペアリブに振ったらしいけど、ちっちゃ!(^_^;)



でも寒くて、飲み物は熱燗。(*^^*)

体重が 10kg 減ったってことは、寒さを防ぐ脂肪が減ったってことだよねぇ。

今年の冬は寒い寒い。(^_^;)
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聖教新聞 (2017/12/26) 〈負けじ魂ここにあり わが生命の学園生〉7 東京校 1976~78年度

2018年01月22日 17時49分33秒 | コラム・ルポ

〈負けじ魂ここにあり わが生命の学園生〉7 東京校 1976~78年度

2017年12月26日 聖教新聞

勝とうと背伸びして道理に外れてはいけない。
負けないという人生は永久に勝ちです。
 
晴れの入学、おめでとう!――東京創価小学校の新入生と記念撮影に臨む池田先生(1978年4月9日)
晴れの入学、おめでとう!――東京創価小学校の新入生と記念撮影に臨む池田先生(1978年4月9日)
 

 

 東京・創価学園のキャンパスは喜びにあふれていた。
 1977年11月19日。創立10周年を寿ぐ記念の集いが行われ、創立者・池田先生が式典後の祝賀会に駆け付けたのだ。

勲章を君に

 到着した池田先生は、教職員の日頃の尽力をたたえ、栄光橋で記念のカメラに納まった。

 体育館では、展示されていた学園生の美術や書道の力作を鑑賞し、「すごいな。いい絵だ」と。
 卒業生の代表も参加した祝賀会では、皆で万歳を三唱し、学園のさらなる発展を誓い合った。
 校内では、学園生を次々に激励。飾られていた花を手に取ると、居合わせた中学生の胸ポケットに挿していった。
 「これは僕からの勲章だよ」。当時、中学2年生だった吉水広明さん(高校12期)は、先生から白い花を受け取った。
 自宅に戻ると早速、押し花にして机の上に飾った。「学園時代は毎日、この花を眺めて勉学に励みました」
 吉水さんは学園を卒業後、国立大学に進学。大学院まで進み、工学博士に。現在は愛知県の大学で准教授をしている。
 後年、先生の著作で感動的な場面に出あった。そこには、恩師・戸田城聖先生との若き日の思い出が記されていた。
 ――戸田先生の事業が最も苦しかった頃。大学を断念してまで事業を支えた池田先生に、戸田先生は個人教授で万般の学問を授けていった。ある講義が修了した時、戸田先生は机上にあった一輪の花を池田先生の胸に挿した。池田先生は、それを世界一の誉れであると受け止めた――
 吉水さんは今でも、先生からの花を大切に保管している。「学園で学んだ誇りと感謝を忘れず、創立者のように目の前の学生のために尽くし続けていきます」と語る胸中には、“誉れの勲章”が輝いている。

一貫教育が完成

 創立から11年となる78年春。学園の“新たな10年”は、東京創価小学校の開校とともに始まった。

 これで創価教育は、ついに幼稚園から大学までの一貫教育として完成をみた。
 4月9日の第1回入学式。「にゅうがくおめでとう さあ、きぼうのしゅっぱつ!」――学園のグラウンドの隣に建てられた小学校の校舎には、大きな横断幕が掲げられていた。
 この日、1年生125人、2年生82人、3年生84人が晴れの門出を迎えた。
 池田先生は万感のメッセージを寄せ、「待ちに待った創価小学校の第1回入学式、まことにおめでとうございます。皆さん方の希望にあふれた姿を見て、私は本当にうれしい」と祝福。式典後に小学校を訪れ、新入生らと記念撮影を行った。
 開校を誰よりも待っていたのは、他ならぬ先生である。設立準備委員会にもたびたび出席し、建設現場も視察してきた。
 入学式の前日にも足を運んでいる。校舎には、式典の練習で登校していた児童や教職員がいた。
 先生は1年1組、理科室、図書室、音楽室、放送室などを、くまなく見学。ある教室では教壇に立ち、黒板に「さいた さいた さくらが さいた」と書くなど、“即興授業”を行う一幕も。
 3年生だった伊藤雄一さん(小学校1期)も、その場にいた一人。「作法室で懇談した折、先生が優しくジュースを勧めてくださったことは、生涯の思い出です」
 伊藤さんは学園時代、教育を最後の事業とする先生の心に触れ、教職の道に進むことを決意。都内の小学校で副校長として奮闘している。
 器楽委員会の一員だった佐々木章子さん(同)は、折々の行事で電子オルガンを奏でた。
 79年3月には、2日間にわたって児童祭が。初日に来校した先生の前で演奏を披露すると、「上手だね」との伝言が届いた。さらに2日目には、先生の提案で佐々木さんの名前が参加者に紹介された。
 「『上手だね』との一言がうれしくて、その後も懸命に練習しました」という佐々木さん。今では2児の母となり、子どもたちを小学校から創価の学びやに送り出した。
 「保護者となって、改めて学園の素晴らしさを実感する日々です」
 長男(高1)は、英語弁論大会で東京都代表に選出。長女(小6)はサッカーに汗を流し、クラブチームでも活躍する。

王者の山を登れ

  〽母よ 我が師よ

      忘れまじ
  苦難とロマンを
      この我は
  いつか登らん
      王者の山を
  負けじ魂
      いつまでも
  
 学園の体育館に雄々しい歌声が響き渡った。
 78年11月2日に行われた第5回「鳳友祭」。先生の前で初めて披露する愛唱歌「負けじ魂ここにあり」である。
 聞き終えると、先生は「もう一度歌おう!」と提案。一段と力強い声が場内に轟いた。
 作詞を開始したのは、7月に行われた栄光祭の前だった。初めて創価大学の滝山祭と合同で開催されることになり、その記念フェスティバルで学園生の心意気を表す歌を披露しようと取り掛かったのである。
 しかし、作業は難航した。何度やっても納得のいくものができない。結局、フェスティバルには間に合わなかった。
 だが、学園生は諦めなかった。その思索は3カ月以上にも及んだ。夏休みも、放課後も、寮や自宅に戻った後も――。
 当時の記録には、制作委員会の苦悩の様子が書かれている。
 「言いたいことが言葉となり出てこない、『もうこれまでか』と何度思ったことか。しかしそのたびに、新たな伝統は我々がつくるんだ、と心の底で叫んできた」(創価学園生徒会誌「渓流」第4号)
 歌詞ができたのは、10月9日。すぐさま、関西の創価女子学園(当時)を訪問していた池田先生のもとへ届けられた。
 先生は、学園生の熱意に応えるように推敲を重ねて修正を加えた。そして後日、3番までだったものに4番の歌詞を新たに書き贈った。
 鳳友祭の席上、先生は語っている。
 「『いつか登らん 王者の山を』と学園の歌にもあるように、諸君たちに登らせるために、登ってもらうために、私は、道なき道を、傷だらけになりながら、奮闘していく決心であります」
 「勝つことだけが人生でない。勝とうと背伸びして道理にはずれてしまっては、何にもなりません。負けないという人生は、永久に勝ちです」
 高校9期の矢口理史さんは高校3年生だった。卒業後、1年間の浪人の末、国立大学の理学部に進学。外資系の製薬会社に就職するも会社が買収され、働き盛りの40代半ばにリストラの憂き目に遭ってしまう。
 その時、自らを奮い立たせたのは「負けじ魂ここにあり」だった。
 直面する苦難にも負けじ魂を発揮し、矢口さんは前職より好条件で再就職を勝ち取る。やがてアメリカに本社を置く製薬会社に転職を果たし、現在は難病に苦しむ人のため、新薬の開発の責任者を務めている。
 ◇ 
 2009年3月、池田先生は「負けじ魂ここにあり」に、5番の歌詞を贈った。

 〽正義の誇りに
      胸を張れ
  君に託さん
      この大城を
  学べ勝ち抜け
      世界まで
  負けじ魂
      朗らかに

 創立者と学園生が一体不二で作り上げた歌。それは“人生の応援歌”として、卒業生を永遠に鼓舞し続ける。

 

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 ちょうど自分が在学していた頃の内容なので、自分用に転載。

同級生が多く写っていて懐かしい。

…いやいや、自分を鼓舞していく記事だね。

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