思うこと

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本を読んで、映画を観て 「永遠のゼロ」(百田尚樹)

2014年04月21日 22時09分42秒 | 日記

 勿論私は、日本軍創設を主張したり、南京事件を否定したり、「東京裁判」を勝者の裁判として批判したり、或いは東京都知事選で、かの田母神氏を応援し、他の候補を「クズ」と罵倒したりするような作者の百田尚樹は、鼻から好きになれないし、いくらこの小説や映画が絶賛されようと、世のある種の人々と同様、否定的先入観を持っていたのは間違いない。こんな小説なんか(失礼)、どうせ神風特攻隊の、命を賭して国や天皇の為に散ったその精神を無条件賛美したもの以外の何物でもないだろうと、それはそれは極めて単純図式的予見を持って読んだと予め正直に白状しておこう。


で、実際に読んで、映画を観て、その考えは百八十度変わった…という程ではないのだが、実際かなり驚かされたのに違いない。
 私は思わずこの小説の作者と先に述べた百田とは別人かと思ったくらいだ。あるいは百田尚樹って実は「サヨク?」と一瞬思ったくらいだ。
 この小説を読んだり、映画で観たりした人は少なくないだろうから、今更解説でもないが、やっぱり簡単にストーリーを紹介しておくと、
「大学生の佐伯健太郎と、姉の慶子は、亡くなった祖母・松乃の四十九日から暫くした頃、祖父・賢一郎から彼が自分たちの実の祖父ではないことを知らされる。実の祖父である松乃の最初の夫は宮部久蔵とい、特攻で戦死した海軍航空兵だという。健太郎と慶子は特攻隊員だった実の祖父について調べようと決めた。二人は宮部を知るかつての戦友から色々聞き出す。ある人物は久蔵について『海軍航空隊一の臆病者』『何よりも命を惜しむ人物だった』と吐き捨てるように言う。そんなことを言う人々は少なくなかったが、別の人からは、宮部は凄腕の零戦乗りで、素晴らしい人間であったと全く正反対の事を言われる。この全く違う人物像はなぜ生まれるのか、宮部久蔵は一体何を考えていたのか、一体どういう人物なのか?」
 それを解き明かしていくのがこの小説のストーリーである。
 全く敵機と最後まで本気で戦おうともせず、無傷のまま帰還すること屡々で、本当に臆病で卑怯な零戦乗りと冷笑されていた宮部の基本的な考えは「自分には愛する妻と娘がいる。だから戦争で決して死にたくはない。自分は生きて帰りたい」というものである。百田尚樹は宮部久蔵をこうした人物として設定している。まずこれが私たち(私)の百田に対するイメージを根底から覆す。もちろん百田は反面教師的にこの主人公の造形をしているのではない。この人物は百田の内的必然から生み出されている。つまり百田の思想を体現していると言って間違いない。

 左翼平和主義者ならともかく、なんと言ってもあの田母神氏を応援するような人物が、何故こうした人物を描こうとしたのか、当初よりそうした点に強く興味を惹かれた。この小説は一種の謎解きの要素があるが、同時に私はこの一種信じがたい主人の造形を行った百田尚樹という作家の考えの核心を解き明かすという二重の謎解きとなる読書体験であった。

 百田がこの小説で言わんとしたことはそんなに難しいことではない。およそ小説の中から作者のイデアや主張を取り出して、粋がっているはかなり趣味の悪い愚かな行為に違いないとは思うが、それでもそれを承知で抽出すると、百田が言いたいことは明白であると思われる。

 宮部の「愛する妻子の為に、生きて帰ることこそ最も正しい考えだ」というのは前述したように百田の信念とぴったり重なる。祖国の為、天皇の為にと敵艦に玉砕するのは決して肯定されるべき行為ではない、それは「犬死」であると百田ははっきり主人公に言わせる。いくら他の兵士や上官から「臆病者」「卑怯者」と罵られても、生きて帰ることこそ正しいと繰り返し宮部は述べる。百田は特攻隊の兵士達とほぼ不即不離的に語られる一種の枕詞、いわゆる「殉教の美学」に対してとことん批判的だ。

 しかしそれは例えば「戦後左翼」的批判とは全く別物だ。

 百田の思想はこういうものらしい。つまり彼は兵士が戦争で戦うこと、そのものを否定しているわけではない。もちろんだからと言って別に戦争自体を肯定しているわけでもない。戦争は誰が考えても、悲劇であり、ないにこしたことはない代物である。けれども何らかの理由で戦争が生じれば、時に国民は兵士として戦争に参加しなければならない。例えば国を守るという理由で―。そして相手国の軍隊と一戦を交えなければならない。それはあくまで国と国との政治的軍事的判断の世界に属することだ。一国の普通の一人の国民がどうこうできる物ではない。純粋にパワーポリティックスに関することだ。  

 しかし百田はあくまでもその闘いは相手の軍隊や兵士と行うべきであると考えている。無辜の人々を殺戮するのは百田にとって絶対許されるべき事ではない。それが証拠に百田は広島や長崎への原爆投下はあってはならない無差別殺戮であると、違うところで厳しく批判している。いかに相手国を降伏させる軍事的手段としても、軍人でない一般国民を大量殺戮するのは人間としての道義に反していると考えているようだ。

 これは例えば吉本隆明の同時多発テロに対する立場と一種通じるものがある。あのテロでの吉本の批判は独特なものであった。飛行機をハイジャックしてワールドトレードセンタービルに突っ込んだテロリスト達に対して、吉本は「罪のない一般乗客を巻き込んだあの方法はどんな意味においても許されるべき行為ではない。乗客達は全く死ぬ必要はなかったのに巻き添えになった。テロリストの道連れにされた」と厳しく批判している。では同じくビル内にたまたま居り、痛ましくも犠牲になった人々に対しては、どうかというと、吉本はもちろん同情しているが、作戦の巻き添えになった乗客達とははっきりと区別している。非常に誤解を招く言い方だが、いわば一種のやむを得なかった犠牲としている。戦争やテロが必然的に生み出す、どうしようもない犠牲者であるとしている。この区別がとてもわかりにくくて、吉本のこの論は多くの人々から批判を浴びたのだが、それでも吉本は、乗客は全く死ぬ必要が無かった人々だと述べながら、その観点からテロリストを断罪している。非常にユニークな同時多発テロ批判であった。

 百田尚樹ももちろん戦争で死んだ多くの兵士や一般国民に対してそれがいいと言っているわけではないが、生き帰りを全く想定されていない特攻隊員は、これは戦争における兵士の〈正しい〉、死に方ではないと言う。彼らは吉本の言う所の全く死ぬ必要のなかった者達であり、愚かしい軍部の作戦により、死ななくていい命を失った痛ましい犠牲者である。

 どんな戦いであっても、戦いというのは生きて帰還する可能性を持った時のみそれは戦いとして〈成立〉するものだ。最初から死ぬことを想定されている戦いは、それは戦いではない。それこそ極めつけの非人道的なものであり、百田はそうした作戦そのもの、あるいはそれを命じた日本の軍隊上層部や戦時の日本の指導者たちを激しく断罪するのである。

 従って宮部久蔵は、もちろんアメリカの戦闘機と戦いを交えるが、戦いが終わればそれ以上のことはしない、自身や僚機の安全のみをひたすら願い無傷のまま帰還する。例え仲間になんと批判されようともである。愛する家族がいるのなら何よりも無事に帰ることが最も重要であり、いたずらに命を散らすより、生き残り、そして未来の日本の為に尽くすことが何よりも大事というのが宮部のひいては百田の思想の核心だと思われる。

 百田は宮部に小説内ではっきり言わせる。「特攻隊」は「犬死」だと。ここが明らかに無条件に特攻を賛美するそこらへんの「右翼」とはっきりと一戦を画す所である。

 そしてまた百田は特攻隊とテロリストも截然と区別する。我々は時として、自らの命と引き換えに敵に大きな損害を与える自爆テロと特攻隊を同質なものと見なしてしまう。しかし彼は小説の中で「要するに特攻隊も自爆テロリストも偏狭な愛国心の現れであり、一種の狂信的な行為である」と批判した人物に対して元特攻兵に激烈に反論させる(映画では飲み会で友人から同じようなことを言われた健太郎が激怒する)。特攻隊と自爆テロとは全く違う。自爆テロは罪なき無辜の民を犠牲にする。特攻隊の相手はあくまでも敵の軍艦であり、一般市民を対象にすることはありえない。両者は根本的に異なるものだと。

 そして百田の怒りは軍部や時の政治家などに向けられる。先の戦争での日本軍の作戦を吐き捨てるように断罪する。どう考えても勝ち目のない戦いに対して、自身の保身や名誉だけの為に、無意味な作戦を遂行する。そして多数の犠牲者が出ても、決して責任をとろうとしない。神風特攻隊はその最たるものであり、最早どう考えても戦況の結末は明らかなのに意地と体面だけで数千人の若い命を散らした。「…その死には何の価値もない。」と百田ははっきり作中人物に語らせている。この一文を読むだけで百田が凡百の右翼愛国者とは全く一線を画しているのは明白だ。

 宮部久蔵は繰り返し若い部下達に対して生き延びることの大切さを語る。宮部はいつも妻と子どもの写真を懐に抱き、それを生きる原動力にしている。

 しかし、家族や命をあれほど大切にしていた宮部が、なぜ結局は自ら特攻を志願し、その命を散らせる道を選んだのか。それを最後の部分で描いていくのだが、その行為は彼の理屈と矛盾しているというものではない。若き学徒兵の教官として、特攻の飛行訓練の教官をしていた宮部は、自らが指導した教え子達が次々と特攻に志願し、ほとんど効果のないことを宮部が一番よく知りながら、彼らが散っていくのを見送らざるをえない。若き命を「無駄死に」させたくはない、しかし自らの行為はまさにそれに荷担している、というよりむしろ自らが死に至らしめていると感じ、彼らの死の上に自分の生が成り立っていることを痛切に認識せざるを得ない宮部は、最早それならば自分も生きていることは出来ないと零戦に乗り込んだ。しかし愛する妻と子どもの写真は一緒に持っていかなかった。多少の細工を施し手紙と共にそれを僚機のコクピットに忍ばせる。

 宮部は出撃するがそれはむろん国の為ではない、ましてや天皇の為でもない。妻の為・子どものため、そして命のためである。 何よりも命を大切にする特攻兵という極めて逆説的な造形により、この小説は左右の枠を超えて広く共感を得ているに違いない。

 繰り返すが百田は小説中で断言する。特攻隊は「日本のために、家族のためにと、悩み苦しんだ末に死んでいったのに、その死はなんら報われることなく、ただの犬死に終わった。その死には何の価値もない」。こうした視点を持ちながらも(だから百田は相当なリアリストである)彼は特攻の、その無私の精神を救おうとする。

 百田がその対極として激しく苛立つのは、そうした悲劇の上に立つ平和を享受しながら、もはや無私の精神のかけらもなく、物質的、自己中心的享楽ばかりを追い求める戦後日本や日本人の精神である。こういう言い方はあまりにも通俗的ではあろうが、利己的な欲望ばかりを目指している現代日本人が、究極の無私の精神で生きた特攻をファナティックな精神主義者と呼ぶ時、百田は激しく苛立つのである。 

 物語の最後にひとつのあっというような隠された事実が明らかにされるが、これはまあ小説としての愛嬌だと述べておこう。

 ともかくこの小説は単なる特攻賛美でないことだけは確かである。先の戦争をひたすらアジアの開放と美化したがるバカ右翼もたそれを笑うバカ左翼も同時に超えようとしたものである。

 私自身の考えを言えば、最初の先入観より遙かに百田を評価するのはその通りである。神風特攻隊を戦争という大きな枠組みの中で、リアリスティックに再構成し、従来の神話から解放しようとしながら、しかしその中に「真の価値」を見いだそうとした百田の試みは正直優れていると思う。右翼の自己陶酔も左翼の浅薄な批判も遙かに超えた地平にそれはある。

 だが、それでもやっぱり百パーセントの肯定とはならない。

 些末的なことを言えば、たとえば特攻隊とテロリストを厳しく峻別する姿勢については、じゃああの9・11テロリストがビルではなくて、ペンタゴンやホワイトハウスや原子力空母を標的にしていたら、百田は彼らを賛美するのか、特攻隊と同質と見なすのか?と嫌みの一つも言いたくなる。

 あるいは、私は、天皇陛下万歳を叫びながら海の藻屑に沈んだ実際の特攻兵も、妻を思い、子を思い、命の大切さを訴え続けた宮部久蔵も、百田により骨の髄まで批判された軍上層部、指導者達、そして同じく彼に罵倒された、自らの生が多くの犠牲の上に立っていることを全く顧みることなく平和と繁栄を脳天気に享受している、戦後のダラクしまくった日本人(我々)も、やはり同じであるという視点の上に自らを立脚させたいと思うものだ。

 百田はそれらに絶対的な相違を求めたいのだろう。しかし私はそこに差違を見いだそうとする姿勢を拒否したい。

 そしてこの小説はやはり一つの示唆を与える。それは何よりも現在の「右翼的なもの」と「左翼的なもの」の関係性に拘わる物だ。最近の自分の文章でも屡々取り上げているが、今の時代、本当にこれらの対決が際立っている。「右翼的なもの」と「左翼的なもの」というのはもちろんメタファーとして述べているに過ぎない(他に適当な分類が出来ないから)。呼称は何でもいいのだが、それはもちろん昨今際立つ、対中韓米との関係や靖国問題や過度な外国人排斥運動などを言う。

 そこで対立している(ように見える)二つの軸はいつでも交わることのない正反対な物として捉えられている。右翼と左翼、保守と革新、平和と愛国、民主主義とナショナリズム・・・何でもいい。そこに私たちは抜きがたい溝があるように常に感じる。

 しかし、かつて磯田光一がその著作で鋭くも見抜いたように、一つの絶対性に対する無条件の信仰という意味において両者は同一の構造を持つ。一つは天皇や国体、一つは党にへ、である。その二つには極めて近似的な精神的関係がある。いわば表紙の付け替えにすぎない。

 イデオロギー的な対立はどこまでいっても普遍性を獲得することはない。対立の構図が続くばかりだ。しかし百田はこの小説で意図的なのかそうでないのか分からないが、イデオロギーに還元できないような、いわば普遍的な心性、それは平凡きわまりないが「家族のために、友の為に、人の為に、自らを捧げることほど、本当は高い価値はない」という極めて当たり前の姿を描き出している。それは結果的に左右のイデオロギーを飛び越えたものになっている。いわばこの両者のいずれもが決して救えないもの、両者が決して届かせることができないものを、小説家百田尚樹は宮部久蔵という人物を通して図らずも描き出したのではないかと思わされた。右翼を黙らせ、左翼の批判を封じる一つの作品になっているのではないかと思った。