思うこと

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◆本を読んで 「反〈絆〉論」(中島義道) そして ―表現の自由とは?―

2015年03月02日 19時17分54秒 | 日記

 最初の「反〈絆〉論」の作者中島義道は哲学者で、特にカントの研究者であるが大変〈有名〉である。一言で言えば根っからの変わり者、偏屈者(失礼)の典型と言ったらよいか。かなり昔「流星」に一度その著作の感想文を書いたこともあるのだが、今回再度取り上げた。

 さて彼の変わり者ぶりは尋常ではない。前回読んだ本の中でも「人生に生きる価値は何もない」とか「私は今後世界がどうなろうが全くどうでもよい、私の死後家族がどうなろうと全くどうでもよい、全く私の知ったことでない。なぜなら死んだら私は無になるのだから」とあっさり述べ、極めて諦観・悟りの極致の人かと思えば、駅でのアナウンス「電車が参ります、危険ですから白線の後ろへ・・・」という類いの放送に、余りにもお節介だからと何度もわざわざ駅員に抗議しに行ったというエピソードにも事欠かない。まるで仙人かとも思われるような〈変人(自分でそう言っている)〉である。全くおかしくて笑うしかないのだが、逆にその徹底した変人ぶりにまたファンも多いと思われる(かの超有名予備校講師、林修先生も熱烈なファンらしい)。

 表題のこの本でもさらにその姿勢は徹底している。
「私は一人でいることが好き」「お祝い事は全てイヤ」「いかなる他人のお祝いにも参加しない」「クラス会や同窓会にはまったく行く気がしない(60年ぶりに小学校のクラスメートに会ったとしても何が面白いのか)」「親戚づきあいは元々ない」「親の法事にさえ行かない」「甥や姪の結婚式にさえ行かない」「世話になった教授たちの葬式にさえ参加しない」と枚挙にいとまがない。冗談ではなくて本気でそう思って実行している。万事が万事こんな感じである。従ってこの本の感想も本当は笑いながら書くのがいいのだと思われる(しかし本当はこの本はカントを始め、様々な哲学的観念を元に描かれているのである)。
 まあその筋金入りの変人ぶりはさておいて、この著書の中で、作者は題名にもあるように「絆」という言葉に激しくかみついている。「絆」とはもちろん周知のように、東日本大震災以来、日本を席巻したあの「絆」という言葉である。もちろん作者は被災地の復興や悲しみにくれる人達が再び元気を取り戻すことを願っていないわけではない(そこまでひねくれていない)。しかし作者はあの震災の後、本当に日本中を覆い尽くしたこのフレーズに苛立たしさを隠さない。家族を亡くし、友人を亡くし、家も何もかもなくした人達に向かって、日本全国、世界全国から支援の声が届けられた。そして復興の合い言葉になったのは「絆」という言葉であり、このフレーズの下で「共に、一緒にがんばろう」「決してひとりぼっちではない」「未来に希望を持って」・・・とありとあらゆる善意の言葉が投げかけられた。そこで「絆」という言葉はほとんど絶対性を帯びた。そんなに「絆」「絆」って叫んで、少々大げさなと思った人もあるだろう。しかし、もはや「絆」に対して否定的意味合いを投げかけることはほとんど不可能になっている。それは我々もそうだし、また当事者である被災地の人々もそうである。

 作者はまず言う。そもそも「絆」というのは善意の意味ばかりに溢れているものではなく、切りたいけれども切れないようなしんどい関係性も表している言葉であると。何よりもこの「絆」という言葉の大合唱によって、モノの真実が見えなくなっていることを言おうとしている気がする。

 作者は誤解を恐れず明言する。震災や津波によって失われた命も、老衰や病気や事故、あるいはその辺でのたれ死にすることも、死という意味では等価であり、それを隔てるものは何もないと。そしてまた何とか少しでも励ましたい、役に立ちたいとわざわざ遠くからやって来て、被災地で涙にくれている人達に、心からの善意で「頑張って下さい」といくら励ましても、現実には頑張れない人もいるし、絶望している人もいる。「絆」の大合唱の中ではこうしたことがほとんど捨象されているということだ。被災地での多くの美談、例えば、言葉にならない程の痛手から何とか復興に向けて立ち上がっている多くの人々のこれでもかこれでもかという映像は、同時に絶望して立ち上がれない多くの人々の姿を隠しているのだ。こういうことを言うと、それは本当に心の歪んだものの見方だと批判する人も多いだろう。しかし私はこうしたことを明晰に分析している(と思う)作者の姿勢に共感する者だ(おまえもまたひねくれているだけだ、と言われると返す言葉はないが)。

 誰もが反論できないような言葉が世の中を覆っている時、それに反論したり、違和を唱えようとすれば激しいバッシングを受けざるを得ないような時、それは世の中が病んでいる時だ。

 作者はいつもそうした〈正義〉の言葉にある意味で闘ってきた人だ(ひどく傷つきながら)。作者はそうした言葉に〈余計なお節介〉や〈心の汚れ〉を見る。善意の言葉の下にある、土足で心を踏みにじる性質を見る。

 今だってそうした言葉は世の中を徘徊している。さしづめ今なら「絶対にテロに屈しない、テロを許さない」というような言葉だろうか。日本中どころか世界中がこの言葉に沸き立つ。あの残虐非道な日本人人質殺害の映像のあと、これはもう批判を許さぬ絶対性を帯びているかのようだ。しかし私達は今一度考える必要がありそうだ。絶対的正義に溢れた言葉の背後にある危険な徴候を。
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 そしてここから話は変わるが、言葉・表現と言えば、これも大きく世界を揺るがしたフランス「シャルリー・エブド」事件があった。風刺週刊誌を発行している本社に、武装犯人が突入し、12人もの人を殺害した。もちろん殺害行為は絶対許されるものではない。そして周知のようにこの事件の後、フランスでは各国首脳も参加した数百万人規模のデモが行われた。テロに対する非難と共にもう一つの目的は「表現の自由を守れ」というスローガンの下にであった。しかしまた同時に、イスラム諸国では、いかに表現の自由とは言っても、自らの宗教にとっては絶対的存在であるムハンマドに対する冒涜や侮蔑は絶対に許さないという大規模なデモも各地で起こった。

 表現の自由はどこまで許されるのか、という大きな問題が生じたが、新聞の論調を見ても、もうひとつ歯切れが悪く、では何が正解なのか、結局どうすればよいのかは誰も答えられぬままやり過ごされている気もする。

 「表現の自由」…この古くて新しい問題は日本でもさんざんに論議されてきた。古くは右翼少年が出版社の社長夫人らを殺傷した深沢七郎の「風流夢譚」事件があった。或いは筒井康隆「無人警察」を巡る断筆事件、そして差別語や言葉狩りの問題、少し前には天皇の戦争責任を述べた長崎本島市長の襲撃事件などもあった。いずれも問題の本質は同じである。

 表現の自由は大切である。でもどこまで許容されるのか。これについては、先のシャルリー・エブド事件に関して、生徒の意見を聞いてみた。二つのデモの写真と解説を提供した上での意見である。
■私は「表現の自由」とは言ってもやり過ぎだと思います。確かに「表現の自由」は大切な権利の一つだとは思いますが、人の思想(どんなことを思うか、信じるか)や人の人格を否定するような表現は「自由」とすべきではないと思います。そのような「自由」が認められてしまうと「思想・信条の自由」が侵されることに繋がってしまうと思うからです。私がいつも思っている事は、人それぞれの価値観、生き方などが自分の考えとは大きく違っていても、それは「間違い」ではなく、むしろそれで良いと思っています。大切な事は、それを認め、受け入れる事だと思います。これを叶えることは難しいですが、そんな人が一人でも増えてほしいです。
■表現の自由を守るべきであると思う。なぜなら、表現の自由を封じ込めてしまったら一種の弾圧になってしまうのではないかと思う。もしその表現に反論があるのであれば正当なデモで抗議すべきで、テロや殺人などで言論や表現を弾圧することは許されないことであると思う。また過剰な表現を法で取り締まることも国によって行われる弾圧であり、法によって過剰か過剰でないかを決定することは非常に難しい事であると思う。表現の自由を守る為には、表現する側の意識を高めることが重要であると思う。またこのようなテロが起こらないようにイスラム国にテロ対策をさらに厳重にしていくことが重要なのではないのかと思う。

 相反する意見で真っ二つのように見えるが、実はクラスの生徒の大半は最初の意見とほとんど同じである。二つ目のように表現の自由は何よりも大切だという意見はほとんどない。つまり生徒の意見はある意味極めて常識的である。多分世論調査をしても同様の結果になるだろう。そして単純に言えば、これ以外に実は正解はないと思われる。表現の自由はもちろん大切だ。どこかの国のように言いたいことも言えない、政府や首脳の批判をすればすぐ逮捕されたり、投獄されたりするのは全く好ましくない、しかし、誰かがとても大切にしている神や人、あるいはモノを冒涜したり嘲笑するのはやっぱり不適切だ、表現の自由を逸脱しているという考えである。

 もちろんこれについては直ちに反論が為されるであろう。つまりいつの時代でも時の権力者や政権による言論封殺・弾圧はこのような理屈からなされるというものである。「何を言ってもいいということにはならない」「言っていい事と悪い事がある」という理屈は容易に「批判的な言動は許さない」という理屈に転化してしまうということである。すぐに言論弾圧に利用されるということである。言論の自由は大切だと言いながら、自分たちへの批判、自分たちに都合の悪い批判はすぐに取り締まって言論弾圧に至る歴史は掃いて捨てるほどある。いや今だって世界中に当たり前のように存在している。この日本だって同様なものだ。そしてまた弾圧は必ずしも支配者や権力によってされるだけではないという問題もある。今回のシャルリー・エブド社への事件を厳しく批判し、表現の自由の大切さを謳った日本の新聞社だって、もし天皇が同様に風刺されたら、すぐに態度を変えるだろうということはほとんど自明だからだ。仮に天皇を悪罵で誹謗・中傷して、その当人が右翼か誰かに襲われた時、非難の矛先はきっと犯人よりも襲われた方に向かうだろう。恐れ多くも日本の象徴だ。襲われても仕方のない部分もあったのではないかと。

 政権や権力者が弾圧する時に、それを批判するのはまだたやすい。しかしそれだけではなく、いわば「内部」「身内」から表現の自由に対する批判がわき起こるだろう。だから本当に表現の自由を守るのは難しい。そんな状況すら容易に想定されるのだから、まして、先に述べたような理屈で表現の自由を規制したり、自制したりするのは極めて危険である。
 だからこうした論理の孕む危険性や言論弾圧に反転する可能性を充分認識するのならば、やはり徹底的に表現の自由を守り抜くのが正しいという意見もあるだろう。表現の自由に対するいかなる弾圧にも断固として反対することだ。もちろん言葉の持つ暴力性も認識した上で、やっぱり表現の自由は最も至高の価値であると考えそれを守り抜くことこそ大切だとする考えである。今回の風刺画も別にムハンマドに対する無分別の冒涜ではなく、いわばフランスの風刺画という伝統と歴史を背負った一つの表現方法だとあくまで主張し、こうした表現が許容されている社会や国家こそ、逆にありとあらゆる宗教や社会・民族に寛容で開かれているのであるとする考えである。長い歴史的闘いを経てやっと勝ち取った表現の自由ほど貴重なものはないと。

 多くの人はこの二つの主張の間で揺れているというのが本当の所ではないだろうか。表現の自由は大切、でも何を言ってもいいとは思わない、でもそれを言えばたやすく表現の自由は弾圧される、パリのデモも分かるが、イスラム諸国の人々のデモの心情も理解できる、どっちも大事、どっちも正しい・・・・。こうした葛藤が、先に述べた、この件に関する多くのマスコミの何となく歯切れの悪い論調になっているのだろう。

 さてどちらが正しいのか、私達はどうすべきなのか。
 この難問を考えるのに資する意見が一つある。それは朝日新聞に掲載された作家・評論家の高橋源一郎の言葉である。高橋は言う。

「……やはりイスラム過激派によるテロがフランスで起こった。『預言者ムハンマド』の風刺画を出した週刊紙『シャルリー・エブド」編集部が襲撃され、十数人が亡くなった。『表現の自由』が侵害されたとしてフランス中が愛国の感情に沸き立つ中で、フランスを代表する知の人、エマニュエル・トッドは、インタビューにこう答えた『私も言論の自由が民主主義の柱だと考える。だが、ムハンマドやイエスを愚弄し続ける〈シャルリー・エブド〉のあり方は、不信の時代では、有効ではないと思う。移民の若者がかろうじて手にしたささやかなものに唾を吐きかけるような行為だ。ところがフランスは今、〈私はシャルリーだ〉と名乗り、犠牲者たちと共にある。私は感情に流されて、理性を失いたくない。今、フランスで発言すれば、〈テロリストにくみする〉と受けとめられ、袋だたきに遭うだろう。だからフランスでは取材に応じていない。独りぼっちの気分だ』」
(中略)
 襲撃事件から数日後、『二十世紀のもっとも偉大な風刺漫画家』ともいうべきアメリカ人ロバート・クラムのインタビューが掲載された。彼は四半世紀にわたってフランスに住んでいたのだ。 クラムは、ことばを慎重に選びながら、『表現の自由』を守れと熱狂するフランスへの静かな違和を語った。『9・11の同時多発テロの時と同じだ。国の安全保障が最優先され、それに反するものは押しつぶされるのだ』『それで、あなたは何をしているのですか?』と記者は重ねて訊ねた。『わたしは(風刺)漫画を描いた。ひとりの臆病な(風刺)漫画家としてね』クラムは『意見』を述べるのではなく、漫画を描くことを選んだ。クラムが描いたのは、クラムらしき人物が申し訳なさそうに『ムハンマドの尻』と題された風刺画を抱えている画だった。『シャルリー・エブド』の漫画家たちがムハンマドの顔を描いてイスラム教徒を挑発したことを逆手にとった画だった。しかも、その尻の持ち主ムハンマドはクラムの友人の名前だった。そこで風刺されているのは、クラム自身、あるいは、この状況の下で右往左往する人びとすべてであるように思えた。周りの熱狂から取り残されて、クラムの画は『独りぼっち』に見えた。だが、風刺とは、自分自身さえ例外にせず、あらゆる熱狂を冷たく笑うことだということをクラムは知っていたのだ。」 

 高橋の意図する所とは違うかもしれないが、ここには先の問題を解く鍵があると私には思える。

 私達はどう考えればいいのだろうか。

 私達はまず「表現の自由」なる概念がこの上ない崇高な価値を持つという呪縛から解放される必要があると思われる。誤解を恐れず言えば、それが言葉であろうが、絵画であろうが、まず「表現」「表現すること」などは数ある価値のただの一つに過ぎないことを知るべきであると思われる。私達は「表現の自由」という、理念の下で、それを錦の御旗にして、何かを述べること、何かを主張すること、或いは自分の意見を述べることは何か素晴らしいもののように思っている。でもよく考えれば何かを表現することというのはそんなにいいことなのだろうか。換言すれば、表現することは、表現しないことより本当に勝っているのだろうか。

 よく考えれば、表現するということは、人間や動物にある多くの行為の内の全く一つにすぎないと思われる。それは食べることや寝ることや排泄することと全く等価なのではないか。言語表現なるものはたまたま幸か不幸か人間に与えられた奇妙な技〈テクニック〉の一つにすぎないのではないか。

 当然反論があるだろう。人間が喜怒哀楽の感情や、或いはあらゆる叡智を総動員して作り上げてきた思想を表現しようとするのは極めて当然であり、極めて優れた人間の営為であり、それを表現しようとする所にいわば他の動物と隔てる価値があるのだと。本当にそうだろうか。むしろそうした感情や思考を表現しないことの方が本当はずっと価値があるのではないだろうか。少なくとも表現することと等価ではないのだろうか。私達はひょっとしたらそういう極めて常識的なことを忘れているのではないだろうか。 私は、今回のフランスで行われたデモや言説に最も欠けているのは、「表現」や「表現の自由」などということはそんなに大したことがないのだというその理念だと思う。こんなことを言えば、全くの反動だと厳しく批判されるだろうが、そういう気がする。何かを感じ、何かを考えた時、身体や心の内部にわき上がる何物かを、特に表現せずそのまま一人で噛みしめることもまた一つの大きな価値なのだ。いわば「沈黙」することだ。今回のデモにも、もちろん「テロリスト」達にもそうした考えが決定的に欠落している気がする。

 更に言い切ってしまえば、ある言論・言説に対する最も有効な、そして唯一の手段は実は語らないことだ。「表現」の反対語は「沈黙」に他ならない。

 先の生徒の意見にもあったが「ある表現に反論があるなら、それは暴力ではなく、表現やデモで応じるべきだ、言論には言論で応じるべきだ」という意見は極めて一般的だ。一見尤もらしい正論に聞こえる。しかしこの意見がどこか空疎な響きを持つのは(表現の自由に反対するデモを誘発してしまうのは、時には極端な方法としてテロを誘発してしまうのは)、どこかで、「表現の自由」を至高の価値として無条件に肯定している陥穽にはまっているからであると思われる。

 繰り返すが、表現に対抗しうるのは無・表現である。つまり沈黙である。それは戦争に対する究極の対抗措置が非暴力であることと同じである。なんだインドのガンジーじゃあるまい、何をいまさら不服従の非暴力などを持ち出すのかと失笑する声が漏れそうな気もする。しかしよく言われるように(月並み過ぎて言うのも気が引けるが)、暴力に対して暴力をもってするのはどこまで行っても当然解決はない。それは暴力の連鎖以外の何物をも産みはしない。一人のテロリストを殺してもテロはなくならない。むしろそれは二人のテロリストを生むというのはどれだけ陳腐と言われようがどうしようもなく正しいことである。暴力や戦争がそうであるならば当然表現だって同様である。表現の自由を至高の価値とし、それを盾にあくまでも自己の主張を貫こうとするならば、それは必然的にそれに対抗する表現の自由(それは時として暴力の形をとる)をひき起こし、いわば武力を以て武力を制す戦争のように終わりのないものになる、そして戦争と同様の悲劇が生じる。

 しかし、再度、誤解のないように言えば、ではおまえは誰かに何を言われても一切反論しないことが一番いいと言っているのか、戦争だって無抵抗ならば征服されるされるだけではないか、人は反論すべき時は反論すべきだし、戦うべき時は戦うべきなのではないのかというような意見を否定しているわけではない。様々な言語的暴力に対してひたすら傍観せよ・沈黙せよと言っているのではない。反論やデモに価値がないと言っているのでもない。

 黙ることは戦わないことと同様に服従を意味しているわけではない。ある表現に対して望むならば徹底的に反論すればよい。ガンジーは不服従の絶対平和主義だ。どんな反論をどれだけしたった構わない。いやむしろすべきだとも思う。

 しかしそれは少なくとも「表現の自由」なんて大したことのない価値だという思いを噛みしめながらするべきなのだ。その前提がある時だけ有効性を持ち、また許容されるべきなのだ。

 初めの中島の事にもどろう。中島は最初に言ったように時に駅の公共放送が気に食わず駅員に噛みつくという。また彼は近親者の冠婚葬祭さえ行かない、それどころか妻と子どもともうまくいかないと正直に言う。しかし同時にまた中島は常に言うのだ。そうした自分がいいとは少しも思っていないと。他人を責めるよりは、むしろ自分にいつでも非があると思っていると中島は何度も述べる。善意の押し売りや好意で人の心に土足で入ってくることに激しい嫌悪を感じると共に、そういう自分もまたひどくダメだと自覚しているのだ。自覚した上で彼はそういう態度をとるのである。

 表現の自由もまたそういう位相で考えるべきことだ。

 表現の自由は大切だ。私だって言いたいこと?が自由に言えない社会はいやだ。何でも言える社会の方がイイに決まっている。けれども先の考えを失念した表現の自由は、逆にたやすく足をすくわれる。

 「表現しない自由」或いは「沈黙」の価値を忘れた「表現の自由」はそれこそ「不自由」への一里塚だ。自由を謳えば謳うほど不自由になる自家撞着に必然的に至る。

 「絆」の大合唱、「私はシャルリーだ」の大合唱。これらの声の届かぬ所で発せられる沈黙の言葉に対して耳を傾けること、少なくとも耳を傾けようとすること、これのみが表現の自由を表現の自由たらしむる唯一の道だと思う。

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