思うこと

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本を読んで 「弱者はもう救われないのか」(香山リカ)

2014年07月23日 22時37分43秒 | 日記

 著者が精神科医の香山リカで、題名がこういうものだから、内容は推察出来るものであるが、それでもこの本を購入したのは、やはり自分だって多少なりとも彼女と問題意識を共有しているからだ(無論レベルは全く異なるが)。香山リカはあちこちで活躍しているが今や貴重な〈古典的左翼進歩主義者〉として奮闘している。その言説は昨今の風潮からは批判も多いだろうが、私自身はもちろん嫌いではない。だからこうして感想文も書く。

 その問題意識だが、それはもちろん予想されるものである。もうあまりにも言われ尽くして、なにを今更という感もするが、もちろん昨今の「格差」「貧困」「持てる者、持たざる者」「非正規雇用」「就職難」「ブラック企業」「使い捨て」「生活保護」・・・etcで、表される現在の日本の社会状況の中で、拡大・再生産され、呻いている「弱者」はどうしていくべきなのかを考えたものである。結論は行きすぎた競争主義・新自由主義・経済のグローバル化などからの転換をはかることを提言していくのだろうと当然思われたし、彼女の精神科医としての視点を最大に生かしながら、そうした社会状況からの脱却を説くのだろうと考えていた。もちろんそうした側面に切り込んでいるのは確かであるが、本を読んだ印象は最初の予想とかなり違った。香山リカは「弱者救済」をこの本の中で極めて愚直に考えている。えーっと思うぐらいくそ真面目に考えている。

 最初に彼女は現在の格差社会の到来と新自由主義的な考えの蔓延の背景について大まかな分析を行っている。

 彼女が言うように、戦後日本の社会は自民党の長期政権であったが、誰しもが指摘するようにそれはかなりの程度に「社会主義的」であったことは間違いない。比較的日本社会は平等性が保たれ、貧富の格差が諸外国に比べれば相対的に低いものであった。富が持てる者から持たざる者へ還元するようなシステムは高度成長社会を背景に長期保守政権の中でかなりの程度実現していた。少し前までの日本の社会の典型的なスローガンは「一億総中流化」であった。それはそんなに昔の事ではないし、確かにこの言葉は日本社会の正鵠を射たものに違いなかった。9割以上の国民が自分は中流だと思っていたのは事実に違いない。そしてまた社会制度的にも思考的にも社会的弱者は救われて当然という考えも相当な程度普遍化していた。しかしそうした社会や考えは今や危機に瀕している。一体どうして変化してきたのか。

 まず思考の変遷過程の端緒として彼女が取り上げるのは、小泉政権下、イラクへの自衛隊派遣が実施された頃、たまたま現地で人質になってしまった3人の若者に対しての「危険地域に勝手に行ったのだから、それは『自己責任』だ、税金を使っての救助活動は許されない」などの声の高まり、また北朝鮮での拉致被害者の帰国の際に全員帰還を実現できなかった小泉首相への家族会の批判に対して浴びせられた「家族会は、自分たちを一体何様だと思っているのか」という世論のバッシングなどである。この辺を起点として、「自己責任」や「自助」の声が高まり、そして中国や韓国との領土問題を契機にしながら、現在のいわゆる「強者の論理」が席巻していく。自分も「新流星」の文章で何度も触れたが、声高なモノの言い方はとどまることを知らない。大新聞も含めて「誇りある日本」「自己責任」「自助努力」の大合唱である。つい最近の原発再稼働・特定秘密保護法案、そして集団的自衛権の決定に至るまで確かにひとつの流れに違いない。諸外国になめられるな、日本は世界で最高の国、積極的平和主義、生活保護の不正受給を許すな、外国人は出て行け、全て民間力・・・この手のスローガンのオンパレード。本屋へ行けば「韓国はこんなにひどい国」「中国の愚かさ」、こんな本ばっかりが売り上げベスト10を占めたりする。今や韓国や中国と仲良くしようなどと迂闊に言うのも袋だたきに合うような時代となった。信じがたいと言えば信じがたいステージになった。

 そして香山はこうした風潮を生んだ背景として、リオタールの「ポストモダンの時代」の影響を挙げる。ポストモダン時代への到来として「大きな物語」の凋落がある。リオタールは今までの大きな物語として「政治的、実践的な『自由主体』『人間の解放』の物語」と「哲学的、思弁的な『精神の弁証法』メタ主体としての『知の体系』の物語」などをあげているとする。こうした思想に影響を受けた香山は、それを受けて80年代に日本でもニューアカデミズムとして一斉を風靡した「中心のない考え」、リゾーム的な発想こそこれからの指針であると無邪気に信じていたと正直に告白している。それこそ浅田彰の「逃げろや逃げろ=逃走論」である。「軽やかな疾走」に酔いしれていたといってよいか。正直自分だって意味も分からず同じような雰囲気に染まっていたのは否めない。香山の実感はとてもよくわかる。

 そして、2000年代になってからの「社会的弱者は自己責任の結果」「稼げない人を救う意味はない」という声が大きくなった一つの原因として筆者はリベラル派知識人の責任を挙げる。湾岸戦争ではかの有名な文学者の声明が発せられたが、それ以後彼らは、「軽やかに個別の活動」を再開し、そして「沈黙する」。大きな物語の終焉はこれも有名なフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」によってだめ押しされる。その反面「新しい歴史教科書とつくる会」と小林よしのりによる「戦争論」などが「誇りと自信を取り戻す新しい物語」として語られ始める。阪神大震災、オウム事件などを社会的不安を背景として、先の考えは大きな力を持ち始め、現在に至って、ますますその力を強めている。一定リベラル派知識人の責任は免れない、と香山はこの間の状況を鳥瞰的にまとめながら批判する。もちろん香山はこれがかなりの図式的な要約であることを承知した上で述べているだろうが、大筋で認めるにしてもちょっとそれはどうかなという気がしないわけでもない。
多分現在の「しんどさ(勿論人によっては・・・である)」は、例えば原発・嫌韓嫌中・特定秘密保護法案・集団的自衛権行使にしても、それらに反対する声「原発は根源的に危険」「日本が戦争に巻き込まれる」「いつかきたあの道」・・・といくら声を上げてもほとんどなし崩し的に否定されてしまうことである。これらの問題については反論は言いにくくなりつつあるが、別に言論が戦時中のように完全に封殺されているわけではない。しかし大新聞が反特定秘密保護法案、反集団自衛権のキャンペーンをいくらやろうが、あちこちでそれらに関するデモがいくら行われていようが、それらの声はほとんど砂に埋もれたごとく国民的運動にはならず、次々と先の政策が決定されていることである。この無力感であろう。民主主義的制度には違いない選挙においても空しく敗れていることだろう。これはどう見ても知識人達の責任に帰すような問題ではない。いわば国民が内在的に選び取っている。しかも国民の民度の低さを言いたいがそれは禁句・・・これこそ現在の状況に違いない。

 これによって現在、この日本でも「社会的弱者を救おう」という声は益々弱っている。アメリカのように富裕層がもはや貧困層に関心すら払わないような状況になりつつあると彼女は指摘する。

 さてこれをどうするかであるが、ここから後が、一番最初に述べた香山の独自性であり、ちょっと私がびっくりした点である。
香山はまず上野千鶴子の、例えば社会的弱者のある意味代表である高齢者に対して「なぜ高齢者をケアするのか?この問いは、実はおそろしい問いである。なぜなら、それを正当化する根拠が、実のところ、与えられていないからである。」の言葉を引用しながら「そもそもなぜ救わなくてはならないのか」を考えていく。この問いを片方で念頭に置きながら、そして「救う理由」と「救う方法」を考えていく。

 社会的弱者を社会全体で支えるべきという発想はヨーロッパではもちろんキリスト教人道主義によるものが大きい。それが世界中に広まっていくとき、宗教的要素は薄まっていくが、それは今度は「ヒューマニズム」として人々の間に広まり、弱者救済の基本的概念となる。また別にキリスト教でなくても多くの宗教にはこうした精神が宿っている。さらに国家の制度としては、例えば福祉国家は「憲法」により弱者救済の理念を打ち立てられている。もちろん日本国憲法もその一つである。しかし宗教的要素が希薄化していく時でも果たしてヒューマニズムの思考は可能なのかという疑問が生じる。宗教的バックボーンのないヒューマニズムは果たして存在し得るものなのかという疑念が生じる。

 ヒューマニズムでなければ、それは例えばフロイトでいうところの「超自我」の作用としても考え得るとも作者は言う。他人の存在を第一義に考えていくのは確かに「超自我」によるものに違いない。

 また別の考えとしては、社会的弱者を救うことを功利主義の面からとらえる方法があるとも言う。つまり良く言われるように社会的弱者を放置するより、社会全体で抱える方が結局のところ、コストの面でも社会には利益をもたらすという考えからの救済である。例えば社会的弱者をダメと烙印を押して排除するよりは、保護して社会に抱え込むようにしていく方がトータルに見れば社会全体に利益をもたらすという考えである。

 この考えは現在かなり一般的であると思う。私も「弱者救済」の理由としては真っ先に頭に思い浮かぶ。というかこれぐらいしか根拠はないのではないかとも思う。社会的弱者を切り捨てるより助けてあげるほうが絶対社会は安定する。切り捨てることによりむしろ社会的不安は増し、そちらの方のコストの方が高く付く、だから手を差し伸べるべき・・・功利主義はかなり説得性があると思っていた。

 しかし香山は功利主義についても警告を発している。つまり「得をするから弱者を救う」という姿勢は同時に「得をしなかったら救わない」という論理に常に反転する危険性があるからだ。「ウインウインの関係」はいつも存在するとは限らないと彼女は言う。

 こうしたベンサムやミルに端を発する功利主義からの救済の難しさを考えて、更に彼女は様々な救済の原理を探っていく。
 生まれつき所与の条件を全て取り払う「原初状態」の人間を考えるロールズの正義論―すなわち出自・背景・家族関係など何もない状態で選択できることこそ正しい―というような考えを検討してみたり、マイケルサンデルの「共通善」を軸に考えていく方法を検討してみたり、あるいは福祉は資本主義の発展に見合うものだという視点からの福祉国家論からのアプローチ、さらには最近よく聞くある意味究極の〈ばらまき〉であるところの「ベーシックインカム(BI)」の政策を考えたりしながら、弱者救済の根拠と方法をひとつひとつ丹念に検討していく。

 しかしいずれも方策もその有効性は認めるにしても、それに付随してやはり新たな問題も生じ、究極的な弱者救済の決め手にはなるのは難しいという側面も、彼女は同時に指摘している。

 そうした思考過程を経た香山リカが最期にたどり着くのは―これがまあ少々驚くのだが―次のような考えだ。

 つまり「弱者を救う必然はない、それは自己責任であり、自分自身で何とかすべき、それが出来ないのなら潔くあきらめるべき」というような声は昔からあり、近年その声は非常に高まっている印象もあるが、同時にそれでも「弱者を救うべき」という声もまた昔から存在し、そしてそれは現在でも―そして多分未来も―決して消えゆくことはないということである。確かに私たちは例えば東日本大震災でその光景を見たし、別に震災でなくてもそうした風景は日常の至る所にころがっている。そして彼女はそこから「私たちはきっと、本当は積極的かつ自発的に弱者を救いたいのではないだろうか」という、ある意味、極めて単純な地点にたどり着くのである。あんなに緻密に様々な論理を考えた果ての結論がこれかよと、一瞬思うが、しかし彼女が最期に弱者救済の根拠にするのはこうした地点である。

 もちろん香山は自身のこうした結論がどういう意味を持つのかは充分認識した上で、「あっけない」ような倫理でこの本を締めくくっている。

 なんだこんな他愛のない理論、小学生じゃあるまい・・・と一笑に付すのは簡単だ。しかし私自身はこの香山の「渾身」の思考にいたく共感するものだ。

 弱者救済の理由と根拠、そしてその方法、ハンナアーレントではないが、「見ず」に「考えず」に済ます罪は大きい。当然自らの問題である。「それはいずれ自らにふりかかる」のはいかに通俗的な物言いであるとしても、やはり事実に違いあるまい。
 私たちはやっぱり香山リカほどではないにしても、もう少し真面目に考えるべきであるようだ。

(おまけ)
マンガを読んで
「進撃の巨人」(諫山 創)

 話題のマンガ「進撃の巨人」を読む。現在13巻まで発刊されている。同僚の先生からまとめて借りて読んだ。1回読んでも登場人物やストーリーがよく分からなくなり、もう一度読むとかなり分かった。話の内容は簡単なような複雑なようなよく分からない感じ。

 ストーリーはもちろん知る人ぞ知るだが(当たり前)、人類は、突如出現した天敵「巨人」により滅亡の淵に立たされた。生き残った人類は、三重に築かれた巨大な城壁の内側に生活圏を確保し、なんとか暮らしている。しかしやたらデカイ「超大型巨人」が出現して、最外壁は壊され巨人が攻めてくる。巨人は人間を喰う(捕食する)。主人公は巨人と戦う武装集団の少年少女達。抜群の戦闘能力を持つ「ミカサ」と「エレン」は他の仲間達と共に巨人と戦う。しかし何とエレン自身が巨人化する。そしてまた仲間の何人かも巨人であることが判明する。

 巨人とは一体何物なのか?どこから来た?人類は巨人に勝てるのか?城壁の町の中に実は隠されている秘密とは何なのか、なぜエレンは巨人になれるのか?全ての秘密が込められているであろう室には一体何が?

 現在13巻で多くの謎はこれからだろう。別にネタバレと言うほどではないが、巨人はやはり人間に他ならないのは大体自明のようだ。これからどう結論づけていくのか楽しみと言えば楽しみ。また続刊が出たらすぐに買って読もう。

 ところでここで書きたいのはその話の内容の感想ではなくて、いわば巨人そのもの。

 誰が見てもそうだと思うのだが、人類を捕食する巨人はまあ何とユーモラスな顔と体型をしている。一体これはなんだろう。何だって作者はこんな愛嬌ありすぎる人類の敵=巨人を造形したのか、なんかどっかで見たような懐かしいようなその顔。その反面巨人化したエレンやユミルの「ぶさいく」さはもうちょっと何とかならないのかなあと思う。人間の姿の時はかなりいい顔なのに。
巨人でも「女形の巨人」はやたら色っぽい。なかなかいい…。

 ストーリーも面白いけれど巨人の顔もとても面白い。以上。

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