毎年思うことだけど、一年なんて過ぎてみるとはやいもの。
昨日から、もう12月。
師走に入り、外の寒さは増すばかり。
しかし、年末の商戦は加熱し、街は賑いを増している。
多くの子供達は懐があたたかくなり、逆に、私のようにボーナスがない大人達の懐は寒くなる季節である。
こんな季節は風呂がいい。
懐は温まらないけど、身体は芯まで温まる。
私は、そんな風呂が好き。
汚仕事に従事しているからではなく、もともと子供の頃から好きである。
晩春から初秋にかけての暑い季節はシャワーだけで済ませる。
今のような寒い時季は湯につかる。
それも、ゆ~っくり。
汗がダラダラ流れるまでつからないと、気が済まないのだ。
汗を流すのが好きでも、サウナはかなり苦手。
一分たりとも入っていられない。
あの乾いた熱さには、恐怖心すらおぼえる。
フツーの人なら、夏のサウナ状態の汚部屋のほうが恐いかもしれないけど、私は本物のサウナのほうが恐いのだ。
基本的に、私は晩酌の前に風呂に入る。
汚れた身体で晩酌しても落ち着かないし、酒を飲んだ後だと心臓がバクバクしてゆっくり湯につかれないから。
ただ、いつものんびり湯につかっていられるわけではない。
因果ある仕事をしているものだから、いつ携帯電話が鳴るかわからないのである。
だから、浴室扉のすぐ前にはタオルと携帯電話が置いてある。
鳴る電話をすぐとれるようにしてあるのだ。
当然、入浴中に電話が鳴ることもあり、滅多にないけど、風呂上りに現場に急行なんてこともある。
これには、なかなかの辛さがある。
そんな時は、怒り・苛立ち・怠け心と、責任感・義務感・使命感が内なる戦いを繰り広げるなかで、仕事に出かけて行くのである。
出向いたのは、公営の大規模団地。
その中の、ある棟のある部屋が現場だった。
亡くなったのは高齢の男性で、依頼者はその娘である女性。
女性とは建物の下で待ち合わせた。
玄関を入ると、室内には浴室腐乱独特の異臭が充満。
それは、居室死亡腐乱に生臭さをプラスしたような不快臭。
室内には、女性も一緒に入ったものの、女性は浴室には近づかず。
「一度見た」「もう見たくない」とのことで、浴室は私一人で確認。
浴槽の淵や壁面には、頭髪や皮は付着。
四角い浴槽には、その下に茶色い液体がたまり、その表面をやや黄色がかった透明な脂の幕が覆っていた。
また、その周辺もグロテスクな色調に侵されていた。
部屋は、掃除らしい掃除も、洗濯らしい洗濯もできておらず。
年配男性の独り暮らしにはよくあることで、部屋には、相応の生活汚染があり、また、結構な散らかりようだった。
女性は、たまにここに来ては、家事や故人(父親)の身の回り世話をしていた。
だが、自分には自分の生活があり、頻繁に来れるわけはなく、結果的に、荒れた部屋になってしまっていた。
目立ったのは、台所の隅に積まれた四角い箱。
そこには、かなりの数のそれが積み上げられていた。
表の印刷をみると、どうもワインの箱のよう。
ひとつを開けてみると、中は瓶ではなくビニールバッグ。
それは、何リットルも入りそうな大きなもの。
プラスティックボトルの焼酎や紙パックの日本酒もあるけど、“酒は瓶か缶”と勝手な固定観念を持っていた私は、
「へぇ~・・・こういうかたちもあるんだ」
「環境にとっても財布にとってもエコだなぁ」
と、妙に感心した。
昔の故人は、日本酒とか焼酎等の和酒を好んで飲んでいたよう。
ところが、数年前から急にワインを飲むように。
たまたま飲んだワインがバッチリ口に合ってしまったのだろう。
それからの故人は、ワインばかりを飲むように。
始めは瓶で買ってきていたが、それではキリがなくなり、そのうちバッグで買うように。
私も、酒を飲むようになってしばらくしてから“にごり酒”の味を知り、それが好物になり、また近年、ウィスキーの味を知り常飲するようになったクチ。
だから、故人の嗜好の変化が他人事とは思えず、何とも言えない親しみを覚えた。
一人酒って、気楽な面もあれば、つまらない面もある。
寂しいわけじゃないけど、酔うと話し相手がほしくなるもの。
故人は、酔うと女性に電話をしてきた。
ときには、女性の妹弟にも。
女性達は、時間があるときは話し相手をした。
が、忙しいときは、テキトーに聞き流し、話が終わっていないのに電話を切ってしまうこともあった。
「身体に悪いから飲みすぎないように」
が、女性の口癖となった。
しかし、
若い頃は好きな酒も我慢して、家族のために働いてきたわけだし・・・
妻(女性の母親)にも先立たれ不自由な生活をしているし・・・
限られた年金で他に贅沢なことができるわけでもないし・・・
老い先もながくないだろうし・・・
・・・女性はそんなことを思い、故人に対して酒を控えるよう強くは言えなかった。
・・・そして、漠然とながらも、こういう日がくるかもしれないことも覚悟していた。
汚腐呂掃除には、必要な心得がある(私が勝手につくった)。
一、自分の手は道具だと思うこと。
一、我慢せず声をだすこと。
一、固形物はお客さんだと思うこと。
一、浴槽の底を見るまでは休憩を入れないこと。
一、掃除後の風呂でも入れないと思う自分を許すこと。
私は、自分にしか効かない心得を胸に、汚腐呂との格闘をスタート。
ときに奇声をあげ、ときに悲鳴をあげ、また、ときにうめき声をあげながら作業を続けた。
しばらくすると、私にとって最も使い勝手のいい“道具”は、浴槽の底にたまったヘドロのような物体に到達。
言わずと知れたこと・・・それは、故人の一部が溶けたもの。
そして、その中から、歯、毛髪、爪、小骨、皮・・・次々と色んな“お客さん”を取り出していった。
更に、私は、その中に固くて身体の一部にしては大きすぎるモノを二つ発見。
手にとってみると、ひとつは携帯電話、もうひとつはガラスのコップだった。
故人は、湯につかりながらワインを飲むのが日課だったのか・・・
そして、湯につかりながら子供達に電話するのが楽しみだったのか・・・
真相を知る由もなかったけど、ただ、故人とともに浴槽に沈んでいた携帯電話とコップは、何かを物語っているように思えた。
一連の作業を終えた私は、浴槽から拾い上げた携帯電話とコップを洗って後、ビニール袋に入れて女性に差し出した。
すると、女性は、それを受け取り、愛おしむように凝視。
そして、
「あっちの世界でワイン風呂に入ってたりして・・・」
「でもケータイ持ってってないんで、電話はしてこれないか・・・」
「ま、向こうには母がいるから大丈夫か・・・」
と、本気ともとれる冗談をとばして笑顔をみせた。
そして、それは、故人の孤独な死もその後の腐乱も、そして、一人の人間がこの世を去った寂しさも覆い、故人の死と私の心をあたたかなものにしてくれた。
ワインと風呂と携帯電話・・・
晩年の故人にとって、これは“至福の三点セット”だったのかもしれない。
確かに、故人の死に痕は、目を覆いたくなるほど、また、鼻を覆うほど凄まじかった。
だから、腐乱死体現場は、どこで起こっても忌み嫌われ、どう亡くなっても恐れおののかれる。
しかし、そんなことは、身体を置いて逝った故人には関係のない話。
世間は孤独死を悪にしたがる?けど、私は、それに違和感を覚える。
だって、孤独死は悪ではないのだから。
そもそも、死なんて孤独なもの。
そして、孤独は、寂しくて冷たいものとは限らない。
寂しさのない孤独、あたたかい孤独だってある。
私は、
「楽しみながら逝ったんなら、それでいいじゃん・・・」
と、目に見えるものが朽ちていく自然の理と、その後にも残る目に見えない命の理に微笑んだのだった。
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昨日から、もう12月。
師走に入り、外の寒さは増すばかり。
しかし、年末の商戦は加熱し、街は賑いを増している。
多くの子供達は懐があたたかくなり、逆に、私のようにボーナスがない大人達の懐は寒くなる季節である。
こんな季節は風呂がいい。
懐は温まらないけど、身体は芯まで温まる。
私は、そんな風呂が好き。
汚仕事に従事しているからではなく、もともと子供の頃から好きである。
晩春から初秋にかけての暑い季節はシャワーだけで済ませる。
今のような寒い時季は湯につかる。
それも、ゆ~っくり。
汗がダラダラ流れるまでつからないと、気が済まないのだ。
汗を流すのが好きでも、サウナはかなり苦手。
一分たりとも入っていられない。
あの乾いた熱さには、恐怖心すらおぼえる。
フツーの人なら、夏のサウナ状態の汚部屋のほうが恐いかもしれないけど、私は本物のサウナのほうが恐いのだ。
基本的に、私は晩酌の前に風呂に入る。
汚れた身体で晩酌しても落ち着かないし、酒を飲んだ後だと心臓がバクバクしてゆっくり湯につかれないから。
ただ、いつものんびり湯につかっていられるわけではない。
因果ある仕事をしているものだから、いつ携帯電話が鳴るかわからないのである。
だから、浴室扉のすぐ前にはタオルと携帯電話が置いてある。
鳴る電話をすぐとれるようにしてあるのだ。
当然、入浴中に電話が鳴ることもあり、滅多にないけど、風呂上りに現場に急行なんてこともある。
これには、なかなかの辛さがある。
そんな時は、怒り・苛立ち・怠け心と、責任感・義務感・使命感が内なる戦いを繰り広げるなかで、仕事に出かけて行くのである。
出向いたのは、公営の大規模団地。
その中の、ある棟のある部屋が現場だった。
亡くなったのは高齢の男性で、依頼者はその娘である女性。
女性とは建物の下で待ち合わせた。
玄関を入ると、室内には浴室腐乱独特の異臭が充満。
それは、居室死亡腐乱に生臭さをプラスしたような不快臭。
室内には、女性も一緒に入ったものの、女性は浴室には近づかず。
「一度見た」「もう見たくない」とのことで、浴室は私一人で確認。
浴槽の淵や壁面には、頭髪や皮は付着。
四角い浴槽には、その下に茶色い液体がたまり、その表面をやや黄色がかった透明な脂の幕が覆っていた。
また、その周辺もグロテスクな色調に侵されていた。
部屋は、掃除らしい掃除も、洗濯らしい洗濯もできておらず。
年配男性の独り暮らしにはよくあることで、部屋には、相応の生活汚染があり、また、結構な散らかりようだった。
女性は、たまにここに来ては、家事や故人(父親)の身の回り世話をしていた。
だが、自分には自分の生活があり、頻繁に来れるわけはなく、結果的に、荒れた部屋になってしまっていた。
目立ったのは、台所の隅に積まれた四角い箱。
そこには、かなりの数のそれが積み上げられていた。
表の印刷をみると、どうもワインの箱のよう。
ひとつを開けてみると、中は瓶ではなくビニールバッグ。
それは、何リットルも入りそうな大きなもの。
プラスティックボトルの焼酎や紙パックの日本酒もあるけど、“酒は瓶か缶”と勝手な固定観念を持っていた私は、
「へぇ~・・・こういうかたちもあるんだ」
「環境にとっても財布にとってもエコだなぁ」
と、妙に感心した。
昔の故人は、日本酒とか焼酎等の和酒を好んで飲んでいたよう。
ところが、数年前から急にワインを飲むように。
たまたま飲んだワインがバッチリ口に合ってしまったのだろう。
それからの故人は、ワインばかりを飲むように。
始めは瓶で買ってきていたが、それではキリがなくなり、そのうちバッグで買うように。
私も、酒を飲むようになってしばらくしてから“にごり酒”の味を知り、それが好物になり、また近年、ウィスキーの味を知り常飲するようになったクチ。
だから、故人の嗜好の変化が他人事とは思えず、何とも言えない親しみを覚えた。
一人酒って、気楽な面もあれば、つまらない面もある。
寂しいわけじゃないけど、酔うと話し相手がほしくなるもの。
故人は、酔うと女性に電話をしてきた。
ときには、女性の妹弟にも。
女性達は、時間があるときは話し相手をした。
が、忙しいときは、テキトーに聞き流し、話が終わっていないのに電話を切ってしまうこともあった。
「身体に悪いから飲みすぎないように」
が、女性の口癖となった。
しかし、
若い頃は好きな酒も我慢して、家族のために働いてきたわけだし・・・
妻(女性の母親)にも先立たれ不自由な生活をしているし・・・
限られた年金で他に贅沢なことができるわけでもないし・・・
老い先もながくないだろうし・・・
・・・女性はそんなことを思い、故人に対して酒を控えるよう強くは言えなかった。
・・・そして、漠然とながらも、こういう日がくるかもしれないことも覚悟していた。
汚腐呂掃除には、必要な心得がある(私が勝手につくった)。
一、自分の手は道具だと思うこと。
一、我慢せず声をだすこと。
一、固形物はお客さんだと思うこと。
一、浴槽の底を見るまでは休憩を入れないこと。
一、掃除後の風呂でも入れないと思う自分を許すこと。
私は、自分にしか効かない心得を胸に、汚腐呂との格闘をスタート。
ときに奇声をあげ、ときに悲鳴をあげ、また、ときにうめき声をあげながら作業を続けた。
しばらくすると、私にとって最も使い勝手のいい“道具”は、浴槽の底にたまったヘドロのような物体に到達。
言わずと知れたこと・・・それは、故人の一部が溶けたもの。
そして、その中から、歯、毛髪、爪、小骨、皮・・・次々と色んな“お客さん”を取り出していった。
更に、私は、その中に固くて身体の一部にしては大きすぎるモノを二つ発見。
手にとってみると、ひとつは携帯電話、もうひとつはガラスのコップだった。
故人は、湯につかりながらワインを飲むのが日課だったのか・・・
そして、湯につかりながら子供達に電話するのが楽しみだったのか・・・
真相を知る由もなかったけど、ただ、故人とともに浴槽に沈んでいた携帯電話とコップは、何かを物語っているように思えた。
一連の作業を終えた私は、浴槽から拾い上げた携帯電話とコップを洗って後、ビニール袋に入れて女性に差し出した。
すると、女性は、それを受け取り、愛おしむように凝視。
そして、
「あっちの世界でワイン風呂に入ってたりして・・・」
「でもケータイ持ってってないんで、電話はしてこれないか・・・」
「ま、向こうには母がいるから大丈夫か・・・」
と、本気ともとれる冗談をとばして笑顔をみせた。
そして、それは、故人の孤独な死もその後の腐乱も、そして、一人の人間がこの世を去った寂しさも覆い、故人の死と私の心をあたたかなものにしてくれた。
ワインと風呂と携帯電話・・・
晩年の故人にとって、これは“至福の三点セット”だったのかもしれない。
確かに、故人の死に痕は、目を覆いたくなるほど、また、鼻を覆うほど凄まじかった。
だから、腐乱死体現場は、どこで起こっても忌み嫌われ、どう亡くなっても恐れおののかれる。
しかし、そんなことは、身体を置いて逝った故人には関係のない話。
世間は孤独死を悪にしたがる?けど、私は、それに違和感を覚える。
だって、孤独死は悪ではないのだから。
そもそも、死なんて孤独なもの。
そして、孤独は、寂しくて冷たいものとは限らない。
寂しさのない孤独、あたたかい孤独だってある。
私は、
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と、目に見えるものが朽ちていく自然の理と、その後にも残る目に見えない命の理に微笑んだのだった。
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