過ぎてみればはやいもの、2012年も今日でおしまい。
冷たく乾いた空気が、世相を反映している。
それでも、大晦日の東京は、雲が多いながらも晴天に恵まれている。
例によって、私の仕事納めは今日。
世の中には9連休の最中にある人もいるようだが、ま、他人事。
他人を羨ましく思うけど、置かれた境遇を恨めしく思うけど、まだまだ楽させてもらっている感もある。
とにもかくにも、また一年が過ぎた。
無事でない現場を渡り歩きながらも、一年を無事に過ごせたことに感謝・感謝。
大晦日の今夜は、ちょっと贅沢した料理に舌鼓を打ちながら、不調の心身と相談しつつ酒を楽しもうと思っている。
例年のことながら、今年も色々あった。
変りばえのない毎日を過ごしているはずなのに、思い返してみると色々あった。
変りばえのない毎日を過ごしているはずなのに、何年も前には想像もできなかった今年があった。
今年も多くの人が亡くなった。
来年も多くの人は亡くなるだろう。
そして、いくつもの死に遭遇することになるだろう。
死は人につきまとう。
しかし、人は死を嫌う。
それでも“死”に高揚し、美を重ねる。
死は、恐いものである。
それでも、美しいものとする。
感動的な話の多くには、死が織り込まれている。
このブログがまさにそう。
人の死を織り込みながら、感動的に、かつ美しくまとめようとしている
そんなことに傾倒する私は、一体、何者か。
この夏、ひとつ年上の従兄弟が死んだ。
交通事故死だった。
「不幸中の幸い」と言っていいのか、自損事故で従兄弟の他に死傷者はいなかった。
その昔、同じ学校に通っていたわけではないが、盆や正月など、小学生の頃は年に何度か顔を合わせることがあった。
そして、一緒に遊んでいた。
しかし、中学にあがると会うことはなくなり、お互い様だろうが、そのうち、その存在さえも忘れていた。
そんな中での急な知らせ。
第一報は父親からの電話。
父は、少し興奮し、運転の多い私の身を案じてくれた。
事故のニュースはテレビでも流れた。
事故の概要と現場の映像、そして「運転手の男性は搬送先の病院で死亡が確認された」と。
・・・即死だった。
当日の朝、彼はいつも通り出勤したのだろう・・・
予定されていた担当業務に就いたのだろう・・・
自分の家に二度と帰れないなんて、露ほども思わず・・・
彼の死は、何の前ぶれもなく訪れた。
死のかたちは、老病ばかりではない。
いきなり、瞬間的に訪れることもある。
生は、人の未来を固めてくれない。
時は、人の事情を待ってくれない。
死は、人の力を酌んでくれない。
年がら年中、人の死に接している私でも動揺があった。
ただ、縁が薄かったこともあり、性格が冷たいせいもあり、特段の情や悲しみも湧いてこなかった。
が、今更ながら、生の儚さと人生の不確定さを感じさせられた。
さて、自分の死はどうか。
いつ、どういうかたちでやってくるのか、日々、考える。
そして、いつまでたってもあらたまらない生き方に悩む。
今年も、たくさんの死を扱った。
今年も、たくさん余計なことを考えた。
今年も、たくさん小さなことに悩んだ。
たいしたことはやっていないのに、たくさん愚痴った。
たいしたことはやっていないのに、えらく高ぶった。
たいしたことはやっていないのに、すごく疲れた。
今年一年、自分は何をやってきただろうか・・・
何を得て、何を蓄積してきただろうか・・・
ただ働き、ただ食い、ただ飲み、ただ遊び、ただ寝てきただけか・・・
それでも、今日、自分が生きていることには意味と理由がある。
自分が、その意味と理由を知らないだけで。
人は、ただ生きている、ただ生かされているだけではない。
楽観的な人、余計なことを考えない人、小さなことで悩まない人を羨ましく思う。
しかし、自分の中のどこかに、そのような人を見下している自分がいる。
そして更に、このように自分の偽善性や悪性を吐露する自分がいる。
善人にみられるために偽善者を自称する。
賢者にみられるために愚者を自称する。
自分を肯定するために自分を否定する。
小さなことに悩む自分を、真摯な人間に思うことがある。
自分をダメ人間と卑下する自分を、謙虚な人間に思うことがある。
弱く愚かな自分を嫌う自分が、実は好きだったりする。
そんな自分は何者か。
善い自分も悪い自分も、強い自分も弱い自分も、賢い自分も愚かな自分も、すべて自分。
認めたくなくても受け入れるしかない自分、赦せなくても認めるしかない自分、好きでもあり嫌いでもある自分。
ある意味で、人間は変われる。
しかし、ある意味で人間は変われない。
この自分でこの人生を生きていくしかない。
ただ、どうせ生きるなら、元気に生きたい、明るく生きたい、正しく生きたい。
寛容に、謙虚に、勤勉に、柔和で、笑顔で。
だから、そうでない自分の中に葛藤・苦悩・戦いが生まれる。
それらを頭に反芻し、文字に記し、心に刻む。
時間がすぎるばかりで進歩しない人生を、成長しない自分を諦めないために。
そして、まだ知らない自分を知るために、顔で泣いても心で笑うために。
かくして、つまらない自我自賛ブログかもしれないけど、くだらない自我自賛ブログかもしれないけど、2013年も書いていくつもり。
気の向くまま、細々とでも。
そして、社会の下にいながらも、社会の陰で働きながらも、上を向いて明るく生き抜くことを志すつもりである。
せっかく生きてるんだから。
公開コメント版
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冷たく乾いた空気が、世相を反映している。
それでも、大晦日の東京は、雲が多いながらも晴天に恵まれている。
例によって、私の仕事納めは今日。
世の中には9連休の最中にある人もいるようだが、ま、他人事。
他人を羨ましく思うけど、置かれた境遇を恨めしく思うけど、まだまだ楽させてもらっている感もある。
とにもかくにも、また一年が過ぎた。
無事でない現場を渡り歩きながらも、一年を無事に過ごせたことに感謝・感謝。
大晦日の今夜は、ちょっと贅沢した料理に舌鼓を打ちながら、不調の心身と相談しつつ酒を楽しもうと思っている。
例年のことながら、今年も色々あった。
変りばえのない毎日を過ごしているはずなのに、思い返してみると色々あった。
変りばえのない毎日を過ごしているはずなのに、何年も前には想像もできなかった今年があった。
今年も多くの人が亡くなった。
来年も多くの人は亡くなるだろう。
そして、いくつもの死に遭遇することになるだろう。
死は人につきまとう。
しかし、人は死を嫌う。
それでも“死”に高揚し、美を重ねる。
死は、恐いものである。
それでも、美しいものとする。
感動的な話の多くには、死が織り込まれている。
このブログがまさにそう。
人の死を織り込みながら、感動的に、かつ美しくまとめようとしている
そんなことに傾倒する私は、一体、何者か。
この夏、ひとつ年上の従兄弟が死んだ。
交通事故死だった。
「不幸中の幸い」と言っていいのか、自損事故で従兄弟の他に死傷者はいなかった。
その昔、同じ学校に通っていたわけではないが、盆や正月など、小学生の頃は年に何度か顔を合わせることがあった。
そして、一緒に遊んでいた。
しかし、中学にあがると会うことはなくなり、お互い様だろうが、そのうち、その存在さえも忘れていた。
そんな中での急な知らせ。
第一報は父親からの電話。
父は、少し興奮し、運転の多い私の身を案じてくれた。
事故のニュースはテレビでも流れた。
事故の概要と現場の映像、そして「運転手の男性は搬送先の病院で死亡が確認された」と。
・・・即死だった。
当日の朝、彼はいつも通り出勤したのだろう・・・
予定されていた担当業務に就いたのだろう・・・
自分の家に二度と帰れないなんて、露ほども思わず・・・
彼の死は、何の前ぶれもなく訪れた。
死のかたちは、老病ばかりではない。
いきなり、瞬間的に訪れることもある。
生は、人の未来を固めてくれない。
時は、人の事情を待ってくれない。
死は、人の力を酌んでくれない。
年がら年中、人の死に接している私でも動揺があった。
ただ、縁が薄かったこともあり、性格が冷たいせいもあり、特段の情や悲しみも湧いてこなかった。
が、今更ながら、生の儚さと人生の不確定さを感じさせられた。
さて、自分の死はどうか。
いつ、どういうかたちでやってくるのか、日々、考える。
そして、いつまでたってもあらたまらない生き方に悩む。
今年も、たくさんの死を扱った。
今年も、たくさん余計なことを考えた。
今年も、たくさん小さなことに悩んだ。
たいしたことはやっていないのに、たくさん愚痴った。
たいしたことはやっていないのに、えらく高ぶった。
たいしたことはやっていないのに、すごく疲れた。
今年一年、自分は何をやってきただろうか・・・
何を得て、何を蓄積してきただろうか・・・
ただ働き、ただ食い、ただ飲み、ただ遊び、ただ寝てきただけか・・・
それでも、今日、自分が生きていることには意味と理由がある。
自分が、その意味と理由を知らないだけで。
人は、ただ生きている、ただ生かされているだけではない。
楽観的な人、余計なことを考えない人、小さなことで悩まない人を羨ましく思う。
しかし、自分の中のどこかに、そのような人を見下している自分がいる。
そして更に、このように自分の偽善性や悪性を吐露する自分がいる。
善人にみられるために偽善者を自称する。
賢者にみられるために愚者を自称する。
自分を肯定するために自分を否定する。
小さなことに悩む自分を、真摯な人間に思うことがある。
自分をダメ人間と卑下する自分を、謙虚な人間に思うことがある。
弱く愚かな自分を嫌う自分が、実は好きだったりする。
そんな自分は何者か。
善い自分も悪い自分も、強い自分も弱い自分も、賢い自分も愚かな自分も、すべて自分。
認めたくなくても受け入れるしかない自分、赦せなくても認めるしかない自分、好きでもあり嫌いでもある自分。
ある意味で、人間は変われる。
しかし、ある意味で人間は変われない。
この自分でこの人生を生きていくしかない。
ただ、どうせ生きるなら、元気に生きたい、明るく生きたい、正しく生きたい。
寛容に、謙虚に、勤勉に、柔和で、笑顔で。
だから、そうでない自分の中に葛藤・苦悩・戦いが生まれる。
それらを頭に反芻し、文字に記し、心に刻む。
時間がすぎるばかりで進歩しない人生を、成長しない自分を諦めないために。
そして、まだ知らない自分を知るために、顔で泣いても心で笑うために。
かくして、つまらない自我自賛ブログかもしれないけど、くだらない自我自賛ブログかもしれないけど、2013年も書いていくつもり。
気の向くまま、細々とでも。
そして、社会の下にいながらも、社会の陰で働きながらも、上を向いて明るく生き抜くことを志すつもりである。
せっかく生きてるんだから。
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