遅ればせながら、2012謹賀新年。
前回の更新は昨年10月10日だったから、三ヶ月ぶりの更新になるのか・・・過ぎてしまえば時間が経つのははやいもの。
ありがたいことに、この身を心配してくれる人もいるようだが、大丈夫、なんとかこうして生きている。
この三ヶ月、相変わらずの毎日を過ごしていた。
例によっての多忙少休、世間の非日常に私の日常を重ねていた。
一般の人にとって珍しいことはたくさんあったけど、私にとって特段に変わったことはなかった。
変わったことといえば、年末年始の暴飲暴食が祟って腹回りが太くなったことくらい。
クリスマスから正月にかけ、おいしい料理を食べ、うまい酒を飲んだせい。
一年間、汚仕事に這いずり回った自分への褒美のつもりで、つい調子に乗りすぎた。
ただ、クリスマスを祝い、めでたい正月を迎えられなかった人のことも頭の隅にある。
思い浮かぶのは、大地震の被災者。
ありきたりのことしか書けないのでコメントは差し控えるけど、あらためて、人の生と死を考えさせられている。
私(人)はいつ死ぬかわからない、いつ死んでもおかしくない。
その中で、限られた時間を生きている。
常に選択に迫られ、大小の岐路に立たされ、今、何を優先すべきか、深い思慮を求められながら深い思慮ができずに生きている。
訪れた現場は老朽アパートの一室。
待ち合わせた依頼者は、30代の女性。
どことなく気恥ずかしそうな、気マズそうな物腰だった。
部屋の主は、一人暮らしをしていた女性の父親。
その父親は、過日、入院先の病院で逝去。
部屋には、遺品となった家財が残された。
そんな中、女性は知人のツテで遺品整理の業者を手配。
相応の費用をかけて家財を処分し、部屋を空にした。
しかし、部屋を引き払うために片付けなければならない問題は他にもあった。
男性が一人で暮す部屋がきれいに維持されているケースは少ない。
汚部屋になっていることがほとんどで、特に水回りがヒドイことになっているケースは多い。
そして、この部屋も例外ではなかった。
女性は、当初、一般のハウスクリーニング業者に相談。
しかし、現場を見るや否や、業者は仕事を辞退。
ねばり強く、あちこちの業者に相談してみたが、結果は同じことだった。
女性は困り果て、自分でやることも考えた。
でも、それを考えると泣きたい気持ちに駆られ、どうしても踏み出せず。
そうして後、巡り巡って当社にたどり着き、清掃を依頼してきたのだった。
風呂やキッチンシンクもだいぶ汚れてはいたが、特にヒドかったのは便所。
旧型の和式で「トイレ」というより「便所」といった方がシックリくる造り。
その便所は、ほぼ全体を糞尿が原因と思われる黒や茶色の汚れが被い尽くしていた。
ただ、便器周辺の汚れは、騒ぎ立てるほどのことではなかった。
似たような便所は何度となく経験済みだったし。
私を怖れさせたのは周辺の汚れではなく、便器そのものだった。
はじめ、便器の上には新聞紙がかけられていた。
見かねた女性が便器を覆うためにかけたものと思われた。
「ま、いつもの感じだろ」と、中途半端な覚悟で、私はその新聞紙をめくり取った。
「???」・・・姿を現した便器を見た私の目は点に。
何がどうなっているのか瞬時には判断がつかず。
「まさか?」と思いながら、私は顔を近づけて便器を凝視した。
疑義は的中。
便器の中は、ウンコが満杯のテンコ盛り状態。
それは、百戦錬磨?の私も自信を喪失するくらいにへヴィーな光景だった。
女性は、かかる費用のことよりも私が清掃を請け負うかどうかを心配していた。
一方の私は、「断ったほうがいい」という頭と「やれるだけやってみろ」という心が対立して困惑。
結局、“成果保証なし”“料金は出来高で決定”を条件に請負契約は成立となった。
すると、今度は、“効率が悪くても何らかの道具を使うことを薦める本性”と“さっさと片付けるため自らの手を道具にすることを薦める理性”とが頭の中で対立。
結局、気持ちが慣れるまでは道具を使い、慣れてきたら手を使うということで両者を説得。
私は、作業の準備を整えながら特掃魂の暖気運転を始めた。
予定通り、最初は、代用の道具(専用の道具なんてないけど)を使ってモタモタとウンコを掻き出していった。
しかし、悲しいかな、所詮、代用道具は代用道具、柔軟な動きは無理。
後半は、手を汚すしか方法がなく、これまた予定通りの覚悟を決めて、私は便器に手を突っ込んだ。
どこの現場でもそうだけど、一線を越えてしまえば怖れは薄らぐ。
一度ウンコにまみれた手は、それ以降、何度便器に手を入れようが、それ以上に汚れることはない。
それまでの恐怖心がウソのように開き直れて、大胆かつ効率よく作業を進めることができ、そしてまた、時間が燃焼し、生きている実感が湧いてくるのである。
作業に要した時間は、約二時間。
頑張った甲斐あって便器は白くピカピカ。
また、周辺は新築同様にまではならなかったけど、フツーに使えるくらいの姿を取り戻した。
作業終了の後、私は、現場から離れていた女性を呼び寄せた。
そして、自慢したい気持ち満々で、便所の扉を開けてみせた。
すると、女性は目をまるくし、そして、泣きだした。
「ごめんなさい・・・悲しいんじゃなくて感動してるんです」
女性は、私にそういい、しばらく泣き続けた。
そんな女性の涙は、私への同情心が混ざっているようにも感じられ、私に寂しい喜びを与えてくれた。
キツイ仕事やツライ作業に従事しているとき、私は自分が生きていることを強く実感する。
この様を「ホントの苦労を知らぬヤツ」と言う人がいるかもしれない。
この感覚を「変態」と呼ぶ人がいるかもしれない。
しかし、私にとって、これらは“人生の薬味”。
それだけでは、辛いばかり・苦いばかりのものだけど、人生が旨味を増すために必要な味(薬)なのだろうと思っている。
そうは言っても、辛味や苦味なんて、できることなら味わいたくない。
しかし、これらは、“味わいたい”とか“味わいたくない”と分別できる次元のものではない。
人間が生きるために、幸を得るために必要な味なのではないだろうか。
少なくとも、この私には必要な味、この私が生きるために必要な味、この私に幸福をもたらす味・・・もっと言うと、私にとって“幸福そのもの”なのかもしれないと思っている。
「“感動する便所掃除”ってバカバカしいけど、わるくはないな」
そんな風に思いながら、私は生きていることを実感したのだった。
そして、そんなことを重ねながら今日も生きている・・・生かされているのである。
公開コメント版
特殊清掃プロセンター
前回の更新は昨年10月10日だったから、三ヶ月ぶりの更新になるのか・・・過ぎてしまえば時間が経つのははやいもの。
ありがたいことに、この身を心配してくれる人もいるようだが、大丈夫、なんとかこうして生きている。
この三ヶ月、相変わらずの毎日を過ごしていた。
例によっての多忙少休、世間の非日常に私の日常を重ねていた。
一般の人にとって珍しいことはたくさんあったけど、私にとって特段に変わったことはなかった。
変わったことといえば、年末年始の暴飲暴食が祟って腹回りが太くなったことくらい。
クリスマスから正月にかけ、おいしい料理を食べ、うまい酒を飲んだせい。
一年間、汚仕事に這いずり回った自分への褒美のつもりで、つい調子に乗りすぎた。
ただ、クリスマスを祝い、めでたい正月を迎えられなかった人のことも頭の隅にある。
思い浮かぶのは、大地震の被災者。
ありきたりのことしか書けないのでコメントは差し控えるけど、あらためて、人の生と死を考えさせられている。
私(人)はいつ死ぬかわからない、いつ死んでもおかしくない。
その中で、限られた時間を生きている。
常に選択に迫られ、大小の岐路に立たされ、今、何を優先すべきか、深い思慮を求められながら深い思慮ができずに生きている。
訪れた現場は老朽アパートの一室。
待ち合わせた依頼者は、30代の女性。
どことなく気恥ずかしそうな、気マズそうな物腰だった。
部屋の主は、一人暮らしをしていた女性の父親。
その父親は、過日、入院先の病院で逝去。
部屋には、遺品となった家財が残された。
そんな中、女性は知人のツテで遺品整理の業者を手配。
相応の費用をかけて家財を処分し、部屋を空にした。
しかし、部屋を引き払うために片付けなければならない問題は他にもあった。
男性が一人で暮す部屋がきれいに維持されているケースは少ない。
汚部屋になっていることがほとんどで、特に水回りがヒドイことになっているケースは多い。
そして、この部屋も例外ではなかった。
女性は、当初、一般のハウスクリーニング業者に相談。
しかし、現場を見るや否や、業者は仕事を辞退。
ねばり強く、あちこちの業者に相談してみたが、結果は同じことだった。
女性は困り果て、自分でやることも考えた。
でも、それを考えると泣きたい気持ちに駆られ、どうしても踏み出せず。
そうして後、巡り巡って当社にたどり着き、清掃を依頼してきたのだった。
風呂やキッチンシンクもだいぶ汚れてはいたが、特にヒドかったのは便所。
旧型の和式で「トイレ」というより「便所」といった方がシックリくる造り。
その便所は、ほぼ全体を糞尿が原因と思われる黒や茶色の汚れが被い尽くしていた。
ただ、便器周辺の汚れは、騒ぎ立てるほどのことではなかった。
似たような便所は何度となく経験済みだったし。
私を怖れさせたのは周辺の汚れではなく、便器そのものだった。
はじめ、便器の上には新聞紙がかけられていた。
見かねた女性が便器を覆うためにかけたものと思われた。
「ま、いつもの感じだろ」と、中途半端な覚悟で、私はその新聞紙をめくり取った。
「???」・・・姿を現した便器を見た私の目は点に。
何がどうなっているのか瞬時には判断がつかず。
「まさか?」と思いながら、私は顔を近づけて便器を凝視した。
疑義は的中。
便器の中は、ウンコが満杯のテンコ盛り状態。
それは、百戦錬磨?の私も自信を喪失するくらいにへヴィーな光景だった。
女性は、かかる費用のことよりも私が清掃を請け負うかどうかを心配していた。
一方の私は、「断ったほうがいい」という頭と「やれるだけやってみろ」という心が対立して困惑。
結局、“成果保証なし”“料金は出来高で決定”を条件に請負契約は成立となった。
すると、今度は、“効率が悪くても何らかの道具を使うことを薦める本性”と“さっさと片付けるため自らの手を道具にすることを薦める理性”とが頭の中で対立。
結局、気持ちが慣れるまでは道具を使い、慣れてきたら手を使うということで両者を説得。
私は、作業の準備を整えながら特掃魂の暖気運転を始めた。
予定通り、最初は、代用の道具(専用の道具なんてないけど)を使ってモタモタとウンコを掻き出していった。
しかし、悲しいかな、所詮、代用道具は代用道具、柔軟な動きは無理。
後半は、手を汚すしか方法がなく、これまた予定通りの覚悟を決めて、私は便器に手を突っ込んだ。
どこの現場でもそうだけど、一線を越えてしまえば怖れは薄らぐ。
一度ウンコにまみれた手は、それ以降、何度便器に手を入れようが、それ以上に汚れることはない。
それまでの恐怖心がウソのように開き直れて、大胆かつ効率よく作業を進めることができ、そしてまた、時間が燃焼し、生きている実感が湧いてくるのである。
作業に要した時間は、約二時間。
頑張った甲斐あって便器は白くピカピカ。
また、周辺は新築同様にまではならなかったけど、フツーに使えるくらいの姿を取り戻した。
作業終了の後、私は、現場から離れていた女性を呼び寄せた。
そして、自慢したい気持ち満々で、便所の扉を開けてみせた。
すると、女性は目をまるくし、そして、泣きだした。
「ごめんなさい・・・悲しいんじゃなくて感動してるんです」
女性は、私にそういい、しばらく泣き続けた。
そんな女性の涙は、私への同情心が混ざっているようにも感じられ、私に寂しい喜びを与えてくれた。
キツイ仕事やツライ作業に従事しているとき、私は自分が生きていることを強く実感する。
この様を「ホントの苦労を知らぬヤツ」と言う人がいるかもしれない。
この感覚を「変態」と呼ぶ人がいるかもしれない。
しかし、私にとって、これらは“人生の薬味”。
それだけでは、辛いばかり・苦いばかりのものだけど、人生が旨味を増すために必要な味(薬)なのだろうと思っている。
そうは言っても、辛味や苦味なんて、できることなら味わいたくない。
しかし、これらは、“味わいたい”とか“味わいたくない”と分別できる次元のものではない。
人間が生きるために、幸を得るために必要な味なのではないだろうか。
少なくとも、この私には必要な味、この私が生きるために必要な味、この私に幸福をもたらす味・・・もっと言うと、私にとって“幸福そのもの”なのかもしれないと思っている。
「“感動する便所掃除”ってバカバカしいけど、わるくはないな」
そんな風に思いながら、私は生きていることを実感したのだった。
そして、そんなことを重ねながら今日も生きている・・・生かされているのである。
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特殊清掃プロセンター