“人の不幸で飯を食う・・・”
私の仕事には、 “人の足元を見る”と揶揄されても仕方がない一面がある。
“困りごとをケアする”と言えば聞こえはいいけど、それと上は表裏一体。
偽善者ぶりを晒すようだが、ハイエナやウジ虫と自分が重なり、気持ちが“グレー”になるときもある。
(こういうときは、“グレー”ではなく“ブルー”と言うのかもしれないけど、自分的には“ブルー”じゃなく“グレー”といった感じなのだ。)
しかし、あくまで、自分のため・金のためにやっている仕事。
世のため・人のためのボランティアではない。
また、仕事として、ある程度のクオリティーを継続・維持する必要もある。
だから、少しでも高い売上・収益を得るべく努力する。
依頼者から「高い!」と言われてしまうこともあれば、「安い!」と言ってもらえることもある。
ただ、“高いor安い”は、依頼者側が決めること。
当方は、仕事の価値や必要性が、代価に見合うように・・・いや、代価を上回るように努めるのみ。
売掛金や経費などの経済的リスク、人の心象や世間の風評などの精神的リスク、実務作業や加齢などの肉体的リスクを背負いながらも、請け負った仕事において、依頼者の期待値を超える成果をだすことに尽力するのみなのである。
「“すべて大家の要求”と伝えて構わないから・・・」と、大家女性は遺族との交渉を私に一任。
保証人(遺族)の住所と連絡先を私に伝えてきた。
私は、その依頼が、単なる嫌悪感や無責任な性格からくるものではないことを理解。
結果、“快く”とまではいかないまでも、特段の難色も示さず女性の依頼を承諾した。
見積をつくる過程で、私の頭には、色んな想いが交錯。
大家女性が抱えている苦悩、遺族が抱えているであろう苦悩、故人が抱えていたであろう苦悩、そして、自分が抱え始めた苦悩・・・
それらに想いを廻らせると、自分が担った役割が順当なもののように思えて、モヤモヤしていた気持ちに一区切りつけることができた。
そして、出来上がった見積は、大家女性の要望を反映して高額なものに。
“大家をうまく言いくるめて、余計な工事を押し売る悪いヤツ”
“素人が理解しにくい理屈をこねて、高額費用を請求する悪徳業者”
そんな風に思われても仕方がないことを覚悟した。
余計なことを考えると、次の行動が躊躇われるばかり。
私は、見積金額を映し出すPCを閉じることなく電話を取り、遺族宅の電話番号を押した。
すると、第一声を考える間もなく、女性が電話にでた。
元気のない声から、それが故人の母親であることが、尋ねなくてもわかった。
私は、故人の死を悼むような言葉は一切発せず。
それが、社交辞令にも満たない冷たい温度しか蓄えられないとわかっているから。
“その程度の言葉で、人は癒せない”“不快な思いをさせてしまうこともある”と思っているから。
だから、余計な言葉は省略し、短い挨拶のみにとどめて名を名乗り、用件を端的に伝えた。
母親は、“そんなことを言うなんて、娘や家族に失礼じゃない!?”と言わんばかりの不快感を露に・・・
“娘(故人)が不憫”といった様子で、
「そのマンションには、住んで一年も経ってないんですよ!」
「内装を変える必要があるとは思えないんですけど!」
「本当に、そこまでのことが必要なんですか!?」
と、湧き上る感情を、電話越しに訴えてきた。
大家女性から要望された当初の私も、母親と同じように思ったわけで・・・
母親の心情は、充分に理解できた。
だから、まずは母親の不満を聞くことに徹し・・・
そして、母親の言葉が収まってきた頃を見計らって、ソフトな言葉を選びながら大家女性が抱える苦悩を伝えた。
母親は、私の説明によって、工事の必要性は納得できないものの、大家女性の心情は理解してくれたよう。
上がっていたテンションは自然に下がり、元の元気ない声に戻り・・・
結局、「夫(故人の父親)と相談して、あらためて連絡する」との言葉を締めとして、電話は終わった。
父親からの電話は、その日の夜に入った。
私は、父親が母親よりも更に強い不満や不快感を露に口撃してくることを覚悟した。
しかし、実際の父親はいたって冷静。
紳士的な物腰で言葉遣いも丁寧。
はじめに、私の説明をきちんと聞く用意があることを、伝えてくれた。
そして、質疑応答を繰り返す中で、ことの経緯を明かしてくれた。
亡くなったのは、女性の娘。
やはり、部屋に造りつけられたクローゼットに自分を掛けた自殺だった。
遺族は、その両親。
現場マンションと同県異市に在住。
父親は、当該マンション賃貸借契約の保証人になっていた。
故人は、精神安定剤と睡眠導入剤を「サプリメントの代わり」と常用。
家族も、そのことを把握。
ただ、一つの会社で仕事も続けており、社会生活も一人前にこなしていたため、家族は故人が精神を酷く患っているとは認識せず。
仕事を辞めてしまうことを心配することはあっても、自殺する可能性を心配することはなく・・・
しかし、家族の思慮を超えて、故人は自死を決行したのだった。
「不可抗力で起こったことではなく、娘(故人)が意図して起こしたことですから・・・」
父親は、“娘が起こしたことを考えると、とても大家に楯突くことなどできない”と考えている様子。
「大家さんの言う通りにしていただいて構いません」
要望らしい要望もなく、父親は、大家女性の要求をそのまま受け入れる構え。
「本人がいない以上、親が責任をとるしかありませんから・・・」
父親は、毅然とした気丈さをみせた。
その心情に、重荷を背負う覚悟を見た私は、その一端を担うことへの意思を固めた。
私は、この“商談”が無事に成立してホッ。
胃が痛くなるような緊張感から開放されて安堵した。
しかし、それは一時的なもので、心の底に何とも言えないグレーな気持ちが残留していることを自覚。
それは、単に、“遺族や大家女性や故人が気の毒”といった安売りされた同情心からくるものではなく、“生きることにはリスクがつきまとっている”ということが露になったせいかも・・・
人間には、リスクなしでは生きていけないという重い性が背負わされていることに、気づかされたせいかもしれなかった。
最近、思う・・・
楽に生きることを指向すればするほど、楽に生きようともがけばもがくほど、苦悩や疲労感は増していくのではないか・・・
そもそも、リスクなく生きようとすること自体が無理なことではないか・・・
生きていること自体がハイリターンなわけだから、それにハイリスクが伴うのは当然のことではないか・・・
そんな風に理解ができないから、鬱々とした重い足取りで愚者愚者にぬかるんだ道を歩くハメになっているのではないか・・・
・・・“達観”や“悟り”といった高ぶった感覚でもなく、“楽観”や“開き直り”といった強者の感覚でもなく、何となくそう思うようになっている。
そして、そう思うことによって、少し勇気がでてきているような感じがする。
私のように賢くない人間は、リスクを避けるための知恵を働かせることより、リスクを受け入れるための勇気を持つことが必要。
その中で、リスクを背負う力を育むことが大切なのだと思う。
そして、人生において、そんな大切なもの一つ一つを見つけるために、得るために、知らしめるために、人には“死”が用意されているのだと思う。
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私の仕事には、 “人の足元を見る”と揶揄されても仕方がない一面がある。
“困りごとをケアする”と言えば聞こえはいいけど、それと上は表裏一体。
偽善者ぶりを晒すようだが、ハイエナやウジ虫と自分が重なり、気持ちが“グレー”になるときもある。
(こういうときは、“グレー”ではなく“ブルー”と言うのかもしれないけど、自分的には“ブルー”じゃなく“グレー”といった感じなのだ。)
しかし、あくまで、自分のため・金のためにやっている仕事。
世のため・人のためのボランティアではない。
また、仕事として、ある程度のクオリティーを継続・維持する必要もある。
だから、少しでも高い売上・収益を得るべく努力する。
依頼者から「高い!」と言われてしまうこともあれば、「安い!」と言ってもらえることもある。
ただ、“高いor安い”は、依頼者側が決めること。
当方は、仕事の価値や必要性が、代価に見合うように・・・いや、代価を上回るように努めるのみ。
売掛金や経費などの経済的リスク、人の心象や世間の風評などの精神的リスク、実務作業や加齢などの肉体的リスクを背負いながらも、請け負った仕事において、依頼者の期待値を超える成果をだすことに尽力するのみなのである。
「“すべて大家の要求”と伝えて構わないから・・・」と、大家女性は遺族との交渉を私に一任。
保証人(遺族)の住所と連絡先を私に伝えてきた。
私は、その依頼が、単なる嫌悪感や無責任な性格からくるものではないことを理解。
結果、“快く”とまではいかないまでも、特段の難色も示さず女性の依頼を承諾した。
見積をつくる過程で、私の頭には、色んな想いが交錯。
大家女性が抱えている苦悩、遺族が抱えているであろう苦悩、故人が抱えていたであろう苦悩、そして、自分が抱え始めた苦悩・・・
それらに想いを廻らせると、自分が担った役割が順当なもののように思えて、モヤモヤしていた気持ちに一区切りつけることができた。
そして、出来上がった見積は、大家女性の要望を反映して高額なものに。
“大家をうまく言いくるめて、余計な工事を押し売る悪いヤツ”
“素人が理解しにくい理屈をこねて、高額費用を請求する悪徳業者”
そんな風に思われても仕方がないことを覚悟した。
余計なことを考えると、次の行動が躊躇われるばかり。
私は、見積金額を映し出すPCを閉じることなく電話を取り、遺族宅の電話番号を押した。
すると、第一声を考える間もなく、女性が電話にでた。
元気のない声から、それが故人の母親であることが、尋ねなくてもわかった。
私は、故人の死を悼むような言葉は一切発せず。
それが、社交辞令にも満たない冷たい温度しか蓄えられないとわかっているから。
“その程度の言葉で、人は癒せない”“不快な思いをさせてしまうこともある”と思っているから。
だから、余計な言葉は省略し、短い挨拶のみにとどめて名を名乗り、用件を端的に伝えた。
母親は、“そんなことを言うなんて、娘や家族に失礼じゃない!?”と言わんばかりの不快感を露に・・・
“娘(故人)が不憫”といった様子で、
「そのマンションには、住んで一年も経ってないんですよ!」
「内装を変える必要があるとは思えないんですけど!」
「本当に、そこまでのことが必要なんですか!?」
と、湧き上る感情を、電話越しに訴えてきた。
大家女性から要望された当初の私も、母親と同じように思ったわけで・・・
母親の心情は、充分に理解できた。
だから、まずは母親の不満を聞くことに徹し・・・
そして、母親の言葉が収まってきた頃を見計らって、ソフトな言葉を選びながら大家女性が抱える苦悩を伝えた。
母親は、私の説明によって、工事の必要性は納得できないものの、大家女性の心情は理解してくれたよう。
上がっていたテンションは自然に下がり、元の元気ない声に戻り・・・
結局、「夫(故人の父親)と相談して、あらためて連絡する」との言葉を締めとして、電話は終わった。
父親からの電話は、その日の夜に入った。
私は、父親が母親よりも更に強い不満や不快感を露に口撃してくることを覚悟した。
しかし、実際の父親はいたって冷静。
紳士的な物腰で言葉遣いも丁寧。
はじめに、私の説明をきちんと聞く用意があることを、伝えてくれた。
そして、質疑応答を繰り返す中で、ことの経緯を明かしてくれた。
亡くなったのは、女性の娘。
やはり、部屋に造りつけられたクローゼットに自分を掛けた自殺だった。
遺族は、その両親。
現場マンションと同県異市に在住。
父親は、当該マンション賃貸借契約の保証人になっていた。
故人は、精神安定剤と睡眠導入剤を「サプリメントの代わり」と常用。
家族も、そのことを把握。
ただ、一つの会社で仕事も続けており、社会生活も一人前にこなしていたため、家族は故人が精神を酷く患っているとは認識せず。
仕事を辞めてしまうことを心配することはあっても、自殺する可能性を心配することはなく・・・
しかし、家族の思慮を超えて、故人は自死を決行したのだった。
「不可抗力で起こったことではなく、娘(故人)が意図して起こしたことですから・・・」
父親は、“娘が起こしたことを考えると、とても大家に楯突くことなどできない”と考えている様子。
「大家さんの言う通りにしていただいて構いません」
要望らしい要望もなく、父親は、大家女性の要求をそのまま受け入れる構え。
「本人がいない以上、親が責任をとるしかありませんから・・・」
父親は、毅然とした気丈さをみせた。
その心情に、重荷を背負う覚悟を見た私は、その一端を担うことへの意思を固めた。
私は、この“商談”が無事に成立してホッ。
胃が痛くなるような緊張感から開放されて安堵した。
しかし、それは一時的なもので、心の底に何とも言えないグレーな気持ちが残留していることを自覚。
それは、単に、“遺族や大家女性や故人が気の毒”といった安売りされた同情心からくるものではなく、“生きることにはリスクがつきまとっている”ということが露になったせいかも・・・
人間には、リスクなしでは生きていけないという重い性が背負わされていることに、気づかされたせいかもしれなかった。
最近、思う・・・
楽に生きることを指向すればするほど、楽に生きようともがけばもがくほど、苦悩や疲労感は増していくのではないか・・・
そもそも、リスクなく生きようとすること自体が無理なことではないか・・・
生きていること自体がハイリターンなわけだから、それにハイリスクが伴うのは当然のことではないか・・・
そんな風に理解ができないから、鬱々とした重い足取りで愚者愚者にぬかるんだ道を歩くハメになっているのではないか・・・
・・・“達観”や“悟り”といった高ぶった感覚でもなく、“楽観”や“開き直り”といった強者の感覚でもなく、何となくそう思うようになっている。
そして、そう思うことによって、少し勇気がでてきているような感じがする。
私のように賢くない人間は、リスクを避けるための知恵を働かせることより、リスクを受け入れるための勇気を持つことが必要。
その中で、リスクを背負う力を育むことが大切なのだと思う。
そして、人生において、そんな大切なもの一つ一つを見つけるために、得るために、知らしめるために、人には“死”が用意されているのだと思う。
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