特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

必死・必幸

2009-12-31 07:43:39 | Weblog
今日は、12月31日。
過ぎてみるとはやいもの・・・2009年も今日でおしまい。
毎年毎年、大晦日を迎えると、同じような思いを抱き、同じようなコメント残す私。
歳はとっても、中身は成長していない証拠か。

2009年は、どんな年だっただろうか。
嬉しかったこと・楽しかったこともあっただろう。
苦しかったこと・悲しかったこと・辛かったこともあっただろう。
心に残っているのは、どんな出来事だろうか。
心に刻んだのは、どんな思いだろうか。

私も、今年も色んなことがあった。
幸いにも、大きな悲しみや耐え難い苦痛を味わうことはなかった。
されど、残念ながら、歓喜の声を上げるほど嬉しいことや、笑いが止まらないほど楽しいこともなかったように思う。
とにかく、仕事に明け暮れた一年だった。

春から秋にかけて、とにかく働いた。働いた。働いた。
何かにとりつかれたように、必死に働いた。
休日も返上し、過酷な特掃にも率先して出掛けた。
そして、その間、ブログも止めた。
夏のブログにも書いたように、考える余裕も書く余裕もなくなったためだ。

コメント欄が荒れていることに気づいたのは、随分後になってから。
管理人に言われて、ちょっとだけ目を通した。
はっきり言って、不快!に思った。悲しみも憤りもなく、ただただ不快に。
良心的なコメントはあるものの、多くは悪意を感じるもの。
それらをウジ・ハエとダブらせながら、人間というものの不完全性と悪性を、つくづく感じた。

ブログは、“ナマ物”“鮮度が大切”ということか。
死体や食物同様に、放っておくと、ウジ・ハエが集りはじめる。
その数は次第に増え、かなり荒れてくる。
しかし、時間経過とともに“食う”ところがなくなるのか、しばらくするとその数は減ってくる。
そして、鮮度を取り戻す(更新する)と、パッタリと姿を消す。
腐系現場と非常によく似た現象で、なんだか面白い。

ウジやハエは、汚いものや腐ったものに発生する。
きれいなもの・新鮮なものには、発生しない。
同様に考えると、本ブログに、ウジ・ハエが発生することも頷ける。
やってる汚仕事はさて置いても、常々、私が頭で考えていることや心に抱えていることには、汚く腐っているものが多いから。
自業自得か・・・歓迎はできないものの、それはそれで何かの意味があってここに来るのだろうから、甘受するほかあるまい。
そしてまた、それらを受け入れることで“きれいごと”が真実味を帯びてくるのかもしれないから。


今年、我武者羅に働いた私は、何を見つけて・何を得たのだろうか・・・
自分の無知と無力を痛感する中で、私は、色んなこと一つ一つに内在する“幸せの種(自覚できない幸)”を見つけたような気がする。
そして、それを“幸せの実(自覚できる幸)”にするための道具を一つ手に入れたような気がする。

その“道具”とは、「必死」。
これを字で書くと“必ず死ぬ”・・・一見、縁起でもないような・忌み嫌われてもおかしくないような言葉になる。
しかし、その訳は“全力を尽くす”“一生懸命”とされ、多くの場合、肯定的・前向きな意味合いで用いられる。
私は、この“必死”に、自分が幸せを得るための大きなヒントがあることに気づいたのである。

自分が、幸せを感じるのは、どういう時だろうか。
欲しいものを得たとき。誰かに褒められたとき。目標を達成したとき。美味しいものを食べたとき。休息のとき。嬉しいとき。楽しいとき。etc・・・
「幸せだなぁ」って思うときは、たくさんあると思う。
しかし、自分のことをつくづく幸せ者だと思っている人は、案外、少ないのではないだろうか。
それはどうしてか。
“幸せの実”ばかりに気をとられて、不幸が“幸せの種”であることに気がつかない・・・人間の知力に限界があるからである。

余命宣告を受けた患者の多くは、人生のほとんどのことが幸せに思えるらしい。
過去に経験した一つ一つのことが、幸せに思えてくるのだという。
それまでは、不幸にしか感じることができなかったことさえも・・・
それは何故か。
死を前にして、人生が希少であることを痛感し、それまで経験したことや残された時間が愛おしくなる・・・
良心を取り戻した心が、何でもない日常や些細な出来事を幸せとして感じ始める・・・
“幸せの種”が芽吹いて成長し“幸せの実”を結ぶからである。

生と死が表裏一体なのと同じように、幸と不幸もまた表裏一体。
幸せがなければ不幸は不幸でなくなる。
幸せのない人生に不幸はない。
不幸がなければ、幸せは幸せでなくなる。
不幸のない人生に幸せはない。
幸せは“実”、不幸は“種”。
病苦も苦悩も苦痛も、虚しさも悲しさも辛さも、すべてが“幸せの種”なのである。

どうすれば“幸せの種”に気づけるのか・・・
それは、死を想うこと。
愛する人の死を、そして自らの死を・・・
そうすることによって、心の目はそれまでとは違う視力を持ち、自然と“幸せの種”を見つけるようになるのである。

どうすれば“幸せの実”が得られるのか・・・
それは、必死に生きること。
死を心に刻み、良心にもとづいて生きること・・・
そうすることによって、心はそれまでとは違う柔らかな感受性を持ち、自然と“幸せの実”を受け取るようになるのである。


理屈をコネ回してはみたものの、結局のところ、漠然とした理想論・抽象的な精神論の域を越えていないかもしれない。
しかし、私は、
「生きていることそのものが幸せなこと」だなんて、安直なことを訴えたい訳ではなく、
「生きていれば、いつか幸せになれる」だなんて、気休めを言いたい訳でもなく、
「死ぬことを考えれば、何だって幸せに思える」という、自己暗示(自己洗脳)を奨励している訳でもない。
ただ、伝えたいのだ。
死を考えることの大切さを。必死に生きることの喜びを。

死は、老人や余命宣告を受けた患者のみが課せられた宿命ではない。
年越しにあたって縁起でもないことを言うようだけど、私も貴方も、来年の大晦日を今日と同じように迎えられる保証はどこにもない・・・
しかし、理屈ではわかっていても、何となく、一年後も普通に生きているような気がしてならない・・・
人間は、そこまで、死について無頓着・無関心。
そして、無力。
これは、表裏一対の関係にある生についても同じことが言えるかも。
・・・死を考えることは、生を・“幸せの種”を育むこと。
だからこそ、あえて考えたいし、考えるべきではないだろうか。

私は、一度きりの人生、少しでも多くの“幸せの実”を得て、それをじっくり味わいたいと思っている。
だから、明日からの新しい年もまた、必死に生きられるよう、そしてまた少しでも多くの“幸せの種”に気づけるよう、あらためて死と生を考えていきたいと思っている。



PS
「弱肉弱食~後編~」の更新が順当なのだが、2009年の締め括りにするにはあまりに味が悪いので、これはまた先のこととする。
楽しくない内容を、楽しみに待たれたし(良いお年を)。







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