特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

秋の夜長に

2007-11-05 06:56:04 | Weblog
11月に入り、秋もめっきりと深まってきた。
気づけば、身の回りの樹々も色づき、道端には赤黄の落葉が舞っている。
その風情は、寂しくもあり心を癒してくれるものでもある。
特に、夕暮れ時には、その趣を一段と濃くする。
秋の夕暮れに、ホッとするものを感じるのは私だけではないだろう。

「この季節がずっと続けばいいのに・・・」
なんて、ついつい思ってしまうけど、春夏秋冬が巡るからこそ一つ一つの季節に味わいが生まれるというもの。
それを覚えると、夏の暑さも冬の寒さも少しは楽しめる。

また、季節の移り変わりは、時の経過をハッキリと感じさせてくれる。
そして、そのはかなさも。
春:桜、夏:花火、秋:紅葉、冬:雪・・・どれもはかない・・・しかし、どれも美しい。
そのはかなさが美しさを増す。
人の命もまたそうなのだろうと思う。

この世にいる時間って、ホントに短い。
自分が生まれる前の時間、死んだ後の時間を考えると、それはよく分かる。
(〝時間〟の概念・定義はさておき)
人生は、過ぎる前は長く、過ぎてしまえば短いものなのだ。

季節が変わる度に、自分がまた一つ歳をとったことを覚え、
「俺は、あと何回この季節を迎えるんだろうな」
と、しみじみ考える。
そして、一年後にもまた同じ季節を迎えられる保証なんてどこにもないのに、次の季節を思い描く。

有限の人生を知りつつも、今を大切に生きることは難しい。
目の前の現実に、命は忘却される。
このところの私もいまいち調子が上がらない。
夏の激務からは解放されたものの、ガタついた心と身体のメンテナンスができないでいるのだ。
精神面は、暗い方向へダウンしていく一方。
身体面では、両手の指と腰・背中の痛みを引きずったまま。
春を迎える頃には、何とか改善されているだろうか・・・。

仕事柄か自分の性質か、ON.OFFをうまく使い分けられない私。
そんな生活に追われていると身体の疲れは蓄積され心は飢え渇く。
そして、その解決をアルコールに求める。

この頃は、気温が低下するに従って、飲む主役がビール・チューハイから例のにごり酒にバトンタッチされてきている。
酒では、自分を一時的にごまかすことぐらいしかできないことは分かっているのに・・・
結局のところ、それで得られるのは資源ゴミと翌朝の不快感くらい。
心の渇きは癒えるどころか、外気の湿度に合わせるかのように乾いていくばかり。
私は、そんなことを繰り返しながら、満たされない今をもがいている。


そんな秋は、人生の終わりを映し出しているようでもあり、それを考えるに相応しい季節かもしれない。

「人は、死んだらどうなるんだろう」
「幽霊っているんだろうか」
酔いが回ってくると、そんなことを考える。
そんな難題を私のような凡人が考えたところで、答を導きだせるわけもないが。

霊感がない私は、当然のごとく、霊を見たり感じたりすることはない。
臨死体験や幽体離脱体験もない。金縛りも。
あることと言えば、寝ていて脚がつったことがあるくらい(これがまた痛いんだよね!)。

「人は、何のために生まれてくるのだろうか」
「人は、何のために生きているのだろうか」
「人は、どうして死ななければならないのだろうか」
その答は、色んな宗教・哲学が導きだし、今も誰かが模索し続けているだろう。

しかし、
「人生は、楽しんでなんぼのもん!」
「そんな余計なことを考える必要はない!」
「現実逃避!そういうことは弱い人間の考えること!」
そう考える人も多いかもしれない。

それはそうとして、私は〝死=無〟だとは思いたくないクチ。
ただ、死んだ経験がないので、死後のことについて説得力をもって具体的に説明することはできない。


死体業を始めてしばらくした頃、「霊感がある」と自称する二人の女性と知り合いになった。
一人は、〝霊が見える〟人。
一人は、〝見えないけど感じる〟人。
共に、私より20近く年上で、若い私に色々な話を聞かせてくれた。
特に、〝見える方〟の女性の話はなかなか面白く、私も興味本位でをその話に聞き入っていた。

女性は、どこにいても頻繁に霊の姿が目に入ってくるらしく、それに慣れるまで大変だったとのこと。
私が一緒にいるときでも、時々小さな悲鳴をあげていた。

「キャッ!」
「え!?何かありました?」
「今ね、そこの歩道橋から人が首を吊った姿が見えたの・・・」

「ワッ!」
「また何か見えたんですか?」
「そこのガードレールに老人の姿が見えたの・・・」

終始、そんな具合。
極めつけは、私自身のこと。

「霊がついてるわよ」
と、ある時その女性に言われたことがあった。

「なんのこっちゃ?」
心の中で冷笑しながらも、彼女が気分を悪くしないように表情は真剣さをキープしたまま話を聞いた。

「で、どんな霊がついてるんです?」
「んーっとね・・・年配の男性みたいね」
「年配の男?・・・心当たりがあり過ぎて、見当もつきませんよ」
「お父さんじゃない?」
「親父はまだ生きてますけど・・・」
「あ、そぉ・・・」
「顔が似てるんで、お父さんかと思ったけど・・・」
「ちなみに、僕は母親似なんですよね」
「そぉ・・・」
「霊の正体は誰だかわからないんですか?」
「ん゛ー・・・わからない・・・ごめんね」
「イヤ、別にいいんですけど・・・気にしませんから」

女性は嘘をついている様子はなく、真剣そのもの。
虚言・悪意や悪戯心は微塵も感じず、やはり、女性には霊とやらが実際に見えているとしか思えなかった。

老若男女・有名無名、そのレベルを問わず、「霊感がある」「霊が見える」と言う人は少なくない。
中には眉唾者も混ざっていると思うけど、その大半の人には本当に見えて(感じて)いるのだろうと思う。

しかし、ここに注意が必要。
見えているモノの正体を見極めることが必要だと思う。
霊だって所詮は元人間なわけで、物理的な身体を失ったからといって、その本質が変わるとは思えない。
本音と建前があるかもしれないし、二枚舌を使うかもしれない。
善意もあれば悪意もあるかも。
また、生きた人間を左右する力があるとは限らない。
したがって、霊をやたらと高く崇める(過剰に恐れる)ことには違和感を覚える。

焦点を当てるべきは、死んだ人の霊ではなく生きた人間の本性ではないだろうか。
霊を見るのも人間、霊を語るのも人間、そして霊を媒介するのも人間。
そして、人間は、善も悪も兼ね潜ませる嬉しくも悲しい生き物だから。

とにもかくにも、私は霊感を持ち合わせていなくてよかった。
そんなものがあったら仕事がやりにくくなるだろうし、私は、生きている人間相手でいっぱいいっぱいだから。
あと、一人で静かに過ごしたい時に、招かざるお客が来ても困るしね。


静かな秋の夜長。
どこからか、たまに聞こえてくる物音にビクッとしつつ、晩酌をチビチビと楽しんでいる私である。








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