初心者のクラシック

有名な曲からおすすめの曲まで、できるだけ初心者にも分かり易く紹介します。

「神童」アマデウス・モーツァルト(第5話)

2006年12月06日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日は「神童」ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(第5話)です。


≪作曲家の肖像≫
ローマでもらった勲章をつけたモーツァルト
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集
ヴェラー(ヴァルター), 藤川真弓, ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団, モーツァルト
ユニバーサルクラシック

このアイテムの詳細を見る
【Wolfgang Amadeus Mozart】

モーツァルトファンの皆さん、大変お待たせしました。
今日からモーツァルト劇場再開です。
さて、少年時代は父レオポルトに連れられてどこへ行ってもモーツァルトフィーバーを巻き起こす少年モーツァルト。ようやく故郷ザルツブルクに帰ってくるのですが今日はその続きからです。

(第5話)【イタリアでの就職活動】
 1771年、モーツァルトはこの年の前半をザルツブルクで過ごすことになります。この間、交響曲や協奏曲をいくつか作曲しています。しかし夏になると再びイタリアへ向かうことになります。昨年イタリアの諸都市で契約したオペラを届けることと、そして今回は女帝マリア・テレジアからも作曲の依頼を受けていたのです。

 マリア・テレジアの息子であり、ミラノを中心としたロンバルディア地方を治めるフェルディナント大公がこの年に結婚式を挙げる事になっていたため、息子のための祝典歌劇の作曲を依頼されていたのでした。

 ミラノで行われれたフェルディナント大公の結婚式で行われたモーツァルトの歌劇は大成功を収めます。この大成功を受けて父レオポルトも当然息子モーツァルトは、オーストリア皇帝の血縁であるこのミラノの名家フェルディナント大公の宮廷音楽家として雇ってもらえると確信していたようです。

 一方、当のフェルディナント大公もおそらくその気があったんでしょう。しかし念のため母であるマリア・テレジアにも手紙でお伺いを立てていたようです。
しかし、女帝マリア・テレジアからの返書はモーツァルト父子の期待を裏切るような内容だったのです。女帝からの手紙には「あなたはモーツァルトを雇おうとしているようですが、私には意味がわかりません…、…無用の人間を雇わないように、…乞食のように世の中を渡り歩いているような人間は家臣たちにも悪影響を与えます…」等々フェルディナント大公に釘を刺す手紙を送っていたのでした。

 まあ、今でこそ世紀の大作曲家として知らない人はいない程有名なモーツァルトですが、当時としてはいくら有名で実力があっても、「音楽家」自体の地位が低く、ましてや女帝マリア・テレジアからしてみれば、取るに足らない街のミュージシャンくらいにしか見てなかったんでしょうね。
 
 そんな事とは露とも知らぬモーツァルト父子はミラノにしばらく滞在しフェルディナント大公のお呼びがかかるの待ちます。結局、大公からは結婚式の謝礼金と金時計を賜りますが、お声はかからず年末にはザルツブルクへ引き返す事になるのでした。

 12月にザルツブルクに戻るとモーツァルト父子に待ち受けていたのは、ザルツブルク宮廷の大司教シュラッテンバッハの訃報でした。これまで父レオポルトがこの宮廷に仕える身でありながら、息子モーツァルトを連れての大旅行にも寛大な態度で接してくれた大司教の死は、その後のモーツァルトにも大きく影響を与える事になります。

 この頃モーツァルトは依頼された歌劇の他にもイタリア旅行で影響を受けた明るい作風の作品をいくつか作曲していますディベルティメントK136もこの頃の作品だと言われています。

 翌1772年3月にはその後任として、コロレド大司教が就任します。モーツァルトも結局、父レオポルトと同様にザルツブルクの宮廷音楽家として勤務する事になります。
しかし、一方ではやはりミラノでフェルディナント大公のお声がかかれば、イタリアでの就職も夢ではないハズ!という期待もあったんでしょう。

 ミラノでは歌劇の依頼を受けていた事もあって、そんな事情を説明してコロレド大司教の許可を得ると、モーツァルト父子は3度目のイタリア旅行(こうなるともう出張かな?)に出かける事になります。

 1772年11月、そんな期待を込めて一路ミラノに向かうモーツァルトでした。ミラノでは依頼されていた歌劇「ルチオ・シッラ」が翌1773年に初演されると、やはり大好評となり、再三に渡って再演される事になりますが、この歌劇は一長一短で評価が分かれた事もあり、これまでと同じく手放しでは喜べない評価になっていたようです。

 しかし、なんとかフェルディナント大公からのお声がかかるのを待ち、滞在をなんとか引き伸ばすのですが、母マリア・テレジアからの言いつけを守ったフェルディナント大公からのお声は結局最後までかからず、父子共に3月には失意のうちにザルツブルクへ帰るのでした。



さて、実力と人気はあるものの、いざ就職となるとイタリアでは難しくなってきたようです。世紀の天才は一体どこに勤めることになるのでしょう?このつづきはまた明日。


音楽ブログランキング
   
「くつろぐ」ブログランキング⇔こちらもよろしく


最新の画像もっと見る

コメントを投稿