千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

二代目・芝川又右衛門 ~日本女子大学校設立への関わり~

2017-01-10 08:51:32 | 芝川家刊行文献
2015年のNHKの朝ドラ「あさが来た」で注目された広岡浅子。加島屋・広岡家と芝川家は同じ大阪の財界人同士ですが、これまで当社の所蔵資料の中に、両家のつながりを示すものは見つかっていませんでした。

しかしながら、「あさが来た」の原作である古川智映子さんの『小説土佐堀川 広岡浅子の生涯』には、広岡浅子が支援した日本女子大学校(現・日本女子大学)の設立を賛助した大阪の財界人の一人として芝川の名前が登場しており、実際に日本女子大学には、芝川又右衛門(二代目)が設立に関与したことを証明する資料が残っていたのです。

今回はそれらの資料から、日本女子大学校への芝川の関わりについて見ていきたいと思います。



日本女子大学校設立者の成瀬仁蔵は、明治27(1894)年に米国留学から帰国した後、梅花女学校(現・梅花女子大学)の校長を務めていました。女子高等教育機関、現在でいう女子大学の設立を目標としていた成瀬は、明治29(1896)年2月に自ら考える女子高等教育機関の必要性を説いた『女子教育』を出版し、本格的に女子大学設立の準備活動を始めます。

成瀬が社会の各方面の有力者に賛助を求める中で、広岡浅子との出会いがありました。浅子は『女子教育』を読んで成瀬の理想に深く共感し、女子大学設立の熱心な後援者となったのです。

そんな中で、芝川にも発起人就任への依頼があり、『日本女子大学校創立事務所日誌』にその様子が記されています。


「日本女子大学校創立事務所日誌(明治29年)」(日本女子大学所蔵)

12月19日(水)
鴻池芝川両氏へ発起人勧誘に付 広岡ご主人御問訪相成たる処
両子(ママ)は未た女子大学設立の件に付御話し不承
従而賛助員承諾不仕との事に而空しく御帰宅相成たり
両氏の如き名望家先承諾するにあらされば
他の人々を取纏め候事仲々六ヶ敷とて御当惑の御様子
如何致とて宜敷哉。
広岡御夫人へも御相談の上至急何とか御主人迄御返辞相待申候云々

これによると、広岡ご主人(広岡浅子の夫・広岡信五郎のことか)が鴻池、芝川を訪問し、発起人、賛助員就任を依頼するも承諾を得ることができず、こうした名望家の承認を得られなければ、ほかの人々の説得も難しいと記されています。

発起人勧誘の中でこういった対応は決して珍しいことではなく、むしろ即座に賛同を得られるということは稀だったといいます。成瀬はこれと見込んだ人のところへは何度も足を運んで説得を試みたということですが、この広岡氏の訪問から2年後の明治31(1898)年の資料には、発起人欄に芝川又右衛門の名前が見られることから、経緯は不明ですが、最終的には又右衛門も発起人就任を了承したことがわかります。


「日本女子大学校 発起人、賛助員、賛成員名簿(明治31年)」(日本女子大学所蔵)

さて、こうして有力者に発起人就任を依頼する一方で、設立の資金集めも進められます。前出の『創立事務所日誌』には、芝川への寄附金依頼について、下記のような記事も見られます。


「日本女子大学校創立事務所日誌(明治32年)」(日本女子大学所蔵)

5月28日
伊庭貞剛氏は芝川又右衛門氏に寄付金勧誘の件を自ら申出てて受請ひくれぬ

住友の伊庭貞剛氏(明治33年に第2代住友総理事に就任)が芝川又右衛門の日本女子大学校への寄付勧誘を引き受けたと記載されています。懇意にしていた伊庭氏の勧めとあらば…と又右衛門も協力を前向きに検討したのではないでしょうか。

さて、当初設立地を成瀬と縁の深い大阪として準備が進められていた日本女子大学校は、天王寺界隈に5千余坪の用地を確保していましたが、「やはり東京に」という意見も根強く、数年の設立運動の中で、大阪設置は見直しを迫られることとなります。

大阪に設置するということを強調して出資を募っていたこともあり、在阪の出資者の多くは東京設置に反対しました。しかしながら、明治33(1900)年5月に設立地を決するための創立委員会が大阪で開催される頃には、大阪の出資者も女子大学を設立する国家的意義を十分に理解しており、いずれ時期を見て大阪にも設置するということで東京設置を容認しました。

この創立委員会には又右衛門も出席し、寄付(寄付の増額?)を申し出ました。最終的に又右衛門は、明治33年から5年間にわたり、年400円、合計2,000円を日本女子大学校に寄付しています。


「日本女子大学校 寄附金名簿」より(日本女子大学所蔵)


「日本女子大学校寄付礼状(明治33年)」(大阪府立中之島図書館所蔵)
創立委員長の大隈重信氏からの寄付に対する礼状

この大阪における創立委員会の結果は東京の出資者を大いに刺激し、広岡浅子の実家である三井家から東京目白台に5,520坪の土地が寄付され、ここに日本女子大学校が設置されることとなりました。

日本女子大学校は明治33年12月下旬に設立が認可され、翌明治34(1901)年4月20日に510名の生徒を迎えて開校式が執り行われたのです。




「日本女子大学校開校式案内状(明治34年)」(大阪府立中之島図書館所蔵)
芝川又右衛門と夫人宛に届いた案内状。開校式の式次第も記されている。


「感謝状(明治38年)」(大阪府立中之島図書館所蔵)
日本女子大学校理事長・成瀬仁蔵から発起人、創立委員に送られた感謝状

なお、日本女子大学校の設立予定地だった天王寺(大阪市東区清水谷東之町)の土地には、明治34年に大阪府として初の高等女学校である大阪府清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)が設立されました。女子大学の設置は叶いませんでしたが、候補地に女子の教育機関が設置されたことは、大阪の出資者達の思いに適ったことだったのではないでしょうか。


■参考資料
『日本女子大学校四十年史(非売品)』日本女子大学校、昭和17年
日本女子大学資料集
日本女子大学「深く知りたい成瀬仁蔵」
大同生命の源流 加島屋と広岡浅子「日本女子大学校の設立」


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