千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

甲東園と芝川家14 甲東園一団地工事写真【昭和30年代後半】

2024-03-21 14:25:41 | 芝川家の土地開発
昭和30年代には、経営地の残りのエリア・天神山地域(上甲東園4丁目・県立西宮高校の東側、門戸天神社、神呪厳島神社周辺)の整備に着手します。しかし、前半は用地買収や神社の移転等の交渉が難航し、後半になってようやく事業に進捗が見られるようになります。




事業前(昭和36年5月:上)と整地後(昭和37年4月:下)
(上:千島土地所蔵資料P63_003_051、下:P63_003_052)

 
工事前の中谷地区(左:P63_001_072、右:P63_001_096)

 
整地工事中の様子(左:P63_001_079、右:P63_001_080)


同上(P63_001_098)
奥の建物は甲東小学校、左奥の並木は武庫川の並木とある

続いても整地前後の様子
 
(左:P63_001_091、右:P63_001_093)




(上:P63_001_032、下:P63_001_033)


北開地の整備前の様子(P63_001_060)
左上に見えるのは聖和女子短期大学(現・聖和短期大学)


2つの神社周辺の整備も進められます。

厳島神社旧階段(P63_001_047)
 
整備中の様子(左:P63_001_107、右:P63_003_009)


天神社旧階段(P63_001_031)

 
天神社下の道路分岐点 整備前後(左:P63_001_090、右:P63_001_092)


また一団地の経営地外ですが、この時期に工事未着手であった阪急電鉄沿い(踏切西側)の整備も行われましたので、最後にご紹介します。



(上:P63_001_024、下:P63_001_001)


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸
甲東園と芝川邸6 阪急電鉄の開通
甲東園と芝川邸7 関西学院の移転
甲東園と芝川邸8 幻の銀星女学院と仁川コロニー
甲東園と芝川邸9 戦時下の甲東園
甲東園と芝川邸10 戦後の甲東園
甲東園と芝川家11 甲東園一団地住宅経営事業
甲東園と芝川家12 甲東園一団地工事写真【昭和27~29年頃】
甲東園と芝川家13 甲東園一団地工事写真【昭和29~31年頃】


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

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甲東園と芝川家13 甲東園一団地工事写真【昭和29~31年頃】

2024-03-18 13:40:23 | 芝川家の土地開発
工事進捗の参考資料はこちら。

年度別整地工事(千島土地所蔵資料K02_054_008_001)
昭和29年(ピンク)、昭和30年(水色)、昭和31年(グリーン)の順に工事が進みます。


土地分譲並びに建物出来高図(K02_054_008_002)

この時期には住宅地らしいまちなみが整い、現在に通じる甲東園の風景が見られるようになっていきました。



まずは工事のbefore(上)、after(下)から(P63_002_081:昭和29年、P63_002_087:昭和30年)

道路整備やそれに伴う植樹も進みます。

(P63_002_084:昭和30年、以下同)


バス道(P63_002_075)


学園花通り(P63_002_125)


甲東園延命地蔵(P63_002_144)


(P63_002_149)

建物の建設も進み、住宅地らしくなってきました。

(P63_008_002:昭和30年)


(P63_008_016:昭和31年)


(P63_008_021:昭和31年)


(P63_006_154)

 
 
(上左:P63_002_092、上右:P63_002_090、下左:P63_002_093、下右:P63_002_095)

一方でまだこのような風景も。

轍の上を歩くご婦人方(P63_008_065)

更に、この頃に行われた大規模な造成工事の様子も残されています。

ワイルド!!(P63_008_073)


(P63_008_075)


(P63_008_099)


(P63_008_100)


(P63_008_101)


(P63_008_102)


(P63_008_104)

以上、一気にご紹介しました。

次回はいよいよ事業終盤、昭和30年代後半の様子をご紹介する予定です。


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸
甲東園と芝川邸6 阪急電鉄の開通
甲東園と芝川邸7 関西学院の移転
甲東園と芝川邸8 幻の銀星女学院と仁川コロニー
甲東園と芝川邸9 戦時下の甲東園
甲東園と芝川邸10 戦後の甲東園
甲東園と芝川家11 甲東園一団地住宅経営事業
甲東園と芝川家12 甲東園一団地工事写真【昭和27~29年頃】


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甲東園と芝川家12 甲東園一団地工事写真【昭和27~29年頃】

2024-03-18 13:38:39 | 芝川家の土地開発
先の記事でご紹介した「甲東園一団地住宅経営事業」については、750枚を超える工事写真が残っています(重複分を含む)。
ここからは順次、写真を通して工事の進捗をご紹介したいと思います。

下記の地図から、大体どの時期にどの場所で工事が行われていたかを知ることができるので、こちらも参考にしながら見ていきましょう。


年度別整地工事(千島土地所蔵資料K02_054_008_001)


土地分譲並びに建物出来高図(K02_054_008_002)

工事着手届が提出され(6月)、いよいよ工事が始まった昭和27年。最初に工事が行われたのは、くすのき通りの北側、「年度別整地工事図」の黄色い部分で、以下昭和28年(オレンジ)、昭和29年(ピンク)と工事が進んでいきます。

この時期の写真からは、事業着手前の甲東園の様子を知ることができます。

(P63_005_001)


(P63_005_006)


(P63_007_054)


(P63_007_059)


奥に見えるのは梅の木々でしょうか(P63_007_055)


キャベツ畑越しの風景(P63_005_040:昭和27年)

道路工事の様子です。

(P63_005_026:昭和27年)


工事には牛さんも大活躍!(P63_007_006)


(P63_005_027:昭和27年)



こちらは工事before(上)、after(下)の様子
(P63_005_015:昭和27年3月、P63_005_032:昭和27年5月)

住宅の建設も進んでいます。

こちらは全て同じタイプの建物のようです(P63_005_111:昭和28年)。


(P63_007_081:昭和28年)


少しずつ整備され、住宅街らしい景色になってきました(P63_002_035:昭和29年)。

次回は昭和30年以降の様子をご紹介していく予定です。


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸
甲東園と芝川邸6 阪急電鉄の開通
甲東園と芝川邸7 関西学院の移転
甲東園と芝川邸8 幻の銀星女学院と仁川コロニー
甲東園と芝川邸9 戦時下の甲東園
甲東園と芝川邸10 戦後の甲東園
甲東園と芝川家11 甲東園一団地住宅経営事業


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甲東園と芝川家11 甲東園一団地住宅経営事業

2023-09-22 14:21:35 | 芝川家の土地開発
甲東園での大規模なカトリック系の教育施設建設は実現しませんでしたが、西宮市都市計画事業として「甲東園一団地住宅経営事業」の実施が検討されます。

対象地は甲東園駅の西側に広がる一帯で、その大半を所有する芝川家が設立した百又株式会社が事業にあたることになりました。


対象地位置図(千島土地所蔵資料K02_036)

この事業は、戦後の住宅不足解消のため、まとまった規模の住宅地開発を企図していた兵庫県(*1)や西宮市(*2)の計画にも一致し、全面的な協力を得て進められることになります。

昭和25年、百又㈱は西宮市都市計画事業甲東園一団地の住宅経営特許を申請しました。当時の都市計画法(旧法)には、都市計画事業は原則として行政庁が執行するもので、主務大臣が特別の必要があると認めた時に限り、行政庁以外の者の執行が許されると定められていたため(*3)、百又㈱が一団地の住宅経営事業を行うためには特許申請を行う必要があったのです。




特許申請(昭和25年8月:千島土地所蔵資料K02_156)
事業面積は50ha(*4)、予定戸数526戸で、各敷地面積は基本的に100坪以上とするとあります。事業は、予算2億6千万円、昭和29年度までの5年をかけて実施する計画でした。


経営地計画図(千島土地所蔵資料K02_036)

昭和25年11月29日に甲東園一団地住宅経営事業の特許が得られ、いよいよ事業にとりかかることになります。

 
建設大臣の特許(千島土地所蔵資料A00015_002)


特許が許可されたことを知らせる電報(千島土地所蔵資料K02_036)
「29ヒキヨカサレタケンセツセウ(29日許可された建設省)」

昭和25から26年度にかけては、土地の調査や測量、農地の用途変更などの下準備が行われ、昭和27年6月にいよいよ工事着工届が提出されました。


工事着工届(千島土地所蔵資料K02_037_013)



事業の進捗状況は、各年度の事業報告書で知ることができます。

工事は北側(仁川側)から順次実施されましたが、農地の用途変更や資金調達、天候不順などで進捗に遅れが生じ、当初事業完了予定だった昭和29年度までに完了した工事は全体の70%に留まったため、昭和30年3月に1度目の執行期間延長(3年の延長)が申請されます。


整地工事の進捗状況(千島土地所蔵資料K02_054)
昭和31年度の事業報告書添付資料。整地工事の進捗状況が年度別に色分けされており、どのように工事が進んだのかを知ることができます。

ところが、その後の天神山地域での工事において、他人地の買収や神社(門戸天神社、神呪厳島神社)の移転、宅地造成残土の取り扱いに手間取ります。延長の3年間での工事進捗はわずか3%で、昭和33年3月には第2回の執行期間延長が申請されました。

延長後、神社の移転交渉は打ち切られることとなり、残土も一部を地域外に搬出する処理方針が定まりましたが、神社境内の整理方針や残土搬出計画がなかなかまとまらないうえ、土地買収の遅れもあり、工事進捗はわずか2%。昭和36年10月に3回目の執行期間延長が申請(11月にも追加申請)されます。

昭和36年度には厳島神社周辺の造成工事がようやく完了し、その後、ガス、水道等インフラ敷設を進め、逐次宅地分譲が行われました。昭和37年度には3,300㎡の中谷公園もほぼ完成し、昭和38年度には緑地、公園の管理が西宮市に引き継がれました。(K02_046_002)

こうして昭和39年6月、ようやく事業が完了し、竣工届が提出されます。

 


竣工届と竣工図(千島土地所蔵資料K02_058_003)
百又㈱の総施工面積は36ha、共同住宅21棟、一般住宅400戸が建設され、執行済みの事業費(96%)は約3億9千万円に上りました。


*1)「県において住宅建設の議があり、一団地住宅経営の指示ありたるをもって此の地域一帯を管理する百又㈱に特許されることを条件として(中略)15万坪を住宅化することに対し協力することに同意した」(「一団地住宅経営に至る迄の土地の現況及経過」:千島土地所蔵資料K02_052)

*2)「(甲東園一団地の住宅経営事業について)その規模といい、その計画といい、全く本市(西宮市)の考案に合致するものであり、本市は之に対して全幅の賛意を表して止まない。(中略)市の財政並びに事業運営上より考慮して直接本市が事業には当たらないが、側面的にはあらゆる援助を惜しまない(以下略)」(昭和25年8月26日「西計第102-1 西宮都市計画事業一団地の住宅経営特許申請について」:千島土地所蔵資料K02_156)

*3)都市計画法(旧法)第5条:都市計画事業は勅令の定むる所に依り行政庁之を執行す 主務大臣特別の必要ありと認むるときは勅令の定る所に依り行政庁に非さる者をして其の出願に依り都市計画の一部を執行せしむることを得

*4)開発前の50ha(約15万坪)の内訳は、宅地が15,000坪(地域内所在38戸)、山林が52,000坪(うち18,000坪は松樹が密集した緑地帯、残り34,000坪は立木が戦時中海軍用材として伐採され現在は原野)農地が59,000坪(カトリック系教育施設用地として売却するも計画が中止され、現在は休閑地利用で耕作中)学校敷地20,000坪(甲陵中学校、県立西宮高校)、神社敷地4,000坪とある。(千島土地所蔵資料K02_052)


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸
甲東園と芝川邸6 阪急電鉄の開通
甲東園と芝川邸7 関西学院の移転
甲東園と芝川邸8 幻の銀星女学院と仁川コロニー
甲東園と芝川邸9 戦時下の甲東園
甲東園と芝川邸10 戦後の甲東園


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甲東園と芝川家10 戦後の甲東園

2023-07-12 14:13:36 | 芝川家の土地開発
風光明媚で、阪急の開通により交通の便も良くなった甲東園は、戦前より土地の利用を促進するよう各方面から働きかけがあったといわれます。(*)周辺では相次いで住宅地開発が行われましたが、甲東園は開発されることがないまま、終戦を迎えました。

戦後、芝川家は甲東園をはじめ、西宮(鷲林寺(じゅうりんじ)・柏堂(かやんどう))に所有する土地の多くを売却します。きっかけは、京都の聖トマス学院 V.M.プリオット神父がこの土地を気に入り、青年の修養地として一帯の土地購入を希望したことでした。


証(千島土地所蔵資料K03_495)
昭和22年5月13日にV.M.プリオット神父と芝川又四郎(*2)の間で交わされた土地、建物の買収が成立したことを証明する証書。カトリック系の教育施設建設が目的と記されています。

ところがプリオット神父が米国に帰国することとなり、計画は天主公教大阪教区に委嘱されます。こうして昭和22年5月22日に天主公教大阪教区主管者・田口芳五郎神父と又四郎の間で土地の売買契約が交わされました。


土地売買に関する契約書(千島土地所蔵資料K02_158)
実測面積約22万坪の土地を約1300万円で買い受けるとあります。なお同日に交わされた覚書にて、代金は日米講和条約締結後に米ドルで支払うこととされました。

ところが、米国の承認がなかなか得られず、計画は資金難から暗礁に乗り上げます。鷲林寺のシトー会修道院などカトリック関連の一部施設の建設は行われましたが、当初構想された教育施設(幼稚園から小、中、専門部、大学部までのアメリカンカレッジ構想)の建設は一向に進みませんでした。

そんな中、敷地一部を市立甲東中学校(現・甲陵中学校)、市立山手高校(現・兵庫県立西宮高校)の移転用地としたい旨、西宮市教育委員会から要望があり、約2万坪が売却されることになります。


契約書(千島土地所蔵資料K03_495)
昭和24年8月15日、西宮市教育委員会と田口神父の間で交わされた土地売買の契約書
翌昭和25年には、甲陵中学校、西宮高校が相次いで甲東園に移転しました。

その後も活用の目途が立たない残りの土地は、一時農地買収計画に組み入れられます。地主達の訴願が認められ(昭和25年6月)、農地買収されることはありませんでしたが、これらの土地を巡っては様々な思惑が入り乱れ、「アメリカ学園問題」として西宮市議会を巻き込んでの騒ぎとなりました。

 
当時の新聞記事(千島土地所蔵資料K02_191)

一方で、戦後の住宅不足を解消するため、昭和24年9月に芝川家が設立した百又株式会社の下で、宅地開発(一団地住宅経営事業)の計画が進められます。

昭和25年1月には、一部土地の管理が天主公教から百又㈱に委託され、更に翌月には、農地に関係ない(農地買収の対象とならない)土地の処分が百又㈱に任されました。


昭和25年1月 土地管理委託書(千島土地所蔵資料K02_036_005)


昭和25年2月 土地処分委託書(千島土地所蔵資料K02_036_004)

そして8月には百又㈱が建設省に一団地経営特許を申請、11月に特許を取得し、いよいよ事業が動き始めます。


住宅経営計画書に添付された計画図(千島土地所蔵資料K02_036)
関西学院と甲陵中学校、西宮高校の間の敷地に「アメリカ学園」の記載があります。

昭和26年5月には、兵庫県と天主公教の間で往復書簡が交わされ、天主公教側から学園用地を一団地住宅経営事業計画に加えることに異議ない旨の回答を得ました。

学園用地約23,000坪は、兵庫県の施工による県営住宅建設用地として、昭和28年1月に天主公教から兵庫県に売却されました。昭和35年4月に作成された天主公教との土地売却精算書によると、天主公教の学園用地は兵庫県、県立西宮高校(*3)、そして百又㈱に売却されることで決着がついたことがわかります。(参考:千島土地所蔵資料K02_158)


*)参考:千島土地所蔵資料K02_052

*2)甲東園を拓いた芝川家5代目当主・芝川又右衛門の息子で、芝川家6代目当主。又右衛門は太平洋戦争開始前の昭和13年に甲東園で死去。当時、又四郎は神戸市御影郡家に自宅があったが、空襲で焼失し、終戦後は甲東園に住むようになった。

*3)県立西宮高校の校地拡張のため、昭和28年3月にも百又㈱が所有地の一部を売却した(参考:千島土地所蔵資料K02_158)


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸
甲東園と芝川邸6 阪急電鉄の開通
甲東園と芝川邸7 関西学院の移転
甲東園と芝川邸8 幻の銀星女学院と仁川コロニー
甲東園と芝川邸9 戦時下の甲東園


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甲東園と芝川家9 戦時下の甲東園

2023-06-23 09:35:06 | 芝川家の土地開発
芝川又右衛門が手をかけて整備し、文化を育んできた甲東園も、戦争の影響を逃れることはできませんでした。

敵性宗教であるキリスト教の学校であった関西学院へは軍の風当たりも強く、学院の敷地・建物の一部を海軍航空隊に提供するなど協力を余儀なくされます。学院正門前の松林(一部は千島土地所有地)も切り払われ、グライダー訓練場となりました。

海軍航空隊に関連する資料は当社にも何点か残されており、今回はそれらをご紹介していきたいと思います。

①昭和18年、仁川町3丁目周辺の所有地を川西航空機㈱が運営する海軍航空兵器生産工場(宝塚工場)の福利施設用地として売却

売渡土地明細(千島土地所蔵資料K03_339)
塗りつぶされた部分が売却土地です。付属する覚書の写しによると、昭和18年2月に芝川又四郎と千島土地が所有する計約9,000坪の土地が、116,144円70銭(うち8,250円は立木及び土地造成保証金)で買収代行者の西中弘氏に売却されました。

②昭和20年、芝川又四郎所有の自動車倉庫が海軍航空隊の糧食格納庫に

建物使用に関する件照会(千島土地所蔵資料G01059_029)
西宮海軍航空隊司令から兵庫県金属回収課長に宛てた照会状。回収された金属類の保管庫として使用されていた芝川又四郎が所有する神呪字東野原(東河原の間違い?)の自動車倉庫について、西宮海軍航空隊軍需品(糧食)分散格納庫として使用するため、回収物件搬出のこととあります。「本隊作業上急速実施を要する」ため、4月20日迄に搬出を実施して欲しいとありますが、照会状の日付は4月15日。5日しかありません…。

③昭和19年、帝塚山学院の郊外学舎「仁川コロニー」を海軍予科練習生の集会場として無償提供することを承諾

承諾書控(千島土地所蔵資料G01058_093)
㈶私立帝塚山学院理事長 山本藤助氏が仁川コロニーの校舎、敷地を無償提供することを物件所有者である千島土地㈱、日本住宅㈱、芝川又四郎が承諾したもの

先の記事でご紹介した通り、芝川家の大きな協力の下で開設された「仁川コロニー」も戦争の影響で継続が困難になり、昭和18年3月には備品が学院へ移され、事実上放棄されることになりました。

その後、昭和19年5月に海軍がこれを接収。物件を所有する千島土地㈱、日本住宅㈱、芝川又四郎の承諾書を添付し、建物の賃借協定が交わされました。

ところで、昭和6年の覚書では、昭和7年7月末日までに帝塚山学院が芝川又四郎より校舎を買い取ることが約定されていました。昭和7年6月末に付で校舎購入代金1,400円の内金として1,000円が支払われた領収書控が残されていますが、その後、どのような形で総額いくらが支払われたのかは不明です。しかし、承諾書に土地を所有する千島土地㈱、日本住宅㈱に加え、芝川又四郎の名前もあることから、昭和19年の時点では、まだ芝川又四郎が建物を所有していたのかも知れません(*)。


*)昭和22年10月には帝塚山学院と芝川又四郎の間で不動産売買契約(千島土地所蔵資料G00999_471)が交わされ、芝川又四郎が校舎を18万円で買い取っています。しかし不思議なのは、その翌月に帝塚山学院が校舎代金残額として70円を芝川又四郎に支払っているのです(千島土地所蔵資料G01069_498)。


■参考資料
創立100周年記念誌編纂委員会 編『帝塚山学院100年史』帝塚山学院/2016


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸
甲東園と芝川邸6 阪急電鉄の開通
甲東園と芝川邸7 関西学院の移転
甲東園と芝川邸8 幻の銀星女学院と仁川コロニー


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甲東園と芝川家8 幻の銀星女学院と仁川コロニー

2023-06-09 13:17:31 | 芝川家刊行文献
阪神急行電鉄西宝線(現・阪急今津線)甲東園前駅が設置された翌年の1923(大正12)年、お隣に仁川駅が開設し、その翌年に日本住宅㈱社長 阿部元太郎氏、同専務 近藤喜祿氏と芝川又右衛門の間に「甲東学園設立に付覚書」という文書が交わされます。


甲東学園設立に付覚書(一部)(千島土地所蔵資料G00982_273)
日本住宅㈱が甲東園隣地の仁川で住宅経営をすることになり、小学校設立を計画する中で、芝川が学校用地として千島土地㈱の所有地1,500坪と校舎建設費1万円の提供を申し出ます。そんな折、偶然他に女学校設立の計画があるということで、その計画と合わせ、実業家の羽室庸之助氏を設立者とし、小学校(甲東学園小学校)設立が進められることになったという経緯が記されています。

小学校の開校は1925(大正14)年4月からと約定されていますが、芝川は学校運営には直接関与していなかったようで、実際にいつ小学校が開校し、どのような運営が行われたかについては、資料が残っておらず知ることができません。

一説には学校経営がうまくいっていなかったともいわれており、次にこの学園が登場するのは学園経営組合の解散に関する資料でした。


甲東学園経営組合解散及び財産処分決議書(千島土地所蔵資料G00975_120)
1931(昭和6)年7月20日をもって甲東学園経営組合を解散すること。出資組合員(阿部氏、近藤氏、芝川)共有の残余財産(校舎と備品)は8千円で芝川又四郎(又右衛門息子)に売却し、その8千円は、羽室庸之助氏の慰労金とすることが決議されました。


建物売渡証書(G00975_123)
そして翌日の7月21日、校舎、備品が又四郎に売却されます。

又四郎が、この校舎、備品を購入したことには理由がありました。同日に又四郎が交わした下記の覚書でそれを知ることができます。


覚書(千島土地所蔵資料G00975_121)
(財)帝塚山学院が学校経営を行うために甲東学園の校舎を買い取りたいけれども、まだ理事会の承認が得られないので又四郎が一旦これを購入し、帝塚山学院に提供すると記されています。

帝塚山学院小学校の庄野貞一校長は、かねてより郊外(林間)学舎での子供達の教育を構想していました。庄野氏と親しく、教育への関心も高かった又四郎は、帝塚山学院に代わり甲東学園小学校の校舎を購入し、郊外学舎「仁川コロニー」の校舎として提供したのです。


覚書(千島土地所蔵資料G00975_128)
なお校舎敷地1,667坪は、1,500坪を千島土地㈱、167坪を日本住宅㈱が所有していましたが、こちらも又四郎又は帝塚山学院が学校経営を行う限り、無償提供することが約定されました。

庄野氏には一日も早く、自然に親しむ教育を実現したいとの思いがあったようで、「仁川コロニー」はひと月後、8月の夏休みから施設使用が開始されました。『帝塚山学院100年史』によると、慌ただしい開設準備の中で、又四郎は学習、食事、衛生、宿泊の設備を整える手助けもしたようです。

こうして、甲東学園小学校に代わり、仁川の地に帝塚山学院の「仁川コロニー」が開校したのでした。


ところで、この甲東学園小学校の名称は実はよくわかっていません。覚書などの書類には、「甲東学園小学校」と「私立仁川小学校」の2つの名称が登場します。そして、それぞれの書類につけられた仕切紙には「元 銀星女学院」と記されています。

人事興信録によれば、羽室氏の職業欄には「銀星女学院長」の記載があります。(*)冒頭の覚書には女学校設立の計画と合わせて小学校を設立するとあり、甲東学園小学校が銀星女学院の付属小学校である可能性は高いと思います。

しかし、残念ながら銀星女学院についても詳しいことはよくわかりません。銀星女学院出版部が発行した「梨庵漫筆」という資料(冊子)があるようで、羽室氏が銀星女学院主として発行趣旨(大正14年7月)を執筆し、谷本富氏(*2)が女学院生徒に向けた教訓を寄稿しているところを見ると、銀星女学院は確かに存在したものと思われます。

しかし、銀星女学院、そして付属小学校と思しき甲東学園小学校の実態は、今はまだ謎に包まれたままなのです。


*)名古屋大学『人事興信録』データベースより
*2)谷本富…日本の教育学者。京都帝国大学教授。又四郎は京都帝国大学在学中に講義を受け、「こんなおもしろい講義は、当時私の在学した法科大学には一つもないと思ったのでした」と述べている(芝川又四郎『小さな歩み』p.245)


■参考資料
創立100周年記念誌編纂委員会 編『帝塚山学院100年史』帝塚山学院/2016


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸
甲東園と芝川邸6 阪急電鉄の開通
甲東園と芝川邸7 関西学院の移転


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甲東園と芝川家7 関西学院の移転

2023-05-25 15:41:11 | 芝川家刊行文献
「甲東園前」駅開設から7年後の1929(昭和4)年、この駅を最寄りとする上ヶ原に関西学院が移転しました。

関西学院は1918(大正7)年の大学令公布を機に大学新設を検討する中で、原田の森(現・神戸市灘区、王子動物園周辺)からの移転を模索していました。しかし、資金難もあり移転先が決まらない中、実業家・河鰭節氏が、原田の森の校地を売却し、上ヶ原を移転用地として買収することを提案します。この事業を遂行する相手として河鰭氏が白羽の矢を立てたのが、阪神急行電鉄(以下、阪急)の小林一三氏でした。

こうして、1926(大正15、昭和元)年に小林氏と関西学院の神崎驥一高等商業学部長の会談が行われます。移転には10 万坪の土地と建物、大学設置に必要な供託金60万円が必要という神崎氏に対し、小林氏は320万円(原田の森の校地・校舎の買取価格)と書いたメモを示しました。わずか5分ほどの速断だったといわれています。

小林氏はさっそく上ヶ原の移転用地取得に動き始めました。

当時、上ヶ原の移転用地の多くは、池田の酒造家である北村吉右衛門氏・北村伊三郎氏、宝塚を開発したことで知られる平塚嘉右衛門氏、そして芝川又右衛門(と芝川が創業した千島土地㈱)が所有していました。小林氏と芝川は甲東園前駅の開設で既に縁があり、平塚氏は阪神急行電鉄と共に「宝塚ホテル」に出資した人物です。

1927年3月12日には、阪急と上記4名の地主の間で上ヶ原の土地買収に関する覚書が交わされます。

覚書(千島土地所蔵資料G00979_51)
この覚書では、4名の地主は55万円で7万坪の土地提供を引き受けること、阪急はここに関学を移転させること。実現しない場合は相当の学校を移転する、或いは全力を注ぎ住宅経営すること等が約定されました。

そう、この時点では関西学院の上ヶ原移転はまだ確定していなかったのです。

原田の森の校舎、校地(26,700坪)を320万円で買い取り、上ヶ原の校地(7万坪)を55万円で学院に譲渡するという正式契約を小林氏が関西学院のベーツ学院長と結んだのは、1年後の1928年2月のことでした。更にいえば、関西学院は1927年5月の臨時理事会で上ヶ原移転を可決しており、小林氏が用地買収の目途を立てたのはそれより前だったのです(なお関西学院が最終的に上ヶ原への移転を決めたのは、芝川が敷設した校地に至る3間幅の道路があったことも一因であるといわれています)。

この覚書が交わされた3日後の3月15日には、覚書の約定通り、阪急と4名の地主間で実測7万坪を55万円で売却する不動産売買契約書が締結され、内金として10万円が4名の地主に支払われました。

土地売買契約書の一部(千島土地所蔵資料G01015_181)
土地の所有権移転登記は2ヶ月半後の5月末迄に行うことが契約で定められましたが、移転用地には上記地主以外の者が所有する土地も含まれ、4名の地主はその買収も行いました。お金はいらないので土地を手放すつもりはないという所有者も多く、用地外の芝川家の所有地と交換することで解決したと又右衛門の息子・又四郎は振り返っています(こうした他人所有地の買収に関わる北村氏、平塚氏負担分の経費を芝川が立て替えた資料が当社には残っており(*)、他人土地の取得においては芝川が中心的な役割を果たしたのではと想像しています)。

少し話が前後しますが、この契約の1日前の3月14日にも、4名の地主間で、阪急に売り渡す7万坪の内訳に関する覚書が交わされています。

地主間の覚書(千島土地所蔵資料G00979_51)
これには北村氏が土地の約55%、芝川が39%、平塚氏が6%を提供すること、そして芝川が分担する39% 27,274坪のうち15,274坪は自ら提供し、残りの12,000坪は芝川が14円58銭4厘/坪で北村氏より購入すると記載されています。阪急への土地売却は7円85銭7厘/坪でしたので約2倍の価格です。

どういった経緯でこのような約定に至ったのか、その詳細は明らかではありませんが、先の他人所有地の買収にせよ、移転用地7万坪を確保するまでには様々な苦労もあったことでしょう。又四郎は、当時阪急の地所課長であった安威勝也氏が大変な人格者であると同時に非常に土地の好きな人で、この人こそ用地買収の第一の功労者であったと思うと述懐しています。関西学院の移転は、安威氏をはじめ多くの尽力によって実現し、芝川も縁の下でその一端を担ったといえます。

最後に、関西学院の移転に関して芝川家に伝わるひとつのエピソードをご紹介します。
それはアメリカの大学を視察した芝川又四郎が、関西学院の周りには高い壁を作らないで欲しいとベーツ院長に申し入れたというものです。これまでこの逸話の真偽のほどがわからずにいましたが、このたび先の土地売買契約書に「経営地の周囲には付近一帯の風致を損するが如き高塀を建設せざるものとす」との条件が記載されていることがわかりました。関西学院の美しいランドスケープの背景には、こうした地主達の意向もあったのですね。


*)千島土地所蔵資料G00966_94、G01015_190


■参考資料
関西学院百年史編纂事業委員会『関西学院百年史 通史編Ⅰ』学校法人関西学院/1997
『関西学院フロンティア21 VOL.5』関西学院創立111周年記念事業委員会/1999
『小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―』芝川又四郎/1969(非売品)


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸
甲東園と芝川邸6 阪急電鉄の開通


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甲東園と芝川家6 阪急電鉄の開通

2023-05-12 13:56:09 | 芝川家刊行文献
芝川又右衛門が別邸を構えた当時の甲東園へのアクセスの悪さについては「甲東園と芝川家4 芝川又右衛門邸の建設」でも触れました。
しかし、1920(大正9)年に阪神急行電鉄神戸本線(現・阪急電鉄神戸線)に引き続き、翌1921年には西宝線(現・阪急電鉄今津線)が開通。1922年に「甲東園前停車場」(現・甲東園駅)が設置されます。

この「甲東園前停車場」は、芝川家が阪急電鉄に要望して作られた、いわゆる「請願駅」でした。

当初、芝川家は鉄道敷地として2,500坪の寄付を申し出ますが、その程度で駅は作れないと断られたといいます。そして折衝の結果、駅付近に4倍の1万坪(実測)の土地と現金5,000円を寄付し、停車場を設置する協定が結ばれました。


西宝線上停留場設置に関する協定書(千島土地所蔵資料G00985_7)


阪急寄付地実測計算図(千島土地所蔵資料K03_035_002)


小林一三氏からの礼状(千島土地所蔵資料G00992_020)
ここでは「御所有地1万千9百坪御寄付■下千万難有奉…」と11,900坪の所有地寄付に対する御礼が述べられています。

芝川家が経営する果樹園「甲東園」前の駅ということでしょう、開設当時の駅名は「甲東園前」でしたが、
その後、大正末~昭和初頃に「甲東園」に変更されました(*)。


開設して間もない頃の甲東園前停車場(千島土地所蔵資料P38_030)
当初は駅の乗降者数も非常に少なく、ホームで手を上げないと電車が走り過ぎてしまったり、降りる際も予め伝えておく必要があったのだとか。


なお芝川家より寄付された土地は、阪神急行電鉄によって宅地開発、分譲されました。


沿線開拓地略図(京阪神急行電鉄株式会社『京阪神急行電鉄五十年史』1959年、p.116-117)
「甲東園住宅地10,000坪」が芝川家からの寄付地と思われます。
「甲東園住宅地」は1923(大正12)年3月より48戸が売り出されました。売価は坪あたり12~30円、土地114坪、建物25坪75の土地付住宅の価格は7,359円38銭と記録されています。


昭和15年「甲東村土地宝典」(千島土地所蔵資料K03_13)
甲東園から仁川に向かう西宝線東側に「甲東園住宅地」の記載が見られます。


阪急電鉄経営地(千島土地所蔵資料K03_035_001)
先ほどの阪急寄付地実測計算図にほぼ一致しています。

こちらを現在の地図で「甲東園住宅地」の辺りに重ねてみると…

ぴったりと重なることから、芝川家からの寄付地はこの場所(現在の甲東園1-2丁目の一部)であったとみて間違いなさそうです。


*)1924(大正13)年の『阪急沿線案内』(阪神急行電鉄㈱発行)では「甲東園前」、1932(昭和5)年の『阪神急行電鉄二十五年史』では「甲東園」となっていることから、恐らくこの間に駅名の変更が行われたものと思われます。


■参考資料
阪神急行電鉄株式会社編『阪神急行電鉄二十五年史』阪神急行電鉄/1932
京阪神急行電鉄株式会社編纂『京阪神急行電鉄五十年史』京阪神急行電鉄/1959
阪神急行電鉄株式会社『阪急沿線案内』阪神急行電鉄/1924


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸


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甲東園と芝川家5 芝川又右衛門邸

2023-04-20 16:55:05 | 芝川家の土地開発
さて、前回の記事では芝川又右衛門邸「洋館」と昭和2年に増築された「和館」についてご紹介しました。
しかし、明治44年に「洋館」が建設されて以来、その周りには様々な建物が建てられ、庭園が造られていきました。こうして整備された「甲東園芝川邸」の面積は7,500坪にも及んだといわれています。

園内はその時々に応じて土地を造成したり、樹木を移植したりと形を変えていったようですが、今回は昭和14年の敷地平面図を見ながら甲東園芝川邸内をご案内したいと思います。


昭和14年の甲東園別荘敷地平面図(千島土地株式会社所蔵資料K01_016_001)

①芝川又右衛門邸(洋館)

②芝川又右衛門邸(和館)

③茶室「山舟亭」と「不老庵」

茶室「山舟亭」(『芝蘭遺芳』より)
「山舟亭」は、茶人・高谷宗範の設計監督により、庭園は大分県の名勝・耶馬渓の趣を取り入れて造られたといわれています。山の中の風物の推移に応じて舟のように移動させることからその名がつけられ、当初は単独で建っていたものが、後に茶室「不老庵」とひと棟にまとめられました。

「山舟亭」については過去記事「芝川家のお茶会 ~大正2年の甲東園茶会~」でもご紹介しておりますので是非ご覧ください。

③茶室「松花堂」と④庭園(大正年間竣工)

溜池から見た茶室「松花堂」(千島土地株式会社所蔵資料P38_059)


和風庭園(千島土地株式会社所蔵資料P38_043)

もと大阪伏見町芝川邸にあった茶室「松花堂」を、大正期に甲東園に移築。移築に際しては茶人・高谷宗範の設計監督の下、付属広間や和風庭園も設けられました。
平面など詳細は過去記事「茶室「松花堂」の建築」でご紹介しています。

⑤「寿宝堂」

「寿宝堂」(千島土地株式会社所蔵資料P11_042)
二代目芝川又右衛門の傘寿(八十歳)の記念に昭和8年に建立された持仏堂。建築家・武田五一の設計で建てられ、現在は名古屋市に移築されています。
こちらも過去記事「二代目・芝川又右衛門 ~「寿宝堂」と「香山集」~」をご参照下さい。寿宝堂内部の観音像については、こちらの記事「興福院(こんぶいん)と芝川家」でも触れています。

⑥書庫(図書館)

(千島土地株式会社所蔵資料P11_039)
建築家・武田五一による設計で、校倉造の技法を取り入れたとされています。場所は調査中ですが、現在有力と考えているのが⑥の位置です。竣工時期も不明ですが、芝川家の蔵書については大正年間に『芝川甲東園文庫和漢図書分類目録』が作成されており、書庫の建設もその頃だったのではないかと推測しています。

⑦茶室「土足庵」

「土足庵測量図」(千島土地所蔵資料K01_048)より「土足庵」と思われる建物

「土足庵」は立礼式の茶室であったといわれていますが、写真も図面も残されていません。唯一残されているのが上記の資料で、この資料に記されたのが⑦の場所です。しかし昭和14年の図面には何も描かれておらず、どこかに移築された可能性もあります。

⑧洋風庭園



(千島土地所蔵資料P38_001:上、P38_052:下)

如何でしたか?芝川邸の全体像をイメージしていただけたでしょうか?

甲東園の整備について、二代目又右衛門の娘婿である塩田與兵衛が「私は樹を移したり、地を低めたりすることが大層なことと思いました。(中略)私には大袈裟に思われることが、翁(二代目又右衛門)には何でもなさそうなのが意外でありました。」(『芝川得々翁を語る』p.18-19)と振り返るように、甲東園芝川邸は、図面の描かれた時期によって建物や道路の位置さえも異なります。

このことからも二代目又右衛門が如何に時間や手間を惜しまず、丹精込めて甲東園の整備を行ったかを伺い知ることができます。


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。










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