私物化感情と愛情(続)

 
 愛情というのは、その人の喜びを自分の喜びと感じ、その人の悲しみを自分の悲しみと感じること。対して、私物化感情から来る似非「愛情」のほうは、本質的に、自分を可愛いと思う自己満足以上には、関心が及ばない。
 自分のパートナーのことを、パートナーであるからには、自分以外を愛してはならないし、自分以外からも愛されてはならない、と思うのは、後者の似非「愛情」のほうだと思う。

 私が学生のとき友人だった、とある女性は、今ではどこぞの大学助教授夫人だけれど、決裂間近のある日、私にこんなことを言った。
「夫が仮に、私以外の女性に心を移したら、私は家じゅうの皿を割りまくって、夫を罵ってやります」
 彼女はかなりの自由人だったので、この言葉は、私には結構なショックだった。

 人間は常に、認識も発展するし、嗜好も変化する。そのときどんなに誠実に愛し合って結ばれたパートナー同士でも、その後一生涯、同じベクトル、同じスピードで歩み行けるケースは、稀だと思う。
 相手の愛情がもはや自分に向けられなくなったとき、相手を罵倒し呪詛し、監視し束縛し、哀願し脅迫し、暴言・暴力を重ねつつも、しがみついて離れない。そんなことまでするのは、あなたを愛しているからこそだと主張する。
 ……それらを「愛情」と呼ぶ種の人間がいることは分かる。が、その「愛情」を私は実感できない。

 多分彼らのほうも、私の言う愛情を実感できないと思う。私物化感情を「愛情」だとする人間と、私のような人間とが、もし愛情を表明し合えば、どちらも互いに、「自分は愛されていない」と感じるばかりか、侮辱され、尊厳を傷つけられたと思うだろう。

 To be continued...

 画像は、ランセロット「愛してる、愛してない」。
  エジスト・ランセロット(Egisto Lancerotto, 1847-1916, Italian)

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